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従地涌出品第十五


   本 門 と 迹 門


 今日は「従地涌出品」即ち本門にはいります、「法華経」に本門と迹門があります、これは「法華経」で重大なことであるだけでなしに、全佛教に於ける非常に重大な問題です。此の「法華経」本門以前の教に於ては佛は真理を覚ったもので、佛より前に理があります。佛といふものは其の真理を覚って佛といふものになる、だから理の方が根本なのであります、佛といふものは何方かといへば、理から出て来た一つの垂迹で、これを『理本事迹』といひます。これに六重本迹などといふ面倒なことがありますが、それを一々いって居るとコンガラかるから略します、要するに諸法実相の理といふものが先であって、そして佛陀は其の諸法実相の理を覚られたのが佛なのだから、佛といふものは後に出て来たものだ、諸法実相の理の方が佛の師匠である、佛は諸法実相からいったならば弟子である、本は佛がなかったみんな迷って居た、迷の方が本なのだ、それを「維摩経」などでは迷のことを『無住』といって、
 従無住本 立一切法
『無住の本より一切の法を立す』・・・・・『無住』といふことはどういふことだといふと、それは取りとめの無いことだ。凡そ一切のものは常住のものは一つもない、無住といって住まることがない、取りとめのあるものは何もない、形容すべきものは何もない、とりとめがないから迷ともなる、その迷の中からいろいろのものは出て来る、迷の中からいろいろのものが出て来るのには、それがさうあるやうな理があってそれで一切のものが出てくる、それが縁起です、根本たる無住のものから漸次一切の法になって来る、迷の法は無明縁起、悟の法は浄心縁起である。そんな様に解釈してあります、それが一般佛教の通則です、だからその根本の無住をいったならばその性は空である、さまざまな無住の中に一切の法を蔵して居る、その一切の法に執着するからいけない、それに執れないやうにするのは、一切法が空だといふところに落ちついて行く、それが一般佛教の、小乗大乗に関はらず、何方でもさうで、佛教の通則であります。
 然るに此の「法華経」の「従地涌出品」以後の本門佛教といふものになると、佛が本から有ったといふことになって来ます、迷の中から佛が出て来た、一迷先達以て餘迷を救ふ・・・・・一人の迷って居た者が先づあって、それから外の迷って居るものを救ふのである、斯ういふ風に考へて居ったのが、此の本門に至っては迷って居るものがあって、それから覚ったのではないのだ、此の宇宙に根本から覚って居るものと、それから迷って居るものとの、この二つが根本的に具はって居るのだ、それでは基督教みたやうに神様が一切のものを造ったかといへば、イヤ造ったのではない、根本的にさういふものが存在して居るのだが、然し迷といふものは一時雲って居るので、本體が違うのではない、根本に於ては一つだ、物と心が一つであるが如くに、唯根は一つだが用きの上で変って居るやうになって居るのだ、若し覚って居る方から見たならば、迷って居るものの本體も、矢っ張り覚って居るものの用きになるのだ、根本から佛と佛ならざる迷って居る九界とは、根本的に存在して居るのだけれども、即ち本體は一つだけれども、用きは二つである、恰も鏡の裏表のやうなものだ、さういふふうな、根本的に衆生も存在すると共に、根本的に佛も存在するのだといふことをば示されたのが、此の「法華経」の本門なのであります。
 若し諸法実相の理といふものが原理的なものであり、一ばん真実のものでありましたならば、西洋などでもうしまする汎神教と同じやうになる、ところが今此の本門寿量品の教では、根本の佛と迷って居る衆生との本體が一つだといふ意味からは汎神教なのでありますが、それでは佛と衆生とは一緒か、佛といふものは、衆生といふ迷って居るものから覚ったのかといふと、さうではない、佛は最初から覚って居る、始めから覚って居る佛があるのだ、みんな凡てのものが迷に動き出した時に、覚の方に動いて行った根本的存在があるのだといふことになるのですから、だから汎神教と一神教とを一つにしたやうなものが「法華経」の本門の教なのであります。此の本門の教義が、恰度日本の国體とよく似た意味があるのでありまして、それは追々申上げます。
 そこで、本門と迹門の相違はどんなことかといふと、プリントに三つ出しておきました、最初に


 
久と近(無始と有始)        


これは今申上げたことですが、「寿量品」に於て釈尊は、
 今の釈迦牟尼佛は、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂へり。
といはれて、世々番々の間菩薩の修行をして、今度人間に生れて、始めて八相成道して佛になったのだとさう説いておいたのは、それは方便であって、実は五百塵の久遠の成道といふことをいはれた、けれども其の久遠の成道といふのは、五百塵點の昔であったといふ始めがお経に書かれてあります、然しこれは譬を説かれたもので、但無始の昔といっても、無始を僅かに考へるといけないから、斯ういふ譬を以て無始きの始、もう宇宙が動き出した最初といふやうな、無始の始といふものを譬へられたのです、それから其の外の佛教のあらゆるお経文に説いてある佛様がさまざまあるけれども、どんな大昔の佛様のことを説いても、此の「如来寿量品」にある五百塵點劫といふ、此の劫数を説いて、その佛の成佛の始めをば計ったお経は、一つもない、そんな古い佛様をば示したお経は一つもない、で、其のお経の説相をそのまま考へると、どうしても此の五百塵點劫以前の釈尊、その釈尊が一ばん古い佛様になります、即ち此の久遠の釈尊が一ばん古い佛様であって、此の久遠の釈尊に三つの身がある、真理と一つになった身、それから其の真理をば自分の智慧にして自らの身を照して居る身、それから凡てのものを救ふ為めにさまざまの相を現はす身、これを久遠の三身といひます。
 法 身(真理)
 報 身(智慧)
 応 身(慈悲)
真理の身は法身といって、真理を自分のものにして居る身、其の佛といふものをば道理の方から見ると、真理の本體みたやうなものである、その真理をそのまま照して居る智慧の身、それが報身、それから真理に反いて迷ったすべての人間を救ふ為めに、相手方に応じてさまざまの相を現はす、それが応身、此の五百塵點劫の成佛の昔の応身から、種々さまざまの佛様の相を現はすぞと出て居るのです、佛教には、三世に亘ってさまざまの佛様があり、又十方にさまざまの佛様がありますが、三世の佛も十方の佛も、皆沢山お経には説いてありますけれども、それらの佛を、いくらその成佛の説相を探して見ましても、この「法華経」寿量品の五百塵點劫以前の古い佛は、一つも説かれてない、さうして、其の五百塵點劫以前の佛様はまた此の法華経の中で、世々番々に、衆生を救ふために、さまざまの姿を現はす、己身といって佛様の姿を現はせば、他身といって九界の姿も現はす、そしえ三世に亘って相手次第に応じて教を説き、衆生の迷を開いてやる、だから大日如来であらうが、阿弥陀様であらうげ、三世の諸佛、十方の諸佛は、皆久遠の釈尊の応身から迹を垂れた三身であります、即ち釈尊は天の一月、諸経の佛は萬水の影であります、大日如来は法身だ、お釈迦様は応身だ、だから、応身の釈迦如来より、法身の大日如来の方が勝れて居るのだ、阿弥陀様は報身だ、釈尊は応身だ、だから応身の釈尊より、報身の阿弥陀様の方が勝れて居るのだといふと、一往きこえるようでありますが、一度この五百塵點の寿量品の開顕がありますと、寿量品以外の佛身は、どんなに沢山ありましても、みんな釈尊の分身垂迹です、大日如来も、阿弥陀様も、久遠の釈尊の己身中の応身から、衆生を救ふ為の迹を垂れたまうたところの三身である、斯ういふ風に、所謂時の方から、真実を開顕して行かれました、それが『久と近』です。
 一切経を探しても、此の本門の釈尊より以前の佛は、前申したとほりに、一つも示されてない、そして此の寿量品の釈尊は、『或は己身を説き、或は己身を示す』とあって、衆生を救ふためには、あらゆる佛様の御姿を示すのだといふことを、経に説かれて居るのみならず、説相としても「宝塔品」に於いては、過去現在未来の三世に亘って、種々に方便して身を現すのだといって、近き垂迹の身を払って、遠き本體の佛を説いて居られるのが、『久と近』です、次に


 
一と多(根本と枝葉)

 
顕と拂(真実と方便)


 これは恰度「宝塔品」に、さまざまの佛の姿を示されたのと同じことです。これは根本と枝葉で、本門の佛は無始の佛で根本の佛である、それ以外の=法華経寿量品以外=の佛は枝葉の佛であるといふのは、横に示されたもので、寿量品の佛を顕はされまして後は、それ以来の三世に説かれた佛は、みな釈尊の衆生教化のために、『或説己身、或示己身』せられる垂迹の佛であると開顕せられると、三世の多くの佛がみな拂はれます。これ竪に時に約しての根本と枝葉を示されたので、此の寿量品の釈尊の外の沢山の佛様は、三世十方に亘って無数に説かれて居ますけれども、それは皆根本の佛から出た枝葉の佛であります。それら沢山の佛は、皆寿量品の佛の一に帰着すべきである、近い佛は皆無始の佛に帰する、そしてそれらの三世十方の多くの佛は、必ずその本體はない垂迹の佛、水中に映れる影の佛である、衆生教化の方便であると拂はれてしまひ、今真実の佛は此の「寿量品」・・・・・本門に始めて示されたと顕はされます、これを
 久と近
 一と多
 顕と拂
といって、沢山の佛を拂ってしまひ、無始の佛といふ久遠の佛、・・・・・根本の一佛をば顕されます、さういふことが「寿量品」なのであります。
 そこで迹門は、一ばん最初に申上げたやうに、三乗、五乗・・・・・斯ういふ沢山の教をば、一乗といふのに教法を統一した、本門の方は佛様を統一した、三世だとか十方だとか、或は其の外沢山の菩薩や二乗や、天だとか人間の聖人だとかいふ、さういふ三乗五乗を説くところのさまざまの佛、並びに諸佛諸聖を説いてある、それらを悉く一つの佛身に統一してしまった、迹門はあらゆる教法を統一する、本門はあらゆる教法の説き主、教法の代表表現者、さういふ佛さまをば統一された。


