信解品第四薬艸喩品第五授記品第六

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信解品  三乗の法 声聞乗の四諦の法 縁覚乗の十二因縁  

      菩薩乗の六波羅蜜の法 
長者窮子の譬

薬艸喩品
  三草二木の譬 破有法王偈

授記品  無有魔事 雖有魔及魔民 皆護佛法
 


信解品第四

 これから「法華経十講」の第三講のつづきとして、「信解品」のお話を致します。此の前の「譬喩品」から後、此の信解品から、つぎの薬草喩品・授記品に至りましまでが、『三周の説法』といふ法説・譬説・因縁説と斯うある中、譬説に属するのであります。即ち此の間お話申しました「譬喩品」それから「信解品」、「薬草喩品」、「授記品」、これまでを譬説と申すので、これは中根の声聞の為めであります。法説は「方便品」一品でありまして、これは上根の舎利弗尊者一人の為めであったのです。
 其の譬説の第一の「譬喩品」のところでは三車大車といふことのお話をしました、羊の車・鹿の車・牛の車、此の三つの車を以て、火の宅の中に遊び戯れて居る子供、それをば長者が斯ういふ車で遊んだら面白いではないかといって、子供達を導いて火の宅から出さしめた、そして事実與へたものは大白牛車であった。大白牛車がこれが一大佛乗、佛様の真実の御教である。羊の車は声聞の乗物である、鹿の車は縁覚の乗物である、牛の車は菩薩の乗物である、さういふ声聞・縁覚・菩薩の三乗が各々別だといふことを、四十餘年の間説いたのは方便であって、真実は斯の如き諸の人を大白牛車に乗せて、佛の本当の安楽を得せしめる為めであった。斯う説かれたのが「譬喩品」でありますが、ここで三乗といふもの・・・・・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、この差別を今一往話しておきます。

 1 三乗の法とは何か。

 声聞といふことはどういふことかと申しますると、『声を聞く』と書いてありますが声とは佛の音声です、佛の音声に盛れる教えによって、真理をば聞いて覚る、此の乗り物に乗って覚りの境界に達する、そういうのが声聞乗であります。若し佛が教えを示してくれられなかったなら、自ら覚るだけの機根でない、佛の教えを聞いたならば、世の中の事即ち人間や、人間の楽しみや、死んでから後の天の楽しみに執著することなく、それらを超脱した涅槃の楽しみを受けよう。斯ういふ浮世の苦楽を超脱したところに真の人生真の人間の価があるのだ、斯ういふことをば覚ることが出来るけれども、若し佛が教えを以て示されなかったならば、それは解らない。自らそれを知ることは出来ない、そういう機根を声聞乗というのです。縁覚乗というのは又独覚ともいひます、それは佛がおいでにならなくても、飛花落葉とて、花が飛び葉が落ちるその姿を見ても此の浮き世の儚いこと、それを自ら覚ることも出来る程の勝れた機根、それで独覚ともいふ、爾いう機根の為めに説かれたのが縁覚乗である、この独覚のために説かれた教えを何うして縁覚と言うのかと申しますと、この機根のためには十に因縁の法を説かれている、声聞のためには四諦の法といふものを説かれてある、菩薩の為めには六度の法を説かれてあるので、声聞乗は四諦の法によって世間を超脱する覚りを説いた教えである、縁覚乗というのは十に因縁の教えによって世間を超脱する法を説いたのである、菩薩乗というものは六度即ち六波羅蜜といふ法によって、そして自分のみならず一切世間の衆生と共に覚りの境界に到ることを説いた教えである。それが大體三乗ということの分かち方であります。

 2 声聞乗の四諦の法

 それでは四諦の法といふのはどんなものだらう、これはこれまでの三回の講説の中に申し述べておかなかったことですから、それを一寸申します、四諦と申しますのは
 苦諦
 集諦
 滅諦
 道諦
のことで、苦・集・滅・道の四諦といひます。諦といふことは何ういふことだといふと、これは佛教の教学の語では『審実不虚』といひ、もう動かすべからざる審実なる智慧によって、浮世の真相を示したものである、それは事実である、真理である、「不虚」は嘘でないといふのでなく、虚しからざること、実証されたること、體現されたること、斯ういう意味で、単なる理屈のことでなしに、體現され得たる真理だということが『諦』です。苦・集即ち『苦諦・集諦』ということは、これは世間の因果、滅・道即ち『滅諦・道諦』はこれは、出世間の因果と申すのです。『苦諦』といふのは一體どんなことだといふと、我々の人生、人生のみならず、動物でも何でも、凡そ生存しつつあるもの、それの本当の體験した結論をいったならばそれは一切苦である、其の苦は三苦を以て概括することが出来るとて、三つの苦を説きます。第一は『苦々』、第二は『壊苦』、第三は『行苦』で、一切の世間は此の三つの苦でをはっている。何うして三苦であるかといひますと、『苦々』というのは苦しい事実、『苦しい苦しみ』です。けれども世間は苦しいといふことのみでない、楽しみもあるではないかと斯ういひますが、然し其の楽しみといふことも、これもまた『壊苦』といふ苦しみであるといふので我々は之を楽しみといって居ますが、我々の楽しみが永久に壊れないかといひますと、何時か楽しみがなくなったならば苦しみになるのです。だから其の楽しみは何時か壊れることであるから、壊れたならば苦しみとなります。ですから我々が世間で言って居る楽しみは、それは結局は『壊苦』で、いはゆる一般に苦しみといっているのは『苦々』であります。それでは苦しみでもないし楽しみでもない、事実そういうことがある、私は此処に立って居ますが、これは苦しくもないし、又立って居るから楽しいということもないではありませんかといふ。さういうこともありましが、それも矢っ張り一つの『行苦』だといふのです。なぜ行苦だかといひますならば、生住異滅、一切の世間のことは流れます。流転します。凡そ世間に存在するもの、住まって居るものは、その前に生まれたという事柄があります。即ち若い若いといっています人も、その若い前は幼い、その前は生れたといふことがありました。そして若い其處に住まって居り、美しいといっていましてもやがていつか異わって来ます。終には全く滅くなって了ひます。一切のことは何でもかくの如くに、生、住、異、滅と流転します。それらのことを一切世間を見渡したならば、凡そ此の世間の存在という事は、全體概括して結論しましたならば、世間は三苦であります。世間というものは、普通の人間・・・・・凡夫の世界といふものは苦であります。其の凡夫の世界の苦、これを世間の果と申します。 その世間の果なる『苦諦』は、そもそも何によって起ったのであるかといふと、それは『集諦』・・・・・煩悩を集めたところから起ったとします。それを世間の因とします。また『滅諦』の滅といいますのは涅槃で、三苦を破ってしまって、苦集を滅くなしたものそれは涅槃でありまして、出世間の果と申します。そこでこの涅槃を得るのには、佛道の修行というものをせねばならないので、それが涅槃に到る道としての『道諦』で、即ち以上の四諦を明めて、そして煩悩を滅する修行をして行くのが佛道である、そういうことが苦・集・滅・道ということであります。
四諦 世間の因果   苦諦ー(果)
              集諦ー(因)
    出世間の因果 滅諦ー(果)
              道諦ー(因)
 この四諦は、世間の方も出世間の方も、果の方が前にあって、因の方が後にあるのは、先ず此の世間というものは、こんなに苦しいものであるぞと、佛が説明してやらなければ、声聞という機類の人達は真に世の中は結論すれば苦であるということを、覚ることが出来ない人達であります。そこで先ず世の中は苦だということを結論してこれを説明せられるのです。それを説明した結果、成程これは苦しい所だそれでは其の苦しい原因は、何だとなって、遡ります。それは恰度、おいたをするとこれですよという苦しみを知らせて、おいたという原因を除かしめるようなものです。それから其の苦しいといふことの反対の涅槃といふことは、本当のかはらない楽しいことだといふことを知らしめる。そして其の涅槃を得るのには、道諦・所謂戒・定・慧の三学というものを修行することであるぞと、恰度御ほうびを出して、その御ほうびの原因はかういふことがよくできたならと訓えるといったやうな、さういう教への方法として、先づ結果を知らしめて、そして後に其の原因を修めしめるのです。といふのは、声聞という機類は甚だ幼い機類で、もう一つ喩えを挙げていふと、恰度子供が無闇にお菓子を欲しがる、そんなに菓子を食ったならば、アンマリ食べ過ぎるとポンポンが痛くなりますョと苦しみを先づ知らしめる、そしてそれをよけい食べては不可ことだということを、原因に遡って知らしめる、痛くなることは苦諦で、欲しがるけれども、ポンポンが痛くなるという結果をしらせる、先づ結果の苦しいことをしらしめて、衛生を守らなければ不可ことを教へて、それのやうに、先づ苦を知らしめて、苦の本が煩悩であるということを教へる。楽をまづ教えて、楽の本を修めしめる。それが声聞乗という機類に対する教え方であります。

