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 本化妙宗の信 本化妙宗の行 
 
 
本化妙宗の願業と妙益

 
 本化妙宗の世界統一主義


本化妙宗の信

  1 信の意義 2 迷信と正信の区別 3 根本心の発動 

  4 信心正因
 其1 超道品の信 其2 根力助縁 5 信念起行 


 1 信の意義


 「教判」で立宗の次第が解り、「宗旨」で本宗の目的帰着が知れた上は、これに対する信仰の起し方、修行の心得等を会得して、この「本化妙宗」が自己のものになる工夫をせねばならない。
 先ず「本化妙宗」を信ずる所の「信」そのものを吟味して見よう、即ち「信」とは何ぞや、特に『本化妙宗の信』とは何ぞやである。普通にいう「信」の定義は、『無疑』とある、「疑うことなし」の意である、佛法僧を尊信して一点の疑惑を差し挟まぬ義である。而してその心的状態はというと、境心一如するに在る、『あの人のいう事は決して偽りがないから大丈夫だと、心をそれに打任せて、聊かも疑はない』などいう心の状態には、一種の強大な力がある、愉快も是れから生じ、勇気も是れから出で、希望も是れから發することである、人と人との間に、互に相信じ相許したのでさへ此通りである、それが『人間以上の力』と認て居る所の神や佛に対した場合は実に無限の希望と力とを生じ来るわけである。

 2 迷信と正信の区別                    ページのトップ


 つまらぬものでも、一旦これを『勝れたもの』と思い込んで「信」を起すと、その『力』は測れらないほどのものである。然るに信ずる方は、立派な発信=信の起し方=でも、肝心の対境=信仰の「まと」とする「めあて」=たる信の相手(神とか佛とかいう崇拝物)が、若しもろくでないものであると、自分は知らぬ間に、その対象の悪感化を受けて、結局不合理的信仰=世間の道理にも外れ、佛法の規矩にも合わざる迷妄の信仰=に帰してしまう。世にいう迷信者流の状態は、すべてこれである。
 信の対境たる「本尊」は『手本』である。悪いものを手本にすれば自然に悪くなるのは当たり前である。狐を神として拝むものはいつとなく『狐のような心』になる。人の欲張根性を賑わしてやる神を拝めば、ますます欲張根性を増長させるに相違ない、故に「信」の方ばかりでなく、所信の対境を吟味せねばならぬというのである。宗教の事に何等苦労もしたことのない人間が、事もなげに『対象の如何に拘らず、信仰は全く一種の力であるから、その潔い精神を取れば可い』などいう。国家はこんな人たちに日夜に壊されつつあるのである。そんな馬鹿馬鹿しい、『鰯の頭も信心から』主義で、法界人生の解決が着くものなら、釈尊や本化の菩薩は無駄骨折りである。
 要するに何でも構わずに崇信するというのは確かに迷信である。正しき対境に対して正しい信を起そうというのが正信である。尤も「信」そのものにも、信じ方の当否は無論ある。いかに対境が正しくても、それに対しての信じ方が違って居れば、是又一種の迷信である。信じ方が正しくても対境が正しくないのは勿論迷信である。『若し正境に非ざれば縦ひ妄偽なけれども亦種を成さず』とあって、佛種とならぬと説いてある。
 そこで「対境」と「信」との正と不正を一言すると、正しい「対境」とは『佛の本意にかなった本尊』のことである。天地法界の中、吾人の崇信點は、「本門の本尊」以外何ものもない。「正しい信」とは『人生の帰着を正当に欲求願樂する所の要求』と解して可い。即ち通じて「現当二世の願」という其れである。然るに現世の願の中に、家内安全とか商売繁盛とけ、よく市井の男女が迷信的に行るのは、或る程度までを除くの外、概ね迷信である。人間というものは、働けるだけ働いて、得るだけを受けて、それを正しく且つ向上的に用いれば、それで可いのである。然るを邪に得て邪に用いんとする為に、いろいろ愚なる欲望や無理なる願いが生ずる、それを神仏の力によりて遂げようというのは、恰も『警官に賊の手引きをたのむようなもの』で、全く無法極まった話しであるが、サテ世間の信仰というものには、遺憾にも此種の欲願が多い、神仏の賽祀者も其れを扇動し奨励して糊口の資とする光景であるから、世に迷信が断えない。これでも『宗教学上の信』だと弁解されては、国家は頗る迷惑千萬の次第である。迷信が一たび発生すると、『真智を昧まし真性を傷ひて、限りなく堕落する』ことである。個人の堕落は即ち国家の堕落である。近時都鄙を通じて迷信の殖えるのは、いかにも邦家の為め寒心に堪えざる次第ではないか。
 「正境」に対する「正信」!、是が吾人の希望する所の『宗教』である。本化妙宗の「正境」は、先に述べた「本門の本尊」であるから、これに対して要する『正しき信』は、果していかなるものかということを解けば、三大秘法は此に活動體となるのである。

