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法師品第十

 1
 五種法師 
 在滅の総記  師門の功深福重

  所持の法を歎じ弘経の方軌を示す  三説超過 

  法尊きが故に人尊し  人尊きが故に處尊し  

 
 須水の譬  能示は何ぞ 10 方軌を示す 

 
11 不懈怠の心 12 則遣変化人 13 要文



見宝塔品第十一 

 1 証前起後の二重の宝塔 2 宝塔の涌現

 3 「時衆驚疑」と「大楽説の問」 4 如来の答釈

 5 分身の遠集 6 三変土田 7 開 塔 8 二佛並座

 9 付属有在 10 二種の付属 11 偈   頌

 12 六難九易 13 此経難持 14 六波羅蜜自然在前

法師品第十


 「法華経十講」の迹門の正宗分を終りました、今日からは流通分であります、迹門の流通分は「法師品」から「宝塔品」「提婆品」「勧持品」「安楽行品」と五品あります。此の「法師品」はプリントに書いておりましたやうに、此の法を弘める人の功徳が深く、其の福の重いことをお説きになってある、そして皆等しく「法華経」の弘経につとめろといふことをさまざまの方面からお説きになるのであります。


 1 五種法師                                                     


 この『法師』といふことは何ういふことかといひますと、『法師』といふのには二つあります、自行の法師・化他の法師、斯う二つあります、『自行の法師』といふことは何ういふことだといひますと、法を以て自分の御師匠様にする、法にチャンと佛様が、斯ういふ風にするのが此の法の道だ、斯ういはれたならば、其の法の通りに自分が行ふ、斯ういふことになりますと、法が自分の御師匠様になる、それによって自分が御利益を受ける、それから『化他の法師』といふと、其の法に説かれたことを自分が行ふだけでなしに、人にもそれを行はしめる、人にもそれを信じ行はしめる、さういふことになった場合が『化他の法師』です。其の場合は恰度自分が法の代りみたやうになる、自行化他の法師、大體『法師』といふことは、そんな風に二重にいふのであります。
 それから又『五種の法師』・・・・此のお経には法師といふのに五つの種類があると説かれて居ます。それは何ういふことだといひますと、此の「法華経」は
受  持


解  説
書  写
 これだけの修行の方法があります、形からいひますと、此の五つの形がある、そのことをば『五種の法師』といふのです、で、受けるといふことは、『信力の故に受く』といって、成程佛様の仰せられた通りであると、佛の教をよく信じる、信じることによって自分の心に受け入れる、受け入れたものをば忘れないやうに、何時も其の受け入れたことをチャント確かり持続して行く、それが念力で『念力の故に持つ』というのであります。即ち『受持』ということは『信念』といふこのなのであります、信念によって自分の心に確かり受け入れて、チャンと心に始終持って居ると共に、身體にも其のことをば其の時だけ実行するのでなく、続けて実行して行く、それが『受持』といふことであります。
 それから『読』というのは、文字を親しく看つつ読むのが『読』、それから又文字を見ないで暗誦するのが『誦』、『解説』は解釈し演説すること、『書写』は書き写すことであります、「法華経」の御説法を承ってそれを信じ受け念じ持つ、それから其の「法華経」をば更に文に向かって始終拝見する、それからお経を持って居なくても暗誦する、或いは其の文に説かれて居る道理をば解釈し演説する。或いは其の「法華経」の御文を写す、又お経の解釈をしたのを写して行く、それらが皆書写の行であって、此の五つを、各々受け持つことをば、自分が受け持つ時は自行の法師、受け持つことを人に勧めたならば化他の法師、自分が読めば自行の法師、人に読むことをなさしむれば化他の法師、斯ういふ風に受持・読・誦解説・書写の五種に各々自行化他の法師があります、
 其の五種法師のことをばお説きになった、それが此の「法師品」であります、然しそれは形式で、さういふ自行化他の五種の法師の形式、それをば事実に行って行くについて、三つの規定がある、それをば「三軌」といひます。
大慈悲の室
柔和忍辱の衣
諸法空の座
斯ういふ心性、斯ういふ内容の心を以て此の五つのことをば、自らの為に、又他の為めに実行して行く法師といふこと、そのことをば詳しくお説きになったのが、此の「法師品」であります。



 2 在滅の総記 (人間中心 信仰中心)                   


 それから御文に入って始めのところは「在滅の総記」・・・・・・「在滅」は在世・滅後で、佛様がいらっしゃる御在世の時、及びおかくれになった後であります。『総記』とは総ての人間を皆、此の「法華経」は一切成佛せしめるぞといふことで、『記』といふことは『授記』といふことであります、皆佛の卒業免状をもらふ、さういふことであります。
 そこでいよいよ御本文に入ります。
 『爾の時、世尊、薬王菩薩に因せて、八萬の大士に告げたまはく』
『序品』の時にあったやうに、此の『法華経』の会座には菩薩摩訶薩八萬人が居る、その八萬人の上首の薬王菩薩をお呼びになった、八萬の人に一ぺんに話すことは出来ないから、そこで薬王菩薩を以て代表せしめる、薬王菩薩を代表者として八萬の菩薩に告げられた。
 『薬王よ、汝、是の大衆の中なる無量の諸天、龍王、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩ゴ羅伽、人、非人と及び比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の声聞を求むる者と、辟支仏を求むる者と、佛の道を求むる者とを見るや』
ここに一ぱい出て来て居るところの『無量の諸天』といふところから、摩ゴ羅伽までは『八部衆』といひます。印度の其の頃に於ける外道婆羅門等の方で、幽冥界の神様として居た其の神様を、全部佛教は此方のものにしてしまったのです。それらの神様は何をするのであるかといったならば、皆佛によって迷ひを去り悟りを得て、そして成佛することが出来るのだ、さういふ幽冥界の八部衆も、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷といふ人間の男の坊さん、女の坊さん、俗人で佛教を信じる男や女、それらは皆声聞の教を求めたり、或いは辟支仏の道を求めたり、又佛の道を求めたり、いろいろに三乗を求めて居るものであるが、
 『是の如き等の類、咸く佛の前に於て、妙法華経の一偈一句をも聞いて、乃至一念だにも随喜ばん者には、我皆記を與へ授く、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし』

これが在世の衆生に対する総じての授記であります、此の以前のところでは、主として舎利弗がいただき、四大声聞がいただき、それから五百の阿羅漢がいただき、千二百の声聞がいただき、一切の声聞がいただいた、といふ風に、これまで佛にならないといふ阿羅漢達が皆佛の記別をいただいたけれども阿羅漢以外の者は未だどうかわからない、四十餘年にわたって、阿羅漢=これだけは成佛しないといっていたのが、それが成佛したのですから、それだけを以ても外の衆生の成佛することは決って居ることです、譬へば竹に節がります、其の節を一つ割れば一ぺんに竹は割れます、それと同じでありますけれども、未だわからん者があるといけないからといふので、此の「法師品」の最初に於いて、あらゆる一切のものは、みんな「法華経」によってのみ成佛出来るのだといふことを説かれたのが、此の一節であります。
それから、
 『又如来の滅度の後』
在世の者だけではない、佛がおかくれになってから後でもさうだ。
 『又如来の滅度の後若し人有りて、妙法華経の乃至一偈一句をも聞いて、一念だに随喜ばん者は、我阿耨多羅三藐三菩提の記を與へ授く』
 これは
     一偈一句
     一念随喜
     若有人
在世の時でも亦滅後の時でも、此の「法華経」は一偈一句・・・・・・僅か最小分、此の最小分のところまでつめられて来て、その一偈一句を本当に意味まで知り了って、すっかり身を以て行ふことが出来たといふ、それはそれに越したことはない、併しまだそんな所までやらなくても、せめて一念、心の一ばん僅かなところでも随喜する、ああ結構だと少しでもさう思ふ、其の一偈一句という一ばん僅かのところを僅かな心で喜ぶ、それだけのことでも必ず成佛するのだ、又若し人あって==御在世のところでは八部衆と、それから比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、それも唯の四衆でなしに、声聞を求むる者、辟支佛を求める者、菩薩を求める者といふ、三乗の人といふことが決められて居ました、ところが滅後に至っては、そんな三乗の人といふことを決められないで、単に『若し人有って』とあります、そんな難しい三乗の修行などをする者でなくても、苟も人間であるかぎり、妙法蓮華経の一偈一句を一念でも随喜したならば、其の功徳は必ず今すぐ現れなくても、必ずそれは佛の覚りのところに一緒になる種になるなるのだといふことを説かれたのでありまして、それは人間中心、信仰中心といふことであります、これは「法華経」が人間中心の教へだといふことの大切な御文なのであります。