 3 縁覚乗の十二因縁の法とは

 縁覚乗といふものに対する教えは十二因縁であります。この十二因縁というのは、先づ因縁をあげてからその果報を説かれて、人間の生命は、因縁果報の連続したものであることを教えられました。そこでこの十二因縁ということに「流転の十二因縁」と、「還滅の十二因縁」といふことがあります。流転というのは、生々世々に迷い迷いて六道を経めぐることを申すので、還滅というのは、その生死の苦しみに流転する原因はなにであるかということを見出して、その原因を滅くなしていって、遂に大悟の涅槃に這入るのであります。この十二因縁の方は、流転の方も四諦のやうに結果を先づ示して原因に遡るのでなしに、原因から結果へと説かれてあるのです。即ち、
過去の二因・・・・・無明
           行
現在の五果・・・・・識
           名色
           六入
           觸
           受
現在の三因・・・・・愛
           取
           有
未来の二果・・・・・生
           老死
といふやうになります。これを三世両重の十二因縁といふのです。もっとも此の頃の学説では、斯ういふ説き方は佛在世より後に発達した説き方だといひます、即ち昔の説き方で、過去の因・現在の果・現在の因・未来の果の三世にわたった、因果因果と両重の因果が示されています。『無明・行』といふのは過去の因である。『識・名色・六入・触・受』といふのは現在の果である。『愛・取・有』といふのは現在の因である。『生・老死』といふのは未来の果であるといたすのです。
 『輪廻転生』ということをば佛教では説きまするが、現在我々が生を亨けて居るのは過去から連続して居る生命で、オギャアと生まれた時が生命の始めではなくて、オギャアと生まれる前に、過去には人間であるか何だかわからないが、何等かの生命を持っておったものだ、そういう風に現在に生まれて来たといふことは、過去にも生命として存在したのだ、その存在した結果として現在の生命がある。過去の生命があった、その過去の生命は何ものであったろうというと、『無明』と申しますのは所謂煩悩です。これは過去の煩悩で、『行』と申すのは過去の業、現在の『識・名色・六入・触・受』、これだけのものは苦の果報なので、煩悩・業・苦の三道、斯ういふことを佛法ではよくいひます。煩悩・業・苦、此の声聞の四諦の法によりまして此の世界は苦である。其の苦の世界は何から起こって居るものであるか、苦の世界に生まれてきたということは過去の業による。其の業の原因は何であるかというと、過去の煩悩である。過去の煩悩によって迷った業をして、その業によっていっぺん死んだが、苟くも其の生命は肉體の死によって無くなったものではない。それは存在して居る、宇宙の中に存在して居る、存在しているとすれば今度又生命として活動する時期がある筈だ。その活動する場所は矢張り此の宇宙だ、結論すれば此の世界だ。その結果が『愛・取・有』、此の『愛』は現在の煩悩で、『取』は現在の業であり『有』は現在の苦だ。それから『生・老死』これは未来の苦なので、それで過去・現在・未来、このを三世という。それから『三世両重の因果』というのは、現在の因が未来の果となり、過去の因が現在の果となる。これを『三世両重の因果』といふ。 こんな風に輪廻転生の思想は明治の人間はそんな信念を失ってしまった。そんな馬鹿なことはないと近頃までそんなことをいいました。佛教信者ですらさうであった。昔「新佛教」という雑誌で未来生命観を募ったのでしたが、大部分は輪廻転生の生命観を信じない。然し私は佛教徒がそういう生命観を信じないということは、余程不思議だと思っています。思想としても生命というものを、唯現在だけに限ることの方がわからないと思うのです。一例を述べまするならば、実証的に述べまするならば、しばしばお聞きになった方があるかもわかりませんが、今ここにもって居る私の肉體が、生れた時の肉體と同じかといふと、同じのものは少なくて違ふものが多い。同じものは骨の中のどれだけかの部分、血液の中の要素としての部分位で、私の血液型はO型ですが、そのO型は死ぬまで変らないが、けれども物質からいったらそのO型の中の物質は皆変って居ます。肉體は常に変って居ります、生れた時から今日まで肉體は常に変って居る。であるに拘らず精神の方はどうであるかと考へると極く子供の時分に印象された事柄、三歳の時四歳の時七歳の時のこと、いろいろ覚えて居ります。チャンと保存されて居ます。
 私は五十六歳ですが非常に前のことでも覚えて居ます。ところが私の肉體の中に一ばん初めの時からのものを持って居るでせうか、五十六に三百六十五を乗ければ何れだけになるか直と解らないが、兎に角生命といふ中、特に此の精神力の中には、極く初めのものから潜在して居ます。然るに肉體の方は小さい時からだんだん大きくなる、大きくなって或る時代から進歩がなくて、それが又衰へて来る、そして死んでしまふ。ところが精神に経験した事柄は、ずっと死ぬまで潜在して居る、それは催眠術にかけると、まるで平素ちっとも記憶して居ない事柄を呼び出しますと出て来ます、何處に潜在して居るか判らないが出てきます。私が曾て経験した事柄で、三十六時間起きて居て、そして十二時間寝て「本化聖典大辞林」といふ大部のものを編纂して居ました。それは六ヶ月続けたが、平素それをやらん時はまるで忘れて居る事柄、それが其の三十六時間ぶっ通しをやって、その代り一週間の間は外の書物も新聞も見ない手紙も見ない、外部の人にも合はない、辞林編纂それのみに専注した。さうすると、外部から受付けるものを閉してしまって或る一事だけに専注して居たら、恰度其の頃三十七八の頃でしたが、十四五から十七八位の自分に読んだ書物の記憶が活きて来ます。その書物に関係のあることが出て来ると、少し目をつぶって静思して居ると書物の形が出て来る、ああ、あのことは何の書物の此方の側にあた、彼方の側にあったといふことがはっきり出て来る。平素さういふ風な状態に居ない時は全然忘れて居る。これを此の間松岡静雄氏に話したらば、矢っ張りさういって居られた、私にもそれに似た経験がある、或ることを非常に研究して居たらば矢っ張りさういふことがあったといって居られたが、それらの事柄は、精神の方は嘗て経験したことは、平素忘れて居ることであっても、恰度箪笥の奥に沢山物を蔵ひ込んだまま忘れてしまった、然しながら其の存在することは確かに存在するので、必要に応じて精神状態の持ち方によっては出て来ることが出来る、これは催眠心理の実験からいふと、何の人と特定の人でなしに、一般の人にもさういふことは事実あり得ることだ、其の方から申しますると、肉體はそんな風に或る一定の成長をして、そして住して滅するが、精神力の経験したことは、矢張り何處かに心の中に潜在して居る。かく肉體とは別異なる法則で潜在したものが、果して肉體の現在に於ける休止と共に全くなくなるだらうか。それはなくならなくて、そして或る一つの半物質的精神的存在になる。それを佛教で『業』といふ。『業』ということは何ういふことだかといふと、人間の精神力が或る物質と共に動いた、其の一生涯の間に動いた総ての結果はなくならない、これをば佛教では我々が死ぬと、死んでも業力は残っている、其の業力はどんなものだというと、これを『中有の五薀』といふ。前にいったやうに我々の身體は物質の色、我々の精神の方は、外部から五官を通じて受入れる『感受』する心の薀り、受けたものは保存されて居って、そして自分のいろんな想念になる、其の『想』の薀り、それが行動するのは『行』であって、それ等の『受』『想』『行』ともに、自意識なる『識』によってその根本が総括せられている。
 色は物だ、受・想・行・識は心だ、我々は物と心の和合物、結合物である、それを五薀和合といふ、そして行動することは心の力が物質の肉體になって活動する、物の方は破壊して行っても、壊れるとともに物に付属する精神力は力としてその物に結ばれて行く、肉體の物は死んで形が変わり、焼いてしまっても此の宇宙の中にあるのだ、あるならば其の物質の中の我々の心として動いた其の力は、此の物質に喰っ付いて居る、物と心の喰っ付いて居るものそれは五薀なのだが、それを『有』といふ。そこで現在の生は『現有』なのだ、其の『現有』が今度は未来有となる、これを『当有』といふ、当に生まれるべき有だから『当有』といふ、『現有』と『当有』の中間になるものが『中有』で、『魂魄中有にとどまりて』なんてことをいひますが、『中有』といふのは中間の五薀といふことです、この中間の五薀それを『中有』といひます。過去に於ける『無明』と『業』、即ち『煩悩』と『業』によって『中有』があって、そして現在の『当有』が出来たので、現在既に我々は肉體と精神とを持って居るのだから、その肉體と精神のある限りは、それが宇宙の中に存在する両面のものであることは明らかだ、これを無くす事は出来ません。肉體が変化しても、精神も矢張り何かに変化するかも知れませんが、なくなる気づかひはないのです。又それが無くなるのであったら、零から一を造り、一から零を造る事が出来なければなりません、一はどんなにしましても一であって零にはなりません、零もどんなに積みかさねても一にはなりません。物質・精神がある限りは、それは何処までも無くならない筈です。物質がなくなったように見えるのは形が変わったに過ぎないので、人間が死んで焼いてしまっても、土の中に入れても、形は変わり物質は変らず、そのまた物質に付随して居る業力は変わるものではない、存在する限りは矢張り存在するのだという主張なのです。それが輪廻転生の思想なのであります。
  存在する物は無くなりはしない。現在精神という存在があり、現在肉體という存在がある。肉體は変わる、変わるけれども肉體が変わることは、現在の肉體も物質的には変わって居るんだけれども、人格の精神は一貫して居る。精神は先刻いひましたように前から持って居るものは、ずっと保存して居ますから、その保存したものが無くなる気遣いはないので、それは何等かになって出て来なければならぬとなります。そんな思想から『無明』『行』これは過去の因で、次が『識』、この識というのはお母さんの腹の中に生命として宿った、それからそれが名前ばかりの物質ともいっていいやうな、極く微細な物質なる『名色』となり、それから『六入』は母の胎で六根が具わることで、『触』はオギャアと生まれて暑さ寒さに触れても、まだたしかな暑さ寒さの心の感受がない頃で、つぎの『受』は2,3才から、心の感受ができ、12,3才にいたるまでで、これまでが、過去世の果報です。それから『愛』は物についての好き嫌いが本当に出てくる時、特に男女の愛をいふので、此の方は13,4才以上になってからであります。それから『取』と『有』で、『取』といふのはその愛するものを自己に取りたいということ、『有』というのは一切のものを自己に占有したい、占有したものをうしなふまいという風な心で、この『愛』『取』『有』によって一切の有をつくって行くのです。即ち取得欲、所有欲、占有欲によって『有』をつくった。その結果が来世の『生』を招き、また『老死』にいあたるのである、こういう風にとかれているのが十二因縁なのであります。

 4 菩薩乗の六波羅蜜の法とは

 それから菩薩の六度、これは四諦でも十二因縁でも、要するに現世の世界に対する徹底した結論を与えて、そして自分の煩悩を去り苦しみを去り、超脱観に住しようといふためのものでありますが、菩薩は自分だけがさういう涅槃に入りたいのでなく、六波羅蜜という修行、この波羅蜜は梵語で、波羅蜜多、これは『渡る』ということで、生死の此の岸から生き死にのない涅槃の岸に渡ることをいいます。其の渡るのについては自分だけでなく、皆の人と共に渡るのが、この菩薩の六度で、其の法が六つあります。
布 施
持 戒
忍 辱
精 進
禅 定
智 慧
これは煩悩の対治法なのです。煩悩の実践的対治法といってよろしいが、何方かといひますると、声聞や縁覚は個人的の自己救済を主とします。自己救済を主にしますから四諦だの十二因縁だのといふやうな、観念的のことを以て修行の本體とします、然るに菩薩というものは自己救済を主にしないもので、世間の凡てと共に現実の救済、現実的に実践的に人と共に苦の世界を出よう、皆の人と共に苦の世界を出ようというのであります。そういう苦のない世界、暉かしい世界といふものが此の菩薩の実践法から生まれて来る。そこで菩薩の法には佛国といふものの創造が出て来るのです。従って菩薩の修行は四諦十二因縁というような観念でなく、煩悩を実際に征服する道なのであります。『布施・持戒』といふことは何んなことだといふと、凡夫のすべての煩悩はこれを三つに分かつことが出来る、貪るといふ貪欲、それから瞋るといふこと、それから愚痴、これを貪・瞋・癡の三毒といふ、煩悩は結局したならば、貪・瞋・癡の三毒であります。そこで『布施』ということは貪欲の反対で、積極的の貪欲の征服法です。人に物を施すということは貪ることの正反対、貪欲は人から物を取るのですが『布施』は施すのですから、積極的実践的の貪欲の対治法で、『持戒』は斯ういふことをしてはならん、ああいふことをしてはならんといって制限するのですから、消極的の貪欲の対治法です。『持戒』によって貪欲を消極的に制限し、『布施』といふものによって、積極的に貪欲を摧破するのです。
 それから瞋り、瞋りといふことの中『忍辱』といふことは、消極的の制限法で、何んなことでも屈辱を忍ぶ、決して瞋らない。斯ういふことは瞋る心を制限することで、それは『忍辱』です、それから『精進』といふのは、これは瞋るといふことに対する積極的の摧破法です、貪欲を摧破するのに積極的には『布施』消極的には『持戒』を以てしたがごとく、『忍辱』によって瞋るということを消極的に忍びます、瞋るということは喧嘩することです、瞋るには何うしても積極的になる、罵倒するとか怒ると目を瞋らすとかやる、ぢっとして瞋って居るわけにはゆきません、甚だしいのは、そこいらのものを打ち毀し、遂には相手の生命をも取ってしまはなければならぬことになります、それをば『忍辱』によって内的に征服する、そして其の瞋るという力、外部に発動する力を善いことの方に転化してしまふので、それは『精進』であります、即ち瞋りの心の積極的の対治法です。よくあることで、昔の人の立志伝の中に、よく先輩から非常に罵倒されてひどく恥辱を受けた、然し先輩である為にどうすることも出来ない、ナニ糞食へ、今に見ろと奮発して出世した、ところが、その先輩の罵倒は、それは汝を奮発せしめんが為であったなどという話がよくあります。瞋りの積極的の方面の道に化せられたものが精進です。瞋りが変化すればそういう風になります。
 それから『禅定』といふものはどんなものか、『禅定』といふものはこれは愚痴の精神の消極的の調御法です。愚かしい心が起る、それをまず『禅定』によって、愚かしい心の想念をなくなします、動かぬやうにします。愚かしい心が動くのを『禅定』で動かぬやうにするのです。動かぬやうにして自らの心で自分自身を照らして行きます。そうすると愚痴の本體がよくわかって来るのです。そこで『智慧』によってその愚痴の本體を摧破するのです。
貪・・・・・布施・・・・・積極的摧破
      持戒・・・・・消極的制限
瞋・・・・・忍辱・・・・・消極的制限
      精進・・・・・積極的摧破
癡・・・・・禅定・・・・・消極的制限
      智慧・・・・・積極的摧破
こんな風に六度という菩薩の修行は観念ではなく、皆実践的です。菩薩乗は主として実践的です。此の声聞・縁覚・菩薩が三乗で、声聞・縁覚の二つは自分だけが観念転換によって苦の世界を出てしまふわけですが、菩薩の方は一切の衆生と共に、斯ういふ実践的の修行によって、そして皆と共に苦の世界を出ようとするのです、さういう風な差別があって、声聞・縁覚の二乗は佛にならない。自分だけが成佛しようと考へる。そして他と共に成佛しようと考へない、他と共に世間を出ようと考へないのです、自分だけが涅槃に入ってしまって、迷いの浮世に出て来る種がなくなったのが二乗で、菩薩は世間に出て来る種があるが、二乗は出て来る種がないから、菩薩は成佛するが二乗は成佛しない。斯ういふ風に説いたのが「法華経」以前の三乗を差別した教であります。然るに「法華経」の一大佛乗に於いては、さういふ二乗の心を持って居るもの、二乗の涅槃の中に入ったものも、それは本当の覚りの境界ではない、菩薩が又佛の因行に入ったといっても、二乗と別のものだと思って居る限りは、菩薩の本当の境界にはいったものではない。此の二つ共に一大佛乗の一部分を説いたものにすぎない。佛の真の覚りは、此の宇宙、此の十法界は同一體であって、根本に帰し究極に達すれば、唯一である。三乗各別は方便、一大佛乗は真実ぞということを説かれたのが「法華経」の諸法実相の教義です。
 以上かさねて三乗といふことのお話を申上げました、で、これから「信解品」にはいります。