 3 根本心の発動                      ページのトップ

 何を信ずるのでも、心の底から出ない信は無い筈だが、信ずる対境と、信じ方とは因りては、表辺の浅い心から出るのも有る、「本化妙宗の信」は、心の底の深い深い奥の方から発生する、即ち「根本心の発動」と称すべきものである。
 それは何故かというと、相手の正境が『法界の根本法』であるから、これに正対すべき此方の心も『根本心』でなければならぬ。浅いものは浅い心で対し、深いものは深い心で対する。事の一念三千三大秘法の本尊は、法界の極真、法界の極善、法界の極美を、本佛果上の大功徳聚として精現したものであるから、それを信ずる方からも、吾が心の最奥最深の真性を発揮して、所謂固有の佛性を喚起して掛らねばならぬ。即ち『吾心の極真極善極美の部分』を叩き出すのである。例えば、国民の平素は随分と欲をかいたり納税を怠ったり、時には嘘をつき邪まをも行ひ、ほとんど利己主義一点張りのような状態であるのが、一朝大戦争などで、国運を賭して理非を争う場合ともなると、是れまで利己主義であった国民も挙国一致して報国の精神を振ひ起し、『欲も得も要らない、自分はどうなっても国が大事だ』と、猛然として固有の愛国心を発揮するに至るのは民性に深く潜んで居る所の「日本魂」が発動して来るのである。此時になって急にそうエラクなるのではない。そういうエライ心が元来に具って居るのである。それなら何故その心が常に出ないかというと、平素は心の対手たるべき事象が、浅い軽いことばかりであるからヤハリ浅い軽い心のみが現れて、目前の利害につられて、ウカウカとウソもつき欲もかはくのである。一朝イザ国家の一大事となると、相手が相手だから、固有の本領心が生じて来るのである。今所謂「根本心の発動」というのも、その例であって、「本門の本尊」に対する場合の心は、決して浅い心からの信ではならぬ。『心の奥底を傾けた根本心で信ずる』のでなくては、本尊の霊線(本尊の徳性にも衆生の徳性に感応すべき筋線あり、これに接触すれば所謂境心一如するなり)に接触することが出来ない。
 根本心とは第八識を因とし第九識を果とする、人心最奥最深の基心である。直ちに法界の霊原に一致し、萬物能造の力因たるべき本能あるもの故、これに理解的自覚的に真理正道の意義を感孚したならば、自己は言うに及ばず、法界また其一刹那に於て、霊光薫被するに至るのである。
 法華経の信は、経が純一乗で混合物がないのであるから、これに対する信も、随って混合物のない純一のものでなくてはならぬ。あれも思いこれも思いした序でや餘で思惟する様な、軽浮浅薄な心ではならぬ。少なくとも忠臣孝子の純良なる忠義心孝心、又は夫婦の貞しき愛情などの、今一層も二層も立入った、極々真面目な極々原始的な、且つ極めて霊明透徹なる心的状態でなくてはならぬ。若しそうでないと、佛種を植えることが出来ない。「種」となると前にも述べた通り、決して混合物を許さないからである。浅くても不可、混じっても不可、なんでも純一にして深い心、所謂『根本心』でなくては、佛種を下すことが出来ない。佛種は八識の心田に下されて、九識の果を結ぶのであるから、とても七識已下の粗荒しい心では、一念三千の佛種を植えることは出来ない次第である。
 元来佛の大智慧大慈悲が、すでに法界の根本心である。吾等の信は是れと同一線でなければ、肝心の佛の智慧や慈悲を感受することが出来ない。即ち佛の心に感通しない。『佛の心を通じて法界の真際に帰入する』のが、吾等「起信立行」の目的であるから、この點よりして言うも、根本心的発動にあらざれば、佛と接触する資格がない。佛に接触し得なければ、本尊はどこまでも他人の宝である。経に
 『一心に佛を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜ず、時に我及び衆僧倶に霊鷲山に出づ、我時に 衆生に語る、常に此に在て滅せず』
とある。『一心』とは、二も三もなき純一無雑の状態である。『佛を見る』とは、我れと本佛との接近である。所詮は自己の本佛なることを知る所の「信」である。その「信」は「うわのそら」では得られない。必ず色心の底を傾けての心でなければならぬということを、『自ら身命を惜まず』と説いてある。「いのち」とは『身と心とのすべて』である。同じ自己の心でも、『真の我』が起すのでなく、『ウワベの我れ』が起すところの心は、所謂妄我の心であって、今自己が迷妄本位の身の上であるから、そのウワベの心をば、自己の心の様に考えて居るが、実は真の我心ではない。飲みたい食いたい程度の心には、心それ自身さへも自覚しない心もある。即ち前五識の感受は、第六識でさへ完全に自覚しない心が幾らも有るのは、吾人の常に経験する所である、況や七識八識をやである。そんなウワベの心でない全くの真心から出る心は、必ず身命を愛惜しない心でなくてはならぬ。飲みたい食いたい的程度の心は、理にも道にも関係ない。ただの『肉体欲本位』の場合の心であるから、そういう劣等の心状態を超過した真心、即ち心の底本を拓いて、その真面目を発揮するのでなければ、『佛の智慧や慈悲と線を繋ぐ(=佛の智慧や慈悲が、深い深い貴重の心より發する故、それに契應すべき心は随って深き底よりの心ならでは筋道が違う也、同じ系路の図星を合せて、始めて接感し得るなれば、それを線を繋ぐという)』ことが出来ない。所謂根本的発動でなければ、根本法に接感しないという意義である。
 佛心と接感することが出来なければ、佛種を植えることが出来ない。佛種を植えねば、いくら善を勧めても道を行っても、心から善にも道にもならない。そうして何かの縁で直ぐに堕落してしまう。畢竟真理正道根本と隔離して居るからである。要するに『佛の心と桁を同じうし得る程度の心』(深さに於て)でなければ、佛の心と一致しないのである。『佛の心』と一致し得ないほどならば、その心は真理正道を把住することは出来ない。故に「本佛の信」は、即ち「根本心の発動」でなくてはならぬ。「本化妙宗の信」は、その「信」である。

 
4 信心正因                               ページのトップ

    
其1 超道品の信

 普通に言へば、信も「諸根」の内であるが、普通「道品」以上に、別頭最勝の法を沙汰する場合に於ては、通常名目以上の特異なる法目を生ずるは当然の理であって、たとへば「四悉檀」が教道の大則であるに拘らず、下種の法門には普通悉檀以上の大化導を用いるようなもので、信進念定慧と通途に算へる中の「信」も、確かに「信」には相違ないが、普通善法修行に対する場合の信でない。根本法に対する場合の信は、五根五力を超越した、むしろ五根五力の惣基本となるべき信であるから、「部根の信」(五根の中の一たる信)に撰んで今これを「惣根の信」と称して置く。例えば普通の「四悉檀」に対して、『超悉檀』の教化を、天台大師は「開顕の四悉」又は「本地の四悉」と謂われた様に、同じ「信」でも本化妙宗の正意とする信は、普通一般にいう「信」(即ち五根の中の「信」)とは違って、別圓二教の十信の菩薩などの夢にも知らない境界、即ち等覚の菩薩が元品の無明を断ずる場合の心と同じ程度の心作用としてある、故に彼の本地の四悉を「超悉檀」と目るに例せば、須らく「超道品的の信」と謂うべきである。
 本化の直判として、別頭的断案の二三を引て、その羲證整然たることを示しておこう。先ず信を以て成佛の真因と為し、妙覚の種子と訣せるは
 『一念三千も信の一字より起り、三世の諸佛の成道も信の一字より起るなり。此信の字は元品の無明を切る所の利剣也。其故は無疑曰信とて、疑惑を断破する利剣なり。解とは智慧の異名なり。信は価の如く解は寶の如し。三世の諸佛の智慧を買ふは信の一字也。智慧とは南無妙法蓮華経也。信は智慧の因にして名字即也。信の外に解なく解の外に信なし。信の一字を以て妙覚の種子と定めたり』 (御羲口伝)