 3 師門の功深福重                             


 其の次に『若し復人有りて』これからは下品の師と上品の師といふことがあります、それが師門の功深く福重きことを示すのであります。
 「法華経」といふものは、法においては一偈一句、心においては、一念の随喜それを最低として必ず佛と同じ所に行くのであります、それが原則です、これ此の法華経が人間中心・信仰中心の経典であるといふことの原則です、そこで今度は其の法をば自ら実行し、随喜びそして人に説く者があるとする、それは所謂法師である、その法師を先ず「下品の法師」といふのから説き出されています。
 『若し復人有りて、妙法華経の乃至一偈なりとも、受持し、読誦し、解説し、書写して、此の経巻に於て敬ひ視ること佛の如くにし、種々に華、香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、所W、憧旛、衣服、伎楽を供養し・・・・・』
これを十種の供養といひます。
 『乃至は合掌して恭敬せん。薬王よ、当に知るべし、是の諸の人等は已に曾て十萬億の佛を供養し、諸佛の所に於て大願を成就しつ、衆生を愍れむが故に、此の人間に生れつるなり』
これが「下品の法師」です、何故下品の法師かといひますと、妙法華経の乃至一偈だけでもそれを受持し、読誦し、解説し、書写す、斯ういふ僅かに一偈だけでも五種の修行をする者があったならば、それを下品の法師といふ、その人は既に過去に於いて十萬億の佛を供養して、その衆生を愍むために此の人間に生まれて来たものである。
 『薬王よ、若し人有りて何等の衆生か、未来世に於て、当に佛と作ることを得べしやと問はば、應に是の諸人等は未来世に於て必ず佛と作ることを得むと示すべし。』
其の下品の法師は必ず成佛する。
 『何を以ての故にや、若し善男子善女人の法華経に於て乃至一句なりとも・・・・・・・・・・・』
前には一偈とあった、それを又もう一層短くして一句、ここで一寸いっておきますが、一偈といふのは「四句一偈」といって、四句あるのが一つの偈であります、その一偈の中の唯一句だけです。
 『乃至一句なりとも、受持ち、読誦んじ、解説し、書写しつつ、種々に経巻に、華、香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、所W、憧旛、衣服、伎楽をば供養し、合掌して恭敬ひなば、是の人は一切の世間の應に瞻奉づくべき所なり、應に如来の供養を以て而ち之を供養すべし。当に知るべし此の人は是れ大菩薩なり、阿耨多羅三藐三菩提を成就して、衆生を哀愍みつつ、願うて此の間に生れ、広く妙法華経を演べて分別するなり。』
これは僅かに一偈一句を以て人を導く者でも、最初よくそれを以て人々を導く始めをなす人は、皆これ大菩薩の化現なのである、僅かに一句一偈でもさうであるのですから、今度はそれ以上の上品の師をやで、
 『何に況んや、悉く能く受持ちて、様々に供養せん者をや。』
一偈一句だけでなしに、「法華経」の全體を通じて能く受持ち、読み、誦んじ、解明し、書写し、且つ供養する者がある、そういふ者は
 『薬王よ、当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨てて』
それは本当の居り所は、我々の凡夫の世界でない佛陀の世界に居られるのだ。
 『清浄の業報をすてて、我が滅度の後に於て、衆生を愍むが故に悪世に生れて、広く此の経を演ぶるなり』
それは垂迹の人であります。
その次は下品の法師の功徳、
 『若し是の善男子善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為めにてもあれ』
下品の師は最初は所謂一偈一句だ、これは法の上からでありますが、さらに所化の人をも、唯一人の為めに説くので、これを下品の師とします、一偈一句とそれからお経の全體、これで下品と上品と違ひましたが、今度は一人の為に説くのと多くの人の為に説くのと違ふのです。一人に説くのは下品、多人の為に説くのは上品である。
 『能く竊に一人の為めにてもあれ、法華経の乃至一の句をも説きなば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。』
僅かに一句のことをば一人の為めにだけ説く、それでもこれは既に如来の使である。
 『如来の所遣として、如来の事を行ふなり。』
これは下品の師です。
 『何に況んや大衆の中に於て、広く人の為めに説かむものをや』
これは上品の法師であります。
 以上、下品・上品の師の功徳を説かれました、その次が「順逆の罪福」です、「順逆の罪福」といふのは、その法を説いてくれる人にそむいた場合の罪、それからそれに随順した場合の功徳、それをお説きになるのです。
 『薬王よ、若し悪人有りて不善の心を以て、一劫の中に於て、現に佛の前に於て常に佛を毀し罵らんも、其の罪尚ほ軽し、若し人、一つの悪言を以て、在家・出家の法華経を読誦んぜん者を毀しそしらば、其の罪重しとす』
 若し悪人があって、佛を憎み佛の法を信じない心をもって、そして一劫という長い間、現に佛の御前で佛をさんざんに罵る、それは非常に重い罪だ、重い罪だけれども、これを佛の滅後に『法華経』を修行して居るものを罵る罪とくらべて見たならば、佛の御前で一劫の間悪口雑言する方の罪が軽い、佛の滅後に於いて在家出家の、真に「法華経」を読誦んず、人に勧めて居る者、さういふ人を一つの悪言を以てこれを罵ったならば、其の罪が却って重い、それは不思議ではないか、佛を罵った方が余計重い筈ではないか、といふと、これは「法華経」の弘まる弘まらざるという実行方面からいはれたもので、今日の法律上の観念からいふと、実害の方面からいはれたものであります、佛様をいくら罵っても、佛様は何とも思召さない、佛をいくら長い間、一劫の間佛を罵って居ても、佛様は何ともお考えにならない。その罵られた為めにお怒りにもならない、心を少しもお煩はしになりません・・・・・・斯ういふ話があります。外道が佛様を、どうも釈迦といふ奴は気にくはない、遭ったらウント罵倒してやらうと思っていました、ところでたまたま会いましたから、そこで佛の前で『小僧貴様は』と数々悪口しました、然し佛様は黙って居られます、外道は有ゆる恣な悪態をついてこれでも何でもないかこれでも貴様は怒らないかといひましたが、佛様は知らん顔をして居られます、そして最後にいはれますには、或る人がお客を招いて大変御馳走をこさへて、何卒召上れといふ、ところがお客がいくらすすめても食べないで、やがて左様ならと帰ってしまった、さうしたら其の御馳走はどうなるか、と反問せられました。すると外道がさうすると其の御馳走を差上げやうとした人が自分の持になるまでだといひますと、佛が其の通りであるよ、お前は今日は沢山御馳走してくれましたが、俺は一つもいただかないから、これで失敬する、折角の御馳走はそちらで處分なさいといふことで、悪口はとうとう外道自身に残ってしまひました。
 佛様の方ではそんな鹽梅ですから、一劫の間にわたって何といはれても、何ともお思ひになりません、けれども凡夫はそうはいかない、そこで佛様を一劫の間罵っても大して罪にならない、此の経を弘めている凡夫を罵ると或いは怒る、或いはこんなことならばもう止そうとなる。そこで其の罪の方が却って重いということになります。
 それから
 『薬王よ、其れ法華経を読誦んずること有らん者は、当に知るべし、是の人は佛の荘厳を以て而も自ら荘厳しつ、即ち如来の肩に荷擔はるるを為む其の所至ん方には、随ひて應に向ひ禮すべし。一心に合掌して恭敬ひ供養し、尊び重め讃歎へつつ、華、香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、所W、憧旛、衣服、希膳、諸の伎楽を作し、人の中の上じき供もて之を供養せよ。應に天の寶を持ちて、而ち以て之に散ずべし。天上の寶聚、應に以て奉献るべきなり。』
其の位にして真に「法華経」を説く者があったならば、あらゆる天の供養を以て其の人を供養すべきである。
 『所以者何となれば、是の人歓喜びて法を説かんに、須臾も之を聞かば阿耨多羅三藐三菩提を究竟ることを得るが故なり』
これが法師を讃する功徳であります、讃歎供養する功徳であります。
 則ち以上で、逆順の罪福をお説きになった、其の次のところはそれを重ねて偈を以てお説きになってあります。
 『爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲し、而て偈を説きて言はく
 若し佛の道に住して 自然の智を成就なんと欲はば 常に当に勤めて 法華を受持つ者を供養せよ、其れ疾く一切種の智慧を得んと欲ひなば 当に是の経を受持ち 並びに持つ者を供養せよ 若し能く 妙法華経を受持つこと有らん者は、当に知るべし佛の所使として 諸の衆生を愍み念ふなり 諸の能く妙法華経を 受持つこと有らん者は 清浄の土を捨てて 衆を愍むが故に此に生るるなり 当に知るべし是如の人は 生れんと欲ふ所に自在なれば 能く此の悪世に於て 広く無上の法を説くなり 應に天の華香 及び天の寶の衣服 天上の妙なる寶の聚を以て 説法の者に供養すべし、吾が滅れにし後の悪世に 能く是の経を持たん者をば 当に合掌し禮敬ひつ 世尊を供養するが如くせよ 上しき饌衆の甘美及び種々の衣服もて 是の佛子に供養しつ 須臾も聞くことを得んと冀ふべし 若し能く後の世に於て 是の経を受持せん者は 我遣はして人中に在らしめて 如来の事を行ぜしむるなり 若し一劫の中に於て 常に不善の心を懐き 色を作しつつ佛を罵らば 無量の重き罪を獲ん 其れ是の法華経を 読誦じ持つこと有らん者は 須臾も悪言を加へなば
 其の罪復彼に過らむ 人有りて佛道を求めつ 而ち一劫の中に於て合掌して我が前に在りて 無数の偈を以て讃めむ 是の佛を讃むるが由故に 無量の功徳を得ん 経を持つ者をば歎美へなば 其の福復彼に過らん 八十億の劫に於て 最も妙なる色声と及び香味触とを以て 経を持つ者を供養せよ 如是に供養し已りて 若し須臾も聞くことを得ば 則ち應に自ら欣慶ふべし 我今ぞ大じき利を獲たると 薬王よ今汝に告げむ 我が所説る諸の経あり 而も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり。』
斯様に其の上品の師と下品の師の功徳をお説きになり、義に於ては重きはいづれにあるかといふと、佛の滅後に於いて、真に「法華経」を説く者は、其の先がけとなる人は菩薩の化現だといふことを特に重く説かれて居ります。
 『諸の能く妙法華経を 受持すること有らん者は 清浄の土を捨てて 衆を愍むが故に此に生るるなり 当に知るべし如是の人は 生れんと欲する所に自在なれば 能く此の悪世に於て 広く無上の法を説くなり』
これは能く「法華経」を説く、唯説くのではない。『諸の能く妙法華経を 受持つことあらん者』といふことは、その経文の深い道理を能く知り、そして佛の心をそのまま受けつぐことをいふのです。その能く説く人は唯の人ではないといふことを、偈の方では複説せられてあります。



 4 所持の法を歎じ弘経の方軌を示す            


 それから次に、法を弘める師の方を先に説かれましたから、今度は持たれ弘められる法の方を讃せられるのであります。何故それでは「法華経」を受持ちて説くことが、そんなに功徳があるのかといひますと、それは「法華経」そのものがタダの経典ではない、「法華経」そのものが絶対の佛様の御心なので、それで「法華経」を持つ功徳があるのであります、さういふことをお示しになられましたのが『所持の法を歎じ、弘経の方軌を示す』であります。
 さういふ『法華経』でありますから、矢張りこれを弘めるにも、先の一偈一句を説き、一人の為に若しくは多くの為にでも説けば功深く福重しといふ、さういふ風に讃められたのは、其の法が非常に大切なものであるからです、同時にその大切な法でありますからタダの弘め方ではいけない、それを説くについてもチャンと規則があります、その規則をお説きになるのがこれから先ですが、先ず教法即ち法華経をお勧めになります。



 5 三説超過                                   


 『爾の時、佛、復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、我が説く所の経典は,無量千萬億にして、已に説きしもの、今説きしもの、当に説かんとするもの』
佛様が一代佛教の中に此のような三つの教えをあげられましたら、外にはもうどんな教えもなくなってしまひます,已に説きしものは、所謂法華経以前の四十余年の諸経であって、前の「無量義経」の時に
 『四十余年には未だ真実を顕さず』
といはれました、その四十余年の経を『已説の経』といひます、次に『今説の経』といふは、今説いたばかりの経で、それは「無量義経」であります、「無量義経」には四十余年の経は方便である、その方便に説いた無量の義は何から出るものであるか、それは一法から出るものであるとまでは明かされましたが、其の一法は何であるかといふことは明かされない、その「無量義経」を今説きしものといはれました、当に説かんとするもの、即ち『当説の経』、それは「涅槃経」でありまして、これで釈尊が五十余年お説きになりましたお経は全部盡してしまってあります。 
 『而も其の中に於て此の法華経は、最も信じ難く解り難し』
何故信じ難く解し難いのかといひますと、此の已・今・当の説は、多いか少ないかはあるけれども、皆衆生の心におつき合ひした方便がはいって居ります、即ち随他意の経である、それで信じ易く解し易い、それは衆生の心に近いところがあるからです、しかし「法華経」は随自意で、佛様の意を説いてある、衆生の心にお付き合いをしない、佛様だけの心であります、そこで衆生が何うしても自分の心に執着をもって居る以上は信じ難く解し難い、信じ難く解し難いといふものが、それが本当の佛の正味なのです、だからそのことを、
 『已に説きしもの、今説きしもの、当に説かんとするもの。而も其の中に於て、此の法華経は最も信じ難く解し難し。薬王よ、此の経は是れ諸佛の秘要りませる蔵なれば、分布して妄りに人に授與ふべからず。諸の佛世尊の守護したまふ所なり、昔より已来未だ曾て顕に説かざるなり、而も此の経は如来の現在にすら、猶ほ怨嫉多し、況んや滅度の後をや』
さういふわけだから此の「法華経」は、如来が現在して佛自らお説きになる、其の聞く者は佛の弟子、長い間佛の教えを承はった弟子だ、それでも此の前いひましたやうに「方便品」をいよいよ説かうとすると、五千人の大衆はずっと立ってお辞儀をして行ってしまった、その人々は佛様の前に突然やって来たものではない、四十餘年の間だ佛様に従って、そして佛様の教を受けて来た人間です、その五千人の人間が、いよいよこれから佛が説かうとすると、ずっと起って行ってしまった、これは第一の怨嫉、「怨嫉」といふことはどういふことだいふと、
 『障未だ除かざるを怨と為す』
佛様の御心をそのまま受けるといふのに、自分の心の中の障り、それは煩悩・・・・・・即ち随他意の方に執着して居る煩悩の除かれない人間、さういふ人間が法華経に怨となる、そこで
 『聞くことを楽は不るを嫉と為す』
そんなことは聞きたくない、聞くのはイヤだ、それが嫉です、怨嫉というのは、その人間が自分の我見妄想に執着して居る、佛の教を受けても、既に承はったこと、行ったことでもうこの上はないと自己の心といふものを守って居る人間です、佛が何と言っても俺は俺だといふ、さういふ心が少しでもある人間は、「法華経」を聞くことが出来ない、何となれば「法華経」は衆生が何と思はうが構わない、普通のいい加減のことならば方便しておくけれども、佛様がいよいよおかくれになる時が近い、此の時に本当のことをいっておかなければ、永久に本当のことを顕す時がなくなる、だから相手の人間が何う思はうが構はない、構はないで随自意を説くから、自己量見のある人間は何うしても聞かない、如来の現在に、お説きになるのが佛で、聞く者が四十餘年佛に随って居た人間であるといふのですら、怨嫉があった、まして況わんや佛がおかくれになった後の世になれば、聞くことを楽わざる者が沢山あって、「法華経」を説く時は反対する者が多いに相違ない、『而も此経は如来の現在すら猶ほ怨嫉多し、況わんや滅度の後をや』であります。
 そこでこれまでが法を歎められたので、これから後は人に約して此の経を歎ぜられます、以上の約法の歎は、則ち三説格量の歎、如来の一代の中「法華経」の外はないといふことが確定した、したがって、怨嫉がある、在世でもそうだ、ましては滅後をや。其の位の経であるから、其の経を修行する者の功徳もすぐれて居る、それを説かれました。


