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 【1】 本化妙宗(日蓮聖人の宗教)の正邪の判断基準

 【2】 妙法五字の光明にてらされて、本有の尊形となる、是を本尊とは申すなり。

 【3】 観心本尊抄の注釈 

 (1) 四十五字法體段

 「今本時娑婆世界・・・・・・・・此即己心三千具足三種世間也」の注釈

 (2) 受持譲与三十三字

 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」の注釈

 【4】 類纂高祖遺文録「立正安国論」略解題

 【5】 類纂高祖遺文録「開目抄」略解題

 【6】 類纂高祖遺文録「観心本尊抄」略解題


【1】 本化妙宗(日蓮聖人の宗教)の正邪の判断基準

 「幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御寶前に願を立て、日本第一の智者となし給へ十二の年より此願を立つ。其所願に子細あり、今くはしくのせがたし。其後先づ浄土宗禅宗をきく。其後叡山、園城、高野、京中、田舎等處處に修行して、自他宗の法門をならひしかども、我身の不審はれがたき上、
本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも、偏黨執心あるべからず。いづれも佛説に証拠分明に、道理現前ならんを用ふべし。論師訳者人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん。又法門によりては、設ひ王のせめなりともはばかるべからず、何に況や其已下の人をや。父母師兄等の教訓なりとも用ふべからず。人の信不信はしらず、ありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに。」  (光日房御書)
 「人師を本とせば佛に背くになりぬ。」(顕謗法鈔)
 「
敢て証文に経文を書いて進せず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にてはべれ。あなかしこ、あなかしこ。」                (題目弥陀名号勝劣事)
 「有智の君子
経を尋ねて宗を定めよ。・・・・・・・・乞ひ願くば一切の学者等、人を捨てて法に附け、一生空しうすること勿れ。」                   (秀句十勝鈔)
 「所詮佛法を修行せんには
人の言を用ゆべからず、只仰いで佛の金言をまほるべきなり。」(如説修行鈔)
 「日蓮が弟子となのるとも、
日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず。」    (一谷入道女房御書)
 「唯人師の釈計りを憑みて
佛説によらずば何ぞ佛法と云ふ名を付くべきや、言語道断の次第なり。
                                                   (持妙法華問答抄)
 「涅槃経に云く『若し善比丘あて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は佛法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞也』云々。此文の中に『見壊法者』の見と、『置不呵責』の置とを能々心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置てせめずんば、師、檀ともに無間地獄疑ひなかるべし。南岳大師云く『諸の悪人と倶に地獄に墜ちん』云々。謗法を責めずして成佛を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるが如くなるべし。はかなし、はかなし。
何に法華経を信じ給ふとも謗法あらば必ず地獄にをつべし。」  (曽谷殿御返事)
 「但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず。」 (唱法華題目鈔)
 「但し佛法は強に人の貴賤には依るべからず
只経文を先とすべし。身の賤きをもて其の法を軽ずる事なかれ。」                              (聖愚問答鈔)
 「只汝正理を以て前とすべし、別して人の多きを以て本とすることなから。」(聖愚問答鈔)
 「佛の遺言に、
法に依って人に依らざれ、と説かせ給ひて候へば、経の如くに説かずんば、何にいみくじき人なりとも、御信用あるべからず。」   (唱法華題目鈔) 