 
5 四大声聞の領解

 前に「譬喩品」の始めに、最上根の舎利弗が成佛の記別を与えられました、そして佛がまた更に中根の声聞の為に三車大車の譬へをお話しせられた、其の譬えの話を聞いた時に、これまで声聞・縁覚・菩薩の三乗が違ったものであるという風に承って居たのは間違ひであって、一大佛乗の此の「法華経」の如き教が本当の佛の本意であったということが成程とわかって、自分達は到底佛になれないものであると思って居たのに、私達も本当に佛になれますかと、慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目ケン連、此の四人、これを四大声聞というのですが、此の四大声聞が申上げるのには、佛様から唯今承ったところの教は、曾てこれまでにうかがったことのない教でございます。世尊が唯今舎利弗の為に佛様の記別をお与えになりました。佛様になったという允可証をお渡しになりましたが、それを拝して曾てなかった希有の心を発し喜び踊躍して即ち座より起った、 そこで其の心の喜びを形に現はす為に
 『即ち座より起ち、衣服を整へ、偏に右の肩を袒ぎ、右の膝を地に著けつつ、一心に合掌し、躬を曲めて恭敬し、尊顔を瞻り仰ぎつ』
 そして佛に申上げるのには、我等は此の阿羅漢僧の首に居って、年も並に朽ち邁けました。・・・・・お釈迦様の一番最初からのお弟子になった人達ですから、もう佛様がこの時七十幾歳かであられるから、矢張り此の四大声聞も老境に入った、そして自ら涅槃を得て堪任むべき所無しと思って、涅槃の此の覚りの中にはいってもう何事も佛の国などということを造るべきものは何ものもない。『所作已辯』といって、作すことは皆已ってしまった、涅槃の中に入ってしまったから何事も作すことはなくなった、そう思って居ります、そして又進んで佛の最上の覚り阿耨多羅三藐三菩提を求めようとしませんでした。 これまで佛様がさまざまの法をお説きになり、自分達は時に其の座におりまして、
 『身体疲れ懈りつつ、但、空、無相、無作を念へり』
涅槃の世界は空である。其の中にはさまざまの差別の相はない。そこにはもう何等求むべきものもない求むべきものがないということが煩悩の起こらぬ本であるから、そういふ『空・無相・無作』という所にはいってしまった。そして
 『菩薩の法なる遊戯と神通ともて、佛の国土を浄め、衆生を成就することに於いては心に喜び楽はざりき』
『空・無相・無作』などということは観念です。それから菩薩の法の『遊戯・神通・佛国土を浄め』というのは実践的であって実行法です、菩薩の法と二乗の法は観念的のものと実践的のものとの相違であることがここにも見えているのです、そのことを明らかにここに書かれて居ます。
 自分達はもうこれでお終いだと思ったところが、佛様がそうでないといって、一大佛乗をお説きになった。自分達はこれまでそれを本当に求めなかったのであるが、而も今や
 『無量の珍かなる宝を、求めずして自ら得たり』
斯ういふ思いが致します、その思ひを四大声聞が譬喩を以て申上げようと思ひますといって領解を述べました。
 それが「信解品」の説法なのあります。即ち四大声聞の説法です。

 6 長者窮子の譬

 すなわち此の四大声聞が、佛から教を受けた、「方便品」と「譬喩品」をうかがって、それについて自ら信じ、そして解ったところを述べたのです。「信解」とは四大声聞の信解を述べたので、それはどんな風に譬喩だと申しますと、ここに或る貧しい人があった、其の人は年がまだ幼稚い時分にお父様を捨てて逃げましたが、めぐりめぐって父に救われる話で、これを『長者窮子の譬』といひますが、長者は佛であり、窮子は二乗であります。

    
其1 父子相失

 何時も申上げるやうに、二乗というのは印度の当時に於ける人間佛徒なのです。二乗の外には人間佛徒はないのです。長者は佛、窮子は当時の印度に於ける佛徒です。此の人間佛徒はずっと昔自分の家をさまよひ出て父を捨てた、
 『久しく他国に住まひし、或いは十二十より五十歳に至ぶ』
これは何ういふ訳だといひますと、本と我々も佛性というものを有って居た。即ち長者の佛の血を受けて居たのですが、それを忘れて迷い出た、煩悩の世界に父を捨てて迷い出たのです、そして或いは人間に生まれ、或いは天上に生まれ、或いは地獄・餓鬼・畜生等の五道に生れた、そのことを『或いは十二十より五十歳に至ぶ』と譬えられたのです。五道というのは六道の中の修羅道を餓鬼趣と天趣とに摂して五道とするのです。
 『年既に長大みて、加す復窮り困しみ、四方に馳騁り以て衣食を求め、漸々に遊い行きて邁ま本国に向ひぬ』
そういう風に愚図愚図してさまようて居ったのですが、知らず識らず、因縁といひましやうか、自分の生れた本国に向って来ました、『本国』といひますのは父の佛の居ます国、即ち佛様に会ったことです。釈迦牟尼仏が出られるところに生まれることが出来た。それが『本国』に向かったといふ譬へであります。ところがお父さんの佛の方は
 『先より来た、子を求むれども得ず、中ろ一の城に止る』
父の方は子を求めて居た、そして一の城、即ちこの三界に出られました。
 『其の家大じく富みて財宝量無し、金銀瑠璃、珊瑚琥珀、玻り珠など、其の諸の倉庫に悉く皆みち溢れぬ』
と申しますのは、佛が一つの所に止まった、それは如来が出世したことで、佛様が釈迦牟尼仏として出世せられた、その佛様の境界は恰度長者のような境界である。『其の家大じく富みて財宝量無し』三十二相・八十種好・慈悲喜捨・四辯八音・神通之力等の萬の功徳があるということを、こういう風に譬えられました。
それから
 『商估賈客亦甚ど衆多なり』
というのは、佛が出られて娑婆世界の衆生を救はんとすると、他所の国の法身の菩薩が、皆佛様の所に出て来て、佛の行化を助ける。そういふことをば四方の商估やさまざまの賈客が出てくると譬えられました。
 『時に貧窮の子は、諸の聚落に遊ひ、国邑を経歴りつつ、遂に其の父の所止れる城に到りぬ』
いよいよ父の居る城に出て来た。父は毎に子を念うて居るけれども、子と離別れて五十余年、未だ曾て人に向かって、我が子を失ったといふことは説かなかった。
 『但自ら思惟りて、心に悔恨を懐きつ、自ら念ふに老い朽ちて多の財物あり。金銀、珍宝、庫にみち溢るれども、子息のあること無し、一旦終歿らんには財物は散り失せて、委ね付くる所無けんと。是以に慇懃に毎に其の子を憶ひつ、復是の念を作す。我若し子を得て、財物を委ね付けなば、坦然に快楽く、復憂慮ること無からん』
これは佛様が出世して、そして其の佛の解りを一切衆生に与えておかなければならぬ、といふ佛の根本の出世の目的をここに譬えられたのであります。

   
 其2 父子相見

 『世尊よ、爾時に窮の子賃に傭はれ、展転りて邁ま父の舎に至りぬ』
『賃に傭はれ』といふのは、僅かの酬いを得る為にさまざまの労働をした。それと同じやうに、恰度お釈迦様が天竺に生まれられた時代には、さまざまの外道の教があった。其の教によって修行すると、どれだけかの解りを得られる。其の僅かな解りを得ることを『賃』と譬えたのです。
 『門側に住立みつつ、遙かに其の父を見れば、獅子の牀に踞ひて、宝の几足を承げ、諸の婆羅門、刹利、居士、皆恭敬囲繞せり。真珠の瓔珞の価値千萬なるを以て、其の身を荘厳し、史民僮僕など、手に白き拂を執りて左右に侍り立てり云々』
といって、佛の姿の非常に立派なことを説かれまして、
 『威徳特じく尊し。窮の子、父の大き力勢あるを見て、即ち恐怖を懐き、此に来り至れることを悔いて、ひそかに是の念を作す』
子供が父を捨てて去った。それは煩悩に迷って衆生が佛性から離れたことをいふ、それから其の佛性の代表者たる佛の父は、毎に子供をば其の佛性にかへらしめようというので念じて居った、其の念じた結果子供を求める為めに、中ごろ一城に住った、それは佛の出世です、そして先づ子供が父を見た。其の見た時はどんな姿であったかというと、それは非常に威徳尊厳な姿を見せられた、それに対して子供は
 『或いは是王か、或いは是王の等か、我らが力を傭ぎて物を得る処に非ず。如かず、往きて貧しき里に至らば、力を肆にする地ありて衣食のこと得易かりなん』
先刻申したやうに『賃』を求めてさまよって居った、僅かの覚りをば求めてさまよって居った、ところが其の父の長者の姿を見たが、あまりに隔たりがあって、到底自分達の傭われる所ではないと思った。これは天台の『五時説法』と申しまする・・・・・佛は一代五十年の説法に五つの時に於いての説法の区分があります。佛が一番最初に説かれたお経は「華厳経」ですが、此の「華厳経」は佛の財産を悉く説いたようなものです。其の佛の財産のことをここに示されました。其の「華厳経」の佛を見て、四大声聞等の二乗の機は、到底、自分達の及ぶところではないといって、彼等は佛の父のところから逃げてしまったのです。
 『若し久しく此に住まらば、或いは逼迫られて、強(あなが)ちに我をして作かしめんと。是の念を作し已りて疾く走りて去りぬ』
「華厳経」を聞いたが二乗の人達はわからなかった。聾の如く唖の如く少しも『華厳経』を聞いてもわからなかった。これは佛が成道せられて菩提樹の下に寂然不動のような姿に見えていた。一般の印度の人には寂然不動のように見えて居った中が、即ち「華厳」の説法であった。此の華厳の説法は、後に後分華厳の時には二乗も居ったのですが、聾の如く唖の如しで、まるでわからなかった。佛が「華厳経」を説かれたことは、恰度お前の父はこんな姿なのだということを知らせる為めに、父の本当の姿を先ず見せられた。そのようなものというので、これを『擬宜』という。そこで子供は到底、こんな所では自分の為めにはならないというので逃げてしまった。 それを追うのが、

    
其3 父命追誘

というところになりますが、先ず父が子を見る
 『時に富める長者、獅子の座於り子を見て便ち識り、心大ど歓喜びつつ、即ち是の想を作す。我が財物の庫蔵、今こそ付くる所あれ、我常に此の子を思念えども、之を見るに由無かりき。而るに、忽くも自ら来たれること、甚ど我が願いに適えり。我年朽ちぬと雖も猶故らに貪り惜しむなりと、即ち傍の人を遣りて・・・・・』
子供が到底これは自分達の及ばないことだと思って逃げた。そこで・・・・・自分達の及ばぬこととして逃げたのを・・・・・おびき寄せなければならぬというので、父が傍らの人を遣られた。
 『爾の時に使の者、疾く走せ往きて捉へけるに、窮の子驚き愕き、怨と称へて大ど喚びつ。我相犯せること無し、何が為に捉へらるるや。使いの者之を執ふることいよいよ急りて、強ちに牽き将て還へる。時に、窮の子自ら念はく、罪無くして而く囚執へらる。此必ず死ぬべしと。転た更に怖れ、悶絶して、地にたおる。父遙かに之を見て、而ち使いに語りて言はく、此の人を須いず、強ちに将て来たること勿れ冷水を以て面に濯ぎ、醒め悟ることを得しめよ、復興に語ること莫れと。所以者何となれば、父、其の子の志意の下しく劣れるを知り、自ら豪貴きて、子に難られたりと知りつ』
即ち「華厳経」を説いて見たが、子供は逃げてしまった、人を遣わして捕へようとしたら気絶してしまった、そこで此の子供は到底大乗の教、菩薩の教の広大なる教はわからないものであるから、子供の卑しい心に適当した教を説かなければならない、 
 『而ち方便を以て、他人に語りて是吾が子ぞと云はざるなり。使の者之に語りけるは、我今汝を放す。意に趣く所に随せよと。窮の子歓喜びて、未曾て有なき得しつ。地より起ちて、往きて貧しき里に至り、以て衣食を求む。爾の時、長者、將に其の子を誘引はんと欲ひ、而ち方便を設りて、密かに二人の形色憔悴れ、威徳無き者を遣はす』
密かに二人の使いを遣はした、其の二人は形色憔悴れ、威徳無き者であった。そういふ者を遣わして
 『汝、彼に詣りて徐ろに窮の子に語るべし。此に作く處あり、直を倍して汝に與へん』
子供が小さな解りを欲して居った、そこで其の小さな解りを『賃』ということに譬へた。その賃仕事としては、外の賃仕事より倍の仕事がある。そういう個人的の解りからいったならば、当時の外道よりすぐれた解りがあるといって、小乗を説かれた、といふので
 『直を倍して汝に與へんと。窮の子若し許はば、將い来りて作かしめよ。若し何の所作をか欲すると言はば、便ち之に語るべし、汝を雇ふことは糞を除はしむるなり』
『糞』を除はしめんが為である。此の『糞』とは即ち煩悩で、専ら煩悩を除かんとつとめ、その煩悩を除いたところが涅槃だということを教える為めに雇うのである、四諦の教、十二因縁の教は、煩悩を除いて涅槃のところに行かしめる為めである、其の涅槃の一つの解りは、恰度賃仕事の賃を貰うやうなものである、
 『時に、二人の使い人、即ち窮の子を求めけるに、既にして已て之を得つ。具に上の事を陳ぶ。爾の時窮の子、先づ其の価を取り尋で與に糞を除ふ。其の父、子を見て愍みて之を怪しむ。又、他の日を以て、まどの中より遙かに子の身を見れば、疲れ痩せ憔悴し、糞土と塵とにまみれて、汚穢しく不浄なり、即ち、瓔珞と、細軟なる上服と厳飾の具とを脱ぎ、更に麁弊れ垢賦める衣を著け、塵土に身をまみらし、右の手に除糞の器を執りて、畏るる有をヨソホ(爿へんに犬)ひつつ、諸の作人に語るには・・・・』
これは佛が恰度二乗のやうな僅かな自己の解り、其の解りを求めて居る者に対しては、見思という煩悩を除いた、見思の煩悩を脱した、教学では蔵教の佛といふのですが、爾いふ佛様の姿を見せられた、其の見思の煩悩を脱した佛の姿、その姿を見せられたのが、即ち阿含経のところであったので、そのところをば佛様は『瓔珞と、細軟なる上服と、厳飾の具とを脱ぎ』即ち「華厳経」のやうな広大な姿を去ってとある、 菩薩は髪や形をかざって、瓔珞等をつけた畏ろしい立派な姿をして居られる、ところがお釈迦様を見ると恰度阿羅漢様と同じ形をして居る、元来佛様はあの瓔珞などをつけて居られる方が本当なので、菩薩の親方が「華厳経」の佛だ。其の菩薩の親方では、当時の印度に於ける煩悩をなくなして空の中に入ってしまふといふことを考へて居たやうな衆生に対しては解らない、そこで髪などの厳飾を去ってしまって、『麁弊垢賦める衣を著け』て、阿羅漢様と同じような姿になって見せたので、そのことをば
 『瓔珞と、細軟なる上服と厳飾の具とを脱ぎ・・・・・・』
といはれた、菩薩の親方のような姿を脱いでしまひ、右の手に除糞の器、この器とは即ち煩悩を除る法門で
 『右の手に除糞の器を執りて、畏るる有をヨソホ(爿へんに犬)つつ、諸の作人に語るには、汝等勤め作らきて懈り息むことを得勿れと、方便を以ての故に其の子に近づくことを得つ。後復告げて言はく、咄男子よ汝常に此にて作け、復餘に去ること勿れ。当に汝に価を加すべし。諸の須ゆる所あらば、盆器、米麦、塩酢の屬も、自ら疑い難ること莫れ。亦老弊れし使人もあり、須いば相給へん。好く自ら意を安うせよ汝が父の如し、復憂慮ること勿れ』
といって、阿羅漢様の親方のやうな姿を示したのが佛の阿含経であったのです。そこで其の後『是を過ぎ已りてより、心相躰み信み、入るにも出るにも難り無し』というようになった