 6 法尊きが故に人尊し                          


 其の法がそれ程佛の真実の法であるから、其の法を修行し、受持つものが尊くなる。そこで今度は人を歎めて
 『薬王よ 当に知るべし如来の滅したまへる後、其れ能く書持ち読誦んじ、供養して、他人の為めに説かん者をば如来は則ち為めに衣を以て之を覆ひたまふべし。又他方の現在の諸佛に護り念はるることを為む。』
釈迦牟尼佛が此の「法華経」を説く者をば、衣を以て覆ひ給ふばかりではない、他方則ち十方の現在佛も皆これを護念するであらう、
 『是の人大じき信力、及び志願力、諸の善根力有らん。当に知るべし、是の人は如来と共に宿りつ、則ち如来の手もて其の頭を摩でられ為む』
「和訳法華経」の此の下の註に書いておきましたが、 『大信力』といふことは何ういうこだといふと、『一體三寶』を信じることで、三寶とは佛寶・法寶・僧寶、その三寶が一體だといふのは、佛は沢山法をお説きになりました。それは『応病與薬』といって、病に応じて薬を與へる、病人によっていろいろな薬を與へる、かういふ病人にへえた薬と、お医者様たる佛の心とは同じものではないのです、さういふ法の薬は、ただ相手の病に応じて與へられたので、病気でないお医者様はそのやうな薬は服まないのでただ其の病人だけが服む、腹痛の薬は腹の痛い者でけが服む、応病與薬の法は、法と佛と一つではなく、別體です。それから応病與薬の法を修行して居る僧、それも矢っ張り佛と一緒ではなく別體なのです、然るに此の「法華経」に説かるる法は何であるか、佛の心で、佛と法と一緒なのです、佛の最後の心、その心が「法華経」なのです。 若し「法華経」といふものを除ったならば、佛といふものはなくなります、則ち佛の心の正味です、さうすると佛と法は一緒になります、それでは此の僧は何であるかといひますと、佛の説かれる「法華経」以外は佛の心ではない、四十餘年未顕真実である、正直に方便を捨てて但無上道を説く、二も無く、三も無し、此の外に何もないのだ、斯ういふやうに其の通りに信じその通りに説く僧が「法華経」を本当に持つ僧だとなります、だから法は佛の心たる、随自意の法、その佛の心の通りにどんなに怨嫉が来ても止めないで説くという僧でなければ、「法華経」の僧とは申されません、さうすると法と佛と僧が一つものになります、これを『一體三寶』といふ、此の『一體三寶』といふものは「法華経」において究竟するのです。
 其の『一體三寶』といふことを信じる、その一體三寶の「法華経」といふものが、それが『真実中道』といふ
それを信じるというのが『大信力』なのであります。
 『是の人大じき信力、及び志願力・・・・・・・・・・』
この『志願力』は四弘誓願です,衆生の無辺なる誓願して度せん、法門の無尽なる誓願して知らん、煩悩の無数なる誓願して断ぜん、佛道の無上なる誓願して成ぜんという四弘誓願をもって居るのが『大志願力』、それから佛の真実中道の諸法実相、その諸法実相を以て自分の功徳とする、それが『大善根力』、さういふものを有って居るのだ、それは佛様の事を以て自分の事にして居る、さういふことになるのですから、是の人は如来と共に何時でも宿って居る、如来の御手もて常に頭を摩でられて居る、所謂佛の本当の子供である、後の宝塔品に『是真佛子』とありますが、佛の本当の子である、これが此の「法華経」を信ずる人を歎ぜられたので、『法尊きが故に人尊し』であります。



 7 人尊きが故に處尊し                           


 そこで今度は、此の「法華経」を修行して居る場所、その場所が尊い。
 『薬王よ、在々處々にも、若は説き若は読み、若は誦んじ、若は書き、若は経巻の所在さむ處には、皆應に七寶の塔を起て、極めて高く広く厳しく飾らしむべし、復舎利を安んずることを須いざれ。所以者何となれば此の中には已に如来の全身有す。此の塔をば應に一切の華、香、瓔珞、繪蓋、憧旛、伎楽、歌頌を以て、供養し恭敬し、尊び重め讃歎ふべし。若し人有りて此の塔を見ることを得て礼拝し供養せば、当に知るべし、是の等は皆当に阿耨多羅三藐三菩提に近づきぬるなり』
以上が處の讃歎であります、此の「法華経」の修行せられて居る處があったならば、それは其の場所そのものが尊い處であります。そこには皆塔を立てて供養するがいい、佛教で塔を立てるという所は、どんな所に塔を立てるかといふと、「四處道場」という所に立てます、『四處道場』とは、佛様のお生まれになった所、佛様のお覚りをお得になったところ、それから佛様が御説法をせられた所、佛様がおかくれになった所、即ち生處・得道・転法輪・入涅槃のところ、これを『四處道場』といふ、斯ういふ所には皆塔を起てて供養するようにといふのが、佛教の塔を起てる原則であります、さういふ所にはみんな佛の御舎利、御身体のお骨・・・・・・・佛様を火葬し奉ったそのお骨の部分をいただいて、塔の中に入れて拝む、それが佛教での定った規則であります、ところが此の「法華経」を修行して居るところであるならば、佛様がお生れになった所でなくてもよろしい、此の法華経の行ぜられるところは佛様の肉身がお生まれになった所と同じところだ、佛様といふものは「法華経」を覚られたから即ち佛である。そこで「法華経」を修行する所があったならば、佛のお生まれになったところと違はない、それは又佛がお覚りをお得になった所とも変わらない、又佛様が法を説いて居られた所と変らない、又佛様が永久に安穏になられた涅槃の所とも違はない。
 そこで佛様の舎利というのに二つあるといふことになります。生身の舎利と法身の舎利とです、『生身の舎利』といふのは佛様の肉体のお骨です、肉体の御舎利を『生身の舎利』といひます、その『生身の舎利』をここにおくことはいらない、何故『生身の舎利』は必要がないか、それは『法身の舎利』がそこにおいでになるからである、法身とは佛の法のお身體です、肉體のお身體は佛様の実體ではない、佛の御覚が佛の実體である、其の佛の実體の法のお身體がそこにおいでになるから、『法身の舎利』がおいでになるから、『復た舎利を安んずることを須いず』です、そこでその『法身の舎利』というものも二つあります、それを『砕身の舎』と『全身の舎利』といひます、『砕身の舎利』といふのは佛のお覚りでありますけれども、其のお覚りのカケラなのです、本当の全體の覚りではない、大きい小さいはあってもお覚りの全體でなくて、その砕かれたカケラで、即ち「法華経」以外の経々であります、それは随他意の経である、けれども衆生にばかりお付合ひしたものではなく、そこにどれだけか真実がはいって居ることは勿論で、だから『砕身』であります、今の「法華経」は『全身の舎利』、佛様のお覚りの全体です。それを『全身の舎利』といふ、それですから其のワケをかう仰しやってあります。
 『復舎利を安んずることを須いざれ、所以者何となれば、此の中には已に如来の全身有す』
此の『如来』といふのは佛様のお覚りをいはれて居るので、其の佛様の法身の全體がまします、それだから其の場所を供養せよ、そして其の場所の塔を見て礼拝し供養したならば、それによって阿耨多羅三藐三菩提の佛様の覚に近づくことが出来るのである。
 以上が『約處の歎』であります。
 それから『約因の歎』で
 『薬王よ、多く人有りて、在家にてもあれ出家にてもあれ、菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞き、読誦んじ、書持ち供養すること得ること能はざらん者は、当に知るべし是の人は未だ善に菩薩の道を行ぜざるなり、若し是の経典を聞くことを得ること有らむ者は、乃ち能く善に菩薩の道を行ずるなり』
「法華経」以外の他の経を聞き、他の経を修行する、さういふならばそれは未だ佛様になる本当の原因の修行をしたものではない、若し此の「法華経」を見たり聞いたりすることが出来たならば、佛様の直接の因、佛になる直接の原因を修行しているのである、これは『約因の歎』で、、次に『約果の歎』
 『其れ衆生の、佛道を求むる者ありて、是の法華経を若しは見、若しは聞きつ、聞き已りて信じ解り受持ちなば、当に知るべし、是の人は、阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たるなり』
これは『近果を明す』、果の近いことを明す、佛様にもう近くなるのだということを喜びなさい。