 「元品の無明」とは、最後心の等覚の菩薩(圓教五十一位の内、初めの十信は、未だ無明を断ぜず。次の十住より十行十回向十地の四十位と等覚の一位とのうちに、一位に一品づつ、合して四十一品の無明を断じ、最後にたった一品残った、彼の「元品の無明」を、等覚最後心の菩薩が断じて、それで妙覚果満の極位に登って佛に成るとしてある)が断ずべき最高等の煩悩であるから、それを断ずるほどの信が、元より通常一辺の信でないということが解るであろう。
 又『一念三千の観法』が、直ちに信そのものであるという聖訣に徴しても、この「信」は全く根本心の発動にして、直ちに佛境界に接襯し得る所のものであることが解るであろう。
 又この「信」を以て「妙覚の種子」と定められる點から見ても、無論通常道品の上の信にあらずして、佛心と一系同種のもので無くてはならぬということが解るであろう。又
 『即身成佛と開覚するを如来秘密神通之力と云なり。成佛するより外の神通と秘密とは之なき也。此無作三身をば、一字を以て得たり、所謂信の一字也。仍て経に曰く信受佛語と、信受の二字に意を留むべき也。』(御義口伝
とありて、「無作三身」を直ちに信によりて證得するものと訣釈せられたるが如き、いよいよ超道品的の根本信なることを證すべきである。普通道品には多少の方便が混って居る。この根本信には、少しも方便を雑へない、生一本正純の根本心即ち佛性そのものである。尚同書に経の『失本心』を釈して
 『本心とは下種也・・・・・・失とは本有る物を失うこと也。』
と判じてある。即ち根本心が、直ちに佛種性心であって、決して他作的他動的でなく、本来固有の真性であることを明かされてある。要するに此上もないという無上道根本法を、何物の間もなく雑りもなく、直附に信取する根本的心発動を名けて、「本化妙宗の信」というのである。
 勿論「信」に伴うての「解」というものは閑却すべきものでない。のみならず必ず信の裏面に整然たる解が影向(影の形に随うが如く照應し居る事)してをらねばならぬ。畢竟するに智慧と並び対する信でなくて、智慧を(然かも正しい真智を)内容的に含んで居る所の信である。故に
 『佛の意とは法華経也。是を寿量品にして是好良薬とて、三世の諸佛の好みの良薬と説かれたり。森羅三千の諸法、意の一字には過ぎず。此佛の意を信ずるを信心とは申す也。』(御羲口伝)
 幾ら孝行をしても、大義に外れた事が有っての孝行では、其所為がいかに殊勝でも、全き孝行と謂得ないようなもので、根本法と根本善と根本智(善と智は本佛の慈に属す)とが吾根本心に合期したので無くては、全き信とは謂われないのである。

    
其2 根力助縁                        ページのトップ

 
根力とは「五根」と「五力」である。「五根」とは信根精進根念根定根慧根の五つである。「五力」とは信力精進力念力定力慧力の五つである。「根」とはその実体に就て言ひ、「力」とはその作用に就て言うたあので、つまり心が教法に対する場合の作用をいうのである。乃でこの五つの一番初めに「信」がある。これは道品的に意味された場合の信で、即ち前にいうた「部根の信」である。ともかくも佛の教導接化に対する「心の感受性」をいうので、所謂『信力の故に受く』と釈されたのが其れである。然し本化妙宗に在りては、それが根本的に將た絶対的に包容的に大きくなって、所謂根本信として存在して居るから、別に「部根の信」を認めないでもよろしい。これは後の「五種の妙行」の「受持」の例と同じ振合である。
 次に「精進根」とは、一旦信じた事を後戻りせずに、猶予なく進むということ。いくら信仰を起しても、何かの縁に逢うて、退歩退転しては、最初の信が一向価値の無いものになってしまう。進まない信は、機関車のない汽車のようなものであるから、信を起すと共に、その信が誓て勇往邁進する性質のものでなくてはならぬ。尚それが進んで怠を破る力用を『精進力』というのである。
 次に「念根」とは、憶念不忘というて、一旦信じたことを、断えず心に注いで閑却しないこと。即ち『信力の故に受け』というに対して、『念力の故に持つ』と釈成されてある。信あっても又その信が精進的であっても、若し「念力」がこれに伴はなければ、恰も機関車に石炭(動力)を欠いたようなものである。この不忘の念根が、力用となりて現はれた場合は、即ち諸の瞋恚を破るが故に、全く歓喜性の心作用を発揮して憶持そのまま慈念化するのである。所謂『天を楽む』とか、『道を楽む』とか、『人はその憂に堪えず回やその楽を改めず』などいう種類の心地である。
 次に「定根」とは、心を一境に止めて他に動揺しないこと。折角の信も、時ありては『彼もなり此もなり』では、何ぞの場合に退転しないとも限らない。故に確と一境に集中して他へ散さないということが必要である。いくら精進力念力が加わって居ても、的が定まらないでぐらついて居ては、信も効を為さない。たとへば機関車が立派で石炭も沢山焚いてあって、堅牢快速申し分のない汽車でも、レールが無いとか曲がっているとかでは、行くべき處へ行くことが出来ないようなものである。この不動定根の力用は諸の恨を破るとあるから、これにて萬事に悔のない即ち落度のないことになるのである。
 次に「慧根」とは、不昧というて分別を誤らないこと。信も堅く精進の勇気もあり念力強盛に且つ少しも動揺しない境界でも、何等かの分別を失して、道理らしい不道理、親切らしい不親切などに、ウカと乗って正路を踏み外すことが往々ある。そういう場合に紛らはされない用心がないと、種々の美名の下に罪悪は強いられるのである。『諸法実相を除いて餘は魔事と名く』と龍樹菩薩も訓へてある通り、根本正法の直接理義以外は、『魔の乗ずべき余地』があるのだから、随分と道理らしく義理らしい非義に、ウカと釣り込まれて、不知不識の間に大錯誤に陥ることがある。故に智性の分別を用いないと、その迷は迷信俗信愚信に堕してしまうことがある。自分に智慧がないとしても、佛祖の指南を信じて、その教令に随うというのは、即ち自己の智性が之を認識するのであるから、全く慧根に属して居るのである。この慧根の作用を起す時、諸の怨を破るとある。即ちあらゆる阻害物障碍事故を除くの謂ひである。若しこれを欠けば、恰も汽車に運転手のないようなものである。
 以上の「根力」は、別々に説いたが、敢て別々に存在しているのではない。一つの心に、即ち「信」の一つに、以上の用意が悉く行き亘って居て、完全に発達した心的状態を正しい「信念」というのである。但し「信」の一つは『主人公的』に、他の「四根」は『臣佐的』に具有存在するのである。而して吾々凡夫は「根本信」を將護しつつ、この「五力」に因って、「十四謗法」を脱れて、完き正信を現じ得るのである。