    
其4 領付家業

 次はところは「家業を領付す」「家業」というのは佛様の業で、其の佛様の業をば領するといふのは成程自分のものだといふことを領解することであります、「付す」といふのは佛様の業をそのまま受けつぐことです。先づ家業を領することが先で、その領するのは何うであったかといふと、阿含経が説かれて後、此の四大声聞等はもう阿羅漢様のような小乗の佛様、それと同じやうになってしまったのです、阿羅漢様といふのは世間の苦楽を超越したもので、其の超越したところは阿含経の佛と同じやうな姿になった、そこまで行った、仍でソロソロ佛様が自分の本当の姿をば示してやる時であるといふので、十方に佛様があることを示された、それが所謂方等部の経であります、其の方等部の経を説かれた時は譬へていふと
 『是を過ぎ已りてより、心相躰み、入るにも出づるにも難り無し』
入出無難、これが方等経のことであります。『入』というのは大乗の法門に入るということで『出』というのは三界より出づる小乗に譬えたのです。此の方等部の代表的のものは「維摩経」のやうなものです、維摩居士が病気だった、そこへ佛様が二乗の弟子と菩薩の弟子を連れてお見舞いに行かれた、其の時に居士が阿羅漢様を非常に罵倒した、そして菩薩の方をば大いに称揚した、それを聞いて阿羅漢様達は、心では大乗を慕ひ、そして小乗が、自分だけの涅槃にはいったといふことが、つまらぬものだといふことが解った、成るほど阿羅漢といふものはこんなにつまらぬものか、自分が此のやうになったものだから、何んなに長者から何といはれても何とも思わないやうに、本当の心が通じてしまった。
 『心相躰み信み入るにも出づるにも難り無し』
大乗をほめられ小乗をひどく卑しめられても、少しもそれに対して心が悩まなかった。けれども
 『其の止まる所は猶本の處に在り』
矢っ張り小乗の心であったのであります。
 『世尊よ爾の時長者疾ひありて、自ら將に死の久しからざるを知り、窮の子に語りて言はく、我今多くの金銀珍宝ありて、倉庫盈ち溢れたり。其の中の多き少き、應に取るべきと與ふべきと、悉く之を知れ。我が心是の如し、当に此意を躰るべし。所以者何となれば、今我と汝とは便ち為れ異ならざればなり。宜しく用心を加ひて、漏失はしむること無かれ』
といはれて、其の次には『般若経』を説かれたことを譬へた。
 その「般若経」は真の徹底空を説かれたのであります、阿羅漢様の空、それよりももっと深い真の空です。阿羅漢様のやうに世間と出世間と別にするのでなしに、世間も出世間も差別をなくしてしまった畢竟空です、それを説かれて小乗の須菩提・・・・・ここの四大声聞の一ばんはじめには慧命須菩提と出て居りますが、此の須菩提が「般若経」をば菩薩の為に転教する、菩薩や人天の為に須菩提が却って「般若経」をば転教する。佛様が須菩提等の二乗の為めに「般若経」を説かれて、そして須菩提等の二乗は其の般若の教をば、菩薩性の人間や天上の者の為めにそれを説いた、そのことの譬がここに下の如くいはれて居るのであります。
 『爾時に窮の子即ち教勅を受け衆の物、金銀珍宝、及び諸の倉庫を領知れども、而も一餐をだにこひ取らんずる意も無し』
長者の家の財産をつかさどって自由にするが、然し自分のものとは思はない。須菩提は般若の教を説いたけれども、自ら般若を実行しようとは思はなかったのです。
 『然くて其の止まる所、故じく本の處に在り。下劣の心も亦未だ捨つこと能はず。復少時を経て、父、子の意の漸く已に通泰りて、大じき志を成就し、自ら先の心を誡めるを知りつ』
「般若経」によって須菩提等の二乗は『諸法実相』という法だけは知りました・・・・・これを法開会といひますが、その法開会ということだけを受けましたけれども、自分が矢張り佛になるのだということは考へなかったのです。
 その時に長者は最早死の時が至って来た、
 『終らんと欲なる時に臨みて、而ち其の子に命じ、並びに親族、国王、大臣、刹利、居士を会むるに、皆悉く已て集いぬ。』
父は此の時に、父の家の財産のことは皆子の番頭にいって自由に扱わした。ところがもういよいよ父の長者は死ぬ時が至ったから、そこで子に命じて親族や国王や、その他すべての者を皆集めた。集めて自ら宣べて言はく
 『諸の君よ、当に知りたまへ、此の是我が子なり、我が生める所なり。某城の中に於て、吾を捨てて逃げ走り、さすらいて辛苦すること五十餘年、其の本の字は某、我が名は某甲なり。昔本の城に在りしより、憂いを懐きて推ね覓めしが、忽くも此の間に於て、遇ま会ひて之を得たり。此は実に我が子ぞ、我は実に其の父ぞかし。今我が所有る一切の財物、皆是の子の有にして、先に出し内れせしめし所は、是子の知る所なりと。世尊よ、是の時窮の子、父の此の言を聞き、即ち大ど歓喜びて未だ會て有なきことを得つ、而ち是の念を作す、我本と心にこい求むる所あること無かりしに、今此の宝の蔵、自然にして至れりといはむが若し。世尊よ、大富長者は、則ち是れ如来なり。我等皆佛の子に似たり。如来は常に我等を説きて、子と為したまふ。世尊よ我等は三苦を以ての故に、生死の中に於いて・・・・・』云々
「般若経」がすんでからいよいよ親族やすべての者をあつめて、『此は是我が子なり』というのが則ち『法華経』であります。これを『符業』といふ、 即ち最初には華厳の大乗を説いて、わしが本当のお前の親なのだと知らしめたが、その子供であるべき衆生は、そんな大きな佛の、華厳経の如く大なる姿は到底自分達は領解することは出来ないと逃げたから、そこで菩薩の親方のような姿を捨てて、煩悩を除き払うことを主にした阿羅漢の姿になって教へ導いた、それから彼等が煩悩を除り去って涅槃の法にはいった、そこで執著の心がなくなったから、執著の心がなくなったのを境にして心相躰み信みしたから、どんなにひどく弾呵されても何とも思はないようになった、そこでお前の悟りはつまらぬ悟りだ、もっと本当の境界は別にあるのだといって菩薩をほめ、二乗を弾呵した。弾呵した結果大乗の方が結構なのであるということが解って来たのであるから、佛の業務、即ち佛の真の功徳利益、さういふものをば「般若経」によって領解せしめた、自分のものの如く恰度須菩提が般若の教を以て人天を教へた、けれども自分が佛にならうと少しも思わなかったのを、法華に至ってお前が本当の子供だったのだ、佛の佛性を根本から有って居たのであって、必ず佛にならなければならぬ筈のものであるといって、業を付けたのであります。
 はじめ「華厳経」の時それが解らないから「阿含経」を説かれた。それから「阿弥陀経」「維摩経」などというやうなお経を説かれて十方に佛があるぞ、佛の沢山の功徳利益、菩薩の有難いことを説かれた、それが「方等経」であった、それから沢山のさういふ十方の佛や菩薩を説いたけれども、畢竟して諸法実相という法に住さねばならぬ、それは大般若波羅蜜多の畢竟空の智慧からさういう風になるのだといって、般若の教を説かれた、その結果終に「法華経」で真に二乗を佛にされたのだといふ此の「信解品」の要領は、佛が教えを説かれるのに五つの経過があった、斯ういふことを示されたのであります。
 擬 宜 ー 華 厳 経
 誘 引 ー 阿 含 経
 弾 呵 ー 方 等 経
 領 業 ー 般 若 経
 符 業 ー 法 華 経
四大声聞は其の事柄を更に偈で説いて居ります。其の偈を説いた最後に信解の結論を述べて、佛の恩を説いて居ります、ここは四大声聞の領解の、世尊大恩偈といって、大変有名な記憶に存してもらふところであります。
 『世尊は大恩ます。希有の事を以て、憐愍教化して、我等を利益したまふ、無量億の劫にも、誰か能く報いまつる者ある、手足をもて供へ給げ、頭の頂もて礼し敬ひ、一切をもて供養すとも、皆、報いまつること能はじかし、若し頂以て戴き、両の肩に荷負ひまいらせ、恒沙の劫に於りて心を盡して恭敬し、又美しき糧、無量の宝の衣、及び諸の臥具、種々の湯薬、牛頭栴檀及び諸の珍宝をもて、以て塔廟を起て、宝の衣もて地に布かん。斯くの如き等の事、以て用って供養しつ。恒沙の劫に於ぶとも、亦た報いまつること能はじかし。諸佛は希有にます、量無く辺無き、不思議の、大じき神通力ぞ在します、無漏無為にして、諸法の王にてませり、能く下劣の為めに、斯事を忍ばせたまひ、取相の凡夫に、宜に随ひて為に説きたまふ。諸佛は法に於て、最も自在を得たまへり。諸の衆生が、種々の欲楽と、及び其の志力とを知しめし、堪忍めん所に随ひて、無量の喩を以て、而も為に法を説きたまふ、諸の衆生が宿世の善根に随ひつ、又成熟れる者と未だ成熟らざる者とを知しめしつつ、種々に籌量べ、分別し知ろしめし已りて、一乗の道に於て、宜しきに随って三と説きやまひしなり』
 佛の五時説法といふものは、佛の無量の大慈悲から出たものです、それだから其の大恩は甚深で、供養しても到底供養しきれるものではない。
 『諸佛は希有にます。量無く辺無き、不思議の、大じき神通力ぞおはします。無漏無為にして、諸法の王にてませり』
これは佛の一番最初の「華厳経」のやうな姿をいはれたの。
 『能く下劣の為めに、斯事を忍せたまひ、取相の凡夫に、宜に随ひ為めに説きたまふ。』
佛の本相をばかくされて、そして下劣の衆生の為に阿羅漢様のやうな姿を以て導かれたのであります。
 『諸佛は法に於て、最も自在を得たまへり。諸の衆生が種々の欲楽と、及び其の志力とを知ろしめし、堪任めん所に随ひて、無量の喩えを以て、而も為に法を説きたまふ。』
漸次衆生を導いて行かれたのであります。
 『諸の衆生の、宿世の善根に随ひつ、又成熟れる者と、未だ成熟らざる者とを知ろしめしつつ、種々に籌量べ、分別し知ろしめし已りて、一乗の道に於て、宜に随って三と説きたまひしなり』
という結論が『世尊大恩の偈』といって、佛の五十年の説法をば慈悲に結論してしまったのであります。恰度「華厳経」は佛の智慧の財物をば示し、「法華経」は佛の智慧と慈悲の究竟円満を示したものです勿論「華厳経」でも、「華厳経」の代表菩薩は文殊と普賢でありますから、文殊は智慧を表し普賢は慈悲を表したものです。けれども、「華厳経」そのものの組立は、佛の智慧の広大無辺を説き分けただけであります。然るに「法華経」は、寧ろ佛の智慧と共に慈悲を説かれ、而も慈悲を本體にしたともいふべき経です。「法華経」は権実二教・・・・・方便と真実の権実二教の意を説くのでありますから五十年の説法の慈悲をあらはされた、慈悲によって衆に智慧を與へられる。権実二教の意匠、それは佛の慈悲の活動です。慈悲の活動は何のためであるかといひますと佛の智慧を徹底してあらゆる衆生に與へることであります。「華厳経」は唯佛の智慧といふものをば、佛の智慧を領解する機類の人天に授けられた教で「法華経」は其の佛の最上の智慧をば、あらゆる一切の人間に徹底して與へられたのであって、さういふことが「法華経」の「法華経」たる所以であります、だから智慧は慈悲の活動であり、五十年の説法といふものは、慈悲の活動なのです、その点からいいますと「法華経」の方は実践的、華厳は一面から言ひますと観念的です。「阿含経」とそれから大乗の諸経の菩薩を見ると、二乗が観念的で菩薩は実践的です。けれども菩薩の法として見たならば「華厳経」は尚観念的です。菩薩といふものは徹底して一切衆生を救うのであります、けれども二乗が解らぬような法を説いたのでは菩薩行は徹底しない、法華経は悉く華厳に説いて居るやうな十重無盡の法、般若に説いているやうな諸法実相、それをば佛の五十年の説法活動、五十年の実際活動、歴史上の佛陀に現された、その歴史上の佛陀の中にそれは悉く含まれて居る。「華厳経」にあらはれた佛は、宇宙の真理を表象するやうなもので、それは歴史上の世界には出て来ない。唯歴史上では菩提樹下で座禅して居るとしか見えない。そのやうな華厳の性格の一面と「法華経」の性格の一面を最も明らかによく示して居るものが、此の「世尊大恩偈」なのであります。これは四大声聞の領解としましての結論で、「法華経」の性格を示したものであります。斯う見て差支なからうと思ひます、次は「薬草喩品」であります。