 
実相と非実相


 迹門にも諸法実相といふのが説かれてありますけれども、此の「寿量品」が本当に出て来るまでは、真の実相といふことは出来ない、寿量品の本佛開顕があって始めて、真の実相が顕はれるのであります、本門に於いて真の実相があり、本門以前に於いては非実相なのであります。
 それから又実相といっても、尚迷の残って居る実相と、迷が全然なくなった実相とある、此の迷の全然なくなった実相を、無漏の実相といひます、「序品」の初にも
 『無漏の実相に於て、心已に通達することを得たり』
といふことをいはれて、諸法実相の中、迷の全然なくなってしまった実相が、此の「法華経」の本體だといはれたが、此の「寿量品」が出て来るまでは、いろいろこれが佛の真実だといふことを、さまざまに方便品以来説かれては居るが、未だ有漏実相をむぬがれない、真の無漏実相は、「寿量品」に於いて顕はれるのであります、これ以前は、有漏実相であり、又非実相であり、真の実相は、無始のものであり、又あらゆる點に於て其の真実を顕はすものである、それの顕はれたのがこれから以下の本門なのであります。


 
來   意


 此の「涌出品」のあらはれるまでの一ばん最初の因縁、序りのやうなもの、それは「宝塔品」であります、「宝塔品」で、多宝如来と十方分身の諸佛を集められた、『分身既に多し、当に知るべし成佛の久しきことを』と、天台大師も説かれて、釈尊が十方に身を現ぜられた、その分身の佛が沢山おいでになる、さういふことは、自ら釈尊が久遠の佛であること、無始の佛であることを証明して居るものだ、多宝如来が法華経は皆是れ真実だと証明されたが、この多宝如来は、不滅の真理を示して居られる、その不滅の真理を示した多宝如来と、一つの塔の中に釈尊がはいられた、斯ういふことは釈尊が不滅の真理と同じ存在者である斯ういふことを示したものである、それと同時に釈尊が塔の中から此の「法華経」をば、如来の滅後に於いて、誰か弘めるかといって人をお募りになった、そのお募りになった時に、会座に居った迹佛聞いて居った菩薩方がそれを聞いたのみならず、その声が自ら地の下までも響いて、そして此の「涌出品」で出るところの、下方の菩薩も聞いたのであるといふことを、天台大師が解釈して居られる、即ち此の法華経を後の世に付属するについて、『付属有在』といふことを、其の時にお話しましたが、
 『付属して在ること有らしめんと欲す』
さう佛様が仰しやった、此の『付属して在ること有らしめんと欲す』といふのについて、天台大師が
 近令有在
 遠令有在
斯ういふ解釈をして居られます。『近く付属して在ること有らしめんと欲す』といふのは、其の時の会座に居った薬王菩薩や、弥勒菩薩をはじめ、迹化の菩薩様に対してであります、『遠く付属して在ること有らしめんと欲す』といふのは、未だ其の会座に現はれて居らない、娑婆世界の地の下の空中に居る、此の本化の菩薩に付属されたので、此の故に「涌出品」に出て来る菩薩に、此の宝塔品の時の「付属有在」も佛のお声が、自らひびいて居ったのであるといふことを、天台大師が釈して居ります、そこで「涌出品」は「宝塔品」から自ら出て来て居るのでそれは滅後に於ける付属のためであります。
 其の付属されるのについて、「宝塔品」では、六難九易といふことを説かれました、さういふ難しいことによって、此の「法華経」を弘めるといふことが、何人が出来るのであらうか、斯ういふ時分に会中の菩薩ではなかなか難しい、有頂天に立って、無量の餘経を説くことも何でもない、一切衆生を六通の羅漢にしてやることも何でもない、須弥山を把りて、無量の餘国に抛げすてることも何でもない、劫焼くといふ宇宙火の中で、枯艸を負うて焼けないのも何でもない、此の「法華経」を悪世に弘めることは、それよりも甚だ難しいといふやうなことが説かれてありますから、これはなかなか一般の菩薩では出来ないことであるといふので、六難九易を説かれたことが自からこの「涌出品」で、地から湧き出て来る本化の菩薩を呼び出される伏線になって居ます。
 それからもっと前に溯ると、「法師品」の時にすら、此の「法華経」は、佛の説かれた経のなかで、一ばん信じ難く解し難い、のみならず、此の経は一切の迷を一度に断ずる経であるから、すべて新發意の菩薩は、此の経を聞いて驚く、それから増上慢の二乗は、此の経を聞いて怨嫉するといふことが書かれてあります。佛の在世の時にすらさうであるから、如来の滅後に於ては、必ず佛の在世よりも後になればなる程、怨嫉が多くなるといふことが説かれてあって、其の難しいことを突破して弘める人が、何うしても入用になって来る、此の前の「勧持品」のところでは、三類の強敵が末法には出て来る、それを忍んで弘通するといふことを、八十萬億那由佗の菩薩が誓願したけれども、その誓願も、佛様が催促したから誓願した、薬王等の二萬の菩薩此の二萬の菩薩は、「法師品」の時分に、薬王に因せて、此の経を弘通するのに三軌・・・・・如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して法を説け・・・・・と、懇に弘通の方軌を授けられたに拘らず、此の薬王菩薩が、二萬の菩薩と共に誓願した其の誓願は、此の娑婆世界といふ世界は、堪忍の世界だ、人々皆五濁の心が盛んである、なかなか弘通するのには難しい、けれども、きっと忍んで弘通しますと、それだけのことであった、其の難しいといふことについては、「宝塔品」に六難九易といふやうな、あの位詳しく難しいことを説いてあるに、薬王菩薩の二萬の菩薩の誓願の格護は、餘りに簡単であったから、如来は八十萬億那由佗の菩薩を、ジロット御覧になった、そこで八十萬億那由佗の菩薩が、佛の御心を推しはかって、此の「法華経」を、如来の滅後悪世の中に弘める時に、こんな難儀があるだらうといふので、一般の僧侶が反対する、俗人が反対する、刀杖瓦石を加へる、聖人のやうな僧侶まで皆反対する、反対するのみならず、これを外道といひ、或は官府に訴へ、或は一般民衆にいひふらし、そして官私の両方から、所を追ひ出してしまふ、所を追ひ出し、寺を追ひ出すのみならず、その所の全體・・・・・国を追ひ出す、さういふことになるのだといふことが書かれて居るそれが「勧持品」の預言であります。そのやうな難しいことでは、我々に出来るかどうかわからないといふので、一切の菩薩が躊躇したから、安楽行品を説かれた、さうなりますと、ここに何うしても六難九易に対するやうな、又「勧持品」の三類の強敵に堪へるやうな菩薩が、出て来なければならぬことになって居るのであって、其の菩薩が、此「涌出品」に始めて出て来ることになるのであります。