 5 信念起行                                  ページのトップ

 以上の叙述で、『本化妙宗の信』とは、普通道品以上のものであることを会得したらば、この上は其の「信」が具体的に存在し発揮した全面目を一言すると、その信が『自己の想念となって、常住に精神化して居る』のを、ここに「信念」と総称する。或は信仰と言ってもよろしい。即ち五根五力が任運に『助縁』となって、根本信の健全に成立した上は、それが自己の心の性質の如く活気の如く、正しくその性命活力となるまでに、殆ど『心そのもの』の如くなって来ねばならぬ。そうなって始めて佛の智慧も功徳も自分のものとなるに至るのである。そのまとまった心を解剖的に分けて見ると『不惜身命の誓いの上に、慈悲の素地も智慧の要素も、悉く具備して居て』、何時でも導火さへ點れば直に発する様になっている。又斯くなると活動性を帯びて居るから、何とか発揮せずにはいない。即ち情極って詩歌となり舞踏となるようなもので、勢い止めんとしても止まないで、此に即ち『信仰的活動』を起して来る、それが「修行」というのである。
 故に「信念」と名け得るまでに至った「信」は、モハヤ理想化していて、それが其人に於ける『人生の意義』となっている。何事を思うにも行うにも、すべて其れが主義(他に対して起るのでなく、それが自己の主義となっている。ここまでに至らざれば、信仰は成立せざる也。)となって現れる。活きているに就ての必要というよりは、『その為に生れ来り、その為に活きている』という境界に到達する。所謂此心即ち道である。此人即ち道であるという境界である。そうなってこそ是れが正しく『人生の力』となるのである。


本化妙宗の行                      行のトップ     ページのトップ

1 理教を醇化せる行 

2 受持正行 其1 三業受持 其2 正行と助行 其3 典式的修行
           其4 処世的立行 

 1 理教を醇化せる行

 信が行動に現われたものが「行」である。「行」また自ら二つに分れて居る。即ち『純宗教的の行』と、『処世化せる行』との二つである。前者を仮に「修行」と目し、後者を「願業」と称し、先ず「修行」のことを叙べる。
 いくら難行苦行をしたからとて、それが直ちに「力」とはならない。その「行」が一々真理に合し正道に如ったものでなくてはならぬ。即ち「行」の目的が正しく、「行」の仕方が正しく、佛の本意に符って居れば其れで可いのである。
 佛が教を垂れ行を奨められた本意はというと、人に最上の道を与え、最上の楽を得せしめんというに在る。而してその最上の道とか楽とかいうのは、果して何かというと、無上の真理たる法華経に安住して、その教意に則って人生を経営する事、即ち『人間の身を以て佛の事を行う』の境界で、それを即身成佛というのである。佛に成る! その為の修行、それを外れては道でも行でもない。そう成るべく希望するのが「信」、そう成るべく進取行動するのが「行」、この筋道に違ったものはすべて迷信妄行である。たとひ『銭儲けがしたい、病気を治したい』の信心修行でも、即身成佛の本願が確立しての上でなければならぬ。併し即身成佛の行が決定すれば、病気も銭儲もそんなことは無条件で埒があくから、祈ったり願ったりする必要が無くなるのである。
 「本化妙宗の行」は、如来行である。経に『如来に遣わされて如来の事を行ず』とあり、又『若し能く持つこと有らんは即ち佛身を持つなり』ともあって、法華経は即ち佛の身なり心なりであるから、法華経を持つものは、取りも直さず佛身を持つのであるというのは、佛の本懐が元々一切衆生に佛の楽を与えたいというのにあるから、佛の因果の骨髄を留めて経教を残し、それを信受奉行させて、その目的にかなわしめたいのである。故にこれを行ずるのは、直ちに如来の所作を行ずるのであるから、『無作三身の所作は何事ぞと云う時、南無妙法蓮華経なり』と釈されてある。この意味に依て立てられた「本化の行」は、所謂『理教を醇化したもの』で、これぞ理義言説学問思弁に経て、天地無数の文を織りなすべき大道理を、心身の上に約めて一如来行としたのである。即ち無量無辺の理義を具体的に実行化したものを「行」というのである。而してその「行」とは、いかなる至難いものかというと、只「南無妙法蓮華経」と唱えることである。尤も意と身と口との三業に唱えるのである。三業別々にでなく、一致して相応じて一如して唱えるのである。この『三業一如』した所に三大秘法が人間の声に化し、所作と現ずるのである。