 8 須水の譬                                  


 『薬王よ、譬えば人有りて、渇き乏し、水を須いんとして彼の高原に於て穿鑿ちて、之を求むるに、猶ほ乾ける土を見れば、水尚お遠きことを知り、功を施して已まず、転た濕へる土を見て、遂に漸く泥に至りぬれば其の心決定に水の必ず近からんことを知らんが如し』
高き原に居て土を掘って居る、乾いた土ばかりであったら水は未だ遠い、濕れる土を見更に泥まで来た、そこまで来たら水は近い、それと同じく「法華経」に近づくことが出来なかったならば、乾ける土を見て居るのである、若し「法華経」に近づくことが出来たならば泥を見たのである、佛の水はすぐ近いのである、これが譬を開かれたので、次は譬に合される、
 『菩薩も、復是の如し、若し是の法華経を未だ聞かず、未だ解らず、未だ修習ふこと能はずば、当に知るべし、是の人は阿耨多羅三藐三菩提を去ること尚ほ遠し、若し、聞き、解り、思惟り、修習ふことを得ば、必ず阿耨多羅三藐三菩提に近づくことを得たりと知れ』
そこで今度は、何うしてそんな風に「法華経」をば見聞き、信じ解り、受持つということが佛様に近いことになるのかと、近い所以を明かすから『近きを釈す』、
 『所以者何となれば、一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、皆此の経に属すればなり』
どんな菩薩であっても此の「法華経」を経ないで佛になることは出来ない、一切の菩薩が阿耨多羅三藐三菩提の覚りに入るのは皆此の経にある、此の外に佛になる近道は一つもない、
 『此の経は方便の門を開きて、真実の相を示す』
開方便門
示真実相
妙法蓮華経というものは能開の法で、それ以外のすべての経は所開の法なのです、方便であって佛の心をばかくしてある其の門、此の佛の心をかくしたのを能く開くのが「法華経」であります、「法華経」に開かれて初めて四十餘年の間説かれたところの経は、佛様の本当の心でなくて、衆生の心に付き合って佛の心を少しづつ説いてあるものだ、其の佛の心を説いたところは、『法華経』の片割れだ、所謂砕身の舎利だ、けれども大部分は衆生の迷が一緒にはいって居る、だからそのままでは危険が伴ふ、此の「法華経」の能開の手を経ないで所開ばかりでやって居ると、所開の法には間違ったことがはいって居る、で、「法華経」以前の経も「法華経」によって初めて役に立つやうになる、それは應病與薬の薬だ、その薬はまた病のないもの、または病の異ふものが、その薬を服めばどれだけか毒になる、應病與薬といふやうな薬は、その病気がなくなってしまって、服めば却って毒になる、それと同じで、應病與薬の方便の門は開かれねばなりませぬ。
 それから『真実の相を示す』とある『示す』は、何を示されるのか。



 9 能示は何ぞ                                   


 能く示す、能く示すものは何であるか、それは「法華経」である、諸法実相という真実の宇宙の相、真実の人間の相、宇宙人生の真実の相を能く示すのが「法華経」である、それでは所示されるものは何であるか、所示されるものは『本有の法』である、『本有の法』といふことは宇宙固有の真理、宇宙固有の功徳ある真理それが『本有の法』である、其の『本有の法』を「法華経」によって示す、それが『開方便門 示真実相』ということで、此の「法華経」はさういふ能力のある経であるから、そこでさういふ功徳がある。
 『是の法華経の蔵は深く固く幽けて遠にして、人の能く到ること無し』
誰も、どんな菩薩も、補處の菩薩といふやうな、すぐ次に佛になる菩薩でも、菩薩の自分の心だけでは到ることは出来ない。
 『人の能く到ること無し、今佛は菩薩を教化し、成就せしめんとてこそ、而ち為に開き示したまふなり』
今度は『非を撰ぶ』、それだから此の「法華経」に従わない者は成佛することは出来ない、
 『薬王よ、若し菩薩ありて、是の法華経を聞きて驚き疑い怖れ畏からんものは、当に知るべし是を新発意の菩薩と為く』
未ださういふ菩薩は新発意の一年生だ。
 『若し声聞の人、是の経を聞きて驚き疑ひ怖れ畏からんものは、当に知るべし。是を増上慢の者と為くるなり』
『増上慢』というのは、未だ得ざるを得たりと思ひ、佛の真実を未だいただいて居ないのに、もう俺は、涅槃の法を得ていると思って居る、さういふ者が「増上慢」である、これが『非を撰ぶ』であります。



 10 方軌を示す (三軌)                             


 其の次は、それ位「法華経」といふものは佛の真実の心であって、大切なものであるから、その「法華経」を修行し、法を自ら修行し又其の法によって人に示す自行化他の法師となるには、必ず『方軌』がなければならぬ。其の修行の方法がなければならぬ、其の修行法をこれからお説きになるので先ず方法を示される。
 『薬王よ、若し善男子善女人有りて、如来の滅したまへる後四衆の為めに是の法華経を説かんと欲ふ者は、云何にしてか應に説くべき』
どんな風にして説くべきであるか、
 『是の善男子善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著け、如来の座に坐しつつ、爾して乃し應に四衆の為めに広く斯の経を説くべし』
先刻の所にもありましたやうに、此の「法華経」を説くのは、佛の所遣となって佛の事を行うものだ、だから如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して説かなければならない。
 『如来の室とは、一切の衆生の中の大慈悲の心是なり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり。如来の大慈悲を室とし、如来の柔和忍辱の心を衣とし、如来の座を座とせよ、如来の座とは一切法空是れなり。』
『一切法空』というのは、怨嫉のようなことが来ても、一切は諸法実相の意味からいったならば、それは実體のなきものである、皆『一切空』である、これは彼の迷いの心によって、迷ったことを並べて居るのだから、いくら沢山の悪口をいっても、毛筋ばかりも佛の心を悩ますことは出来ない、一切法空である、そのかはり喜ばしいことを持って来ても其の通りで、日蓮聖人の御書の中に
 『苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給へ』
とあります、苦を苦と悟り、楽を楽と開き、
 『世間の留難来たるともとりあへ給うべからず、賢人聖人も此事はのがれず』
世間の難しいことが出て来ても、ビクともするな、賢人聖人といはれた人でも、お釈迦様でも九横の大難がある、孔子は支那の聖人で数千年の間にもない集大成した聖人だといはれましたが、諸国を廻って居られて、或は桓タイ(という人)のために殺されようとし、或は汲ニいふ處でも、生命の危機を感ぜられました。賢人も聖人も此の事はのがれず、世間の留難来たるともとりあへ給ふべからず、そんなことは当たり前だ、そんなことは当然だと思って居れば、これには敵はない、災難がイヤだと思って居るから追っかけて来ます、そんなことは当たり前だと観念してしまへば、こんなところに来てもしょうがないといふので災難の方から止めてしまふ、それは一切法空です。
 大慈悲の心・・・・・・・如来の室
 柔和忍辱の心・・・・・如来の衣
 一切法空・・・・・・・・・如来の座



 11 不懈怠の心                                 


その三軌の中に安住して
 『然る後にこそ、不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為めに、広く是の法華経を説くべけれ』
『不懈怠の心』、これが又必要で、いくら三軌に住しても懈怠があったら何にもなりません、不懈怠の心、常に精進む心、常に動いて居る心、「薬草喩品」の時にもありましたやうに、『去来坐立終不疲厭』去るにも来るにも坐るにも立つにも、常に疲れ厭くこと無し。オギャアと生まれて来たら人間は働くように出来て居ます。働くのが本当なので、働くために生まれてきたのです、働くことは楽しみでなければなりません、働くために人間は寝るのです、働くやうに元気を回復するために寝るのです、労働問題などは働くことを厭がるから起きます、資本家はぢっとしていて沢山利益を得たいと思ふから問題が起ります、資本家も労働者も『去来坐立終不疲厭』であり、諸法空に坐して、資本家が利益を独占せず、大慈悲心に住し、柔和忍辱の衣を着ていれば、争議の方で止めてしまひますし、労働者も、その心になっていれば争議も必ず好結果を得ます。問題は何も起こりません。
 不懈怠の心、一切不懈怠というところから出て来なければならぬ、そこで大慈悲を以て室となし、柔和忍辱を以て衣となし、一切法空を以て坐となす、そして不懈怠の心を以て広く此の法を説くべし、『此の法』といったならば必ずお経の文句ばかりを説くことが、此の法ではありません。世間の一切の仕事も此の「法華経」からいへばみんな此の法なのです、もう少し先の方の「法師功徳品」というところに行きますと
 『俗間経書 治世語言 資生業等 皆順正法』
とあります。諸の所説の法、科学でも哲学でも、或いは倫理道徳、或いは世を治める語、そんなものも乃至資生業等、経済問題でも皆正法に順ふ、正法とは此の「法華経」です、だから大臣などといふやうな人でも、大慈悲の室に入り、柔和忍辱の衣を着、諸法空の座に坐したならば、議会の答弁であんなにドギマギすることはない筈です、労働問題でも何でも皆そうです、それが「法華経」なのです、以上は即ち『弘経の方法』を示されたのであります。



 12 則遣変化人                                 


 そこで次には功徳利益であります、そのようにして法を説いたならばどうなる。
 『薬王よ、我餘国に於て、化人を遣はして、其が為めに聴法の衆を集めしめん』
さういふ風に法を正しく説き出したならば、佛は化の人・・・・・・変化の人、その変化の人を遣わして先づ聴かしめる。
 『亦化の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を遣わして、其の説法を聴かしめん』
坊さん、尼さん、男、女の四衆を遣わして、其の説法を聴かしめる、
 『是の諸の化人は、法を聞きて信じ受け、随順して逆はじ』
日蓮聖人が『念仏無間禅天魔 真言亡国律国賊』というような、あの甚だしい、当時のあらゆる宗教を皆否定するようなことを仰しやった、清澄で最初それをお説きになると、東條左衛門尉景信は殺そうとした。そこで東條景信に殺されてしまったら化人を遣はさないことになりますが、そこに浄顕・義浄といふやうな人達があって、日蓮聖人をかばって他所に連れて行ってしまった、それから鎌倉においでになって辻説法をされましたが、その直前に、成辯という人が叡山から出てきて弟子になった、お弟子ができたから、俺はいよいよ大折伏をやるが、俺が殺されてしまうような時には後陣を承はってやれ、承知しましたとなった、そこで小町の辻にお立ちになった、石瓦を投げる者もあったが、富木殿とか太田殿とか四條殿とかいうような相当位置の武士達が出てきて檀方となりました、当時の宗教を皆否定されましたが、その否定された宗からさういふ者が出て来た、所謂化人を遣はされたのです、これは四衆で、次は八部衆、
 『我時に広く天・龍・鬼神・乾闥婆・阿修羅等を遣はして、其の説法を聴かしめむ』
日蓮聖人の例でいひますれば、聖人の一期の御行事を六老僧の日向といふ方が書かれたものによると、朝お起きになるとお日様にお経をあげられる、夜には月にお経をあげられたなどとあります、あの龍ノ口の時の光り物や、依智の星下りといったような不思議の奇跡やなどは、この経文にかなっていることで、また聖人は、文永の蒙古の来襲を預言せられるのに
 『天の御気色いかり少なからず、急に見えて候、よも今年はすごし候はじ』
といはれました。これは佐渡の国の土民達が、文永十一年正月二十四日に日輪が二つ並んだと見た気象変をいはれたので、それから出たお言葉なのです。天の神・・・・・天象などといふものが、皆聖人の御化導を助けて居るのです。
 次は佛身を見る。
 『我異国に在りと雖、時々に法を説く者をして、我身を見ることを得しめん。若し此の経に於て、句逗を忘れ失らば、我れ還りて為めに説き、具足することを得しめん』
大聖人は佐渡の塚原の雪中で、軒は七尺雪は一丈といふやうな所においでになっても、釈迦牟尼佛が衣を以て覆い給うて居られるという御確信をもって居られました、だから『只今宝塔品の心を得たり』と仰せになられています、『宝塔品の心』というのは六難九易ということの実行で、その六難九易といふことは、「宝塔品」では多宝如来が法華経を証明し、十方分身の佛が出て来てまたこれを証明した、法華経は皆是れ真実なりと証明した、そして此の経を末代に説くのはむずかしい。それを六難九易ということで喩へられてあります。その証明せられ喩えられた如くあの佐渡においでになって居る時に、日蓮聖人の御身體それ自身の全體をお経が皆証明して居るのです、聖人の御行動を三佛が豫めこれを証明して居られることになったのです。そこで『只今宝塔品の心を得たり』です。あの「種々御振舞御書」に、そのことがはっきりお書きになってあります、それが『佛身を見る』である。