薬艸喩品第五 ページのトップ

 1 如来の述成

 「薬草喩品」は四大声聞の領解に対して、如来が述成せられた、「述成」といふことは恰度「印可」といふことと同じことであります。
 『爾の時世尊、摩訶迦葉及び諸の大弟子に告げたまはく、善い哉善い哉、迦葉善く如来の真実の功徳を説く、誠に言える所の如し』
お前のいふ通りである。それが「述成」なのです。
 『如来は復量無く辺無き阿僧祇の功徳有せり。汝等若し無量億劫に於りて、説くとも盡すこと能はざらん』
其の一分だけお前の言った通りであるが、然しながら佛の本当の真相はお前のいったやうなどころでなく、説くとも盡すこと能はず。それで如来がもう一往説いてやらうといふので
『迦葉よ、当に知るべし、如来は是諸法の王なり。若し説く所有るは、皆虚しからざるなり。』
これを「法王不虚」といひます。
 『法華経』の特色としての譬の中、「譬喩」「信解」の二品は「父」の長者としての譬えであります。それから「薬草喩品」は如来法王、これは「主」の譬です。それから次に「化城喩品」がありますが、これは導師で「師」の譬です。即ち如来の功徳を、主師親の三徳の方面から説き示されて居るのであります。
 何時も申し上げますように、宗教は主師親の三徳の表現によって、宗教的客體と主體との関係が明確になるものです。それを完備していないものは、其の宗教はまだ未完成の宗教です。完成されたる宗教は必ず此の三つの表現を備へて居らなければならないのであります。「法華経」はその意味に於いて「譬喩」「信解」によって父の長者、即ち「親」の意味を伝え、そして「薬草喩品」によって法王、法は主人真理の主人、主としての姿を伝え、「化城喩品」によって導師即ち師の姿を示されているのであります。
 『如来は是諸法の王なり。若し説く所有るは、皆虚しからざるなり。一切の法に於て、知の方便を以て之を演説したまふ』
この一切の法は教であります。教に約して権智を説いたものであります。佛様の教えは如来の一切の法に於て、知の方便を以て説かれたのであります。方便智を以て機に対して説かれ、権智を開き演べられた、
 『其の説きたまふ所の法は、皆悉く一切智地に到らしむ』
これは実智を顕はされた。佛様が五十年説かれた法、即ち一切の法は皆知の方便、佛の権智を以て説かれた。そして其の説いたところの法の結果は、悉く一切智地即ち「法華経」に到らしめる、実智に到らしめるのであると、これは権智を開き実智を顕はされたのであります。
 『如来は観じて一切の諸法の帰趣く所を知る。』
どうしてそれではそんな風に一切の法を説いて方便智を開いて、一切の法を説かれたのであるかといふと、如来の智慧が宇宙の一切の諸法の動き方を知る、其の本體を知り、又一切の衆生の深き心の所作を知り、通達して礎り無く、又一切の人間ならざるすべての法、宇宙の一切の法の動き方を知り、十界の法を知る、そして十界の衆生の心性を知って居る、それだから権智によって教を説くことが出来るのです。これは智に約して権智を開かせられたものです。
 『又、諸の法に於いて究盡し明に了りて、諸の衆生に一切の智慧を示したまふ』
これは智に約して実智を顕はされたものです。佛の教にも方便と真実がある。それは佛の智慧に一切の現象を知る智慧と、それから本體を知る智慧と、両方の智慧を以てもって居らるるからであると、斯ういふ事を概論せられました。
 それをば今度は譬を以て説かれるのです。

 
2 三草二木の譬

    
其1 有差別譬 述権教智

 「迦葉よ、譬えば三千大千世界の山、川、渓谷」
『渓谷』と書いて『たに』と読ませてありますが、同じ谷でも『渓』は水の流れて居る谷、『谷』は水の流れて居らない谷です。
 『渓谷、土地に生うる所の草木、叢林、及び諸の薬草の、種類若干に、名色各異り』
これは何ういうことを説かれたところかといひますと、一に差別を譬へられてあります。即ち権教を説かるる智慧即ち方便の智慧を述べられたので、山、川、渓谷、平地のさまざまの変った土地がある。そして其の変わった土地に生えて居る草木、叢林、諸の薬草も亦いろいろに変わって居る。
 『蜜れる雲、弥布きて、偏く三千大千世界を覆ひ、一時に等しく濯ぐ。其の澤普く草木、叢林、及び諸の薬草の、小さき根、小さき茎、小さき枝、小さき葉、中なる根、中なる茎、中なる枝、中なる葉、大なる根、大なる茎、大なる枝、大なる葉に洽ふに、諸樹の大小、上中下に随ひて各受くる所有り』
土地が違ひ草木がさまざまある、密雲が蔽ひ雨がそそがれて洽ひを受ける、さうするとそれらが皆大きくなります、土地と譬へられたものは、衆生の受け入れる心です。衆生は受け入れるのに先刻いったように色・受・想・行・識の五薀があります、此の五薀を山・川・渓・谷・土地に譬へられました。山というのは色薀です、川というのは受薀です、それから渓というのは想薀であります。谷は行薀で、土地は識薀で此の五薀に受け入れる、一切衆生というものは斯ういふものです、山あり川あり渓谷あり土地あり、其の訳は山は我々の肉体、川は受け入れる心の感覚、渓は我々の受け入れた心が保存されて、居てさまざまに組み合される、そして行動する方の心は谷に譬へ、識薀を土地に譬へられました、其の中に生へて居るところの草木・・・・・衆生は皆此の五薀を有って居る、同じ五薀の中でもさまざまの草木の如く変わりがあります。五薀は同じように有っていますが、心操は皆違って居るのです、其の違った心が成長する、それは草木のやうなものです、 それに対しての「蜜雲」といふのは、佛様の慈悲と智慧の譬です。佛様が世に出でられ、そして衆生を救はうとせられる、その慈悲と智慧、それをば蜜雲に譬へられました。これは佛の三蜜です、どうして三蜜だといふならば、雲には色がある、雲には又覆ふ力がある。更に又雲には雷があって、電気及び雷声を発する、雲の色は即ち佛の身體であって「身蜜」です。雲が覆うといふことは佛の慈悲の譬へですから「意蜜」であります。雷の声というのは佛の説法ですから「口蜜」であります。
 密  雲・・・・・色・・・・・身  密
          覆・・・・・意  密
          雷・・・・・口  密
 「密雲」とは即ち佛を譬へたものです。そこで雲から雨を降らすといふことを『一時に等しくそそぐ』、雨といふのは、それは佛の説法を譬へられました。其の雨が降ることによってさまざまの草木の、小さな根、小さな茎、小さな枝、小さな葉、中なる根、中なる茎、中なる枝、中なる葉、大なる根、大なる茎、大なる枝、大なる葉が皆成長する、すべての草木がそれによって洽ひを受ける、洽ひを受けるということは教をうけることに譬へられました、
 『諸樹の大小、上中下に随ひて各受くる所有り、一雲の雨らす所、其の種性に称いて、而ち生長つことを得て、華果敷け実る』
洽ひを受ける、即ち教を受ける、そしてそれが各々利益を受ける。即ち増長する、そういふやうなものです。これまでが有差別の譬へであって、権教の智慧を述べられました。
 『一地の生ずる所、一雨の潤す所なり』
とありますけれども、
 『而も諸の草木に各差別あるが如し』
とあります。『一地所生』といふことはどんなことだと申しますると、それは『一切智地』、みんな色・受・想・行・識の五薀を持って居りますが、其の五薀の最後のところには、本当は皆佛様の佛性と同じものを皆有って居るのだ、山である川である渓である谷である一般の土地であると差別して居るが、其の地面たることは一なるが如くさまざまの草木が変わって居ても一地所生であるが如く、それは一切智地という佛の本当の智慧から出て居るのである。『一雨の所潤』であるといふことは、それは『一雨』は即ち法でありまして、本当は皆『一音平等』の一大佛乗の教から出て居る。それでも其の中に『三草二木』・・・・・小さい草、中位の草、それから大きい草、『二木』は小樹、大樹、これだけのものは皆変わった相に育って行くのです、変わった相に育って行きますが、要するに一雨の所潤であり一地の所生です。これは統一で、みんな佛性があり衆生各に一の如来の権実一如の雨に潤うて、其の結果は一切智地に到り、一大佛乗になってしまふのであります。