 1 他方迹化を止めて本化を召す                   


 御本文に移ります、此の法華経の本門にも序・正・流通があって、本門の序分は此の「涌出品」の前半品であります、それから本門の正宗分は、「涌出品」の後の半品と、「寿量品」と、「分別功徳品」の前半品の一品と二つの半品・・・・・一品二半・・・・・それから流通分は其の餘りの全體十一品半であります。
 で、此の品の一ばん初めのところは、本門の序分で、最初の序品に集まって来た集衆は、皆迹門の教を聞く機類の者しか集まって来なかった、今此の本門に於いては先づ本門の機類が集まって来ています、そのことをば、本門の序品の『集衆序』といひます、『集衆』といふのは、此の本門の教を發起するところの人、さういふ人々がここに出て来たといふことです。経に
 『爾の時、他方なる国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の、八恒河沙の数にも過ぎたるもの、大衆の中に於て、起立し合掌し禮を作しつ。而て佛に白して言さく』
とあります、沢山の十方分身の佛がおいでになった、其の佛には皆菩薩が伴はれて来たが、其の他方の菩薩の中の、八つつの恒河の数にも過ぎたるやうな菩薩方が、はじめてお釈迦様の前に来て、合掌礼拝してお願ひ申上げた、それは「安楽行品」を承はって、成程さういふ風に弘めたならば、「勧持品」のやうな難しい困難なしに弘められる、さういふことであるならば、私達も弘めたいものであるといふので、
 『世尊よ、若し我等に、佛の滅しませる後に於て、此の娑婆世界に在りて、勤めて加精進し、此の経を護持ち、讀誦んじ、書写し、供養せんことを聴したまは者、当に此の土に於て而ち廣く之を説きたてまつるべし』
斯ういってお誓ひ申上げた、それが「他方迹化を止めて本化を召す」の中の、「他方弘を請ふ」といふことであります、その次が有名な『止善男子』の佛語で、
 『爾の時、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまはく、止みね善男子よ、汝等が此の経を護持たんことを須いず。所以者何となれば、我が娑婆世界には、自から六萬恒河沙に等しき菩薩摩訶薩有り、一々の菩薩には、各六萬恒河沙の眷属有り、是の諸の人等は、能く我が滅しぬる後に於て、護持ち讀誦んじて、廣く此の経を説かん』
「宝塔品」の時に誰かよく此の娑婆世界に於いて、此の「法華経」を説くか、誰か志のある者は早く申し出ろといはれたので、「勧持品」の時には薬王等の菩薩が出、それから次には八十萬億那由佗の菩薩が出た、少し難しいからと思って居たところが、「安楽行品」を説かれたので、他方來の八恒河沙の数にも過ぎた菩薩が、どうか弘通を私共にもお允しを願ひたいと申上げたのに対して、『止みね善男子』、お前達が弘通することはいらない、此の娑婆世界には自から六萬恒河沙の菩薩があって此の経を弘めるだらうと仰せられた、そんなに沢山の菩薩があって、それが弘めることに決って居るならば、何も佛さまは弘通者を募集せられる必要はないのでhじゃなかったか、甚だ佛様のやり方は変だ、前後不揃ひだといふやうなことをいって、疑ひを生ずる筈のところなのであります、けれどもこれには底には底がある、此の『止みね善男子、汝等が此の経を護持することを須いじ』といはれたことについて、前三後三の六釈といふものを、天台大師が釈して居られる。
 佛様がどうしてそれを止められたか、止めるのには何か理由がなければならぬ筈である、それには・・・・・止めるのに、三つの理由がある、止められたと同時に、汝等は此の経を護持することを須いず、何となればと仰しやって、それは此の娑婆世界には、自から六萬恒河沙の菩薩がある、それが出て来るについて、又三つの理由があるといふので、これを前三後三の六釈といふ、何故他方の菩薩の弘通を止められたかに三つの理由がある、其の第一の理由は、他方の菩薩には、各々自分の任務がある、観音勢至であるならば、本当をいへば極楽世界に居て、その極楽の衆生を教化しなけれなならぬ任務がある、日光月光であるならば薬師如来の国で、その衆生を教化しなければならぬ任がある、それが娑婆世界に出て来て弘通する、さうしたならば、自分達の任務が等閑にされることになるだらう、だから他所の国から出て来て、此の娑婆世界で、「法華経」を弘通する必要はないのだ。
 それから第二には、此の菩薩は他方の菩薩であるから、娑婆世界には結縁の事が薄い、此の土の衆生とは、結縁のことが浅い、だから弘通したところで、それ程の功徳がない、それから第三には、若しこれらに允そたならば、下方の菩薩を召すことが出来ない、下方の菩薩が来ないと、釈尊が垂迹を破られることができない。此の三つの理由があるから、それで止められた、これが前の三釈であります。
 次に後の三釈、後の理由はどうふことであるかといふと、これから出て来る下方の菩薩は、普通の菩薩とは全然位が違ふ、此の菩薩は此の菩薩は自分が居る国の衆生を利益するのみならず、又他方のすべての国の者に対しても利益し、乃至十方の世界の者に対しても利益する徹底した菩薩である、此土に遍して利益する、又十方の土に遍して利益する、ところが力がある、さういふ菩薩であるから此の菩薩をお召しになった、それから第二には、此の菩薩は娑婆世界に根本的に居る菩薩である、此の土の縁深厚である、これから第三には、此の菩薩を呼ばないで居ると、「寿量品」が説けない、久遠を顕はすことが出来ない、若し此の下方の菩薩を召すことが出来なかったならば、「寿量品」を説けない、若し此の下方の菩薩を呼び出したならば、佛の久遠を顕はすことが出来る、斯ういふ理由があるから、『止めね善男子』と・・・・・ここに至って、にはかに彼等をお止めになったのであるといふのであります。
 若し斯ういふカラクリがないと俺は実をいへば無始の佛だといっても、衆生が真に信ずることは出来ない、そこで自から、自然にカラクリのやうな塩梅に、脚色されたやうな塩梅に出て来たものであります、然し此の他方の菩薩が弘通を願ったのに対して、一ぺんお止めになった、ここではお止めになってあるが、これは「法華経」の正味を弘めることだけをお止めになったので、「法華経」の正味でない文の上だけの「法華経」、それを弘めることは、後の方の「嘱累品」で、斯ういふ他方の菩薩にみ一役をお授けになった、けれどもここでは正味を弘めることは、お前達は適はんといはれて、正味を弘めるものを別にお召しになったのであります。


 
2 下方本化菩薩の涌出                     


 『佛、是を説きたまふ時、娑婆世界の三千大千の国土の地皆震ひ裂けつ、而も其が中於り無量千萬億の菩薩摩訶薩有りて、同時に涌出でたり。』
これが「下方の涌出を叙す」であります。
 『是の諸の菩薩は、身皆金色にして、三十二の相と無量の光明とあり。』
その菩薩の身相の尊特なことを叙された、
 『先より盡く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在りて住りき』
これは、其の菩薩方の住所はどんな所であったかを叙されたのです。
 『是の諸の菩薩、釈迦牟尼佛の所説つる音声を聞きて、下より發れ来れり。』
佛の命を聞いた、此の娑婆世界には自から六萬恒河沙の菩薩摩訶薩がある、其の菩薩が弘めるから、お前達はいらないのだといふ佛様の声を聞くなり、直に出て来た、音声を聞いて下より出て来た、次は眷属の多いことをいはれる。
 『一々の菩薩は、皆是大衆唱導の首にして各六萬恒河沙に等しき眷属を將いたり、』
それらの菩薩がみんな沢山の人を引き連れて居る、弘通宣伝の最も猛烈な方々であった、各々恒河の沙を六萬も集めた程の沢山の弟子達を將いて居る、六萬恒河沙の弟子を率いて居ったものが六萬恒河沙の数程居った、況や五萬・四萬・三萬・二萬・一萬の恒河沙に等しき眷属を將いたものは、又それよりも多い。
 此の数が余程面白い、これは高山樗牛心兄がここを読んで・・・・・「寿量品」の五百塵點劫も読んで・・・・・世界のあらゆる文学哲学の中でこんな不思議な数を書いてあるものを見たことがない、六萬恒河沙の弟子を持って居る者が六萬恒河沙居る、それだから五萬恒河沙を將いて居る者は、六萬恒河沙を將いて居る者よりも多くいる、四萬恒河沙を將いて居る者は又多くいる、さうなって居るから、弟子が少くなる程、其の弟子を持って居る者が多くなる、だんだん数が多くなって行く、
 『況や五萬四萬三萬二萬一萬の恒河沙に等しき眷属を將いたる者をや。況や復、乃至一恒河沙、四分の一、乃至千萬億那由佗分の一なるをや。況や復、千萬億那由佗の眷属なるをや。況や復億萬の眷属なるをや。況や復、千萬百萬乃至一萬なるをや。況や復、一千一百乃至一十なるをや。』

そんな僅かの数を將いて居る者はいよいよ多くなって数へきれない。
 『況や復、五四三二一の弟子を將いたる者をや、況や復、単己のみ遠離りて行ずるを樂へるをや。』
だんだん弟子の数の少いものほどだんだん多くなって、殆どどれ程とも知れない、
 『是の如き等の比、量無く辺無く、算数も譬喩も知ること能はざる所なり。』
といふ程沢山の菩薩が出て来た、これは所謂眷属の多きことであります。


 3 地涌の大衆三佛を問訊す                     


 それらの地涌の菩薩が、釈尊と多宝佛と分身の佛との三佛に御挨拶を申上げる。
 『是の諸の菩薩、地より出で已りて、各虚空の七寶の妙塔たる多宝如来、釈迦牟尼佛の所に詣で、到り已りて、二世尊に向ひて頭面に足を禮しつ。乃至諸の寶樹の下なる獅子座の上の佛の所にも、亦皆禮を作しつ』

此の分身の佛様は「宝塔品」に説かれてあるやうに、夥しい数の佛様であるから、そこに禮拝しに行かれたから大変なことです。
 『右に繞ること三めぐりして、合掌し恭敬しく、諸の菩薩の種々の讃の法を以て、而ち以て讃歎へつ。一面に住り在て、欣び樂ひて二世尊を贍り仰ぎぬ』
供養するといふのに三つあります。佛の所に禮を作し、右に繞ること三めぐりし合掌する、これは身の禮拝、それからうやうやしき恭敬の心、それは意の禮拝で、諸の菩薩がさまざまの讃への言を以て讃歎する、それは口であって、身口意・・・・・身と口と意の三つを以て禮拝供養する、身は禮拝、口は讃歎、意は恭敬、これを三業供養といひます、其の供養の最も大なるものは、薬王菩薩のやうに身を焼いて供養する、身を以て供養するといふことになるのですが、ここでは皆禮拝し、合掌し、うやうやしき恭敬の意を以て、種々の讃言をもて讃歎した。
 『是の諸の菩薩摩訶薩、地より涌出でつつ、諸の菩薩の種々の讃の法を以て、而ち佛を讃ふること、是の如き時の間五十の小劫を経たり』
数の知れない程の菩薩が、数の知れない程の佛様に禮拝するのだから、五十小劫位は経るわけです。
 『是の時、釈迦牟尼佛は、黙然として坐したまひ、及び諸の四衆も、亦皆黙然たること五十小劫なりき。佛の神力の故に、諸の大衆をして半日の如しと謂はしむ』
これは時といふものについての長い短いは、その人間の精神の力によって違って行くのだ、八十歳九十歳まで生きても何もしない人は、その身體の命だけは長いかも知れないが、真の命は極く僅かであるかも知れない、若くて死んだ人間でも、沢山のことを為して死んだならば、その人の命は肉體こそ短いが真の生命は長い、正成ならば正成の命は今でも尚生きている、恰度そんな風に、精神的に考へたならば短いものが長くなる、長いものが短くなる、迷って居るものは長い命でも短くなる、真の正しき或る一つの道とか、真理とかいふものに命を托したものは、短い命でも長くなる、そのことをば此の譬へにも引かれて居ます、半日の如しと謂った方は迷って居った、其の迷ったものが半日の如くおもったのを、五十小劫と見た地涌の菩薩の方は悟って居ったといふ風に天台大師も釈されて居ます。
 『爾の時、四衆、亦佛の神力を以ての故に、諸の菩薩の、偏く無量百千萬億の国土の虚空に満ちわたれるを見る』
これはもうそれだけの数の菩薩であるから、恰度十方分身の諸佛が地上に充ち満ちたやうに、此の菩薩も矢張り無量百千萬億の国土の虚空に一ぱいになった、
 『是の菩薩衆の中に四の導師有り、一をば上行と名け、二をば無辺行と名け、三をば浄行と名け、四をば 安立行と名く。是の四菩薩は、其の衆の中に於て最も為上首にして唱導の師なり』
これは其の多くの菩薩の中に四人の導師あることを示された。
 『大衆の前に在りて、各共に合掌して釈迦牟尼佛を観たてまつりつ、而て問訊ひて言さく』
其の菩薩方が佛に申上げた、
 『世尊よ、病少く悩少くおはして安楽に行じたまふや不や。度すべき所の者、教を受くること易しや不や、世尊をして疲労を生さしめざるや、と』
先づ佛様のお身體についておききし、それから佛様の御事業をおうかがひした、