                                                    
【2】 観心本尊抄の注釈 

 (1) 「今本時娑婆世界・・・・・・・・此即己心三千具足三種世間也」の注釈


 この己心三千具足三種世間とは、三大秘法抄にいはゆる、『大覚世尊久遠実成の当初證得の一念三千』だから、本国土本果本因の本門根本三妙に約して顕はされ、直ぐ下に『迹門十四品に未だ之を説かず』とあるのだ。若し方便品の『底下の凡夫理性所具の一念三千』なら、本国土本果本因に約して身土を説くことはできない。それはこの三妙は九識果分の法門であるからだ。だから六識妄心を観境とする天台止観の本尊は、四種三昧懺儀においても、阿弥陀佛又は法華経一部で、本国土本果本因の寿量品の佛を本尊としてなのでも、この一念三千でないことは明かである。
 また凡夫の理性にも本有の佛性があり、そこに本時の佛界があり、その佛界には本因果国の三妙が具はつている。だからこの己心は凡夫陰妄の六識の一念だなどといふかもしれぬが、本有の佛性は九界衆生の有する潜在の佛知見だが、そこに本時の佛界本因果国の三妙があるといふのは迹本混淆である。本時の佛界、本因果国の三妙は、佛若し説かねば弥勒すら辨へぬ境界だ。弥勒は等覚で八識の人だが、寿量品が解らなかった。どうして六識陰妄のそれに存在しようぞ。本門根本の三妙は九識の法門だからである。
 また六識妄心の上に妙法五字を信じ、南無妙法蓮華経と唱へれば、自然に本時の三妙も凡夫己心の三千となるといふのは、それは受持譲与の法門で、信證の一念三千で法體の一念三千ではない。唱題受持の信行者となるといふことは本佛の大慈大悲により、六識の事妄心から直ちに八識元品の無明を切って、元品の法性から、九識佛界の因果へ飛び込むことだから、本門三秘の受持を『元品の無明を切る大利剣』といひ、六識事妄の凡夫心から、直ちに八識元品の無明を起させるのが、本化の折伏化導だから、治病抄に『見思未断の凡夫元品の無明を起すことこれ初めなり』と仰せになったので、その折伏の化導に随順して南無妙法蓮華経となるのは、誹謗法華の見思未断の凡夫が、本化上行の大慈化導により元品の法性を起して信伏随従し、本佛大慈の久遠実成の一念三千の大寶珠をその頭に懸け本化大士の誡勧二化の守護を受くる身となったことである。
 受持成佛は寿量品の是好良薬と、神力品の四句結要の外に根拠はないことで、その根拠が、寿量品は『譬如良醫、智慧聡達、明練方薬、善治衆病』と、本佛の大覚=即ち『久遠実成の当初證得の一念三千』にあることをいひ、四句要法は、本御書(観心本尊抄)で大聖人は伝教の釈を引き『果分の一切所有之法、果分一切自在神力、果分一切秘要之蔵、果分一切甚深之事』と、妙法蓮華経の五字が本佛の果分の一切の功徳であることを示されている。果分即ち本時證得の大覚の内容即ち本佛久遠證得の一念三千、妙楽の『故に成道の時、此の本理に称うて一身一念法界に遍し』といふ本時成道の一念三千。これは迹門に説いていない。天台大師は五百塵點劫を始覚有始としていられるから、一切経中この寿量品以上の久遠の佛がない。その佛が有始だとなったのでは、九界は無始だが、佛果は有始だとなり、一念三千の覚りは、悉く『底下凡夫理性所具の一念三千』に帰するので、それを開目抄上巻で、『水中の月を見るが如し、根なし草の波上に浮べるににたり』といはれた。その迹門の一念三千に対して、『本門にいたって始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶって、本門の十界の因果をときあらはす。此即本因本果の法門なり。九界も無始の佛界に具し、佛界も無始の九界に備りて、眞の十界互具百界千如一念三千なるべし』とあって、無始の佛界といふ迹門にない佛界があらはれ、その佛界の一念三千が真の一念三千であると明されているので、本御書(観心本尊抄)の此の四十五字は即ち無始の本佛の己心の一念三千を明されたので、それは理性所具でない。事成の功徳の三千だから、本国土、本果、本因といふ事上の三妙を以て、衆生と五陰=本果の佛と本因の所化九界の身=と、本国土といふ国土世間とを出して、此れ即ち、本佛己心三千具足の三種の世間だとことわられているのである。開目抄と本御書(観心本尊抄)とは、涌出品と寿量品の如きもので、開目抄には法體、佛種、信證の三種の一念三千を出され本御書(観心本尊抄)もまた佛種、信證、法體の三種の一念三千を挙げ、開目抄の信證には妙法五字といふべきを、一念三千といひ、而も法華経にそれを含めりといひ。本御書(観心本尊抄)は本佛果證の一念三千といふべきを、妙法蓮華経に佛の因果の功徳を具足せりと称してをられ、他の法體と佛種の二種は両御書とも一念三千と称せられている。
 この己心三千をどこまでも凡夫己心だといひ張らうとするなら、開目抄の無始の佛界の一念三千。三大秘法抄の本佛證得の一念三千。治病抄に迹門の凡夫乃至九界己心所具の一念三千を地に譬へ、天に喩へられた本門の一念三千は、どこに説かれているのかを明かにせねばならぬ。受持譲与の文はその会通にならぬ。それは本佛所證の一念三千を、本佛の大慈を以て、南無妙法蓮華経の五字七字にして、本門八品において上行菩薩に付属して末法に流通せしめられた由は、この四十五字法體の直下に仰せである。そして流通分にその詳細は悉され、結末の文で受持譲与の三十三字を、更に『不識一念三千者』等の五十一字で、その淵源と且つ流通の依師導師の、攝折と侍奉と常在末法を明されている。
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(2) 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」の注釈