 以上が「法師品」の大要であります。これから次のところは皆偈を以て再びくり返されたのであります。
 『爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲し、而て偈を説きて言はく、
諸の懈怠を捨てんと欲はば、應当に此の経を聴け』
「法華経」は勤勉の経である、勤勉ということが、一ばんの善となるのであります。
 『是の経は聞くことを得難し、信じ受くる者亦難し、人の渇きて水を須めんとて、高き原を穿鑿つに、猶ほ乾燥ける土を見ては、水を去ること尚ほ遠しと知り、漸く濕へる泥土を見ては、決定に水の近づきぬと知るが如し、薬王よ汝当に知るべし、如是の諸の人等は、法華経を聞かずんば、佛智を去ること甚も遠し、若し是の深き経の、声聞の法を決き了れるぞ、是諸経の王なるを聞き、聞き已りて諦かに思惟らむ、当に知るべし此人等は、佛の智慧に近づきぬるなり。若し人此の経を説かんには、應に如来の室に入り、如来の衣を着、而ち如来の座に坐しつ、衆に處りて畏るる所無く、広く為に分別し説くべし、大慈悲を室と為し、柔和忍辱を衣とし、諸法の空を座とは為す、此に處て為めに法を説け、若し此の経を説かん時、人有りて悪口し罵り、刀杖瓦石などを加ふとも、佛を念ふが故に應に忍ぶべし、我千萬億の土に、浄き堅固の身を現し、無量億の劫に於て、衆生の為に法を説く、若し我が滅度の後、能く此の経を説かん者には、我化の四生の、比丘、比丘尼及び清信の士女を遣して、法師を供養せしめ、諸の衆生を引導き、之を集めて法を聴かしめん、若し人悪に刀杖及び瓦石などを加へんとせば、則ち変化の人を遣はして、之が為めに衛護と作さん、若し法を説くの人独り空閑き處に在り、寂寞として人の声無きに、此の経典を讀誦んじなば、我爾時為めに、清浄き光明の身を現し、若し章句を忘失なはば、為に説きて通利らしめん、若し人是の徳を具へて、或は四衆の為に説き、空しき處にして経を讀誦んじなば、皆我が身を見ることを得しめむ、若し人空閑に在らば、我天龍王夜叉、鬼神等を遣はして、為に聴法の衆と作さん、是の人樂ひて法を説き、分別して障礙無からむ、諸佛の護念ひたまふが故に、能く大衆をして喜ばしめむ、若し法師に親近かば、速かに菩薩の道を得ん、是の師に随ひ順ひて学ばば、恒沙の佛を見たてまつることを得ん』
真に「法華経」を説く人、天台大師、日蓮聖人の如き人に親近いたならば、速かに菩薩の道を得、恒沙の佛を見たてまつるを得るのです。

以上が此の品の大綱ですが、別にプリントに要文をあげておきました。


 13 要 文


 『一偈一句をも聞いて、一念だに随喜せん者は、我亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く』
これは先刻申しましたやうに、一偈一句といふことは最少分、日蓮聖人は此の一偈一句といふのは題目だと仰せられました、題目は妙法蓮華経といふ一句です。それを一念だも、一度信心が確定すればよい、決心すればよい、「唱法華題目抄」といふ御書には、南無妙法蓮華経とただ一ぺん唱へん者も成佛すべきかと問はれた時に、その問に向っての日蓮聖人の答に、ただ一ぺんで成佛する、一ぺんで成佛する、一ぺんで成佛するといふのは餘り易すぎはしないか、といふに、本当は一ぺんでも成佛するようでなければ深妙の法でないのです。一偈一句、一念も随喜ばん者はである、それでは南無妙法蓮華経と度々いふのは何ういふわけだ、といふと、それは一ぺんで成佛するのを繰返すに過ぎません。
それから

  『是の人は即ち如来の使なり、如来の所遣として、如来の事を行ずるなり』
これは凡夫が此の「法華経」を修行し、仮に私がここで諸君のために説いて居る、諸君がそれを聞いてどれだけか感じたところを、他人の為めにそれを説くとする、さういふことは凡夫がやって居るのではない、ここに書かれて居るように、是の人は即ち如来の使いである、如来の所遣として如来の事を行じて居るのだ、自分勝手なことをいって居るのではない、佛様の仰しやった通りを伝へて居るのだ、さういふ風に成程と思った結果さうなったのだから、佛様の矢っ張り御命令によって遣はされて居るのだ、そして佛様の事をお手伝ひして居るのだ、其の間は佛様の代理者になって居るのだ、お経文には決して虚は書いていない、その通りだ。
 『須臾も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得ん』
『須臾も之を聞かば』といふことはこれは最上の信根を持っている人をいはれたもので、最上の信根を有っている人ならば、一寸でもそれを聞いたならば、成程といってそれでもう卒業するのです。如何となればさういふ最上の信根の人は、考へる必要がないからです、信じればよい、信の当處に命を取りかへてしまふからです。信の一字、所謂信念受持といふことで、信といふことは須臾で出来ることです。それから
 『清浄の土を捨てて、衆を愍むが故に此に生るるなり、当に知るべし是の人は、生ぜんと欲する所に自在なり』
これは日蓮聖人、天台大師などといふ人のことをいはれたのです。恩師が此の『生ぜんと欲する所に自在なり』といふ語を、日蓮聖人が日本の柱となられたといふことは、偶日本人として日本に生れたからそれで日本を愛する、それで日本々々と日蓮聖人がいはれたのだと、多くは考へています、ところが此のお経文だとさうではありません。『生ぜんと欲する所に自在なり』とあります。本化上行菩薩は注文をして日本といふ所に生れられたとなるのであります。
 『当に知るべし是の如き人は、生ぜんと欲する所に自在なり』
世界中の中で、日本が本化上行菩薩の出るのに、一ばん必要な所であるから、生ぜんと欲する所に自在なる聖應の力をもって日本に生れられたといふ解釈になります。そこに日本の国體との先天的因縁が出て参るのです。
 それから
 『而も此経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや』
 『在家出家行菩薩道』
「法華経」では、若し人有ってと、人間である限りは、どんな智慧のある者も、智慧のない者も、男も女もそんなことはちっとも問題にしない、『若し人有りて、妙法華経の乃至一偈一句をも聞いて、一念だに随ぎ喜ばん者は』であります、人である限りは坊さんでも俗人でもよい、『在家出家行菩薩道』である。
 それから

 『方便の門を開いて真実の相を示す』
 『大慈悲を室と為し、柔和忍辱を衣とし、諸法空の座と為す、此に處て為に法を説け』
 『若し此の経を説かん時、人有りて悪口し罵り、刀杖瓦石を加ふとも、佛を念ふが故に忍ぶべし』
『開方便門』等は、此の経の心、室衣座の三軌は弘教の規、その中忍ぶことが第一の肝要で、忍べば刀杖瓦石の方が遠慮して行くのです。以上「法師品」の大体は講じました。次は「見宝塔品第十一」ですが、一寸休憩致します。


見宝塔品第十一                                       


 1 証前起後の二重の宝塔

 次は「妙法蓮華経見宝塔品第十一」であります、「見宝塔品」と申しますのは何ういふことを説かれてあるのかといひますと、此の「法華経」を弘める功徳の大なることを説いて、そして末代の流通を促すことにあるのでありまして、それについて「証前起後二重の宝塔」といふことがあります。
 すなわち此の宝塔が出るといふことは
「前の迹門を證し、後の本門を起こす」
の二つの意味があるといふのです。
 「證前」といふのは前の迹門を證し・・・・・「證」というのは証明するということです。「起後」というのは後の本門を起こすこと。それを『證前起後の二重の宝塔』といひますが、此の「宝塔品」といふものがあって、始めて「法華経」という経が本門と迹門との連絡がつくのです。これまでのところではお釈迦様が『四十餘年には未だ真実を顕さず』と「無量義経」にいはれて、そしていよいよこれが真実だといって二乗作佛を説かれました、そして其の結びに先刻の「法師品」を説かれて、此の「法華経」は難信難解なり、是即ち佛の心ぞとお説きになりましたけれども、これは釈迦牟尼佛御自身が御自身のことを説かれただけです、然るに大乗経といふものは十方の佛といふものが説かれてあります、お釈迦様御自身が娑婆世界の衆生を集めて、そして五十年教化して来られた、その衆生を集めてこれまで説いたのは方便で、これが本当なのだと、さう説かれました、それからお釈迦様が説かれただけでなしに、此の『法華経』は一ばん最初に、彼の土の六瑞、此の土の六瑞を見て弥勒菩薩が疑った、それに対して文殊師利菩薩が、日月燈明佛のはじめから斯ういふことのあった時には「法華経」を説かれたのである、それから又「方便品」に於ては、総じての諸佛、過去の佛、現在の佛、未来の佛、及び我釈迦牟尼佛、この一切の佛が無量義経を説いた後に「法華経」を説くのだといはれましたけれども、それは釈迦牟尼佛が自分の説経を聞いている人間だけに説かれて居るのであります、これの例へを挙げますと、「阿弥陀経」といふお経があります、御承知の通りそれには阿弥陀仏が、非常に慈悲深く四十八願を立てて、其の阿弥陀経の名号を唱えただけでチャット極楽浄土へ引き取ってくれると仰せになっています、そして此の「阿弥陀経」が佛様の結構な経だといふことは六方の佛があって皆舌を三千世界につけて証明して居る。斯ういはれて居りますけれども、それはお釈迦様がさういはれただけです、お釈迦様の会座にいる人間・・・・・聞いて居る人間は左様でございますか、と承はってをりましても、その証明するという六方の佛は一向出て参っていません。ところが此の「法華経」にかぎって、此の「宝塔品」から変わったことが出て来ます、
 それで、前の迹門を證し、後の本門を起こす、というのが「宝塔品」の大體の意味なのであります。


 2 宝塔の涌現                        


 先ず宝塔の現はれるところから始まります。
 『爾の時、佛の前に七宝の塔ありて、高さ五百由旬、縦と広とは二百五十由旬なり。地より涌出でて、空の中に住在りつ、種々の宝物をもて而も之を荘校めたり、五千の欄楯ありて、龕室千萬なり、無数の幢幡を以て、しき飾りと為しつつ、宝の瓔珞を垂れ、宝の鈴萬億もて、而ち其の上に懸く。四面より皆多摩羅跋栴檀の香を出して、世界に充満てり、其の諸の幡と蓋とは金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・真珠・マイヱなどの七宝を以て合せ成し、高きこと四天王の宮に至る。』
ここまでが塔の現はれたところです。
 『三十三天よりは、天の曼陀羅華をして宝塔に供養し、餘の諸の天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩ゴ羅伽・人・非人等の千萬億の衆は、一切の華香・瓔珞・旙蓋・伎楽を以て宝塔を供養しつ、恭敬し尊びめ・讃歎まつる。』
これが諸天の供養です。
 『爾の時、宝塔の中より大音声を出して、歎めて言はく、善い哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教
菩薩法・佛所護念の妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまふこと、是の如し是の如し、釈迦牟尼世尊の
説きたまふ所の如きは、皆是真実なり。』
とあって、五百由旬の宝塔がそこに現れました、そして其の宝塔が現はれると三十三天より華・香・瓔珞・旙蓋等のさまざまの物を以て供養しました、すると其の宝塔の中から何だか知らないが声が起こって
 『善い哉善い哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・佛所護念の妙法華経を以て、大衆の為に説きたまふこと、是の如し是の如し』
といって、『釈迦牟尼世尊所説の如きは皆是真実なり』と、これまでお説きになった「法華経」の、「序品」から「法師品」に至るまでのお説きになったところ、それは皆真実なりといって、塔の中から証明したのです、これが『前の迹門を證す』であります。