 『爾の時、四大菩薩、而ち偈を説きて言さく、
 世尊は安楽のして、病少く悩少くおはすや、衆生を教化したまふに 疲れ倦みたまふこと無きを得るや 又諸の衆生 化を受くること易しや不や 世尊をして疲労を生さしめざるや』
とお伺ひした。
 ここで地涌の菩薩といふことを一寸話しておきます、地皆震裂して無量の菩薩摩訶薩が出た、大地が震裂したのは、どういふことであらうといふと、これは地涌の菩薩が出なければ本当の佛法が顕はれないのである、そこまでは等覚の菩薩・・・・・佛様と一等しか違って居ない菩薩を等覚の菩薩といふ・・・・・菩薩は沢山出て居るけれども、その等覚の菩薩すらも未だ根本の佛法はわからなかった、といふことはどういふことを示して居るかといふと、此の『地皆震裂した』といふ此の地は何を示して居るのであるかといふと、等覚の菩薩すらも有って居る元品の無明の大地である、此の宇宙には根本的に聖なるもの、神聖なるもの、さういふものが根本的にあるといふことがわからない、又宇宙に一貫したる法有りといふことがわからない、さういふ神聖なるものは後から出来たものだ、恰度佛が迷ひから覚るやうに、後から出来たものだ、それから法は・・・・・諸法実相の真理は、人為的につくり上げた便宜的に主観的につくり上げたものだ、さういふ風に考へて居た、それが元品の無明なのです、宇宙には根本的に神聖なものがある、無始の佛陀がある、それから其の無始の佛陀の心そのものが宇宙の根本的の道徳法なのだ、根本的の道徳法と根本的の神聖者、それが真に存在するのだ、斯ういふことがわかるのが本当の法性なのです。
 元品の無明といふのは、迷の一ばん元といふことで、此の元品の無明がなくなったならばどういふことになるかといふと、元品の法性といふものになる、元品の無明と元品の法性との対立だ、此の地涌の菩薩はどういふ所に居ったかといふと、大地の下、下ならば下の何処かの国かといふと、下方空中だ、斯ういふことはどういふことを示したのかといふと、空中といふのはすべて無礙、礙りのないものだ、これは第一義空といって本当の真に執はれない、本当の法性の真理の中に住んで居る、そして此の菩薩が大地を破って出て来て何処に行った、それは地の上の国でなく矢っ張り虚空である、虚空会のところに出て来た、これは法性第一義空といって、法性第一義の真空の處に居る、それから此の娑婆世界の地の下に居る菩薩の数は無数である、数が計り知れない、これは又何を意味したものであるかといふと、此の地涌の菩薩といふ菩薩、それは此の娑婆世界の一切衆生の心中に有って居る、真の菩薩性なのだ、根本の菩薩性を示したものだ、それの本體だ、根本の我々の菩薩性・・・・・諸君の心の根本に此の地涌の菩薩の菩薩心はチャンとある、その菩薩に四人の導師がある、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩で、これを若し何ものかに譬へることが出来るならば、上行は火大、火の徳なのだ、火は燃えると必ず上に升って行くから、上行は火大の徳、無辺行は風大の徳、浄行は水大の徳、安立行は地大の徳、地水火風の四つを示したものである、さういふものは道徳性としてもなければならぬ、火大の徳は向上して行く思想で、それから其の向上したものは常に無辺に周囲に拡大して行く、そして拡大して行くけれどもそれは汚なく拡大するのではなく、必ず水が一切のものを洗ふが如く浄化して行く、そしてそれは根本的に大地のごとく建設的でなければならぬ、さういふ四つの徳があって始めて一切のことを成就することが出来るのであります。
 又これは菩薩の位にすると、上行菩薩の位は十住といふ位に該当する、住といふのは真理を自分の住居にする、真理を住居にしたものは向上性があるから必ず向上する、これから十行といふのは、自分が真理を住居として向上して行くのみならずその向上したものを他に波及して行く、それだから十行は無辺行である、それから十回向、唯他に波及して行くのみならず、それを悉く浄化してしまふ、波及した結果又チャント確実に握る、だから十回向は上行である、そして十地、これは此の間申上げたやうに、地から根づいてしまふやうになって、つまり確実に建設される。
 四菩薩・・・・・上 行(火大)・・・・・十 住
     ・・・・・無辺行(風大)・・・・・十 行
     ・・・・・浄 行(水大)・・・・・十回向
     ・・・・・安立行(地大)・・・・・十 地
斯ういふやうな四つの徳を有って居る、此の四菩薩が地涌の菩薩の代表者である、その菩薩方が釈尊に御挨拶申上げた、お障りはありませんか、御事業は充分にはかどって参りますか、といって御挨拶申上げまし

た。


 
4 如来は安楽なりと答ふ                      


 『爾の時、世尊、諸の菩薩大衆の中に於て、而ち是の言を作したまはく、是の如し是の如し、諸の善男子 よ、如来は安楽にして病少く悩少し。諸の衆生の等は、化度ふべきこと易く、疲労有ること無し』
如来は少病少悩で事業も順調に進んで居る、何故かといふと、
 『是の諸の衆生は、世々より已来、常に我が化を受けたり』
今はじめて教へたのではない、ここに至って本当の肝心要の教を以て成佛せしめてしまふのだから、過去にもさういふ因縁がある。
 『亦過去し諸の佛に於ても、供養し尊び重め、諸の善根を植えたり。此の諸の衆生は、始め我が身を見、我が所説を聞きて、即ち皆信じ受けつ、如来の慧に入りにき』
これは「華厳経」などを聞いて、はじめから菩薩の修行をしたもの、さういふものは徳の厚いものである。
 『先より修習ひて小乗を学べる者をば除く』
さういふ者も四十余年世話をした結果、今皆此の経を聞いて、此の会に居ることを得た、上根の者は「華厳経」の時から修行した、下根の者も今此の「法華経」で真に入らしめたから、俺の事業は完結した、安心するが宜からう。


 
5 随喜と述歎                          


 佛様がさういはれたので、そこで諸の菩薩がお礼を申上げた。
 『爾の時、諸の大菩薩、而ち偈を説きて言さく、
 善い哉善い哉、大雄世尊よ 諸の衆生の等 化度ふべきこと易く 能く諸佛の 甚深き智慧を問ひたてまつり 聞き已りて信じ解れり 我等随ぎ喜びまつる 於時、世尊、上首なる諸の大菩薩を讃歎へたまはく、善い哉、善い哉、善男子よ、汝等能く如来に於て随喜の心を發せり』
これまでが本門の教を聞く人達、即ち本門の教を發起した、佛がお説きにならなければならないやうに、地涌の菩薩が出て来た、そして其の地涌の菩薩がチャント並んでしまった、即ち本門の序で、これから次が、変なものが出て来たといふので「疑問序」であります。