 此の受持譲与の三十三字を以て、本門の題目の説明とし、次の本門本尊に対して、本御書(観心本尊抄)を題目と本尊とを明されたものとする解釈は甚だ当を得ない、受持譲与はその前提条件として『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す』といふことがなければ成り立たない。そして釈尊の因行果徳を五字に具足せしめられたのは、寿量品の色香味=戒定慧=具足の是好良薬妙法五字であり、神力品結要の用・體・宗具足の名・教であり、その色・用は戒壇、香・體は本尊、味・宗は題目の三大秘法具足の妙法五字で、決して単なる題目の妙法五字ではないのである。随って『我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ』とは、色香味具足の是好良薬を飲むこと、用體宗具足の結要の大法=即ち三秘の大法を受持することで、断じて三秘中の単題目、即ち単味単宗の妙法五字の受持ではない。本御書(観心本尊抄)に妙法五字といふことが九ヶ處にあるが、『事行の南無妙法蓮華経の五字、並びに本門の本尊未だ廣く之を行ぜず』とある所の外は、悉く三秘具足の南無妙法蓮華経であることを深く拝読すれば、何人も必ず覚らねばならぬであらう。そして此の受持譲与の三十三字は、序分の末に方便品の開佛知見と名くの文と普賢経の学大乗人とを挙げた後に、『末代の凡夫出生して法華経を信ずるは、人界に佛界を具足せるが故也』と、信佛乗を以て理具佛界の證とし、正宗分には、無量義経の因分具足の文と、普賢経の果分具足の文を出して、法華経の佛種教たるを宣示し、かくて妙法五字に因果の具足を伏線とし三十三字があるので、此の三十三字の上句『釈尊因行果徳二法妙法蓮華経具足』の十七字中の五字も三秘具足、下句『我等受持此五字自然譲与彼因果功徳』の十六字中の五字も三秘具足の五字である。何となれば、妙法五字に釈尊の因行果徳が具足されているのは、寿量品では『色香美味皆悉具足』と妙戒妙定妙慧三学具足の『是好良薬』を、末法の四依として地涌を『遣使還告』せられたのであり、神力品では『如来一切自在神力』の妙用と、『如来一切秘要之蔵』の妙體と『如来一切甚深之事』の妙宗に、枢柄たり總冠たる『如来一切所有之法』の妙名の五字を『皆於此経宣示顕説』と末法の妙教とし『南無』帰命せしめられてて、特に上行菩薩を召して付属せられたことを、流通分において反覆説示せられているので、三秘とは即ち『受持』の法則なのである。受持とは受は受戒、持は以信代慧の行、受持の體は因行果徳具足の五字で本尊である。即ち

 釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足======本門本尊

     受===================本門戒壇
 我等
     持===================本門題目

 此五字(本尊の主體、本因果種)自然譲与彼因果功徳・・・・・受持成佛なのである。

                                                   