    其2 無差別譬、述実教智

以上は総論的に説かれたので、それから次の方に細かくお説きになるのです。
 『迦葉よ、当に知るべし、如来も亦復是の如く、世に出現したまふこと、大雲の起こるが如し。大じき音声を以て普く世界の天人阿修羅に偏うこと、彼の大雲の偏く三千大千の国土を覆うが如し』
これは先ず『密雲』といふのは、佛の世に出られることが『密雲』であります。
 『大衆の中に於て、而ち是の言を唱へたまふ』
といふところからは、雨のそそがれることを譬へてあります。雨をそそぐのは説法されることで、その第一には、如来は先ず宣言されております。
 『我は是如来なり』
『如来なり』とな何であるかといいますと、如実のところから来って、正覚を成ずる、真理のところから俺は出て来たのだ。真理のところから出て来て、そして今佛の覚りを人間の身體に成じたといふことを示して居るのであるぞ、
 『応供なり、正偏知なり』
供養を受くべき人であり、正しき偏き知見の人、真理のままによく一切を見ぬく智慧を有って居るものである。
 『明行足なり』
『三明』というのは宿命明といって過去世の事を知るのと、天眼明といって未来世の事を知るのと、漏盡明といって現在に煩悩を断じたる知見との三つの神通を具へて居ることで、智慧と禅定と神通とすべてを有って居る人である。
 『善逝なり』
迷いの世界を善く逝れてしまった人である。
 『世間解なり』
世間のあらゆることに通達するものである。
 『無上士なり』
これ以上のない人である。
 『調御丈夫なり、天人師なり、佛なり、世尊なり』
一切の人間をば本当に調らしてやる人である。天人の師である。我は佛即ち覚者である。我は一切世間から尊ばれる当然なる存在である。こういう十の讃歎を自らせられて居るのです。これは佛の大雨が我々にかぶさった、三千大千世界に大雲が覆ひかぶさったが如く堂々と宣言せられております。十号具足、我は如来である、応供である、正偏知である、明行足である、善逝である、世間解である、無上士である、調御丈夫である、天人師である、佛なり世尊である。其俺はどうしてそんな風な十号具足になったかといふと、それは四弘誓願によってなったのである。
 衆生は数限りなく居る、それをば誓願して何處までも悉く助けてやらう、『衆生の無辺なるを誓願して度せん』、生死の岸から涅槃の彼の岸に渡らしめよう、『煩悩の無数なるを誓願して断ぜん、法門の無盡なるを誓願して知らん、佛道の無上なるを誓願して成ぜん』そういう四弘誓願から此の十号具足の如来となったのであるといはれるのです。即ち経文にはこれを左の如くいはれています。
 『未だ度せざる者は度せしめん・未だ解せざる者は解せしめん・未だ安せざる者は安せしめん・未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしめん』
これはその四弘誓願から出てきたのであります。
 『今世をも後世をも、実の如に之を知る』
三達智で、過去・現在・未来を皆知って居る。
 『我は是一切智の者なり』
『一切智』ということは何ういふことかといひますと、一切知者、これは『一心三智』といって、差別の一切のことを知り、平等の智慧を有し、その差別と平等との両方とも一貫したる中智を有し、空・假・中の三智を有って居る、それが一切智者です。
 『一切見の者なり』
一切のものを見ることが出来る、何うして見るかといふと、如来の肉眼と共に天眼をもち慧眼をもって居る。それから法眼をもち佛眼をもって居る。これを五眼といふので、普通には人間の肉眼だけしかもって居ない、天になって天眼、二乗になって慧眼、菩薩になって法眼をもつ、ところが佛は、これらの五眼をみな有っていられるから、其の肉眼で見るところも、天眼で見るところも、慧眼で見るところも、法眼でみるところも、またあらゆるものを見得る佛眼をももって居る。其の五眼をもって居るから、一切のことが悉く見える。即ち一切見のものである。
 『道を知る者なり、道を開く者なり、道を説く者なり』
どうして道を知って居る者であるか、それは意不護者である。何うして道を開く者であるか、それは身不護者であるからだ。何うして道を説く者であるか、それは口不護者であるからだ。この三不護といふのは何ういふことかといひますと、最早自分の意は、恰度孔夫子が『七十にして心の欲する所に従って則を超えず』、七十になったならば自分の思ひのままに、どんな心を起こす場合でも法則に違ふやうな心は起こさないといって居ますが、佛はあらゆる一切の道を知って居て、地獄の心も知って居れば餓鬼の心も知って居る、悪いところならばどんな悪いところでも、又善いところならばどんな善いところでも知って居る。けれどもどんな悪いことを知って居ても悉く善い用きをする。『不護』というのは『護らなくてもいい』といふことで、これはああしては不可ん斯うしなければならぬと心で決める必要はない、思いのままに用いて居てもちっとも悪くならない、みんなそれが善くなる、それだから道を知るものである、又道を開く者である、知る方は意ですが、道を開くのは実行することです。あらゆる身を以て、身の欲するままに動いて、それがみんな道である、それから道を説く者である。本当は道を説くことは、どんなことを言っても一言を発すれば天下の則となるので、かの文章などに『咳唾珠を成す』というやうなことをいひますが、それと同じやうに、言葉を発したならば皆道である。だから道を知る者であり、道を開くものであり、道を説くものである。
 知道者(意不護)
 開道者(身不護)
 説道者(口不護)
即ち三不護に達した者である。
 『汝等天、人、阿修羅の衆は、皆應に此に到るべし、法を聴かんが為の故に』
即ち大雲が三千大千世界を覆ふてそして今や雨をふらさんとする場合のようなものです、早く出て来て俺の法を聴け、俺に従え、密雲が三千大千世界を覆ふのと同じことである、如来の出世はそれと同じことである。
 次に「土地」のことです、
 『爾の時、無数千萬億種の衆生、来たりて佛の所に至り、而ち法を聴きたてまつる』
それは恰度先刻の譬でいふと、山あり川あり渓谷あり土地あり、それがみんな密雲にかぶらされて居る、それと同じように、一切衆生が皆佛の所に集まって来た。
 『如来時に、是の衆生の諸根の利き鈍き、精進なると懈怠なるとを観はしつつ』
即ち其の中の草木が区々の性格を有って居る。その草木をみんな佛様は徹底して見極めることが出来るのであります。
 『其の堪ふる所に随ひて、為めに法を説くこと種々にして量り無し。皆歓喜びて、快く善の利を得しむ』
彼等は其の教えを聞いて、そして潤ひを皆受けた。
 『是の諸の衆生、是の法を聞き已りて、現世安穏にして、後に善処に生れ、道を以て楽を受け、亦法を聴くことを得、既に法を聞き已りては諸の障礙を離れ、諸法の中に於て力の能る所の任に、漸く道に入ることを得るなり』
此の一連の語は、「法華経」の徹底した法の利益、即ち草木が密雲の雨を受けて、そして各々真に成長することを得た、それと同じやうに、「法華経」の徹底したる利益を示されたものであります。是の諸の衆生、是の法を聞き已ったならば、現世安穏にして後に善処に生れる。小乗の教では現世は苦諦である。現世が苦諦ということが本当の不虚の真理だ、斯う説かれた、其の現世をば「法華経」の一大佛乗に至ったならば、此の現世がすぐ涅槃の安楽地である、現世安穏、即ち其の現世が安穏にしてこそ始めて後に善処に生れる、此の世は苦しい、死んだら善い處に行かれるといふやうな、そんな馬鹿なことはない。これは「立正安国論」にも
 『先ヅ生前ヲ安ンジ、更ニ没後ヲ扶カラン』
斯ういふことが書かれています。先ず生前を安んじ、此の生きて居る中に、どんな苦しい境界に居ても、心が本当に落ついて心を苦しくない境界におかなければ何にもならない。それから更に没後を扶かる。死んでも安穏の地に入ることが出来るのだ、現世がつまらんものであるのに、死んでから善くなるなんてことはいけない。
 『是の諸の衆生、是の法を聞き已りて、現世安穏にして、後の善処に生れ、道を以て楽を受け、亦法を聴くことを得、既に法を聞き已りては諸の障礙を離れ、諸法の中に於て力の能る所の任に、漸く道に入ることを得るなり。彼の大雲の、一切の草木、叢林、及び諸の薬草に雨らすに、其の種性の如に、具足して潤いを蒙り、各生長つことを得るが如し』
 それから次は、其のように差別して皆雨の利益を受けたが、其の差別した雨の利益というものは、佛の一切智といふ徹底したる大智と其の大智の行動、それによって矢張り究竟したる利益、即ち、一切衆生が皆佛性を徹底することが出来るのだ、そいうことを説かれました。
 『如来の説法は、一相にして一味なり、所謂る解脱相、離相、滅相なり』
 如来の説法は一相である。それは何ういふことだといふならば、衆生の心、その衆生の心は徹底していったならば、それは一真如相であり、諸法実相の相である、それは恰度一切智地といったそれと同じ佛性だ、その一相なのだ、さまざまに心性が違って居るやうであるけれども、其の根本をついたならば十界十如を具するところの一念三千の一相なのだ、『一相にして一味なり』、それはどういう『一味』であるかといふならば、それは一大佛乗の法の雨の味と同じなのだ、それは言い換へれば何んなものかといふならば、それは『解脱相』である、『解脱相』とは何の解脱相であるかといふと、生死を超越したところの解脱相となるべきものである、それが本当の、単に解脱相のみならず又『離相』である。『離相』ということは一體どういふことであるかといふならば、解脱相は世間の生死、差別、それを離れたものが解脱相である。離れるということは全く世間から別になったものかといふとさういふ涅槃といふところ、世間とは別になったという出世間から又離れて居る解脱相であり、又離相である、生死に相対したる涅槃ではない結局それは『滅相』である。『滅相』といふことは何ういふことだといふと、生死もなく又涅槃でもないものであるから、不相無相名けて実相であるといふ、即ち相対的のものでなく、絶対的のものである、その結論としたるところは、究竟して一切種智に至るといふ、それが密雲という佛の目的であり、一味の雨といふ法雨の利益なのだ。
 以上が「無差別譬、述実教智」であります。

    其3 合差別譬

 それから
『其れ衆生ありて、如来の法を聞き、若しは持ち、読誦んじつつ、説の如くに修行しなば、得る所の功徳は自ずから覚知らざらん』
これからはさまざまの衆生が差別した利益を得ることをば、こまかくお説きになった。
 そこでさういう訳のものだ、差別していながら皆利益を得る、そして其の利益をえるた結果は、終に一相一味といふ一大佛乗の中に、一大佛性の佛の覚の中にはいってしまうのでありますが、其の道中ではさまざまに差別した覚のような境界にある、其の差別した境界になる所以は何だといひますと、衆生があって如来がさまざまの法を説かれるが、其の中の縁のある法を聞いて、若しは持ち、読み誦んじつつ、説の如くに修行したならば、得る所の功徳は自ずから覚知することは出来ない、衆生は知らない、然しながら所以は者何とならば、唯如来のみありて衆生の種相體性を知ることを得る、「方便品」の如是相・如是性・如是體といふ十如の中の最初に三つをあげられた。 それから『種』といふのは、これは佛種ということです、佛の種です、佛は一切衆生が佛の種を有っていることを、チャンと知って居られる、その佛の種を有って居る。其の種を二つに分けます。一つは『相対種』であり一つは『就類種』です。『相対種』とは何ういふことだといひますと、反対物をもって佛の種とするのです、「維摩経」などに阿羅漢様が生死を離れる、生死は不可ものだといふので生死をおそれる、それに対して菩薩が教へるのには煩悩こそ佛の種である、生死こそ涅槃の種である、恰度俗の言葉で、悪に強いものは善にも強いといふやうに悪に強い者が善にも強いということが『相対種』です。悪にも強いものは善にも強いことになることが出来ますけれども、ノンベンダラリンの者はどうにも仕様がないといふやうに、相対したことによってどんな悪人でもどんな者でも、決して捨てないといふことになります。次に『就類種の開会』といふことはどんな軽微な善でも、其の善から芽生えしめて本当の佛にしてしまふので、軽微の善も佛の種にするのです。そして『相対種の開会』で、どんな悪い者でも転じて善い者にしてしまふ、善悪共に、迷ひも覚りも共にみんな佛の種であるとする、さういふやうに何ものをも捨てない、相対、就類の二つの開会によって悉く佛の種にしてしまふ、これを『種』といふので、或は相対の悪人の方、或は就類の善い人間の方、何っちにしても其の人間の内容に含まれて居る性格、相として外にあらはれて居るところ、それの両方の本體、それから力作因縁果報等はみんな含まれているのですが、それは皆佛になるべき種を有って居る、諸の衆生の種相體性を知る、それは如来のみありて知る、衆生の種相體性はさまざまに違って居るが、其の違って居る人間を佛から見ると、
 『何事をか念じ、何事をか思ひ、何事をか修め、云何にか思ひ、云何にか修め、何の法を以て念じ、何の法を以て思ひ、何の法を以て修め、何の法を以て何の法を得るやを知ろしめす。』
これは佛教では『三慧』といふことであります、『三慧』といふのは『聞・思・修の三慧』といって「聞慧・思慧・修慧」といひます、『聞慧』といふのは法を聞くことで仮に私がここで話している、すると諸君の中には何の点か皆違ったところを心にとめて居ることがある、その『聞いた』ところを今度はどれだけかを思ふ、それの思ひを更に心で反覆して見る、それは『思』なのです。これを実行にうつして見るそれが『修』です。この聞・思・修の三慧のないものは修行を成就しない、法が自分のものにならないのです。
 それをば佛様は、此の者は何んな事を念じ、何んなことを思い、何んなことを修する人間かといふことを、チャンとご覧になる、
 『何事をか念じ、何事をか思い、何事をか修め』
此の人間ならば斯ういふことを念へるだろう、そしてああいふことを思うだろうと、そしてかういふ事を修行するだろうと、其の事柄を佛様はチャンと知って居られる、それを又、
 『云何にか念じ、云何にか思ひ、云何にか修め』
その事柄が、更に云何に動くか、其の人間が其の事柄に於いて、どんな風に動くかを、徹底して知って居られる、そして其の人間の性格と合ふやうに
 『何の法を以て念じ、何の法を以て思ひ、何の法を以て修め、何の法を以て何の法を得るやを知ろしめす』
これは因縁です。此の人間は聞・思・修の三慧からいったならば、其の三慧のどういふ法で導いたならばよいか、といふことをチャンとよく知られ、何の法を以て何の法を得るやの因果を共に知ろしめす、何ういふ修行をして何ういふ結果になるかを知って居られる、そこで
 『衆生の種々なる地に住せるを、唯如来のみありて、実の如くに之を見はすこと、明了にして礙無きなり、彼の草木叢林、諸の薬草等の、而も自ら上中下の性を知らざるが如し。』
雨がふって草木を潤すが、その草木は上中下と変わって居るけれども、その草木自らは自らが大きいのだか小さいのだか知らない、それを同じように衆生は、佛からはチャンと小さい種類のものには小さい法を説き、中位の者には中位の法を説かれ、大きい種類の者には大きい法を説かれるが、衆生の方ではそれを知らない。そしてこれがみんな本当なのだと思って居る、これは佛の方便の説法の場合をいはれたのです。
 『自ら上中下の性を知らざるが如し。』

    其4 合無差別譬

 然るに佛の方では、
 『如来は是の一相一味の法を知りたまへり』
さういふ風に説かれた法はさまざまに変わって居るけれども、其の変わって居るものの根底は一つだといふことは、如来は知って居られる、だから導く時はさまざまに説くが最後は根底の一つにおさめる、其の根底は一つだといふことは何ういふことだといふと、所謂解脱相、離相、滅相である、その『解脱相・離相・滅相』ということが究竟涅槃であって、生死を解脱することだけが涅槃なのではない。それは無相不相である、それが究竟涅槃である、生死と対立した涅槃ではない、『常寂滅相』である。
 『終に空に帰するなり』
其の『空』とは中道第一義空であります。
 『佛は是を知し已れども、衆生の心欲を観はしつつ』
さまざまに衆生の種相體性が変わって、『何事をか念じ、何事をか思ひ、何事をか修め、云何に念じ、云何にか思ひ、云何にか修め』という風に、さまざまのことを知って居られて、それに適合するやうに法を説かれるが、其の根底は『一相一味』なのである、それを徹底して知っていらっしゃる、知っていらっしゃるけれども衆生の心欲を観はして、先ずこれを将護せられた。
 『是が故に、即ち為めに一切趣智を説かず、汝等迦葉、甚だ為れ希有なり、能く如来の宜しきに随って法を説きたまへるを知り、能く信じ、能く受け、所以者何とならば、諸の佛世尊の、宜しきに随って説きたまへる法は、解り難く知り難ければなり。』
さういうわけで、こういうような「法華経」を説くまでさまざまに説いていたが、お前迦葉はよく其のことが領解めたというので、又迦葉をほめて居られるのであります。