 2 受持正行                行のトップ     ページのトップ

    其1 三業受持

 「受持」は元と「五種法師」の一つである。「五種法師」とは、末代に於て法華経を修行するに、五つの行がある。一には受持、二には讀、三には誦、四には解説、五には書写、この五つの修行で自己も道を修め、他をも益するものとしてある。「受持」とは信力の故に受け、念力の故に持つこと、「讀」とは文を看て理解的に読むこと、「誦」とは文に背いて念呪的に誦むこと、「解説」とは他人に経の義理を説明すること、「書写」とは他人に示しべく経の弘伝に力むること。
 然るに此五種を、並列的(五種をいずれも同等のものとして扱うこと)に扱うのと、その中に統帰點(五種の中に一つの中心を定めて、他を統攝する事)を究めるのとの異りがあって、文上式法華経と文底式法華経(或は像法式と末法式)との相違が生ずる。並列的とは、受持でも讀誦でも、各々独立した一行として、それが五通りあるものとせられ、所謂讀誦の法師とか、書写の法師とか、古来言い来って居る。要するに受持でも解説でも、その縁に応じ性欲に合した行を撰んで、その何れかの一つで功徳を積むも可なり、その五つを完備するも可なりというのが、この並列的で、是れは文上式像法式で、末法要行の意義に合わない。「末法」はよろず簡要を崇ぶから、彼れも此れもというのは時に適しない。『何でも一つで埒が開く行り方』でなくてはならぬ。簡単で而も要領を得るという意匠が、即ち所謂文底式末法式本化式というのである。故にこの「行」を指示するに於ても、亦この原則に拠らねばならぬ。此に於てか「五種の妙行」の中、「受持」の一行を以て、五種の主要とし中心として、『一君四臣』の組織に拠って、「受持正行」の大節を定めた。即ち受持が家の五種である。経文汎爾に「五種」を並べてあるが、深意は「受持」の一行にあること、神力品の偈頒その他に、「受持」を挙げて他を略してある工合に看て、受持の尤も重いことを知るべきである。
 「受持」の一行は、佛意を把住するに就て、尤も重を致したもので、一言一句の要語の中に、無量の功徳と無限の威力を承認して、これを『心の守り』とする状態、尊奉的に將た記憶的に、心に念じ口に唱えて忘失せざることを力むるの「行」であるから、極めて簡要(簡にして要といえば、「小さくて利く」という意味になる)を崇ぶのである。簡要なるが故に深刻である、濃厚である、根元的である。他の四行は広く大きくある故に、純ならず深からず厚からざる傾きがあって、やや『枝葉的』の気味がある。そこで本門の至法は、簡単なれども尊きこと、天子の一言の如く、重く深い力ある持ち方を要するから、「受持」という最簡単なる行法に、力を内容的に深く注いで、萬法を総括し萬行を節要すべき、三大秘法に対する、「三業受持」の行軌を垂れたのである。
 身口意の三業に受持する、即ち『意に念じ口に唱え身に行う』甚だ簡単である。簡単であるから深く深くあるのである。而してその「所行の體」とは、何にも外にない。只「南無妙法蓮華経」の七字である。それを本尊としたのが、「本門の本尊」、それを所行としたのが「本門の題目」、それを能行としたのが「本門の戒壇」、この三大秘法を一言に伝え一言に持って、それで佛法のあらゆる数限りなき種々の行法功徳を積んだよりも、幾百千層倍勝れるか知れない。この上もない大功徳となるのは、所依の法が勝れて居るのと、行法そのものが正しく根本的であるからのことである。而してこの「三業受持」ということに就いても、『一往次第再往一如』というて、一往は身口意のそれぞれに勝手勝手がある。再往は其れが一致して作用が融通するのである。例之、「本尊」は『意』で念じ、「題目」は『口』で唱え、「戒壇」は『身』で行うように、次第順序を為して居るが、再往は三業倶に相融如して居ること、猶彼の三大秘法が、いづれも『一乗妙法蓮華経の上に含まれた三の資格』である如く、全く「受持一行」の三方面という意味になる。例えば「意」で帰依する本尊に、「身」もこれに対ひ、「口」もこれを唱ふるとすれば、即ち三業ともに「本尊」の上に一致して居る。「戒壇」は身、「題目」は口というのも矢張りその通り、三大秘法が元と一つものであるから、三業互融して、全身心の一切を挙げて、本尊化し戒壇化するのである。要を以て言えば、自己のすべてが妙法化する、それが「三業受持」の妙行である。
 五行の中の「受持」を要行として、立行の中心をここに集中する、その中心力に由って、一切の行因が帰本的に活現する。本末正助整然として一人一切人一行一切行の妙を発揮するに至る。斯くして三大秘法は、人間の力となり来るのである。
 主義として奉ずる、気節として守る。いずれも簡単明了の意識でなければならぬ。複雑なる煩瑣なる事物は、到底主義的節持的に護持されない。佛の意を主義的に持とうというのには、妙法五字の大真言が、尤も簡にして要をつくしたものであるから、之を堅く信じて身口意に強く持ち伝える所の「受持一行」を末法の要行と定め、これを主行としたのが「本化妙宗の行」である。而して他の「四種行」は伴奏的に随うのであるから、称して「助行」といひ、以て「正行」に付属することになる。

    
其2 正行と助行              行のトップ     ページのトップ

 「五行」を主判に分けて、「受持」を正行とし、「四種」を助行とする。「正行」とは『正意の行』である。「助行」とは『正行の補佐』である。行體に就ての助けというのではなく、行人に就ての補助である。即ち火に風を加ふるが如く、車に油を注すが如きもので、俗にいう『鬼に金棒』と言った様な次第である。然るにこの正助の分を乱して「讀誦」を専らにしたり、或は讀誦等の行と「受持」とを同じ様に考えたりする失意の行が、ともすれば有るようだが、是れは本化迹化の別を混じ、像法と末法も判たない盲目考えであって、甚く当家の宗意を害したものである。たとひ法華経を讀誦しても、『妙法五字の従属』として読むのでなければ、妙法五字も法華経も倶に死物になって了う。「解説」「書写」もその通りである。「助行」としてこそ存在はするが、別立しては無意義のものに帰して了う。『法華経の文字はあれども衆生の病の薬とはならず』と釈し、『餘経も法華経も詮なし』と判じたのは、妙法五字の主要を忘れた失意を斥ったので、文々句々妙法五字に従属し結帰して始めて法華経の用を為すものとなって居る。即ち『妙法五字の家の法華経』であると同様に、『受持が家の四種行』であるとなって、正しく落ち着くのである。乃ち下の聖判に其義分明である。
 『此妙法の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有て、五種の修行の中にも、四種を略して、但だ受持の一行にして成佛すべしと経文に親たり之あり、夫は神力品に曰く於我滅度後應受持斯経是人於佛道決定無有疑云々此文明白なり。』(御義口伝)
 文に「四種」を略するとあるのは、「正行」としての立場から判じたので、「正行」としては「受持」の一行にて埒をあけるという義である。さて「助行」としての「四種行」は『受持』を『體』とするに望めて『用』というべきものである。即ち妙法五字が體で、一部二十八品が用であると同系の理由である。斯くて正助二行は主判相待って行者の身心を摂理することである。
 又読むも説くも、妙法受持の主行に照されての上の妙行でなくては本化の行でない。この規に背いたものは都て雑乱である。雑乱はやがて「謗法」を構成するのである。
 「二十八品」の経説は、如来の金口にして、妙法五字の説明なれば、是非とも主要たる「妙法五字」に属して居るべき筈である。故に此二十八品を読了して義理を明にし、この金口を誦して修福をも助け、この法門を解釈説明して人の迷妄を破し、それを流布弘伝して正義を普及する等、法華経二十八品の広大精妙なる法義を以て、妙法五字の要法を荘厳し奉るのである。
 『品々の法門は題目の用なり。體の妙法末法の為ならば、何ぞ用の品々別ならん乎』(御義口伝)
即ち體用具足して、正助整足するの組織である。何程の副行があっても、成佛の大目的は、全く「妙法五字の受持」に在るのである。これに対して主判を顛倒しては、教も行もすべて反古に帰して了うことである。
 法門の上で言えば、「受持の正行」は、方に「三大秘法」に正対し、「四種の助行」は「五綱教判」に間対して居る。相承で言えば「正行」は内証相承、「助行」は外用相承に該当するのである。要するに正行いよいよ正うして、助行ますます光あるのである。