【3】 妙法五字の光明にてらされて、本有の尊形となる、是を本尊とは申すなり。

 
『妙法五字』は、久遠釈尊の本體無始の佛界の法身であり、『光明』とは、その本佛の智慧の報身であり、『てらされて」とある『てらす』ことは、本佛慈悲の応身である。この無始本佛の三身の利益によって、十界悉く『本有の尊形』となるとは、本佛所具の十界、本佛果上の一念三千法界の成佛を示されたもので、この時は吾等凡夫もまたみずから知らねども、この本佛釈尊の正體の一分を受け、その智慧慈悲の一分を受けつつある『本佛の愛子』となるのである。また一念三千の故に、己心の佛界の中に、かかる功徳無窮なる無始の佛界とその所具の九界をも、無始から具へて存在しているのである。是の如くにして、寿量品の佛身観は吾等凡夫も本有無作三身の中に含められるのであって、『釈尊の三身を明して、弟子の三身を増進せしめんと欲す』といふことになり来るのである。

【4】 類纂高祖遺文録「立正安国論」略解題

 此の御書御撰述の因縁は、次の并に事跡篇に収められたる「安国論御勘由来」に明であるから、今ここに贅せぬ。其の主意は、国家の根本に正法を立てて邪法の流布を廃し、以て民人を精神的に安穏不動の境地に住せしめ、延て国土の災害をも削除せむとする大主張を開闡せられた御書である。御文は十段に分れ主客対問の躰に擬して、雅妙絢爛の文辞の裡に、深遠なる宗教哲学と、経世愛人の宗教的熱血とが汪溢して居る。殊に注意を要するは、本書がもと上書の為にお書きになったもので、音韻の連続にも御意を注がれたものと見え、一気呵成の気力に充ち満ちた中に、朗々たる自然の調節が含まれて居る。仍で遂にウカウカ読み込まれて、其の深遠な義理の潜伏に心附かぬ人が往々にある。それは本書の十大段は一段ごとに非常な名文句が諸処に織込まれて居るが、その中にみな或物が包まれて居るので、恰度、帝網の珠々相照らして無盡の光を発するが如く、これ等の名文首尾一貫して想ひもよらぬ一大宗教哲学の材料となるので、本書と観心本尊抄と開目抄と三つ一具して、聖人宗教の主要面は彷彿し得られるのである。されば聖人自らも、本書をば文相の外面からは未だ本意を顕さずとして
 『イツハリ愚ニシテマヅマヅサシオク事モアルナリ、立正安国論ノゴトシ』
と仰せられたと共に、その文義文意の深味からは
 『立正安国論ノ如シ、彼書ニ詳ク述タレドモ愚者ハ見難シ』
と仰せられてある。また御一代の間に度々御自身でも講ぜられ、また内訌外患の大豫言書として、自ら未萠を知るは聖人の一分也と公唱せられた程であるから、研鑽者軽々に拝読することなく、深く思を潜めて妙義を掬すべきである。また本書において最も大切なことは、「国」と「法」「法」と「人」「人」と「国」といふ三者の緊密な関係と、「物心の一如」「神人の一如」「現未の一如」「政教の一如」等を示されたことで、是佐渡前の御書たるに係らず、宗義上重要な御妙判として永久にその光を放つ所以である。また一代の御事業からいっても、本書は伊豆流罪、龍口死刑、佐渡遠流此の三大法難の基因で、聖人の上行垂迹の自覚発表をなされた素地ともなり、自界叛逆他国侵逼二難の豫言となりしのみならず。未来に於てこの書の理想は、本尊抄撰時抄、三大秘法抄を徹して、此の世界に必ず実現せられねばならぬ人類終局の大理想とまで拡大せらる
べきものである。
                                                     