 
6 此土迹化菩薩の疑念請答


 それから、これまでの菩薩達・・・・・迹化の菩薩が疑ひ出した。
 『爾の時、弥勒菩薩、及び八千恒河沙の諸の菩薩衆は、皆是の念を作さく、我等昔より已来、是の如き大菩薩摩訶薩衆の、地より涌出で、世尊の前に住ひ、合掌し供養して、如来を問訊ひたてまつれることを見 ず、聞かず』
其の問訊ひ方が餘りに親しいお話を申上げて居る、こんなことは聞いたことも見たこともないといふので、
 『弥勒菩薩摩訶薩、八千恒河沙の諸の菩薩等の心の所念を知り、並に自ら所疑を决かんと欲ひつ、合掌して佛に向ひ、偈を以て問うて曰さく』
偈を以て正しく問ふ、
 『無量千萬億の 大衆の諸の菩薩は 昔より未だ曾て見ざる所なり 願はくは両足尊よ説きませ 是何れの所よりか来れる』
一體何処から来た菩薩ですか、
 『何の因縁を以てか集へる』
一體何の因縁で来たのですか、
 『巨身くして大じき神通あり 智慧思ひ議り難く』
前のところでは、此の菩薩は『身皆金色にして三十二の相と無量の光明とあり』とあるが、ここでは心を褒めてある、
 『其の志念堅固にて 大じき忍辱の力有り 衆生の見んと樂ふ所なる 為何れの所よりか来れる』
何の因縁、何の意味で、何処から来たものか、
 『一々の諸の菩薩が 將いたる所の諸の眷属は 其の数量り有ること無く 恒河沙に等しきが如し 或は 大菩薩の 六萬の恒河沙を將いたる有り 是の如き諸の大衆 一心に佛道を求む 是の諸の大師等 六 萬恒河沙ありて 倶に来りて佛を供養し 及び是の経を護持つ』
前はお経を書いた人が其の姿を示したが、ここでは弥勒がその事柄を以て佛様にうかがって居ます。
 『五萬の恒沙を將いたるは 其数是にも過ぎたり 四萬及び三萬 二萬より一萬に至り 一千一百等 乃至一恒沙半及び三四分 億萬分の一 千萬那由佗 萬億の諸の弟子 乃至半億に至るは 其の数復上に過ぎたり 百萬より一萬に至り 一千及び一百に 五十と一十と 乃至三二一なるもの 単己のみにして眷属無く 独りの處を樂ふ者も 倶に佛の所に来至ること 其の数転た上に過ぎたり 是の如き諸の大衆 若し人の籌を行ひて数へ 恒沙の劫を過ぎなんとも 猶盡く知ること能はじ』
斯ういふ沢山の菩薩方が来た、
 『是の諸の威徳大じき 精進の菩薩衆は 誰が其が為めに法を説き 教化して而も成就げしめけん 誰に従ひて初めて心を發し 何の佛法を称へ揚げ 誰が経を受持ちて行ひ 何の佛道を修習へる』
一體お師匠様誰なのですか、それについて人と理と行と教とがあげられてある、誰に従ひて發心したのであるか・・・・・人、何れの佛法を称へ揚げたか・・・・・理、それから誰が経を受持ちて行ひ・・・・・行、何れの佛道を修習へる・・・・・教。
  従 誰 (人)
  従 法 (理)
  誰 経 (行)
  佛 道 (教)
教行人理といって、佛教では必ず真理は人が覚り、そしてそれをば教にして人を化ける、教へられる者は其の教によって修行し、そして其の理におさまって行くといふので教行人理、斯ういふやうに申すのであります
その教行人理がここにあげられて居ます。
 『是の如き諸の菩薩 神通あり大智力あり』
神力を結歎す、
 『四方の地震ひ裂けつつ 皆中より涌出でたり 世尊よ我昔より来た 未だ曾て如是の事を見ず 願くば其の従る所の 国土の名号を説かせたまへ 我常に諸の国に遊べども 未だ曾て是やうの事を見ず』
来りし国の答を請ふ
 『我此衆の中に於ては 乃し一人をだも識らず 忽然として地より出でぬ 願くは其の因縁を説きたまへ』
来りし縁の答を請ふ、
 『今此の大会の 無量百千億なる 是の諸の菩薩等 皆此の事を知らんと欲へり 是の諸の菩薩衆が 本末の因縁あるべし』
大会同じく請ふをいふ
 『無量の徳おはします世尊よ 唯願くは衆の疑を决きませよかし』
師主誰ぞの答を請ふ。
 此の中の「乃し一人をだも識らず」、此の語について、有名なことがあります、此の前のところに『我常に諸の国に遊べども、未だ曾て是やうの事を見ず』とあります、弥勒菩薩は釈尊が最初「華厳経」を説かれた頃からついて居る菩薩であって、そして此の菩薩は十方の世界に常に行って居る、十方の世界のあらゆる佛様の所であらゆる菩薩にお目にかかって居る、しかもそれは四十余年の間、佛様一代の教化の中、十方の世界のあらゆる佛様の所に行った、然るに今此の六萬恒河沙の菩薩は一人をも識らない、不思議千萬だ、一體何処から来たのですかといふことを伺って居る、此の『乃不識一人』といふ、これに対して天台大師が、何故弥勒菩薩が知らないのだろう、不思議ではないかといふについて、有名なことがあります、
 別頭教化、所有真應 非弥勒境界
『別頭の教化、所有の眞應、弥勒の境界に非ず』といはれた、日蓮聖人の宗教のことをば『別頭佛教』などといふのは、皆これから来ています、『別頭』とは別の頭といふことではない、此の『頭』といふのは『類』といふことです、弥勒菩薩などが教を受けた其の教とは全然別の類の教なのだ、仲間の違ふ教なのだ、別の教化である、普通の十方の佛や、或は「華厳経」とか「大日経」とかの毘廬遮那佛などといふさういふお経の教化とは違ふ、それ等の経々には、「華厳経」には佛の数や菩薩の数は数限りない、「大日経」等には千二百餘尊等といふものが出て来る、けれどもさういふやうな佛や菩薩とは類が違ふのだ、等級が違ふ、全然別の所で教化した、それだからこそ弥勒菩薩は、此の本化の菩薩の所有の眞應、眞應とは眞身應身といふ、その本当の本化の菩薩の眞の身體も、本化の菩薩が何かに変化する身體も到底弥勒菩薩の境界ではわからない、類が違ふのだ、斯う天台大師が解釈されてありますが、これで佛教には、此の「涌出品」以前の佛教と以後の佛教と、全然相場が違ふことがわかります、一切経の何処をさがしても、どんなに沢山の菩薩や佛が説いてあっても、上行等の地涌の菩薩は出て来ないのであります。
 秘密佛教だといふ「大日経」等の佛教では、此の別頭教化と同じように、一般の佛教は顕教だ、顕教の方は応身や他受用報身といふ身の佛が説いた、密教は法身の説である、又は自受用報身の説である、従って密教の菩薩は皆違ふといって居ます、しかしその法身の大日如来の第一番の菩薩、これは金剛菩薩です、此の金剛菩薩は一體どういふ菩薩だといひますと。これは普賢菩薩のことです、普賢菩薩が密教にないると金剛菩薩になる、普賢菩薩といふ菩薩は一體どういふ菩薩だといひますと、普賢菩薩は弥勒菩薩や文殊菩薩と同じやうな菩薩です、「華厳経」では文殊菩薩と肩を並べて居る菩薩です、これが大日如来のいちばんの弟子となって居る、斯ういふ菩薩を迹化の菩薩といふ、迹化といふのは迹佛の教化を受けたといふことで久遠実成の佛が顕はれると、大日如来などは久遠実成の佛の応身から垂れた所の方便の法身報身となってしまふ、従って迹佛といって影法師の佛様だ、金剛菩薩などは其の影法師の佛の弟子だ。
 従って「大日経」「華厳経」にない位であるから、それ以外の経には何処にもない、これを別頭の教化といふ。上行等の佛法と、外の佛菩薩の佛法とは、佛法の類が違ふ、何う類が違ふかといふと、根本の唯一佛陀の存在を認めるか認めないか、それと同時に宇宙には一貫したる不滅の道徳法あり、さういふことを認めるか認めないか、斯ういふ問題になる、それは本法を認めるか、本佛を認めるかといふ問題で、本法・本佛といふものを宣伝するのが此の地涌の菩薩であって、これを本法・本佛・本僧といふ、それを本門三宝といひます、その本門の三宝を認めるか認めないかで佛法の類が違ふことになるのであります。


 
7 他土の菩薩の疑念請答                     


 弥勒菩薩がさういふ風に居ると同時に
 『爾の時、釈迦牟尼佛の分身の諸佛の、無量千萬億の他方の国土より来りたまへる者、八方の諸の宝樹の下なる師子座の上に在して結跏趺坐したまへる、其の佛の侍者だち、各々是の菩薩大衆の、三千大千世界の四方に於て地より涌出で、虚空に住へることを見て、各其の佛に白して言さく、世尊よ、此の諸の無量無辺阿僧祇の菩薩大衆は何れの所よりか来れる』
といって、分身の佛の侍者たる菩薩が又うかがった、さうすると其の佛様たちが答へられるのには、
 『爾の時、諸の佛各侍者に告げたまはく、諸の善男子よ、且く須臾を待て、菩薩摩訶薩の名を弥勒と曰へる有り』
此の弥勒菩薩は、此の次にお前が佛になるのだといふので、これを補処の菩薩といふ、佛様がおかくれになったならば、その後を補ふ菩薩が弥勒菩薩です、
 『釈迦牟尼佛の授記したまふ所にして、次で後に佛と作るべきが、已に斯の事を問ひたてまつれり。佛、今將に答へたまはん、汝等亦是に因りて聞くことを得べしと』
ここまでが本門の序分なのであります、これから佛様が本当の佛法をばお説きにならうといふ所です、少し休憩いたします。


 
8 如来誡めて答を許したまふ                  


 これから本門の正宗分であります、いよいよ佛様が本門の佛法をばお説きにならうといふについて先づお誡めになった、軽々しく聞いてはいけないといふことをお誡めになるのであります。
 『爾の時、釈迦牟尼佛、弥勒菩薩に告げたまはく、善い哉善い哉阿逸多よ、乃し能く佛に是の如き大事を問へり。』
これはお誡めになる最初に、先づ大切なことを能く問ふたといふのでお歎めになった。
 『汝等当に共に、一心に精進の鎧を被、堅固の心を發すべし』
うかうか聞くことはならない、一心に精進の鎧を被堅固の心を發せ、
 『如来は今、諸佛の智慧と、諸佛の自在神通の力と、諸佛の師子奮迅の力と、諸佛の威猛大勢の力とを 顕発し、宣示さんt欲す』