    其3 典式的修行            行のトップ     ページのトップ

 修行としては必ず一定の型があって、その範疇に規戒される必要がある。即ち『本尊に対し題目を口唱する』、この儀則と典型は乱すことが出来ない。随って『本尊を受ける所の式』、『正法を入れるの式』、『正法に住するの式』、『正法を行うの式』、簡なれども厳に、約なれども切に、はっきりと分明に正確に、『典式化した修行』がなくてはならぬ。それは宗教上に於ける誓いを表現する公式であって、これを履行せねば信行とは謂はれない。『爾う信じて爾う考えて居たら可いではないか』という訳には往かない。この世の中で一番大切なこととして、自己の全身心をこれに委ねるのであるから、意ばかりでなく声にも姿にも形はれねばならぬ。即ち空想的でない実行的の票式がなくてはならぬ。
【三業受持】
       ▲「意」に本尊を帰依する・・・・・・・・・・本尊の心
       ▲「口」に題目を口唱する・・・・・・・・・・題目の声
       ▲「身」に合掌の印を結ぶ・・・・・・・・・・戒壇の姿

恰も人間の大禮に、典式を定めて励行するようなもので、大切なことであるから、心の全部の誓いを表現するため、必ず典式的に発現せねばならぬのである。
 尤も典式的というても、一概には言えない。平常的の式と、別時的のとある。平常的というのは、朝に晩に個人として又家庭として行う所の普通の修行である。その尤も簡短なるに従えば、御本尊に対し三禮して題目を三唱すれば足りる。極めて簡要的切な行である。それを少しく丁寧にすれば、「三秘禮」を修し助行讀誦に『方便』『寿量』の諸品又は『品々別伝』等を奉読し、祖判一章を拝読して、唱題正修十遍百遍千遍万遍多少は意に従い「本門三帰」を修して終る。具には『妙行正軌』の如くする。

    其4 処世的立行                行のトップ     ページのトップ

 「本尊」に向って「題目」を唱えるということは、一つは法の表式ではあるが、又一面には全く自己の訓練である。『自分の声で自分の耳に命令して、この正法を忘るるな、正義を行へ』と鞭撻を与えるのである。然るにいつも其れが本尊壇前のみに繰り返されるのみで、壇前を退けば、すぐに非本尊的非題目的非戒壇的の人と化し了り、又夕方になって本尊の前に出ると、その刹那は妙法の人となり、止めれば又直ぐにタダの人になるというのでは、所謂三業の修行もホンの道楽に過ぎないことになってしまう。本尊中の諸尊の多くは、佛菩薩諸天であって、必しも吾等から経題目を聞かされなくても、疾く既に善く善く御承知である。畢竟本尊に向て修行するのは、自己の訓練と同時に『佛天と共に此至法を與にする』の意である。而して斯く真理正道の大同情家たる上は、必然の理として其が実行者でなくてはならぬ。その信仰が、日常の行為に托して、国家社会の上に表現されて来ねばならぬ。実世間の光明実力となすべく、人生的意義に発揮されねばならぬ。ここに於てか此妙行の処世的建設が必要となるのである。『佛壇では妙法を持って居るが、親に対し子に対し人に対し世に対しては非妙法的である』では、法華経の信念修行にならぬ。必ず人生の意義を霊化して、本化妙宗の安心の上に再現するのあらざれば、真実の妙法でない。『信仰はする、然し人間は元の儘である』では、信仰の効がない。「人」が即「法」に成るのが信仰である。即ち「信」の実際化したものが「行」で、「行」の実際化したものが「安心」で、「安心」の発現が妙法的処世である。それが所謂「願業」というのである。

本化妙宗の願業と妙益 

    願業と妙益                   ページのトップ

 1 続種護法 2 国家諫暁 3 閻浮同帰

 
1 続種護法

 上來叙べ来った「本化妙宗の行」は、不惜身命の心地に住し、随順歓喜の念に、諸の我を没し欲を離れて、非常に愉快に熱誠に、厳粛謹慎絶対恭敬の情を以て、唯一妙法を信受奉行するのであるが、その「行意(行がいくら正しくても、それを行ずる意識が違っていては、その妙行成立せず)」というものは、全然「折伏立行」の意義でなくてはならぬ。本尊も題目も戒壇も一切みな其の為の建立であるから、「修行」もまた其の意義を離れては功も徳もない事になる。そこで折伏立行を行意とするということは、自己が正義に住する如く、一切の人を同じ正義に入れたい、諸の誤れるすべての宗教道徳は、却って世の害になるとも益にならないから、其れ等の誤りを救って、世を挙げて唯一正法の本に帰らしめたい『一切衆生と共に本に帰るにあらざれば、自己の成佛も畢竟は決定しないのである』と
斯く考えて人を度し世を救はんと励む、自身みずからが為すと否とに拘らず、一切世間の邪悪を折伏して、この正法に還元せしむべき事業に対って、三世の心(生まれ変わり死に変り、生々世々忘れない)を一貫し、現在の一生(現に生きつつある此一生のすべての所作力用を、一切この一大目的の為に、御用だてたいと念願する事)を捧げて、この清浄の洪願を全うしたいと念願する。それが『折伏立行』の行意というのである。その意味を帯びた「題目」でなければ、本化妙宗の題目でない、この意味から離れた「本尊」や「戒壇」なら、名は法華経でも其の実は権迹の小法である。一転すれば外道の邪法である。
 爾ういう意味での信行だから、自己の修行も、帰着は『法界の代表的修行』である。本尊に対て自己の佛性を研くも、所詮は天地法界の代表者(十界三千悉く吾が一身の所現であるとすれば、我は今誰あろう天地法界の代表者なり)として修行するのである。本尊の中尊は我が本体であるとすれば、『我れ即ち今正しく天地法界の中心として一切を照らしつつある』のである。君父も『我が君父』である。子孫も『我が子孫』である。世界も『我が世界』である。一切衆生も『我が一切衆生』である。如来聖人も『我が為の如来聖人』である。春花秋月も『我が為の景趣』である。我にしてヘタバレば、天地法界はメチャメチャである。我にして間違へば、天地法界は崩れてしまう。『我が一念三千』である。『我が一身の法界』である。我こそ天地法界の主である。主であるが故に大責任(一切衆生を救い、国土を浄め、父母を救い、六親を度し、師長を供養し、おのおの其の所を得せしめざるべからず)がある。大功徳を発揮せねばならぬ。大光明を放たねばならぬ。どうしたら光明威力を顕はし得るであろう。あいにくと人間固有の智識や学問才能ぐらいでは、とても此大光輝とは成らない。此に於てか始めて法界の精粋たる佛の智慧に依り佛の功徳に同如して、法界の大霊原に一致せねばならぬということを認めて、『妙法蓮華経の安心に住する』必要が生じて来る。即ち『天地法界のすべてに成代て(取り敢ず自己一人にても、この佛の種を絶やさざる様相続せざるべからずとなり)、佛の種の絶えないように相続する』、是れ自己が法に対し、天地に対し、佛陀聖人等に対し、乃至父母六親に対し、一切衆生に対し、又自己に対する必然の義務である。行はねば本分がすまないのである。尚、又自衛的にも之を保護せねばならぬ。この「安心」の下に、自己の誓願を駆って進み行く、それが「続種護法」である。法の為に護るというよりは、世の為に護るというよりは、先ずハヤ自己の為に護らねばならぬものとして、是れが為に生れて来たとも謂うべき吾が人生の意義を充すべく、積極的護法の事業は対って自己の力を致して行くのである。