【5】 類纂高祖遺文録「開目抄」略解題

 本書は本化妙宗の教相と聖人自身の霊格を開顕せられた御書として有名である。
 開目とは無明の膜を破り信智の目を開く謂である。その開目して見るべき対境に二つある。帰依習学すべき究竟の道と、尊敬尊崇すべき究竟の主師親である。本書の劈頭に、先ず習学すべき道をば、『儒外内』と挙げられたが、之を具にすると、儒、外、昔、迹、本の五段とも、内外、大小、権実、本迹、教観という五段相対ともなり、それが従浅至深して遂に法華経寿量品の文底の一念三千という法門に帰着する。これが究竟の道で、その法門の教主が久遠実成の大聖釈尊、これが娑婆世界本有究竟の主師親である。以上は本書の教相に属する部面であるが、御著述の本趣旨は寧ろ次の聖人自身の霊格開顕、術語で所謂『人開顕』にある。全体が日蓮聖人の宗教は、遼く霊界久遠の過去を語ると共に、遠く現実の未来を説く預言の宗教である。日蓮聖人の宗教が過去の宗教に非ずして将来の宗教なりというのは、実にそが預言の宗教たるが為である。日蓮聖人よりすれば、全佛教特にその妙法蓮華経という経典は、洵に霊山当時二處三会の聴衆の為というよりも、寧ろ佛滅後に対する一大預言書、殊には滅後二千年後の末法時代を最後の標準とした大大預言的経典である。弥勒龍樹天親羅什南岳天台妙楽伝教等、印度支那日本の三国に経て、みな偶然に生れ来ったものは一人もなく、みな預言に関して出で、且後に出る人の為にそれぞれ預言をして逝った。是等の諸聖人の最後に、集大成的に預言せられて出で来る末法の法華経の行者は、本化上行菩薩で、その出現の時代国土背景行動は、詳しく此経の法師勧持不軽神力の四品に明瞭で、就中勧持品の二十行の偈には、此の行者の弘通には、無智の俗人は悪口罵詈刀杖瓦石を以て迫害し、増上慢の僧侶輩は、邪智諂曲と誹謗嫉妬を以て迫害し、聖人の如き高僧は、彼の説く所は是れ外道の説の如しと国王大臣等に讒言し迫害せん。この偽聖人と凡僧と俗人との三類ひとしく佛の方便の経典に執着し、真実に法華経を説くこの行者の怨敵となり、罵詈毀辱し、塔寺に遠離せしめ、数数擯出するであろうと預言せられてある。聖人生年三十二歳の建宗の時すでに末法相応の宗旨として、口唱題目の法を弘められ、諸宗折伏の逆化を施されて、龍口法難已前に、すでにほぼこの勧持預言の三類の迫害をお受けになって居る。がただ龍口と佐渡以前には、刀杖と擯出ということが十分に揃はない。小松原の頭の疵や二十餘處を遂出されたまうたなどは、局部の土豪や念佛者どものした事で、いまだ三類を代表し一国を代表しての刀杖や数数擯出がない。然るに文永八年九月十二日の御勘気は、もと良観等の僭聖僧、行敏等の凡僧、頼綱や後家尼御前などの在俗男女の一致した迫害で、謀反人の例に準じ、執権の家司たり侍所司の重職たる平左衛門が召し捕りに来て、その一の朗従少輔房は、法華経の第五の巻を以て聖人を散々に打擲した。これ実に「杖」の難の最大公的のもの、次の龍口法難は「刀」の難の日本国を代表したもの、佐渡遠流は伊豆流罪と合して「数数見擯出」の預言の公的身讀である。