『諸佛の智慧』とあって、ここで諸佛と書かれると佛様が沢山あるやうであるが、ここは未だ佛の唯一佛のところをお示しになって居ないから諸佛とお書きになったが、その諸佛の智慧は、唯一佛なのだから、本当の智慧は本佛の智慧であります。
 諸佛の智慧・・・・・これは佛の果智で、それをばお説きになる、佛の本当の本體・・・・・佛は覚だから、佛の本體は智慧だ、どういふ智慧であるかといふならば、宇宙法界の根本の真理と一つになって居る智慧なのだ、その諸佛の智慧をこれから説かれるのである、その諸佛の智慧は、唯諸佛の智慧そのものが、智慧でけであるのではない、其の智慧は働いて居る、すべて化用として働く、働くといふものは恰度智慧と慈悲の、どの佛でも二つの本體がある、先刻申上げた法身・報身・応身といふのでも、法身は真理で、報身は智慧で、応身は慈悲、此の三つものは一つの佛の中にある、その正體は一つのものにあるから、必ず佛は智慧の本體に慈悲を具して居る、諸佛の智慧は本體であってその諸佛の智慧の本體は慈悲として動き出す、それは『諸佛自在神通の力』として動き出す、それから『諸佛師子奮迅の力』『諸佛威猛大勢の力』、此の三つになって動き出すので、諸佛自在神力の力・・・・・これは佛の過去に一切衆生を利益するためにお働きになったその力、それはさまざまの変化自在の化導を遊ばされた。これから諸佛師子奮迅の力・・・・・これは現在に、一般に勝れたる聖の力、あらゆる邪悪を破折する師子奮迅の力をふるって、自在に衆生を利益して居られる、これから諸佛威猛大勢の力・・・・・これは師子奮迅の力が、威猛大勢の力、不滅の力として未来に利益される。
 諸佛自在神通之力・・・・・過去益物
 諸佛師子奮迅之力・・・・・現在益物
 諸佛威猛大勢之力・・・・・未来益物
三世に亘って常に一切衆生を利益する為に、佛はすべての働きをお示しになって居るのである、それをこれから教へようと思ふといふので、
 『如来は今、諸佛の智慧と、諸佛の自在神通の力と、諸佛の師子奮迅の力と、諸佛の威猛大勢の力とを 顕発し、宣示さんと欲す』
と仰せられたのであります。


 
9 偈頌もて重ねて誡許す


 そのことをば佛は重ねて偈を以てお説きになった。
 『爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲し、而て偈を説きて言はく』
 『当に精進して心を一にせよ 我此の事を説かんと欲ふ 疑悔有ることを得ることを得ること勿れ』
一心に信ぜよ、お前達の智慧才覚でわかることではない、精進の鎧を被、堅固の心を發せ、
 『佛智は思ひ議りがたし 汝今信力を出して 忍善の中に住れ 昔より未だ聞かざる所の法を 今皆当に 聞くことを得べし 我今汝を安慰めん 疑懼を懐くことを得ること勿れ 佛 には不実の語無く 智慧量るべからず 得る所の第一の法は 甚深くして分別しがたし 是の如きを今当に説くべし 汝等心を一にして聴け。』

偈頌を以て重ねて佛の智慧と、三世の化益をば仰しやったのであります。


 10 略して開近顕遠す                              


 これから大體佛様の真実をお説きになる、即ち以下本門正宗分、略開近顕遠であります、略開近顕遠といふのは、くわしく佛様の本門を顕はさないけれども、略して佛様の本門をチョッピリとお顕はしになった、斯ういふのであります、略して開近顕遠す、これに「師弟を答へたまふ」、「處る所を答へたまふ」、「師弟を釈したまふ」、「處る所を釈したまふ」四つある中、先づ師弟を答へたまふ。
 『爾の時、世尊、此の偈を説き已りて弥勒菩薩に告げたまはく、我今此の大衆に於いて汝等に宣告ぐ。阿逸多よ。』
阿逸多といふのは弥勒のことです翻訳すると無能勝といひます、普通の娑婆世界ではお前より勝れたる者はないといひので、阿逸多・・・・・無能勝といふ名前です。
 『阿逸多よ、是の諸の大菩薩摩訶薩の無量無数阿僧祇にして、地より涌出でたる、汝等が昔より未だ見ざる所なる者は、我是の娑婆世界に於て、阿耨多羅三藐三菩提を得已りて、是の諸の菩薩を教化し、示導きて、其の心を調げ伏せて、道の心を發さしめたるなり。』
此の菩薩は、みんな自分が發心せしめたものであるといはれました。先づ誰について此の菩薩たちは佛教の行と佛教の教を聞いたものでございますか、と弥勒がきいたものですから、其のお師匠様は俺なのである俺がはじめて彼等に菩提心を發さしめたと答へられた。
 『此の諸の菩薩は、皆是の娑婆世界の下、此の界の虚空の中に於て住へり。』
お前は十方の世界に行って知らない所はないといふことであるが、これはお前の知って居る所とは違って、娑婆世界の下方空中に居ったのだ、これは場所を答へられた。
 『諸の経典に於て、讀誦んじ通利り、思惟り分別へて、正憶念せり。』
これは、俺の発心せしめた彼等がどんな風に修行したかといふならば、彼等は此のやうに、智慧の方は益々進め、煩悩は断つ、智慧の澄むことと煩悩を断つこと、此の二つの智断二徳の修行をして居った。
 『阿逸多よ、是の諸の善男子等は、衆に在りて多く説く所有ることを樂はず。常に静けき處を樂ひて、勤め行ひ精進して、未だ曾て休息まず。』
これは本化の菩薩の徳において能く考へなければならぬことであります。本化の菩薩が出て来る任務はどんなことであるかといふと、三類の強敵を引き受け、そして進んで彼等を折伏し、一切衆生を敵にして闘ふことだ、その敵にして闘ふやうな菩薩は、それでは荒々しい修行をして来たのかといふと極めて静かなる修行をして来た、その荒々しいことをするのには、強いことをするのに、極めて静かなる、極めて優しきことをやって来たものが、其の荒々しい力が出るのでなければいけない。
 『是の諸の善男子等は、衆に在りて多く説く所有ることを樂はず。』
餘り喋べることを好まない、説法したがらない、多く説く所有ることを樂はずである、どうかすると喋べることの好きだといふやうな人があるが、さういふのではいけない、喋べるのではない実行するのが好きだ、それでは餘り喋べるのが嫌ひだといふのは、物を知らんかといふと、
 『諸の経典に於て讀誦んじ通利り、思惟り分別へて、正憶念せり。』
といふのだから、一切卒業して居る、一切の念ふことは皆的をはづれない、さうであるに拘らず、衆に在りては多く説く所有ることを樂はず、大勢の所に行って、威張って説法することは嫌ひだ。
 『常に静けき處を樂ひて、勤め行ひ精進して、未だ曾て休息まず。』
それが上行菩薩だ、何處まで行っても無限の向上だ、上行菩薩といふ標識はそこにある、無限の向上心だ無辺行も無辺だから辺が無い、積極的な無限性の発展を示したものである。
 『勤め行ひ精進して、未だ曾て休息まず。』
常に静けき處を樂ひ、そしてそれと同時に勤め行ひ、精進して未だ曾て休息まず、それが上行菩薩の徳である。
 それから又處る所はといふと、
 『亦、人天に依止りて住はず、常に深き智を樂ひて、障礙有ること無し。常に諸佛の法を樂ひ、一心に精進して、無常の慧を求むるなり。』
此の本化の菩薩といふものは、その性格はこれを一言にいふと、無限性の求道者であります、此の本化の菩薩は佛にならない菩薩、迹門の菩薩は皆佛になるが上行等の本化の菩薩は無限に何時までも菩薩で、無限性の求道者です。
此の十字が本化の菩薩を代表した語なのであります。晝夜に常に精進して、佛道を求むるが為の故に・・・・・・・、そして無始久遠の昔から此の出て来た時は菩薩ですが、未だ佛になって居らない、舎利弗尊者でも阿難尊者でも、みんな沢山の佛に値って、そしてどれだけかの劫を経て佛になってしまふ、ところが此の本化の菩薩は、五百塵點の久遠のその往昔、釈尊にはじめて菩提心を發さしてもらって、それ以来晝夜に常に精進して居るのに未だに菩薩だ、無限の菩薩だ、佛になりたがらない菩薩、これがなければ、みんな佛になってしまったら本当は困る、何かになりたいといふことを豫想して居るやうな者はもう駄目だ、それは未だ佛にならない菩薩のままでいいのだ、何処までも菩薩のままで安然として、普通の佛以上のことをする菩薩である、それでなければ駄目だ。
 支那には沢山の英雄豪傑がある彼等は何をするかといふと、大抵皆徳を修め人望を得て人心を収攬して何になるかといへば、その結果は王様になる、前の王を蹴とばして自分が王様になる支那歴代の王は皆さうだ、西洋にもある、英雄などといふものは皆さうだ、此頃の人間はよく出世する為に勉強したりする、さういふ人間ばかりが居ったならば世の中は善くならない、平和などは決して来ない、真の絶対平和といふものが世の中に出て来るのは晝夜常精進為求佛道故するやうな人間でなければならない、何かになりたいといふのであったなら、世の中は何時も不安不平、さまざまなことがある、何かを求めない何をもとめるといへば道を求めるだけ、そして晝夜常精進して何かの果報を求めない、果報を嫌ひはしないが、無かったら無くてよい、出て来るなら勝手に出て来い、自分は為すべきことを為す、さういふことにならなければ本当の世界は出て来ない、俺はこれだけのことをしたから、ああして欲しいといふならば、必ず此方はさう思っても向うはさうは思はない、常に我慢葛藤といふことになる。
 本化の菩薩は無限性の求道者である、活動は何時でも止めない、そして求めるところは何もない、唯道を求める、そこに絶対安心があるのだ、さういふ者ばかりの世界、それが常寂光といふ世界である、本化の菩薩の居る所が常寂光であるのは其のためだ、ここに其の一班が示されて居ます。
 『亦、人天に依止りて住はず』
人天なんてものは、ああしたい斯うしたいといふもので、さういふ所には住まない。
 『常に深き智を樂ひて、障碍有ること無し。亦、常に諸佛の法を樂ひ、一心に精進して、無上の慧を求むるなり。』
以上が略開近顕遠であります。