 2 国家諫暁                   願業と妙益 ページのトップ

 さて「続種護法」を自己の立行本位とすれば、一層これを永久的且つ普及的に持続する必要がある。「個人」を本位としても、「法界」を本位としても、人間界に在っては、人の集合勢力の基礎となっている「国家」を閑却してはならぬ。「国家」は人民のすべての力を組織的に集中して、勢力を寓して人生の意義を実行すべき原動力となって居るから、これを點眼して真理正道の原動力とせねばならぬ。煩悩界の人を以て組織せる国家は、その勢力を挙げて、煩悩の保護拡張に任じている。人道を以て建てた国は、その勢力を人道の保護力としている。佛道を以て精神とする国家は、その勢力の全部が佛道の威力となって来る。斯うなってこそ寂光土とも妙国とも謂い得るのである。吾日本国は人道を保護するために建てた国である。然れども人道本位ではない。故に夫婦の愛よりも、君父の恩を理想としている。吾国體は人道以上である。世間では「神随の道」と謂っている。所謂「神道」である。神道と言っても鈴振者流の道ではない。神の道とは久遠実成の本佛の道、即ち『本因本果の大道』である。日蓮聖人の出現によりて、始めて天照太神の実体も、神武天皇の理想も、聖徳太子の意見も、分明にその内容が解ったのである。日蓮聖人は吾日本民族取りて、実に吾国體解決の恩人である。
 日本国と妙法とは元と切ても切れない関係がある。身と心との関係である。花と香人の関係である。月と光りとの関係である。妙法にして日本を閑却し、日本にして妙法と離れているのは、身と心と離れ、香を失える花、光なき月のそれの如きものである。幽霊でなければ死体の如きものである。故に法を念ふに付け国を念ふに付け、是非此国をして此法に一致せしめねばならぬ。これを実現するのが本化教徒の事業である。「三大秘法」はこの為に建てられた霊国的事業の大方針である。法門を死物にして扱ってはならぬ。何でも日本国民の全部を諫め暁して、この正に還らせなければならぬ。
 『信ずるものは信じなさい、イヤなものは止しなさい』というのでなく、『何が何でも正法を信ぜよ、信ぜざるものは罪悪なるぞ』と宣言して、強て之を持たしめんとするのだとある。果して爾うするには勢い之を制裁する「力」が要る。それは『国家の力』でなければならぬ。法律的命令でなければならぬ。是に於て『国家勢力の中心』に向て、この正法の威力を植えねばならぬということになる。乃ち昔時は政府に宗教の権(昔は政府にて僧綱を任命し、一般教政を進退したる故、宗教の事は政府に持ち出すの必要あるなり)があったから、頻りに執政者に対って『法華経を奉ぜよ』と迫った。若し法華経が佛法を統一するに足らぬものと考えるなら、天下各宗の大徳大知識を集めて、朝廷なり幕府なり、一番で埒のあく組織の下に論議決着して、法の邪正得失を決すべきである。延暦年間に桓武天皇の御前に、諸宗の高僧を会して、伝教大師と宗論を公決した先例があるから、それに則って公場の対決をさせろと、時の執権者北条氏に迫ったが、政府も諸宗の高僧も、頻りに之を避けて、却ってその要求者たる日蓮聖人を或は流罪に処し、或は死罪に処しなどして大迫害を加えた。その後も代々の名師先哲は、乃祖の先蹤を襲で、一命を擲て時の政府に上奏建議を続けて、彼の「国家諫暁」を励行した。昔は大本山の住職たるものは入山就職すると直に朝廷又は幕府に迫って、諸宗対決を要求した。是れは国家の全体を挙げて、早く正法の霊體に還元させようという為である。而して何故国家を一妙法に帰せしむる必要があるかというと、国家の力を以て対世界的に正法を弘めて、一天四海を悉く妙法の一化に救い取って、事の寂光浄土としたいというのに在る。
 然るに今日の如く、朝廷も政府も宗教の外に超然として、政教分離せられた上は、朝廷や政府に対って、信教上の注文は何事も出来ない。「憲法」には明らかに『信教の自由』を規定してあるから、今の「国家諫暁」は、直接人民に対って為さねばならぬ。随って民間の信仰が大部分正法に帰すれば、政治的勢力でも何でも生じて来る。議会に過半数を制し得れば、其時は朝廷の本領も発揮せられて、『神代の巻と法華経との思想的接着』を実現することが出来る。
 故に個人的に信行を起すの到着点は、全く国家的信仰を実現するに在る。即ち所謂『国家と共に成佛する』というのが是れである。
 
『王法、佛法に冥し、佛法、王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ち』
と判じ、又
 『法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を、一人もなく責落して、法王の家人(法王とは釈尊也。家人とは臣下也。今諸宗の人は釈尊に叛きたるもの故、之を悔悟せsめて、元の家人に還さんとなり)と為し、天下萬民諸乗一佛乗と成て、妙法独り繁昌せん時、萬民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝を鳴らさず、雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を拂ひ、長生の術を得、人法共に不老不死の理り顕れん時を御覧ぜよ。現世安穏の証文疑いあるべからざるものなり。』(如説修行鈔)
と釈してある如く、真の寂光土を実現しようというには、寂光教たる妙法全盛の世とならねばならぬ。諸の非寂光的分子を排斥して、唯一正法の光輝を充遍させねばならぬ。爾うするには、国家を挙げてこれに移るべく、国家の全体を諫暁しなければならぬ。一人も多く一日も早くである・・・・・・・・・・・・!!!
 自己の力に餘が有れば、国家の事も仕ようという風な思想は、普通の国民的義務としても間違いである。况して是は国家が即自己そのものとする所の教旨ではないか。