是に於いてか聖人は『勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此国にずば、ほとんど世尊は大妄語の人』とも『又云数数見擯出等云々、日蓮法華経の故に度々ながされずば、数々の二字いかんがせん』とも仰せられた。乃ち此書を著された時の聖人は、末法に出づべき法華経の行者の為すべきほとんどの事は、一字一句を残さず厳密に実践せられた、即ち預言せられた聖者となりおほせた。凡夫の日蓮は龍口に死して、預言せられた聖者日蓮は生れ出たのである。誰が何といっても事実は最大の雄弁として之を証明する。
『日蓮といひし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐渡の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくればをそろしくてをそろしからず、見ん人いかにをじぬらん。』
 いかに雄烈悲壮なる宣言なるかよ。斯て聖人はこの開目抄において、初めて我はこれ預言せられたる末法法華経の行者なり、『日本の柱なり眼目なり大船なり』、『日本国の魂なり、日蓮によりて日本国の有無はあるべし』、日蓮は日本国の諸人に主師親の三徳ありとて、行者として日本乃至一閻浮提の一切衆生修行指導の主師親としての三徳を暗に発表せられた。所謂、法華涌出品の『唱導之師』というのがそれだ。この自身の顕本ということをなさるまでは、未だ法門の眞面目をお顕はしにならなかったものだから、『佐渡以前の法門は佛の爾前経と思召せ』とも仰せられた。これは聖人自身の御化導上の必要から本書御述作の精神を説いたのだから、また一面には本書は弟子檀那の為に必要であった。彼等の中には迫害重畳なるを見て、退転したものもあれば、或は『日蓮御房は師匠にてはをはせども餘りに強し我等は柔かに法華経を弘むべし』と考えたり、法華経の行者をば諸天守護とも現世安穏ともあるに、なぜ我が聖人は、頸の座や生きて返れぬ佐渡までも流され給ふかなど疑うものもあった。されば
 『諸天等の守護神は・・・・・早々に佛前の御誓言をとげんとこそをぼすべきに、其義なきは我身法華経の行者にあらざるか、此疑此書の肝心一期の大事なれば、處々に之を書く上、疑をつよくして答をかまふべし』とも仰せられ、結局の大格護をば
 『詮する所は天も捨てたまへ、諸難にもあへ、身命を期とせん。・・・・ ・・種々の大難出来すとも智者に我義破られずば用いじとなり、其外の大 難風の前の塵なるべし、我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我 日本の大船とならん等と誓ひし願やぶるべからず』
と喝破せられた。この大確信大威力の中に、『日本国の魂』たり、行者としての主師親たる大霊格は、躍躍の生気を放ちて、幾百千年の後世吾等を蘇活せしむる無等等(等しいもののない)呪となっている、ただ御在世の心弱い弟子檀那のみではないのである。本書に接して吾等の開目すべきは寧ろ彼等よりはより多く此に在るのである。
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【7】 類纂高祖遺文録「観心本尊抄」略解題