    其5 破有法王偈

以上が「薬艸喩品」の大體でありますが、これから次に「破有法王偈」というのがあります。これは「世尊大恩偈」と共に、「法華経」の性格をがよく示されている偈であります。
 『有を破したまふ法の王、世間に出現れましつ、衆生の欲に随ひて、種々に法を説く、如来は尊く重くして、智慧深く遠く、久しく斯の要を黙みて、務いで速かに説かざりき。』
これまで真の肝心要の法を説かなかった、説かなかったわけは衆生にそういう種相體性の差別がある
からである。
 『有智若し聞かば則ち能く信じ解らん、無智は疑ひ悔ひて、則ち永に失ひ為ん、是故に迦葉よ力に随ひて為めに説き、種々の縁を以て、正の見を得しむ。迦葉よ当に知るべし、譬へば大雲の、世間に起こり、偏く一切を覆ふに、慧の雲は潤を含み、電光晃り輝き、雷の声遠く震ひて、衆をして悦豫ばしめ、日光掩ひ蔽して、地上清涼に、靉靆として垂れ布きつつ、承けて攬るべきが如し、其の雨普く等びて、四方に倶しく下り流れそそぐこと量り無く、率土に充洽ひつ、山川険しき谷、幽邃に生ふる所の草木薬草、大小の諸樹、百穀苗稼、甘蔗葡萄も雨の潤す所として、豊かに足らざること無く、乾ける地は普く洽ひ、草木並び茂り、其の雲より出る所の、一味の水に、草木も叢林も、分に随ひて潤を受く、一切の諸樹、上中下の等、其の大小に称ひて、各生長つことを得つ、根茎枝葉、華果の光色なり、一雨の及ぼす所、鮮やかなる潤いを得つ、其の體と相と、性との大小を分つが如に、潤す所是一なれども而も各滋り茂るが如し、佛も亦是の如し、世に出現れたまうこと、譬へば大雲の、普く一切を覆うが如し、既に世に出でましぬれば、諸の衆生の為めに、諸法の実を、分別し演説たまふ。大聖世尊は、諸の天人、一切の衆の中に於いて、而ち此の言を宣べたまふ。我は為如来、両足の尊なり、世間に出づること、猶ほ大雲の如し、一切の枯槁める、衆生を充ち潤して、皆な苦を離れて、安穏の楽、世間の楽及び涅槃の楽を得しむ。諸の天人の衆よ、一心に善く聴け、皆應に此に到りて、無上尊に覲えまつれ、我は為世尊なり、能く及ぶ者無し、衆生を安め穏めんとの、故にこそ世には現れたれ、大衆の為に、甘露の浄き法を説く、其の法は一味にして、解脱なり、涅槃なり、一の妙音を以て、斯の義を演暢き、常に大乗の為めに、而も因縁を作すなり。』
大乗というのは「法華経」で、「法華経」の為めにこれまでの四十餘年の諸経を説いて、因縁を作ったのである。此の次の語は非常に大切です。
 『我一切を観ること、普く皆平等にして、彼と此と、愛み憎む心あること無し』
これは佛の心境をいわれたものであります。
 『我一切を観ること、普く皆平等にして、彼と此と、愛み憎む心あること無し、我貪り著むこと無く、亦限り礎ること無し、恒に一切の為めに、平等の法を説く、一人の為にする如く、衆多にも亦然なり』
 『一人の為にする如く、衆多にも亦然なり』というのは、如来の慈悲の徹底をいはれたのであって、これは『涅槃経』の『一切衆生を視ること羅ゴ羅の如し』というのと同じ事です。羅ゴ羅は世尊唯一人の子供でありますが、一切衆生を視ること一子羅ゴ羅の如し、その意味と同じ事を言われているのであります。
 『常に法を演説きて、曾て他事無く、去来座立、終に疲れ厭ふこと不ず』
 『常演説法 曾無他事 去来坐立 終不疲厭』
これは佛の行動をいはれた,常に法を演べ説きて、曾て他事なしとある。先刻のところに『道を知る者なり、道を開く者なり、道を説く者なり』とあったが他に何事もない、常に法を説いて居られるのであります。身體も法を説いて居られる、心も無論である。口も法を説いて居られる、身口意の三業悉く法ならざるものはない、身體で法を説くか心で法を説くか口で法を説くか、或いは生まれて来ても死んでいっても、或いは去かれても、来られても、座っても立っても、どんな場合でも皆法のために動いているのだ、そして『終に疲れ厭うこと不ず』である。
 それから
 『世間を充足すこと、雨の普く潤すが如し、貴きも賤しきも上なるも下なるも、戒を持つも戒を毀すも、威儀具足れるにも、及び具足らざるにも、正見も邪見も、利根にも鈍根にも、等しく法の雨を雨して、而も懈り倦むこと無し』
此の「薬草喩品」の偈は、如来の智慧と如来の慈悲を、殆んど徹底して説かれたものであります。『世間を充足すること、雨の普く潤すが如し』如来というものはさういふものです。その世間にはどんなものがあるか、貴賤上下がある、しかしそんな貴賤上下なんてものは佛はちっとも差別して隔てる心は持っていらっしゃらない。又佛のいうことを能くきくからこそ愛する。佛のいうことをきかぬ者だから粗末に考えこれを卑しめる、といふやうなことはない。持戒の者も、毀戒の者も、威儀具足の者も威儀不具足の者も、正見も邪見も、利根も鈍根も、等しく法の雨を雨らす、『而も懈り倦むこと無し』これは佛の説法であり、佛の心境である、それから佛の行動である。貴賤上下持戒毀戒、威儀具足及び不具足、正見邪見、利根鈍根、悉く一切のものに法雨を雨らして充足する、それが即ち如来の説法です。
 『一切の衆生の 我が法を聞かん者は 力の受くる所に随ひて 諸の地に住せん』
即ち四十餘年法を説いたが、その法によって皆諸の境地に住したであろう。
 『或いは人天、転輪の聖主、釈梵の諸の王に處るは、是小なる薬草なり』
ここで三草二木の譬えを結論されてある、佛の法を聞いて人間は人間としての五倫五常を持つ、或いは死んで天に生まれる十善、及び有漏禅の道を持ち、転輪聖王に生まれ、梵天帝釈に生まれる、そういうのが小さき薬草である。
 『無漏の法を知りて、能く涅槃を得つ、六神通を起こし、及び三明を得るものと、独り山林に處り、常に禅定を行ひて、縁覚の證を得るとは、是中なる薬草なり』
声聞・縁覚の二乗が中なる薬草である、六神通無漏の法を證る、即ち世間を超越する、煩悩をなくしてよく涅槃の境に入り、そして六神通を起し、三明を得る者又常に禅定を行って縁覚の證を得る者、これは中なる薬草である。
 『世尊の處を求めて、我当に佛と作らんと、精進定を行ふは、是上なる薬草なり』
即ち菩薩が上なる薬草で、以上三草といって蔵教の三乗です。
 『又諸の佛子の、心を佛道に専らにし、常に慈悲を行ひて、自ら佛と作らんこと、決定して疑無しと知る、是を小樹と名く』
小樹は通教の菩薩である。同じ菩薩でも佛の覚りといふところの心に通うて、そして其の一分を実行する者、自ら心を佛道に専らにし、常に慈悲を行じ、自ら佛と作らんと決定して疑い無しと知る、これは小乗から大乗の佛の方に通じて来た通教の菩薩である。
 『神通に安住ひて、不退転を転らして、無量億、百千の衆生を度すもの、如是の菩薩を、名けて大樹とは為す』
即ち別教の菩薩が大樹で、これが二木です。以上が三草二木である。
 『佛の平等の説は、一味の雨の如し、衆生の性に随ひて、受くる所の同じからざるは、彼の草木の、所禀各異なるが如し』
佛は一つの法を説かれたのだが、衆生の性によって受けるところが各々異なる。
 少し飛ばして、其の結果のところに行きます。
 『是の如く迦葉よ、佛の説きます法は、譬えば大樹の、一味の雨もて、人てう華を潤しつつ、各成実を得しむるが如し、迦葉よ当に知るべし、諸の因縁と、種々の譬喩とを以て、佛道を開き示すは、是我が方便なり、諸の佛も亦然り』
こんな三草二木の為めに、雨をさまざまに雨らして居ったのは、それは佛の方便である。
 『今汝等が為に、最事実を説く』
これが円教の法であって『法華経』です。
 『諸の声聞の衆は、皆滅度せるに非ず、汝等が行う所、是菩薩の道なり』
これまで三草二木皆違うと思って居たが、それは違うのではないのだ、お前達が世間を超越して、そしてもう生死のない場所だと思って居ったその涅槃といふところは、それは本当は開会して最事実を説いたならば、それは皆菩薩の道であったのだ、佛の教えの一部分であったのだ・・・・・・此の點からいいますと、人天の法もさうなるから、孔子の教も亦一部分だ。耶蘇の教も亦法華経の一部分だ、そういうことになります。そのことをば
 『諸の声聞の衆は、皆滅度せるに非ず、汝等が行う所、是菩薩の道なり、漸々に修め学びて悉く当に佛と作るべし』
と結論せられまして、ここに佛の大慈大悲の心ばえが示された。
 『我観一切 普皆平等 無有彼此 愛憎之心』
それが佛の心境だ、それを以て我々の心境としなければ、佛の慈悲佛の道の血脈の伝わって居る佛の子とはなれない。『常演説法 曾無他事 去来坐立 終不疲厭』これが佛の行動だ、其の佛の行動を受け継ぐものでなければ佛子とはいえない、どんなに身を労し心を労しても、それを労と思はない、道の為め法の為めであったならば、『去来坐立 終不疲厭』だ。そこに道を行ずる者の、佛と我々の血がつづくのだ。佛の行動を以て自己の行動とする、あれが好きだこれが嫌ひだといふようなことを言って居たら、佛の心境に通じない。『無有彼此愛憎之心』でなければならぬ。
「薬草喩品」は佛といふものの、如何に徹底せる大人格であるかを示されたものです、三千大千世界を覆うところの大雲だから宇宙的人格です、その佛陀の大人格を示されたもの、佛陀の心境、佛陀の行動、佛陀の説法、其の姿をば譬えによって、最も明瞭にお示しくださったものが、此の「薬草喩品」の偈であります。

授記品第六 


 「薬草喩品」を終りました、今日は「授記品」であります、 「授記品」というのは、一番最初にお話しました「法華経」の御説法には、最初法説・・・・・道理の上からのみ説かれた法説、それに続いては譬喩を以て説かれた譬説、それから最後に因縁といふ昔の事実を以て説かれた因縁説、これを三周の説法と申します、其の中「方便品」は法説でありまして、「譬喩品」「信解品」「薬草喩品」の三品は、譬えを以て仰せられた譬説であります。佛が其の譬えを以て説かれた譬説を終わら、其の譬説を承った四大声聞・・・・・慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目ケン連、此の四人の大声聞が佛様から佛になる記別を授けられる。それを「授記品」という、又「譬説周の授記」ともいひます。『授』というのは授けることで、授けることは佛様が授ける、『記』というのは佛になる記別をいひ卒業証書のやうなものであります、それは何時佛になるということの記別をいただくので、記は佛果を期し、授は佛の手に在るのであります。

 
1 迦葉の授記

△迦葉。光明如来、光徳国、大荘厳劫。

『無有魔事雖有魔及魔民皆護佛法』

そこで「薬草喩品」の終りに、
 『迦葉よ当に知るべし、諸の因縁と、種々の譬喩とを以て、佛道を開き示すは、是我が方便なり、諸の佛も亦然り、今汝等が為に、最事実を説く、諸の声聞の衆は、皆滅度せるに非ず、汝等が行う所、是菩薩の道なり、漸々に修め学びて、悉く当に佛と作るべし』
斯ういふ「薬草喩品」の終りに偈を説かれたのであります、そこで此の「授記品」の始めに於ては、
 『爾の時世尊、是の偈を説き已りて、諸の大衆に告げて是の如き言を唱えたまふ、我が此の弟子たる摩訶迦葉は、未来世に於いて、当に三百萬億の諸の佛世尊に覲え奉り、供養し、恭敬し、尊び重め讃歎へて、・・・・・・・』
これはすべての菩薩行をすることです。そして最後の身に於いて佛になるであろう、其の佛の名は光明如来という佛になるので
 『如来、応供、正偏知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊』
といふのは、佛の十号と申して、佛様の功徳をさまざまに讃歎へた名前であります。
 其の迦葉が成佛した国は、「光徳」と名ける。劫は「大荘厳」と名ける。佛様の壽は十二小劫である、その佛が説かれた法、それがまさしく弘まるべき世の中が二十小劫である。それにつづいて法の住まることが二十小劫である、
 『国界厳しく飾りて、諸の穢悪、瓦礫、荊棘、便利不浄無く、其の土平正にして、高下、坑坎、堆阜などの有ること無く、瑠璃を地と為し』
という光明如来の国土の美しい相未曾有の相をばあげられまして、その後のところに、