 3 「時衆驚疑」と「大楽説の問」                      


 其の次は『時衆驚疑』・・・・・時の衆驚き疑ふ、其の驚き疑ふのに、非常に喜ばしく感じたと共に疑ったのです。
 『爾の時、四衆、じき宝塔の空中に住在れるを見、又塔の中より出したまふ所の音声を聞きて皆法の喜びを得つ、未曾有とぞ怪しみつ』
驚き怪しんだ。
 『而ち座より起ちて、恭敬ひ合掌し、きて一面に住ひぬ』
以上が『時衆驚疑』であります。
それから次が『大樂説の問』です。
 『爾の時、菩薩摩訶薩ありて、大楽説と名く、一切世間の天人・阿修羅等の心の所疑を知り、而て佛に白して言さく、世尊よ、何の因縁を以て・・・・』
大體此の宝塔は何ういふ因縁の宝塔ですか、第一の出現を疑ふ、
 『此の宝塔ありて地より涌出で』
どうして地より涌き出たのですか。
 『又、其が中より是る音声を出しまふにや』
先ず塔がどうして、といふのに何のための塔なのですか、その塔が何うして地より湧き出たのですか、又塔の中から何うして声が出て證明をして居られるのか、一つ伺ひたいものですと、大楽説が三段に佛にお伺ひました。


 4 如来の答釈                                    


 そこで今度は佛のお答へに、先づ第一に地より湧き出でたことを答へられ、次にどうして此の塔があるかを答へられ、次にはどうして塔の中から讃語が出たのかを答へられるのであります。
 『爾の時、佛、大楽説菩薩に告げたまはく、此の宝塔の中には、如来の全身有します。乃往過去東方なる無量千萬億阿僧祇の世界に、国を宝淨と名けたる、彼の中に佛せり。号を多宝と曰ひき。其の佛、本、菩薩の道を行ぜし時、大じき誓願をしたまはく、若し我佛と成りて、滅度の後に、十方の国土に於て、法華経を説く處あらば、我が塔廟は、是の経を聴かんが為の故に、其の前に涌き現れつつ、為めに証明を作して讃めて善い哉と言はんと。彼の佛、成道し已りて滅度に臨みたまへる時、天人大衆の中に於いて、諸の比丘に告げたまはく、我が滅度の後、我が全き身を供養せんとはば應に一の大塔をつべしと。其の佛、神通願力を以て、十方の世界の在在處處に、若し法華経を説くこと有らば、彼の宝塔皆其の前に涌出でつ、全身塔の中に在して、讃めて善い哉善い哉とこそ言ふなれ。大樂説よ、今多宝如来の塔は、法華経を説くと聞きたまはむ故に、地より涌出でつ、讃めて、善い哉善い哉とは言へるなる』
以上が『如来の答釈』ですが、『為にめ証明を作して、讃めて善い哉と言はん』までが「出現」を説かれたので、それから『彼の佛、成道し已りて』より天人大衆の中に於て諸の比丘に告げて仰せに、俺が滅度したならば塔を起てなさいといふ、これが塔の因です。其の次に、ありとしあらゆる「法華経」を説く所があったならば、その塔が出て行って證するといふ。それが『歎言を答ふ』であります。
 これは一體どういふことを示したものかといひますと、此の多宝如来といふ佛様は、全身宝塔の中に居られます。そして説法をせられずにただ証明する佛です、それを証明佛といひます、「法華経」を説く所有らば我が塔は行ってこれを証明して、善哉善哉といふと、で此の多宝塔といふのは、これは宇宙そのもの、即ち諸法実相の象徴なのです、この宇宙はありとしあらゆる所、皆宝を以て埋められて居るところです、『諸法』といふのはありとしあらゆるもの、そのありとしあらゆるものは、実相からいったならば皆宝でないものはないのです、多宝如来は宇宙というものを象徴してあるのですが、その宇宙の真理を説きあらはす佛があったならば、そこえ行ってお前の説いて居る通りだと証明する、例へば電気という理がある、その電気の理を発見して電力を集めるようにしたならば、否でも応でも電力は集まって来ます。力にでもなれば光にでもなり熱にもなります。恰度それのやうに、宇宙の真理は妙法蓮華経として釈迦牟尼佛が説かれました、これは釈迦牟尼佛が説かれなくても、何處の佛が説いても、宇宙の真理たる妙法蓮華経を説けば、宇宙全體の代表たる多宝佛が出て来て、その通りその通りと証明する、そこでこれを『境佛』といふのです、境といふのはここでは宇宙の真理ということで、証明佛といふことはその通りだその通りと真理が出て来て・・・・・電気ならば電気がチャンと其の通りのことをやったならば、その通りだその通りといって電気はチャンと光って居る、電車が動くのもその通りじゃその通りじゃと動いて居る、善哉善哉と動いて居る、今は宇宙全體の一貫したる真理の本體を釈迦牟尼佛が説かれましたから、その真理の象徴たる多宝塔が出てきて証明せられたのです。


 
5 分身の遠集                                  


 今度は『分身の遠集』
 『是の時に、大楽説菩薩は、如来の神力を以ての故に、佛にしてさく』
本当をいったならば、大楽説菩薩の智慧ではそこまではいかないのですが、釈迦牟尼佛の神通力で、自らだまって居れなくなりました。当たり前にいったならば、多宝佛が出てきて善哉善哉といった、これは何だか知らないが、佛様が居て塔の中から今いはれたから、左様でございますかでお終ひであるかも知れませんが、ところが佛の神通力で自ら言はざるを得ないやうに仕向けられましたから、大楽説がもう一つ突っ込んでお伺い申しあげました。
 『是の時に、大楽説菩薩は、如来の神力を以ての故に、佛に白して言さく、世尊よ、我等願くは、此の佛に見えたてまつらんと欲すと』
真理の代表としての多宝如来が塔の中に居られる、それでは其の真理そのものにぶつかりたい、多宝如来にお目にかかりたい、これが『多宝を見んと請ふ』であります。
 『佛、大楽説菩薩摩訶薩に告げたまはく、是の多宝佛には深重の願有せり、若し我が宝塔の、法華経を聴かんが為の故に、諸佛の前に出でつる時、其れ我が身を以て、四衆に示さんと有欲んには、彼の佛の分身なる諸佛の、十方の世界に在して法を説きたまふものを、盡く還して一處に集めて、然る後に、我が身即ち出現れんのみと、大楽説よ、我が分身の諸佛の十方の世界に在りて法を説く者を、今應当に集むべしと。』
大楽説よ、お前は多宝佛のお顔を拝みたいといふが、此の多宝佛は非常に深重の願いがまします、若し証明に行かれた時に、其の十方の世界での衆生が俺の身体を見たいと思った時には、其の法を説いていらっしゃる佛様が、十方の身を現じて利益をあらはして居る分身佛を、みんな集めてしまはなければならぬ。集めてしまったならば其の時はじめて顔を見せる、斯ういふことをいって居られる!だから多宝如来の顔を見たいといふなら、俺の十方分身の佛を集めなければならぬ、これが『分身を集むるを要す』です。
 そこで
 『大樂説、佛に白して言さく、世尊よ、我等も亦、願くは世尊の分身の諸佛を見たてまつり、礼拝し供養したてまつらんと欲ふ』
とイヤそれは結構なことです、多宝如来だけ拝みたいと思ひましたが、釈迦牟尼世尊あなたの分身が十方においでになるといふならば、どうか十方においでになる貴方の分身の佛のお顔も一緒に拝ませて頂きたいどうかお集め願ひたいと、大樂説がお願ひしました、すると、
 『爾の時、佛、白毫の一の光を放ちませば、即ち東方なる五百萬億那由佗恒河沙にべる国土の諸の佛を見まつる。彼の諸の国土は、皆頗梨を以て地と為し、寶の樹寶の衣以て荘厳と為しつ、無数千萬億の菩薩其の中に充満てり、偏く寶のを張りて、寶の網を上にへり。彼の国の諸佛は、大じく妙なる音を以て、而ち諸の法を説きたまふ。及び無量千萬億の菩薩の、偏く諸国に満ちて、衆の為に法を説くを見たり、南、西、北方、四維上下も、白毫相の光の所照つるの處、亦復是の如し』
佛には眉間に白毫といふものがあって、其の白毫は佛の智慧を代表したものです、其白毫相の光といって、智慧の光を以て照らされました、始め東を照らし、次に南、西、北方を照らされ、それから四維上下、即ち十方の世界を照らされましたら、沢山の佛菩薩の佛国がありありと見えて来ました、これが『光を放ちて遠く召す』で、光を放って見させたことが分身に出て来いといふ御命令であったのです、そこで諸佛が同じく来らんとする。それからの佛達は光によって、釈迦牟尼佛がお召しになったといふので、いよいよ出て行かなければならぬ、愚図々々して居れないといふので、十方の諸佛が出て来られます。
 『爾の時十方の諸佛各衆の菩薩に告げて言はく、善男子よ、我今應に娑婆世界なる釈迦牟尼佛の所に往き、に多宝如来の寶塔を供養すべし』
暫らく待って居ろといって、諸佛が皆娑婆世界に来られようとする。次に『国界を厳浄す』で、ここに有名なる