 本書は開目抄の人開顕についで、いよいよ聖人出世真実の本懐たる『法の開顕』をせられたものである。この書に於いては末法法華経の行者は本化上行菩薩で、その弘むべき法は、本門寿量品内証観心の本佛を以て本尊とし、名體宗用教五重玄事行の南無妙法蓮華経の題目受持を行法とし、日本中心世界王化を以て本門の戒壇とすべきことを密釈せられてある。「送状」に『日蓮当身の大事』と仰せられたほどであって、聖人の大理想大法門大学解大預言その裡に蘊在している。がその主として御顕はしになったものは、立題の如く本門観心の本尊なることは勿論である。
 この御立題の長いのでも、本書に対する聖人抱負の雄大なりしことは推察するに難くない。如来滅後五の五百歳の中に於て、未だ曾てなく今始めて弘通せらるる観心本尊なりとの意と、今や第五の五百歳において始めて弘通せらるるぞとの意とがあって、三国二千二百二十餘年を空うせられた御態度である。またこの御立題と御署名によって教(観心本尊)機(日蓮)時(如来滅後五五百歳)国(本朝)序(始)の五義に配するなどのことがあるが、爾ういう教学的精細の事は一切これを略して置く。
 また本書は宗学の淵藪であって、古来あらゆる日蓮主義の学問的立脚地はここに根ざすので、其等は宗学の蛍雪に属することで、この通俗を貴ぶ解題の中には、適当でない専門学的の事が多いから、あまり多くをいはないことにする。否いひ得ないのである。
 御書の體栽からいって最も注意すべきことは、「送状」にも『観心ノ法門少々之ヲ註ス』と仰せられたごとくまづ天台大師「摩訶止観」観不思議境の一念三千の文を劈頭に挙げて、これに註釈せられたといふやうな風になって居ることである。田中恩師はこの『註之』の二文字が実に偉大荘厳を極めた二字であるといはれたが、全く爾である。ことに最初この台家の一念三千の法門から出立して、何時となく本門の観心事行の一念三千となり、信念受持の題目となり、本門本尊の體相となり、戒壇の密釈となり来るところ、実に言亡慮絶ともいふべきもの、信得すべき識得すべからざる境界である。が但正確にいひ得ることは、聖人に本書ある為に世界のあらゆる宗教の精髄を統一することが出来るのである。本書は実に哲学と宗教とを尤も円満完全に融合したものである。汎神論と一神論とを最も究竟妙実に統一したものである。雄大深刻を極めた規模から宗教的主體と客體を一體化したものである。高妙なる智慧の満月を、深淵なる信仰の霊泉に涵映せしめたものである。全佛教乃至一切諸法を統一し整理しその醇要を執りて事実化したものである。心霊界と物質界とを総合して絶対界より流るる一道の血脈を通じたものである。本書述作の聖人は開目抄によりて自ら人開顕をせられた末法法華経の行者の霊格たる上行菩薩が、その本地の眞理界からもたらし来られた全面影を、支那文字を仮りたる日本の鎌倉時代に、日蓮法師と名付けられた偉聖の生滅無常の肉體を通じて、その時代文によりて発表し来世に貽されたものである。本書が無かったならば、本化妙宗は假令将来の宗教となり得るとしても、その寿命は人類ある限り無窮なりといふことをいひ得ないのである。ただそれ本書あり、本化妙宗は人類ある限りこの人生の無窮の宗教たり得るのである。日蓮聖人の宗教は将来の宗教なりとの実質は、この一巻の蘊在して居る。寄語す、研究をおもふ人よ。本書の註釈古来数十を以て数ふ。然れども此等を以て、よく本書を註釈し悉したものとおもふてはならない。参考とするは時に宜しい。がそれも寧ろ後の閑事業でよろしい。本御書の深意に触るるところあらむと欲せば、まづ虚心平気に此の類纂の全體に亙りて正心誠意求道の精神を以て精読玩味し、聖人の御書全部を以て、本書の註釈と拝し、更に聖人書写の御本尊、聖人一代の御化導の跡を拝し、霊感偉聖の血脈に通じて、絶対尊崇の霊気の通ずる時、おのづから分々に冷煖信知するに至るであらう。過去の註釈を以て本書の註釈とおもふことなから。本書の註釈は法界所有の恒沙の法門を要す。少くも過去未来を一貫して人類文明の全部を要してその上に尚超然たる底のものである。この御書は弘法大師の秘蔵寳鑰や、道元禅師の正法眼蔵や、栄西禅師の興禅護国論や、法然上人の選擇集や、親鸞上人の教行信証や、乃至支那印度の論師人師の書いた立宗的撰述のやうに、或る程度の素養ある佛学者には、その全體の趣意が多くの誤なく解るやうな容易い書ではない。何がどこでどうかはったのか、とんと解りにくい御書である。解ったやうにおもうて居るのは、妄想なのである。本御書は法華経の如来寿量品と共に、将来全世界の哲学者宗教家によりて、新に純学問的思想的に研究せらるべき最大のものであることを申して置く。その時こそ哲学を雇ひ来って、感情的直覚的にのみ出て来った宗教思想を弁護せむとしたスコラ学者や、感情的直覚的にのみ出て来ったものの外には、宗教思想はあり得ないものとおもって、智的要素をどこまでも宗教から排斥しやうとする近世風の或る基督教家は、はじめてその永久の闇室から放免せられることが出来るであらう。我がこの宣言を以て誇大に過ぐるとおもふものは、先づ然か断定する前に、この類纂遺文の全部を本書の註釈として拝読し、更に本書を拝した後、何とでも言って貰はう由。マアその位の広大無限の内容を有することの了ったのが、恩師三十有余年の御啓発に養はれた吾等二十有余年誠意研鑽の賜で、吾等纂訂者には、実はまだ本書の大法門に対しては纔にその一部分の領會を得たに過ぎないほどのものである。どの御書もさうであるが、特に本御書に対しては、篤くそのことを断って置くのである。
                                                     








人の宗教観の基本五型

(1) 招福除災と現世利益

(2) 先祖供養と葬式法要

(3) 精神修養と善行道徳

(4) 知於四恩と四恩報謝

(5) 懺悔滅罪と求道開覚

あなたは基本五型の何れで宗教を観ていますか?