 11 重ねて偈頌もて開顕す


 『爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲し、而て偈を説きて言はく、
 阿逸よ汝当に知れ、是の諸の大菩薩は、無数の劫より来た 佛の智慧を修習へり 悉く是我が化す所にして 大道の心を發さしめたり 此等は是我が子なり 是の世界に依止りて 常に頭陀の事を行じ 志静けきを樂ひて 大衆のカイニョウ(かしましき)を捨て 説く所多きを樂はず』
其の大衆のカイニョウ(かしましき)を捨て説く所多きを樂はざるところのものが、聚落城邑に至って法を説くのだ、そこではじめて畏るるところなき化導が出来る、それは求むるところがないからである。
 『説く所多きを樂はず、如是の諸の子等 我が道法を学び習ひ 晝夜に常に精進して 佛道を求むるが為めの故に娑婆世界の 下方なる空中に在住るなり 志念の力堅固して 常に勤めて智慧を求め 種々の妙法を説きて其心畏るる所無し 我伽耶城なる 菩提樹の下に於坐し 最正覚を成ぐることを得つ 無上の法輪を轉らして 而して乃ち之を教へ化し 初めて道心を發さしめき 今ぞ皆不退に住れる 悉く当に成佛することを得つ 我今実の語を説く 汝等一心に信ぜよ 我久遠より来た 是等の衆を教へ化せり』
これが「略開近顕遠」であります。さやうな沢山の菩薩達を釈尊は初発心の時から教化された、然るに弥勒菩薩は最初「華厳経」の時から、佛に従って菩薩達を知って居る、その弥勒菩薩からいったならば、今、佛のいはれるやうなことは、全然そんなことがあった筈はない、まして況んや数からいっても、到底思ひも計りもかなふことの出来ない沢山の菩薩である、それを釈尊が初発心から教へたなどといふことは到底考へられない、そこでそれによって、おのづから此の佛は、決して今出た佛でないといふことが暗示されている、それをば略開近顕遠といって居るのです。すなわち、此の菩薩たちは俺が教へたといふことを確実にいはれた、そして其の菩薩たちの効能まで説かれたことは、それが自から釈尊の久遠実成を略していはれたことになるのであります。


 12 疑に因りて更に答を請ふ


 そこで今度は弥勒菩薩がこれを疑ふ、その疑ひに因って更に答へを請ふ、どうしてそんな風に佛様が教化されたのであるか、何時の世に教化されたのであるかとお尋ねしたのです。
 『爾の時、弥勒菩薩摩訶薩、及び無数の諸の菩薩等、心に疑惑を生し、未曾て有なしと怪みつ、即ち是の念を作す、云何してか世尊は少時の間に於て、是の如き無量無辺阿僧祇劫なる諸の大菩薩を教化して、阿耨多羅三藐三菩提に住らしめたまひけん』
此の菩薩たちは佛にこそなって居ないが、皆佛の道に実際に住してしまって、退くことのない方々である、それがこれだけ多くの数である、一體佛さまは、何時此等の方々を教化されたのであらうかと疑った。
 『即ち佛に白して言さく 世尊よ 如来は太子にて為しし時、釈宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐しまして阿耨多羅三藐三菩提を成ぐることを得たまひき。是より已来、始めて四十余年を過ぎたり。世尊よ、云何してか此の少時の時に於て、大きに佛事を作したまへる。佛の勢力を以てや、是の如き無量の大菩薩衆を教化して当に阿耨多羅三藐三菩提を成さしめたまふべき。』
これはどうもうけとり難いことでございます。
 『世尊よ、此の大菩薩衆は、假使人有りて、千萬億の劫に於て数ふとも盡しこと能はず』
いくら数へても数へきれない程の数であります。
 『其の辺をも得じ。斯等は久遠より已来、量無く辺無き諸佛の所に於て、諸の善根を植え、菩薩の道を成就げつ、常に梵行を修めたり。』
其の菩薩方を見ると、到底我々のやうな菩薩とは全然類が違ふ、身皆金色にして三十二相を具へて居る、此の違ふ相をば日蓮聖人が、本化の菩薩で弟子の一人もないやうな菩薩と、弥勒菩薩や普賢菩薩と比べると、帝釈の前に猿猴が来たやうだと仰せられた、それほど本化の菩薩は威儀尊特だ、大抵な佛様もかなはないやうな結構な有難い菩薩だ、そのことを弥勒菩薩がいって居る。斯等の菩薩たちは久遠より已来修行したものである、到底我々の及ばない菩薩であるが、此の菩薩は佛様がお教へになったといふことは、どうも不思議だ、
 『世尊よ、此の如きの事は、世の信じ難き所なり。』
到底信じられない、それで今度は譬を開いて疑ひを述べる。
 『譬へば人有りて、色美しく髪黒く、年二十五ならん。』
これは、お釈迦様貴方は、甚だ失礼ですが、二十五歳の人にしか見えない、然るに此の大菩薩たちは百歳の人のやうだ。
 『百歳の人を指して、是我が子ぞと言ひ、其の百歳の人も亦年少きを指して、是我が父なり、我等を生み育めりと言はば、是の事信じ難きが如し。』
到底信じられないのであらう、今佛様の仰しやることも恰度それと同じである。
 『佛も亦是の如し、道を得ませしより已来、其れ実に未久しからず。而るに、此の大衆の諸の菩薩等は、已に無量千萬億の劫に於て、佛道の為めの故に、勤め行ひ精進して、善く無量百千萬億の三昧に入り、出で、住ひつ。大じき神通を得て、久しく梵行を修め、善に能く次第に諸の善法を集めて、問答に巧みにして、人中の宝ぞかし。』
これも本化の菩薩の徳の中の一つをあげたのであって、前の所には『志念の力堅固にして、常に勤めて智慧を求む』『其心畏るる所無し』或は『衆に有りて多く説く所有ることを樂はず』とあるが、それと同時に問答に巧みにして人中の宝である、説くのは嫌ひだが、若し問答にぶっかつたならば、その問答に巧みなることは、一問答したならば相手の急所をつく、殆んど人中の宝である、一切の世間に甚ど為希有なることろである。
 人中の宝・・・・・それは三宝尊で、佛様と法、その佛様や法の真実を伝へるものが僧である、久遠の佛がおかくれになっても、久遠の法が世にかくれていても、此の本化の菩薩が出たならば、その久遠の法を示し、久遠の佛を示される、それを示すのは此の本化の菩薩にかぎる、そこで
 『問答に巧みにして、人中の宝ぞかし、一切の世間に甚ど為希有なり』
とあるのです。
 『今日の世尊、方に佛道を得ませじ時、初めて心を發さしめ、教化し示導きて、阿耨多羅三藐三菩提に向はしめきと云ふ。世尊は佛を得ませしより、未だ久しからざるに、乃し能く此の大功徳の事を作したまへる』
それに対して我等はわからない、わからないけれどもわからないけれども信ずることは出来る。
 『我等は、復、佛の宜しきに随ひませる所説、佛の出します所の言の未だ曾て虚妄なきことを信じたてまつる。』
信ずることによって、佛の知しめす所は皆悉く通達る、自分にわかるのではない、佛様の仰しやることは本当だと信じます。
然し
 『諸の新發意の菩薩、佛の滅したまへる後に於て、若し是の語を聞かば、或は信じ受けずして、而ち破法の罪業を起す因縁とならむ』
私達はもう佛を絶対に信じていますから、それを信じますが、其のわけをお説き下さらないと、後の世に於いて新に佛教に信を發した新發意の菩薩は、これを信ずることが出来ないでせう、どうかそれらの者が破法の因縁を得ないやうに教へていただきたい。
 『唯然、世尊よ、願はくば為めに解説して、我等が疑ひを除かせたまへ。』
即ち滅後の菩薩たちの為めに教へていただきたい。
 『及び未来世の諸の善男子も、此の事を聞き已りなば、亦疑ひを生ぜざらむ。』
現在の新發意の為めに、又滅後の人々のために、どうかそれを説いて頂きたいものであるといって、弥勒菩薩がお願ひ申上げた。