 
6 三変土田                                     


といふことがあります。
 『時に娑婆世界、則ち変じて清浄なり』
釈迦牟尼佛が神通力を以て、今度は、十方世界の清浄の国土の佛を集めるのであるから、汚ない国土のままにしておいては、さういふ佛様に来ていただくことは出来ない、いはばお客様が来るのだから掃除をしなければならぬ、そこで掃除をせられました。
 『瑠璃を地と為し、寶樹もて
荘厳しつ、黄金を縄と為し以て八道をせり。、諸の聚落・村営城邑・大海・江河・山川・林藪など無く、大じき寶香を焼き、曼陀羅華は偏く其の地に布き、寶の網と幔を以て其の上に羅覆い、諸の寶の鈴を懸けたり、唯此の会の衆をにみ留め、諸の天人を移して他土に置きぬ。』
「法華経」を聞いて居る以外のいろいろな人や天を、みんな外に移してしまったのです、これを『人天被移』といひます。
 『是の時、諸の佛は、各一人の大菩薩を
いて、以て侍者と為し、娑婆世界に至りて各寶樹の下に到りたまふ。一々の寶樹は、高さ五百由旬にして、枝葉華果、次第に荘厳せり。諸の寶樹の下には皆獅子の座有りて高さ五由旬なり。亦大じき寶を以て而ち之を校飾れり。爾の時、諸の佛、各此の座に於て結跏趺坐したまふ。是の如く展伝りて偏く三千大千の世界に満てども、而も釈迦牟尼佛の一方に分ちせる身だに、猶ほ盡くせざりき』
もう数限りなき佛様が出て来て、三千大千世界が悉く一ぱいになってしまひました、三千大千世界というと百億の太陽系でありますが、その大きなところに佛様が出て来られましたが、何分、分身佛の数が多いことはその三千大千世界に、なほ一方の佛さへおさめることが出来なかったといふので今度は二度目に八方を変ぜられます。
 『時に、釈迦牟尼佛、分身したまふ所の諸佛を
容受けんと欲するが故に、八方に各更に二百万億那由他の国を変じて、皆清浄ならしめたまふ。地獄・餓鬼・畜生及び阿修羅有ること無く、又諸の天人を移して他の土に置く、化する所の国、亦瑠璃を以て地と為し、寶樹もて荘厳しつ、樹の高さ五百由旬にて、枝葉華果、次第にしく飾れり。樹の下には皆寶の獅子座有りて高さ五由旬なり、種々なる諸の寶を以て荘校めたり。亦、大海江河、及び目真鄰陀山・摩訶目真鄰陀山・鉄圍山・大鉄圍山・須彌山等の諸の山王無く、通じて一佛の国土と為る。寶の地平正にして、寶をもって交露れる幔をく其の上に覆ひ、諸の旛蓋を懸け大じき寶香を焼き、諸の天の寶華偏く其の地に布けり』
二百萬億那由他の世界を八方に清浄められたのですから、千六百萬億那由他の世界を浄められたのです、然しそれでも未だ分身の佛がはいりきれないといふので、そこで又更にもう一度八方に世界を拡げられました。
 『釈迦牟尼佛は、諸佛の当に来り坐したまふべきを
ての故に、復八方に於て、各二百万億那由他の国を変じて、皆清浄ならしめたまふ。地獄・餓鬼・畜生及び阿修羅有ること無く、又諸の天・人を移して他土に置く。化する所の国、亦瑠璃を以て地と為し、寶樹もて荘厳しつ、樹の高さ五百由旬、枝葉華果、次第に厳飾し、樹下には寶の獅子座あり、高さ五由旬にして、亦大じき寶を以て之を校飾れり。亦、大海江河及び目真鄰陀山・摩訶目真鄰陀山・鉄圍山・大鉄圍山・須彌山等の諸の山王無く、通じて一佛の国土と為る。寶の地平正にして、寶もて交露る幔を、偏く其の上に覆ひ、諸の旛蓋を懸け、大じき寶香を焼き、諸の天の寶華偏く其の地に布けり』
三度び二百萬億那由他の世界を八方に清浄ならしめられました、それだけになって、
 『爾の時、東方なる釈迦牟尼佛の所分ませる身の、百千萬億那由他恒河沙に等べる国土の中なる諸佛、各々に法を説きておはせしもの、来りて此に集りたまふ、是の如く次第に、十方の諸佛皆悉く来り集りつつ、八方に坐したまへり』
其の八方は、三千二百萬億那由佗の百億の日月のあるところです、そこに十方分身の佛が坐し給ふた。
 『爾の時、一々の方の四百萬億那由他の国土に、諸の佛如来は、偏く其の中に満ちたまへり』
ここまでが『三重更変』です。
 『是の時、諸の佛、各寶樹の
して獅子の座に坐し、皆侍者を遣はして、釈迦牟尼佛を問訊はしめたまふ。各寶華をしてに満さしめ、之に告げて言はく』
と、分身の佛達は、自分の連れて来た大菩薩、即ち副官の大菩薩を釈尊の許に遣はされました、その御命令に、
 『善男子よ、汝
きて耆闍崛山なる釈迦牟尼佛ので、我がの如くせ、病少く悩少く、気力安楽にましますや』
御機嫌宜しうございますか、
 『及び菩薩声聞の
悉く安穏かりや、否やと。此の寶華を於て佛にして供養し、ち是のせよ、彼某甲の佛』
例へば阿弥陀佛ならば阿弥陀佛が、
 『
に此の寶塔を開かんと欲すと、諸の佛、使を遣はしたまふこと、亦復是の如し』
此の使は実におびただしいもので、三千二百萬億那由佗の国土に充ち満ちたる分身佛が遣はされた使ですから、それが『諸佛
問訊して與欲す』といふのです、すなわち三千二百萬億那由佗の国土に集まった十方分身の佛が、同じくみんな塔をあけていただきたいと申上げたのです。


 
7 開 塔                                         


 『爾の時、釈迦牟尼佛、分身したまふ所の諸佛の、悉く已に来り集りて、各々に獅子の座に坐したまへるをはし、皆諸佛の、同じく與に寶塔を開かんと欲したまふを聞しめしつ、即ち座より起て、虚空の中にりたまふ』
それまでは釈尊が耆闍崛山で説法して居られたのを、座より起って虚空の中にお上りになった、いよいよ虚空にお上りになったから、塔を開かれるだらうと思って、
 『一切の四衆、起立し合掌して一心に佛を観たてまつる、於是釈迦牟尼佛、右の指を以つて七寶の塔の戸を開きたまふに、大じき音声を出すこと、りて、大城の門を開くが如し』
ずうっと戸を開かれた、釈尊が塔を開かれると、そこで始めて、
 『即時に一切の衆会、皆多宝如来の、寶塔の中に於て獅子の座に坐したまひ、全き身の散ぜざること、禅定に入りますが如くなるを見たてまつり。又其の善い哉善い哉、釈迦牟尼佛快く是の法華経を説きたまふ。我れ是の経を聴かんが為めの故に、而も此に至れりと言ふを聞く、爾の時、四衆の等、過去し無量千萬億の劫に滅度したまへる佛の、是の如きを説きたまふを見て、未曾てなしとへまつりつ。天の寶華のを以て、多宝佛及び釈迦牟尼佛のに散らしぬ』
これが『四衆同じく見聞す』であります。


 
8 二佛並座                                              


 『爾の時、多寶佛、寶塔の中に於て、半座を分ちて釈迦牟尼佛に與へたまひ、而も是の言を作したまはく、釈迦牟尼佛よ、此の座に就きたまふべしと。即時に釈迦牟尼佛、其の塔の中に入り、其の半座に坐して、結跏趺坐したまふ』
即ち釈迦牟尼佛が多寶如来の塔の中におはいりになって、二佛チャント並座された。これが『二佛座を分ち坐す』
 『爾の時、大衆、二如来の七寶の塔の中の、獅子の座の上に在して、結跏趺坐したまふを見たてまつり、各是の念を作さく、佛は高く遠けきところに坐す。唯願はくは如来よ、神通の力を以て我等の輩をして、倶に虚空に處はしめたまへと。』
これが『四衆虚空座の加被を請ふ』であります。
 『即時に釈迦牟尼佛、神通の力を以て諸の大衆を接きて、皆虚空に在きたまふ。』
そこで耆闍崛山に集ってをった此の「法華経」の会座の者が、全部虚空に上ってしまひました、そこで今度
は釈尊が弘経者を召募せられます。


 
9 付属有在                                            


 『大じき音声を以て、普く四衆に告げたまはく、誰か能く此の娑婆国土に於て、広く妙法華経を説かん。』
これが『大聲唱募』
 『今ぞ正しく是れ時なる、如来は久しからずして、当に涅槃に入るべし。』
これからもう佛はおかくれになるのであるぞ、『付属の時至る』、今やその時であるぞ。
 『佛、此の妙法華経を以て、付属して在ること有らしめんと欲す』
サアこれは一體何ういふことを意味したものであるかといふと、
多宝如来が真理を代表した佛陀で、釈迦牟尼佛のお説きになった事は確に真理を示されたに違ひない、斯う証明はされました、証明されましたけれどもけれども釈迦牟尼佛の智慧・慈悲といふものが、果たして法界に偏満したる真理を徹見しただけの智慧と、それから其の智慧に同じ位な慈悲であるのかどうか、未だはっきりしません。それでこれを事実上に証明する必要が出て来たのです、これは「法華経」といふものは、なかなか理屈なら理屈だけですまない証拠であります。理屈と共に事実を示さないと承知しないのです、そこで佛の智慧と佛の慈悲が十方に徹底して居るのだということをば、事実にあらはす為めに、多寶如来は俺が顔を出すのは・・・・・今説いているところは真理に相違ない、真理を徹見したる智慧に相違ないということを明かすには、其の釈迦牟尼佛が斯の如く真理を徹見して了ったといふことを事実に示さなければならぬ。そこで其の佛の十方に偏満した分身佛を集められました、これは釈尊の智慧が偏満して慈悲の用きを起こされたもので、すなわち十方分身の佛は十方に行きわたっている釈迦佛の智慧と慈悲とを示したものであります、佛の智慧と慈悲が十方に徹底して居るということを示したものであります、それを証明するために十方の分身の佛が集って来たわけです、十方分身の佛が集まって始めて、此の釈迦牟尼佛は、其の智慧は法界の全體に充ちわたり、そして其の慈悲が又其の智慧と同じく充ちわたって居る、といふことが明らかになりました、それと同時に又横に拡がって居るものは、縦にも徹底するといふことを、おのづから示すのです。
そこで、さういふ風に分身佛の沢山あるのは、一體何ういふわけか、
 『分身既多 当知成佛之久』
分身が十方に一ぱいになった、其の一ぱいになったといふことは、其の佛様がずっと古くから佛になって居られたということを、自ら示して居るのでだ、支店が沢山あるといふのは、其の本店が非常に大きな資本を持って居って、古くからの老舗であるということを証明するやうなものです。
 『分身既に多し、当に知るべし成佛の久しきことを』
横に徹底して居ることは、其の宇宙に偏満したる宇宙に徹底したる智慧は、同時に又縦の時間を徹底したる智慧でなければなりません。何となれば宇宙は矢張り生命無窮なものでありますから、宇宙に徹底するといふことは同時に又時間的にも徹底しなければならぬのです、空間に徹底すると同時に時間にも徹底しなければなりませぬ、即ち釈尊の智慧と慈悲は時間にも徹底したものであるといふので『分身既に多し、当に知るべし成佛の久しきことを』といって、此の分身の沢山集って来たといふことが、如来の寿命の長いことを示す、よって後に「寿量品」でそのことをあらわされました。そこでこれを
密表寿量
といふのです。 密かに寿量を表はすのです。
 それから
 『大じき音聲を以て、普く四衆に告げたまはく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん。今ぞ正しく是れ時なる、如来久しからずして、当に涅槃に入るべし。佛、此の妙法華経を以て、付属して在ること有らしめんと欲す』
釈尊が、俺はもう涅槃に入ることが近くなった、誰か此の「法華経」を、佛の滅後に説くか、俺はそれを付属して置きたいのだと厳かに宣言せられました。ここで一寸神秘的な話をしておきます。支那の天台大師がここの文句について不思議なことをいって居られます。
 『玄を明かして付属し、本弟子を召して寿量を論ず』
斯ういふことをいって居られるのです、これは何ういふことだといふと、『玄を明して』といふことは、妙楽大師といふ人がこれを解釈して、ここに書いてある『此の妙法華経を以て』という、其の「妙法華経」、それが『玄』である、「妙法華経」というのは「妙法蓮華経」の名前、即ち此の題目を明すことで、それが『玄』を明すことである、其の題目を明して付属す、
 『此の妙法華経を以て、付属して在ること有らしめんと欲す』
といはれたのは、『本弟子を召す』といって、はるかに「涌出品」で本化の弟子をお召しになった、本化の弟子が出ると、仍で釈迦牟尼佛が寿量品をお説きになるのです。久遠の佛といふことを明かにするには、多寶佛が涌現して妙法蓮華経を証明して、十方分身の佛が集まった、そして釈迦・多寶、分身佛の三佛が、付属するに際しても前に申した六難九易といふことを説かれるのですが、かく付属せられるから地涌の菩薩が出るし、本弟子が出ると、如来の寿量品を明かさねばならなくなるのであります。即ち寿量品もこれから起って居るのであります。