 
2 無有魔事 雖有魔及魔民 皆護佛法

 『其の国の菩薩は無量千億にして、諸の声聞の衆も亦復無数ならむ、魔の事有ること無けむ、魔及び魔民有りと雖も、皆佛法を護らむ。』
とありますが、これは「法華経」の一つの理想なのであります、悪い者が全部なくなってしまふといふことは、「諸法実相」と申します、ありとしあらゆるものが、其のありのまま皆功徳を有って居るものであるということを認めまするならば、悪い者が全部なくなる必要はないのであります、「諸法実相」といふものの立てまへは、悪いものがなくなるといふ必要はない筈なのです、諸法といふものには我々が善いといって居るものも、悪いといって居るものも、何でもあります、凡そ存在するものという意味ですから、凡そ存在するものの真実の相だと申すのでありますから魔・・・・・魔といのは梵語で「魔羅」といひます、「魔羅」ということはどういうことだと言いますと、「奪命者」「奪功徳者」ということであります。我々の生命を奪うもの、若しくは功徳を奪うもの、それが「魔羅」です。
 佛教の教学で申しますると、此の世界を三つに分ける
 欲 界
 色 界
 無色界
斯ういう風に分けます。此の「欲界」ということは何んな欲を主とするのかと申しますると、さまざまな欲はあるけれども、根本にこれだけは何うしても欠くことの出来ない欲があるのです。それは睡眠欲と食欲と男女欲、これだけのことは欠くことが出来ない、それを「欲界」といひます。「色界」に行きますると、そういう欲が無くなって肉體は存在して居ましても、さういふ欲を有ていない所の生命であります。「無色界」になると純然たる精神的存在といってもよい、斯う申すのですが、此の「欲界」の中の一番最上のものが第六天といひます。其の第六天の王がそれが魔王といふのです。 其の魔王といふことは何ういうことだといひますと、此の魔王の名前を「他化自在天」という、「他化自在天」というのは、物でも人間でも相手のものをみんな自分の自由にして化してしまふことであります。相手のものを自分が占有してしまふことです。それが魔王といふことの本性なのです。一切占有欲といってもよい、一切のものを自分の占有にしてしまはうと欲望して居る、さう欲望して居るものが魔なのです。その魔であるから、他化自在天の占有欲であるから、すべての者の命を自分のものにしてしまはう、それから凡てのものの功徳・・・・・佛教で功徳ということは何ういうことだといひますと、佛教の本当の功徳は菩薩行であります、佛教は佛になることで、佛になる修行が佛教でありまして、佛になる候補者は何だといいますと菩薩です。即ち菩薩行のことをばこれを功徳といひます、「菩薩行」とは、自己を没して他のために盡くすことです、即ち没我です。佛教は菩薩行でなくても、声聞の教えでも無我であって「我」を認めない、そこから出発して居ます。菩薩行と言ったならば他の凡てのものの為に、自分を認めない、自己を没するのが功徳の本です。自分を没することの精神から、自分を没することの動きになって行く、自分を没して他人を利する、即ち佛教でいふ真の自利利他です、 まあ普通の人間の考へからいったならば、自分が先ずいいやうに、それから人様がいいやうにと考へます。これは普通の人間の考え方です、自分がいいように考えないで他人がいいやうに考えることは実行出来ないといふ、これは凡夫の普通の考え方ですが、それの利害が衝突したならば何うする、自分がいいやうにといふならば喧嘩をするより外はない、利害が衝突したらそうなります、ところが若しも利害が衝突した場合でも、何方かが相手の為めにと考へたならば利害の衝突は出来ない。相手の為めによいやうにといふならば、衝突したくても出来ない、それでなしに、先ず自分がよくってと考へたら衝突せざるを得ない、自利にして而して他を利するということは理屈らしいが、実行する場合却って実行出来ないことが沢山あります。
 佛教の考へ方は、声聞というもの、所謂声聞・縁覚の二乗、その声聞・縁覚というものは普通の世間の欲をみんな捨ててしまふ、けれども覚というものは、自分が先ず覚って己にすべての煩悩をなくし、自分だけが先に苦を抜けようといふことだけ、自分だけが苦しみから逃れやうといふ、其の料簡がいけないといふので、声聞・縁覚のことをば煩悩のある人間より悪い位に、「維摩経」その他の方等部といはれるお経では、打破せられてあります、他を利するという利他の修行、利他行をするということが直ぐにそれが自利になるのだ。他人の為めにはかる、自分を捨てて他人の為にはかるといふことが、本当の自分の為になるのだ、こういう考え方が佛教の考え方です。それが功徳であり、それを菩薩行というのであります。
 ところが此の「魔羅」、即ち魔そのものは他化自在天で、アベコベです、あらゆる他のものを自分のものにしてしまはう、他のものを自己の方便にしてしまはうとする全然菩薩行とは反対だ、そこでこれを「奪功徳者」といひます。それと共に「奪命者」、命をなくなすものです、此の命というものは単なる命のみでなく、佛教では命を二つに分けます、肉体の命、即ち色身の身命だけでなしに、もう一つ命がある、それは「慧命」という智慧の命です、魔は先ず此の「慧命」を奪ふ、泥棒根性が出て来たといふことは、普通の世の中では泥棒や誤魔化しをやったら、それが何時かばれたならば生活の根本からなくなすのだといふのですが、まァ知れない間は宜からうとやって居る。非常に利口な泥棒でも、結局したならば馬鹿だったといふことになります、それは「慧命」といふものを奪はれるからです、それから又「色身」即ち肉體の命を失ふといふこともありまするが、さういふ風に魔というものは命を奪ひ、もしくは功徳を奪う、それが魔であります。
 さういふ自己に一切を占有してしまはう、他の凡てのものを自己の方便にしてしまはうと、斯う考へる悪魔、さういふものが全然なくなるといふことがあり得るだろうか、という場合に、そのことをここに書かれております。『魔及び魔民』という『魔』は他化自在天の魔王のことです、魔王がなくなるのではない、魔王はあるのだ、欲界があるから、欲界の主人は他化自在天、それは居るのだ、それから『魔民』、他化自在天の心を以て心として居る人間も沢山居ります、けれどもそれらの者が悉く佛法を護らなければならないように、佛の功徳利益にそれを転回してしまふ、例をとっていへば、日蓮聖人があの大弘通をせられた、其の大弘通に対して妨害をした平ノ左衛門尉とか、極楽寺良観であるとかいふやうな人達、それらの者をば日蓮聖人は、又一面にこれらは「法華経」の『勧持品』の中にある『悪鬼入其身』、・・・・・「法華経」の『勧持品』には末法の時代に、真に「法華経」を弘める者があったならば、俗衆増上慢といふ、俗人で「法華経」の弘通者を害する者があるだろう。それは何んなことをするかといふと、悪口したり罵詈したり、終いには刀を以て斬らう、即ち『奪命者』、身命を奪はうとする、さういふ俗人の増上慢が居る。「増上慢」といふのは、未だ得ざるを得たりとおもふ、真の佛法は「法華経」に決まって居るが、それが解らないで、即ち未だ竟まらない佛法を以て、それ以上の佛法はないと思って居る、それを「増上慢」といふ、俗人の増上慢、それから道門増上慢といふ僧侶、僭聖増上慢といって、聖人の如な行ひや言をなしつつ、「法華経」の行者を悩ます者がある、ところでお経にはさういふ者のことを『悪鬼入其身』と説かれて居ます。良観等は即ち『魔』につかれた者であります。
 では、何うして『悪鬼其の身に入る』か、聖人のように思はれ、一般の人から見たならば『六通の阿羅漢の如し』と尊ばれて居る者、極楽寺良観などは日本に於ける社会事業家、何人もこれ以上やったことのない位の大社会事業をやった、橋を架けたり道を開いたり寺を建てたり癩病患者を治したりした、其の良観のやうな人が、さういふ人に悪魔即ち魔が入るのです。「法華経」といふお経は不思議なお経で『悪鬼入其身』の者が居るといふことが書いてありますが、良観といふ人こそ『悪鬼入其身』の人で、僭聖増上慢であります。僭聖増上慢の人は何ういふことをするかといふと、国王大臣婆羅門居士に讒言する、「法華経」を説く者を実は「法華経」を説いて居るのでなく、あれは外道の教へであると讒言する、
讒言した結果国を追ひ出したり、其の命を絶たうとする、かういふことが「法華経」に書かれてあるのですが、良観だの平ノ左衛門尉だのというような、聖人に敵対した俗人、一般僧侶、僭聖増上慢のものがやったのは何であるかというと、魔の所為を敢えてしたのであります、其の結果は何うなったかといふと聖人をば龍ノ口で首を斬ろうとしましたが斬れなかった、伊豆に流し佐渡に流した、二度流したことによって『数々見擯出』と経文にある通りの預言の実行が出来ました、首を斬らうとしたといふことがあって、始めて『加刀杖瓦石』といふことも実行することが出来ました。それらの者があって、始めて日蓮聖人が「勧持品」の二十行の偈を悉く実行することが出来たのであります。
 提婆達多があった為めに佛は真の佛の功徳をあらはすことが出来たのです。それと同じやうに、僭聖増上慢の者があったために、日蓮は勧持品の預言を実践して、真の法華経の行者になることが出来たのだ、さういふことを仰せられてありますが、恰度魔及び魔民有りと雖も、みな佛法を護るといふのは、悪いことがなくなってから始めて安楽があるといふならば、必ずしも「法華経」の必要はない、悪いことがどんなにあっても其の悪いことのある中で、それを転じていいことにしてしまふ、『毒を変じて薬となす、之を称して妙となす』で、毒があってもそれを厭がらない、自分を悩ますものがあったならば、それがある程自分自身の心を鍛錬し、自分自身の人格を玉成する所以であるといふ安心が立って居たならば、どんな悩ます者が来ても、それ以上の境地に立って居ることが出来る。 よく『敵一倍の力』といふことがありますが、敵が十人力ならば二十人力、敵が三十人力になると此方が四十人力になる。もっと強いものが来れば更に強くなる、何時でも向ふより強い、さういふ強い力があったならば何うです、「法華経」といふものはさういふやうなものです。相手より常に相手以上になって居る、自分を害するどんなものがあっても毒が出てきてもそれを薬にする、ありとしあらゆる諸法を、皆実相化してしまふ、嫌ひなものが来ても、それが世の中に存在するものであるならば、何等かその中に妙法があるのだ、苦しめられて居るといふことが、自分自身を玉成する所以なのだ、苦しめられて居ることは過去の因縁だらう、過去の因縁であるならば、それは甘んじて受けたら宜からう、受けると共に自分の本当の妙法の功徳を出し力を出す一つの試金石にすればいいのだ、恰度日蓮聖人が難に遭う毎に、日蓮等の輩は、難に遭ふを以て安楽行と心得るべしと仰せられたやうに、此ういふ心でいるのが、即ち法華経の安心です。難を逃げない、難の来るを安楽行と心得る、敵一倍の力です。
 娑婆世界といひますが、娑婆世界といふことは何のことかといひますと、娑婆世界は『忍土』といふことです、堪忍の世界だ、何等か堪忍しなければならぬものです。オギャアと生れた時に暗剣殺に向かって来たと思へばよろしい、暗剣殺に向いて来たから、さまざまのことが出て来るのが当然です、悪いことといっても、其の中の一番のものは、命をどうかすることですが、人間はどうせ死にます、唯くだらなく死なないやうにすればよろしい、根本の最後の安心といふものがついて居ったならば、少しも周章ない、人間といふものは、天性に一つの智慧をもらって居るから、どんな奴が出てきても、周章さへしなければいい分別が出ます。周章たら分別が出ない、そこで周章ず騒がない根本の安心を「法華経」は與へてあります。
 『魔事有ること無し、魔及び魔民ありと雖も、皆佛法を護る』
悪魔はあるけれども、「法華経」の観解に住したならば、そんな悪魔は我を害することは出来ない、魔事有ること無し、魔と魔民は居るけれども魔事にならない、正しいものを害することは出来ない、此の最後の安心です、それが
 『魔事有ること無し、魔及び魔民ありと雖も、皆佛法を護る』
それは迦葉の成佛したところの授記の讃偈なのであります。

 
3 須菩提等の三大声聞の授記

 △須菩提。名相如来、寶生国、有寶劫。
それから次に大目ケン連、須菩提、摩訶迦旃延等が
 『一心に合掌しつつ、世尊を瞻り仰ぎて目暫くも捨かず、即ち共に声を同せて而して偈を説きて言さく』
といって、感謝を申述べた、でどうか私達の先輩摩訶迦葉も、已に記を受けたのでありますから、私達にもどうか記をお授けなすって頂きたいとお願い申上げた
 『爾の時世尊、諸の大弟子の心の所念を知ろしめしつつ、諸の比丘に告げたまはく、是の須菩提は、当来らん世に於て、三百萬億那由他の佛に覲え奉り、供養し恭敬し尊び重め讃歎へて、常に梵行を修め、菩薩の道を具へ、最後の身に於いて佛と成為ことを得む』
そして名相如来といふ佛になる。寶生国に居って、劫は有寶というであらうと仰せられました。
△大迦旃延。閻浮那提金光如来。
それから次に大迦旃延、此の人は閻浮那提金光如来という佛になる、その国は娑婆世界。
△大目ケン連。多摩羅跋栴檀香如来、意樂国、喜満劫。
それから大目ケン連、大目ケン連は多摩羅跋栴檀香如来という佛になる、そして其の国は意楽と名け、喜満劫に於いて佛になることが出来る。
 さういふ風に、四大声聞が悉く即ち佛になるという記別をお授けになったのが此の「授記品」であります。「授記品」は卒業証書のようなものです。譬説の「譬喩品」「信解品」「薬草喩品」此の三つの御説法を聞いて、成るほどと領解することが出来た四人の大声聞に対して、佛が卒業証書を下すった、それが即ち「授記品」であります。

                                   
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