 
13 重ねて偈頌を以て答を請ふ


その弥勒菩薩が再び重ねて偈を以て更にお願ひした。
 『爾の時、弥勒菩薩、重ねて此の義を宣べんと欲ひ、而て偈を説きて言だく』
 『佛は昔釈種より 出家して伽耶に近き 菩提樹に坐したまへり 爾より來尚ほ未久しからず 此の諸の佛子等は 其の数量るべからずして 久しく已に佛道を行ひ 神通智力に住ひ 善く菩薩の道を学びて 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し。』
これも亦有名な語です。
 不染世間法
 如蓮華在水
娑婆世界といふ世界は悲華経などといふ経に書いて居るところによると、十方の佛の世界の中で、もうこんな悪い奴はいけないといふので追ひ出した不合格者・・・・・今学校の入学試験があるけれども、あっちの学校にも此方の学校にもはいれない劣等生ばかりが集ったやうなのが娑婆世界であります。十方の世界の中で、彼方の佛の国でも此方の佛の国でも、お前のやうな者はいかんと追放された、それがみんな娑婆世界に生れて来るのです。即ち娑婆世界は缺點だらけの者が居るところで、劣等生ばかりの学校のやうな所であります。それだから一ばん最初話したやうに、娑婆といふことは堪忍の世界で、何か忍ばなければ居れない、忍ばない奴が居ると始終喧嘩する、人が幣悪で増上慢で欲が深い、それが娑婆世界です。汚いところだ、然るに此の本化の菩薩は、不思議にも阿弥陀様の世界にも薬師様の世界にも行かず、優等生の学校にはいらない、そしてわざわざ劣等生ばかり居るところにはいって居る、劣等生ばかり居るから劣等生と一緒になるかといふと、劣等生の中には居は居るが一緒にならない。
 『世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し。』
蓮華は水にあっても其の水に染まない、蓮華は泥の中に生ずる、此の本化の菩薩は娑婆世界といふ十方世界の中で一ばんいけない世界・・・・・泥のような所、その泥の中から出て来た蓮華である、此の蓮華が本化の菩薩であります、そして世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し、それが妙法受持の菩薩と斯ういひます、本化の菩薩のことをば、本法受持の大菩薩といひます、本法といふのは何であるかといふと、妙法蓮華経であります、妙法蓮華経」といふのはどういふことだといふと、蓮華を以て譬へてあります、蓮華は必ず汚泥の中から出ます、穢い所から最も綺麗なものが出て来る、穢い中から出てそして其の浄さは、何ものも比較の出来ない浄さを有って居る、『浄穢不二』といって、浄いことと穢いこととが本體に於いて一つなのであります、蓮華そのものは恰度『浄穢不二』を示したもので、煩悩即菩提、生死即涅槃といふことをば示したものが蓮華です、本化の菩薩は世間の法に染まざること、世間に居ながら世間の法に染まざること、それが蓮華の水にあるが如くであります。
 『地より而て涌出出でつ 皆恭敬の心を起して 世尊の前に住りけり 是の事思ひ議り難し 云何して而信ず可き佛の得道は甚と近くましますに、成就したまへる所は甚も多し 願くば衆の疑を除かん為めに 実の如に分別して説きませよ 譬へば少壮き人の 年初めて二十五なるが 人に百歳なる子の髪白く而面皺めるを示し 是我が生める所なりとし 子も亦是父なりと説くも 父の少くして子の老いたる 世を挙りて信ぜざる所ならんが如し 世尊も亦是の如く 道を得ませしより來甚近きに 是の諸の菩薩等は 志固くして怯弱無く無量の劫より來た 而ち菩薩の道を行じ 難問答に巧みに 其の心畏るる所無く 忍辱の心決定り 端正して威徳有り、十方の佛の讃へます所なり』
これも有名な語であります。
 巧於難問答 其心無所畏
 忍辱心決定 端正有威徳
此のお語を見ていまうと、斯ういふ人が何処かにあったらうかといふので、自から日蓮聖人の人格が思はれます、巧於難問答其心無所畏・・・・・日蓮聖人のあのお姿を拝見していると、此の語はもうそのまま大聖人を示されたやうに思はれます、難問答に巧にして其の心畏るる所無し、・・・・・大聖人の幕府に向っても、各宗のあらゆる高僧大徳に向っても・・・・・聖人の時代は各宗共皆前後に較べるところ少なく程相当偉い人が揃っていました。その人達を相手にして畏るる所無く、忍辱心決定、あらゆる難儀が来たのをば、聖人自ら『本ヨリ存知ノ旨ナリ』といふ忍辱心決定、そして聖人のあの一挙一動、御伝記の上を拝見しても極めて折目端正しい、その出所進退の端正しさといふものは実に端正である、そして威徳有り、御像を拝見しても日蓮聖人の御像は実に御立派だ、堂々たる美男です、端正にして威徳有り、その菩薩は十方佛の讃めたまふところである、それから、
 『善に能く分別して説き 人衆に在ることを樂はず 常に好みて禅定に在り 佛道を求むるが為の故に 下の空中に於て住へり』
さういふやうな偉い徳のある菩薩です、私達は佛より聞きまつれば此の事に於て、斯の如き菩薩も釈尊の弟子だといふことは、佛から直接うかがふから、此の事に於いて疑ひ無きも
 『願くば佛未来の為めに演説して開解しめませ 若し此の経に於て 疑を生し信ぜざらん者有らば 即ち当に悪道に堕ちなん 願くば今為めに解説しませ 是の無量なる菩薩をば 云何してか少の時に於て  教化して發心せしめ 而も不退の地に住らしめたまひけるらぬ』
と弥勒菩薩がおたづね申上げた、これを
 騰疑致請
といひます、疑を騰して請ふことを致す、どうかお答へして頂きたいといってお願ひ申上げた、騰疑致請は佛の将来の御説法をお願ひ申上げたのであります。
 これは何時も申しますが、大聖人の本地の徳が此の「涌出品」にはすべて示されてあります。本化の菩薩が御垂迹になって、そして御化導を遊ばすお徳は「勧持品」に三類の強敵のことが示され、「神力品」にその御説法の根拠が示され、それから其の功徳が示されてあります。そして本地の御徳が此の「涌出品」に示されてあるのです。大聖人の御一代で「涌出品」の姿をお示しになったのは、あの身延におはいりになった八年の間です。「身延山御書」に
 『佛ニナル道ハ師ニ仕フルニハ過ギズ』
と仰しやった、それから身延で故郷の御両親をお慕ひ遊ばされた、それから地涌の常好在禅定とは、大聖人が身延におはいりになったことは、鎌倉での説法をお止めになっておはいりになったので、これは禅定におはいりになったのであります。その禅定におはいりになった大聖人が、自ら弘安四年の蒙古襲来について、禅定からあの護国の本尊をお顕しになり又その一年前に「諫暁八幡抄」といふ御書、来襲の一月前には「三大秘法抄」等を示されて、此の日本の本来の因縁、全世界に向っての本来の因縁を顕発せられて此の国を護られた。本佛釈尊にお仕へになるところは、『晝夜常精進為求佛道故』の其のままの姿、此の「涌出品」に書かれて居る本化の菩薩は佛に仕へて、晝夜常精進して佛道を求める為めに身をいとはない、そのことを其のまま身延で、谷に下りては水を汲み、山に登られては薪をこり、或は佛に供へる花をお摘みになったといふことが御書に書かれてあります、それから高き山に登っては父母を慕ひ、或は禅定によって国を護るといふやうな事柄は、皆「涌出品」の御徳を身延山九ヶ年に於いてお示しになってあるのです。鎌倉に於いての御弘通は恰度、『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如し』といふ折伏の御弘通で、身延山におはいりになっての御人格は恰度謗法の国に居て、そして独り世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如き姿を示されて居るのであります、恰度『日蓮』の二字は、「涌出品」に於ける徳を示されて『如蓮華在水』の蓮、それから『神力品』の徳を示されて『如日月光明』の日、それが日蓮の二字を自解佛乗だと仰しゃってありますが御弘通では日月の光明の如くであり、御自身の御修行の場合は蓮華の水に在るが如し、此の二つを大聖人御一代の中には自からお示しになってあるのであります。
 そこで此の涌出品は、補処の菩薩即ち釈尊の後に、此の娑婆世界で次に佛になると約束せられたと、一般の佛教経典で定められている弥勒菩薩に対して、『常に精進して心を一にせよ、我此の事を説かんと欲ふ、疑悔あることを得ること勿れ』、『佛智は議りがたし、汝今信力を出して、忍善の中に住れ』、『汝等心を一にして聴け』と誡め許したまふ偈に宣ひ、『我今実の語を説く、汝等一心に信ぜよ、我久遠より來た、是等の衆を教化せり』と、略開近顕遠の偈頌にも仰せになって、一毫も弥勒菩薩の智慧を許されていないといふことを会得せねばなりませぬ。弥勒は地から涌き出て来た、無量無辺の本化の菩薩の、ただの一人をも識らないのであります。すでに教へられた菩薩たちを識らないのですから、その師の佛をば識る筈はなく、その佛の教法を識る筈はなほさらありません。それをば天台大師が『別頭ノ教化、所有ノ眞應、弥勒ノ境界ニ非ズ』といはれたので、恩師智学先生が、佛教の二大別だといはれるのは、この事なのであります。
 一般の佛教の分類で申しますと、まづ小乗と大乗、これは誰でも知っているのでありまして、それについで小大乗に通じてあるものが、教相と観心でありまして、これをばまた教法と禅法とも申しますが、これは小乗にもあるのでして、修行の方になりますと、法行と信行ともいひます。すなわち教相教法の方で修行を立てるのが信行で、観心禅法の方で修行を立てるのが法行であります。これを大乗の中で更に教法と観心即ち教法と禅法とを対立させて、もっぱら禅法観心のみで宗を立てたのが禅宗で、その方では教禅の二法とも二門ともいふのです。また聖道と浄土の二門、或はまた印と真言とを説く経をば密教とし、それを説かない経を顕教として、顕密の二法とも分けまするし、またこの法華経に依りまして、権実の二教といふものを立てるなどいふことがありまうが、それ等の中、大乗小乗の二教は措き、大乗の中で、教禅二門、聖浄二門、顕密二教権実二教などといふことを申しますが、それらの経典を見ますと、その経の対告衆の菩薩は、みな文殊・普賢・弥勒・薬王などといふ類の菩薩でありまして、いはゆる迹佛の弟子の迹化の菩薩、他方の佛の弟子の他方の菩薩なのであります。密教の経の金剛薩埵も、顕教の普賢菩薩なのですから、これもまた類の全く異った菩薩ではないのです。その中でこの本迹の相違となりますと、全く他の経の佛と法とは類が違ふのですから、それをよく考へねばなりませぬ。本化の菩薩は五百塵點以来、本佛の弟子として佛とならない菩薩であるといふこと、永遠の菩薩! かういふことに眼を括かねばなりませぬ。本門の佛教は永久に一佛無量菩薩であることは、日本国體の一君萬民とひとしいのであります。本門佛教の成佛とは、無量の菩薩が本門の佛を信じて、本門の智慧をその信に依る智慧にしてしまひ、本佛の果報境界中に同如してしまふことなのです。だから、本化の菩薩を本佛同躰の大士といふのです。
 以上、いささか従地涌出品を略講しました。
            
                           
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