 
10 二種の付属                                            


 『佛、此の妙法華経を以て、付属して在ること有らしめんと欲す』
という此のお言葉の中に、はるかに「涌出品」「寿量品」を意味して居るものがあると、天台大師が解釈されました、更にもう一つは『在ること有らしめんと欲す』、即ち後の世に此の「法華経」を在めおこうと思ふといふ此の付属についても亦二つある、
近令有在=近く在ること有らしめん
遠令有在=遠く在ること有らしめん
斯う二つに解釈してあります、この二つはどうかといひますと、此の「宝塔品」の時にチャンと座に居る八万の菩薩、これには近く在ること有らしめて、とどめ置く、又遙かに遠く在ること有らしめんと、本化の弟子にとどめる、此の時の佛の付属に二重の付属であります、近く八萬の菩薩、遠くは上行等の本化の菩薩に付属する、此の付属に自ら二つの心があるといふことをば、天台大師が解釈されました、 天台大師それ自身は薬王菩薩の自覚をもって居られます、自ら薬王菩薩の自覚をもつと共に、これは又上行菩薩に付属されたのだといふ風に、天台大師自らチャンと解釈して居られるのです、『玄を明して付属し、本弟子を召し云々』とあって、妙法蓮華経の五字を明して本化の菩薩に付属せられたのだ、斯ういふことをこの宝塔品の釈で書かれて居るのであって、天台大師は自ら「法華経」を弘めながら、「法華経」の「序品」を解釈する時に、『後の五百歳遠く妙道に沾う』といわれました、『後の五百歳』は如来がおかくれになってから二千年過ぎてから後の五百歳で、天台大師御自身の時から五百年以上後です。其れほど後のことを、『後の五百歳遠く妙道に沾う』と預言されて居ます、「序品」の時からさう預言されているので、そしてここの「宝塔品」に至って斯くの如く「法華経」というものは二重に付属されて居る、近くは薬王菩薩、遠くは本化の菩薩であるといはれて居るのであります。


 
11 偈   頌                                    


そこで今度は偈にはいります。
 『爾の時、世尊、重ねて此の義を宣べんと欲し、而て偈を説きて言はく
 聖主世尊、久しく滅度したまふと雖、宝塔の中に在して 尚ほ法の為に来ませり 諸人云何ぞ 勤めて法の為にせざらむ 此の佛滅度したまひてより無央数の劫なるに 處處に法を聴きたまふは 遭い難きを以ての故なり彼の佛の本願は 我滅度の後 在在に往く所も常に法を聴かんが為めぞよと』
これは『多宝の滅度』を頌せられました。
 『又我が分身の 無量の諸佛 恒沙に等しき如きものの 来れる法を聴き 及び滅度の多寶如来に見えんと欲ひ 各妙なる土 及び弟子衆 天人龍神 諸の供養の事を捨て 』
即ち釈迦佛の滅後 此の「法華経」を久しく此の娑婆世界に住まらせて、衆生を利益するために集まられた、
 『法をして久しく住まらしめんとての 故にこそ此に来至れるなれ 諸佛を坐せしめんが為に 神通力を以て無量の衆を移して 国をして清浄ならしむ 諸佛各各に 宝樹の下に詣りたまふは 清涼なる池に 蓮華の荘厳なるが如く 其の宝樹の下に 諸の獅子の座あり 佛其の上に坐して 光明厳しく飾れることは 夜の闇の中に 大じき炬火を然けるが如く 身より妙なる香を出して 十方の国に偏く 衆生薫を蒙りて 喜び自ら勝えざるは 譬へば大風の 小樹の枝を吹くが如し 是の方便を以て 法をして久しく住まらしむるなり』
これは分身の遠集も令法久住のためである、多宝如来も亦滅後に此の法を弘まらしめんが為めである。
 『諸の大衆に告ぐ 我滅度の後に誰か能く 斯の経を護持ち読み誦ぜむ 今佛の前に於て 自ら誓の言を説け 其れ多宝佛は 久しく滅度したまへ雖も 大誓願を以て 而ち獅子吼したまふ 多寶如来と 及び我身と 所集ませる化佛・・・・・・』 
これを三佛といふので、多宝如来と我が身・・・・・釈迦牟尼佛と十方分身の佛、此の三佛が皆『当に此の意を知ろしめすべし』即ち三佛の意は末代の此の経の流通に在り、そこで

 『諸の佛子等よ 誰か能く法を護らむ 当に大じき願を発して 久しく住ることを得しむべし。』
と弘通する其の人を覓めらます。
 『其れ能く此の経法を 護ること有らん者は、則ち為 我及び多宝を供養しまつるなり 此の多宝佛の 宝塔に處して 常に十方に遊びたまふは 是の経の為の故ぞかし 亦復 諸の来りたまへる化佛の 諸の世界を 荘厳し光飾します者を供養するなり 若し此の経を説かば 則ち為我と 多宝如来と 及び諸の化佛を見たてまつるなり』
これが『流通を勧むる心を釈く』であります。
それから次が、難信の法を挙げて、流通をを勧める。
『諸の善男子よ 各諦かに思惟れ 此は為難事なり 宜しく大願を発すべし』
これは『誡めて発願を勧む』 これからが有名な『六難九易』であります。


 12 六難九易                                       


 『諸の餘の経典は 数恆沙の如し 此等を説くと雖も 未だ難しと為すに足らず』
これが第1ばんの易いことです、諸の経典は数恆沙の如くあるが、これを説くことは未だ易しい、
 『若し須彌を接りて 他方の無数の佛土に擲ち置かんも 亦未だ難しと為さず』
世界を擲り出す、そんなことは難しいことではない。
 『若し足の指を以て 大千の界を動かし 遠く他国に擲つも 亦未だ難しと為さず』
思っただけでも実に大変なことです、それでも未だ難しくない。
 『若し有頂に立ちて 衆の為めに無量の餘の経を演説かんも 亦未だ難し為さず』
物質世界の一ばん上に立って、そこで衆生のために餘の経を説く、それでも難しくはない、四つ共易しいことである。
 『若し佛の滅したまへる後 悪世の中に於て 能く此の経を説かんこと 是れ則ち難しと為すなり』
末法の世の中に此の経を説くことがそれらよりまだ難しい、前のが四易で、これは第一難で、『説経難』
 『假使人有りて 手に虚空を把り 而ち以て遊行はんも 亦未だ難しと為さず』
それも難しくない、これが第5易
 『我が滅せる後に於て 若し自らも書持ち 若しは人をしても書かしめん 是れ則ち難しと為すなり』
その方が難しい、これが第二の『書持難』
 『若し大地を以て 足甲の上に置きて 梵天に昇らんも 亦未だ難しと為さず』
それも何でもない、これが第六易
 『佛の滅度の後に 悪世の中に於て 暫らくも此の経を読まんこと 是れ則ち難しと為すなり』
これが第三の『暫讀難』、
 『假使劫の焼に 乾ける草を担負ひつつ 中に入りて焼けざらんも 亦未だ難しと為さず』
それも難しくない、これが第七易
 『我が滅度の後に 若し此の経を持ちて 一人の為めにだも説かんこと 是れ則ち難しと為すなり』
前の説経は広く説くのです、それだから不難の事を四つあげられました、これは一人の為めであるから不難が一つしか説かれてない、これは第四の『説法難』、
 『若し八萬 四千の法蔵と 十二部の経とを持ち 人に為めに演説きつ 諸の聴く者をして 六神通を得せしめん 能く是の如くなりと雖も 亦未だ難しと為さず』
それも難くない、これが第八易
 『我が滅度の後に於て 此の経を聴受けて 其の義の趣を問はんこと 是れ則ち難しと為すなり』
これが第五の『聴経難』
 『若し人法を説き 千萬億 無量無数 恆沙の衆生をして 阿羅漢を得 六神通を具へしめん 此の益有りと雖も 亦未だ難しと為さず』
それも易しいことで、第九易
 『我が滅しぬる後に於て 若し能く 斯の如き経典を奉持たんこと 是れ則ち難しとなすなり』
これが第六難で、『持経難』です。 それでは何うして「法華経」を末代に説くのはそんなに難しいのであるかと云へば
 『我佛道を得て、無量の土に於て 始より今に至るまで 広く諸の経を説けり 而も其の中に於て 此の経ぞ第一なる』
それだから難しい、それは此の経が佛の肝心要の経だからであります。
 『若し能く持つことあるは 則ち佛身を持つなり』
だから能く持ったならば、佛の身體をそのまま自分の身體にするのである、これが『勧むる意を釈す』、そこで重ねて持経者を募られました、
『諸の善男子よ 我が滅しぬる後に於て 誰か能く 此の経を受持ちて読み誦ぜん 今佛の前に於て 自ら誓の言を説け』
これが『重ねて持経者を募る』、

 
13 此経難持                                      


 『此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者あらば 我則ち歓喜ばむ 諸佛も亦然なり 如是の人は 諸佛の歎めたまふ所なり 是則ち勇猛なり 是則ち精進なり 是をこそ戒を持ちて 頭陀を行ずる者とは名くるなれ 則ち為疾く 無上の佛道を得たるなり 能く来世に於て 此の経を読み持たんは 是真の佛子にして 淳善の地に住れるなり 佛の滅度したまへる後に 能く其の義を解らむは 是諸の天人 世間の眼なり 恐怖の世に於て 能く須臾も説かんものあらば 一切の天人 皆應に供養すべし』
以上『此の経は持ち難し』からは『此経難持』の偈といって、九十六文字あります、ここに『如是の人は 諸佛の歎めたまふ所なり 是則ち勇猛なり 是則ち精進なり 是をこそ戒を持ちて 頭陀を行ずる者とは名くるなれ』と、ありまして持戒と精進とをあげてあります、・・・・・これは六波羅蜜を二つだけあげて、他の布施・忍辱・禅定・智慧の四波羅蜜を摂せられたのです。
 布施・持戒・精進・忍辱・禅定・智慧、これが菩薩の六波羅蜜であって、その中の持戒と精進の二つをあげて、此の外は皆これに摂せらた、此の「法華経」の受持そのものが六波羅蜜をすぐ行ずることになるのです。


 
14 六波羅蜜自然在前                               


 これは一ばん最初の「無量義経」のところにチャンとあります、大荘厳菩薩が六波羅蜜といふものを一々修行しなければ菩薩の行にならないのでせうか、一ぺんに埒のあく法はございませんでせうかと、お問ひ申しあげたら、佛があるぞ、それは「無量義経」である、その無量義経は一法より生ずるといはれてありました、今その一法が説かれ、それがここにかやうに出て来たのであります。
 要文を挙げるのでしたが、餘りおそくなりますから、以上で「宝塔品」を終りますが
證前迹門
起後本門
と申しますのは、證前は『皆是真実』の證言でわかります、十方分身の佛を集められたといふことは、佛様の方からは自ら釈迦牟尼佛が久遠の佛であることを證せられて居ます、それから更に進んで、
 『如来は久しからずして、当に涅槃に入りたまふべし、佛此の妙法華経を以て、付属して在ること有らしめんと欲す』
といふ『付属有在』のところに於いて、現在の薬王菩薩に付属し、遠く地の下の上行菩薩を呼ばれた、本化の菩薩はこれを聞いて用意しなければならぬといふことになるのですから、自ら本門を起すところに出た来るのであります。


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