 3 閻浮同帰                  願業と妙益 ページのトップ

 「個人」を本位とすれば、「宗教」はむしろ方便であって、「個人」の帰着は『国家』である。「国家」を本位とすれば、「個人」は方便であって、「国家」の帰着点は『世界』である。「世界」を本位とすれば、「国家」は其方便であって、「世界」の帰着点は『法界』である。「法界」を本とすれば、「世界」は方便であって、「法界」の帰着点は『本佛』である。『本佛』の境界に到達して、土も寂光となり、人も佛身となるのである。「本佛」の智慧理體慈悲の発現が教行であって、宗教は即ち『佛の意思と言語』である。『常に此に住して法を説く』という三世常住の化導に、群生は常にその恩化に欲して居るのである。
 「真理」は無言である。『真理のものをいう』のが「教法」である。此二つは実世間を両極から挟んで居る。乃ち「教法」より入って「真理」に帰着するのである。そこで此に挟まれて居る実世間に、「個人」と「国家」と「世界』との三階がある。世界という中にも特に吾人が今住んでいる、所謂全地球、それは佛教で須弥の四洲の中の「南閻浮提」である。佛も亦実際的に此法華経の化境を閻浮提内と宣べられた。
即ち
 『此経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若人病あらんに、是経を聞くことを得ば、病則ち消滅して、不老不死ならん。』(法華経薬王品)
病は身にも心にもあるが、特に心の病をば重しとするのである。即ち此法華経が閻浮提の人の最適の良薬だとしてある。全世界の持つべき教法であるという羲である。又
 
『我が滅度の後、後の五百歳の中に、広宣流布して、閻浮提に於て断絶せしむこと無けん。』(同上)
とあり、又
 『我今神通力を以ての故に、是経を守護して、如来の滅後に於て、閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん。』(法華経普賢菩薩勧發品)
とあって、特に閻浮提の人に適すべく残された経であるとしてある。聖祖は釈して
 『国土世間の縁とは、南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国也。経に閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめんと曰ふ是なり。』(御義口伝)
斯く経文祖判ともに、この全地球を以て、法華経流布の化境と定められてある上は、イヤとも世界中の人を妙法の一化(世界中の人をすべて、妙法の民とすること、日蓮聖人建宗の大目的なり)に帰せしむる時が来らねばならぬ。その目的で「本門の本尊」を建てられたのである。故に
 『一閻浮提第一の本尊此国に立つべし。月支震旦未だ此本尊ましまさず』(観心本尊抄)
と釈して閻浮統一の標識だとしてある。「本門の題目」も一閻浮提を統一すべく弘められたのである。
故に
 『日本乃至漢土月支一閻浮提に、人ごとに有智無智を嫌ず、一同に他事を捨てて、南無妙法蓮華経 と唱ふべし。』(報恩抄)
と釈されたのである。又「本門戒壇」も閻浮統一の目的によりて弘められたのである。故に
 『三国並に一閻浮提の人の懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も、來下して踏みたまふべき戒壇なり。』(三大秘法抄)
とある。三大秘法は世界統一の要法である。故に『一天四海皆帰妙法』の八字を以て、本化教徒の「願業」として、一切万事これを理想として励み進むべきである。「国家」が安穏でなければ「個人」が安穏でないように、矢張「世界」が間違って居る限りは、「国家」も常にその波及を受けて、根底より不安を排除することは出来ない。いくら文明だの道理だのと謂っても、人間の文明は、進めば進むほど危険を増すばかりである。抑もそれは何故である。文明の罪か、学問の禍か、否決して爾うでない。それはいうまでもなく各国互に利害を異にして居るからである。この利害上の統一が出来ないというのは主権が相隔離して統一點がないからである。若しも四海一家の実に到着したならば、利害の衝突は根本より融解せられて、無限の平和と光明とは、天地人を一貫して常寂光土の相を現ずるに至るであろう。その統一を来すのは、宜く『統一的教法』に依らねばならぬ。『宇内統一の主義能力』ある教法は、即ち『法界統一の大理性教』でなくてはならぬ。所謂『十方佛土の中には唯一乗の法のみありて二もなく三もなし』と宣示された唯一の妙法は、正しく諸乗を破してその「麁」を亡し、諸乗を会して其の「妙」を顕す所の至法であるから、世界はこれに依りて統一せられるのが本分であり又進歩である。
 「閻浮同帰」の実を現ずべく、吾が日本国は存在し、吾等国民は存在している。「閻浮同帰」の端は、日本国の同帰に在る。日本国の同帰は、吾等個人の信行より起る。吾等は一滴の如く、一微塵の如くであっても、積り積れば終には大海ともなり大山ともなるのである。自己の目前にこれが遂行を見られないとしても、『この希望の為に活き且つ働いている大安心』の中には、確かに「国家」を包有し、「世界」を含蔵している。この人の頭脳には、美なる国家、妙なる世界が常に現前して居るのである。いつか事実となって現われずにはいない。况して佛も法も祖師も皆爾か念じて、此法を留めたのである。佛力、法力、信力、感応同交して事実現前するに相違ない。只時の問題である。努力の問題である。
 純理を事実に結着るが佛陀の教、事実を真理に結帰するが吾等の信行、三秘の妙義全く此に在る。
 「個人」の開顕は「本門の題目」、「国家」の開顕は「本門の戒壇」、「世界」の開顕は「本門の本尊」と配す。此一往は三秘を各一本位に配すと雖も、再往は一大秘法に各々三本位を包含して重々無尽の妙義を織成して局限あることなきを「法界円融の信念」という。
 「本化妙宗の行」は、純宗教的より進んで家庭的となり、国家的となり、社会的となり、終に人生の意義と化し、生活の指針となって、全く安心立命の要を盡し、此一大願業と化成したる「主義的行動」と、彼の「典式的立行」と相待ち相成けて、始めて完く美しき修行となるのである。徒らに声をからし暇を潰して多数の経題目を誦したりとも、この意義を閑却しては、何の詮もないのである。况して迷信的妄行に類した信行を以て、本化の信行なりと誣ふるが如きは、げに破佛法破国の因縁というべきである。「信」も「行」も『誓願化』して、始めてここに活躍するのである。爾ういう風に思慮すべく又為すべく、朝夕に御本尊に誓うのである。それが「南無」ということである。「南無」は梵語で、此に帰命と訳する。帰命とは法性に順い佛意に従うの意である。法性も佛意も、人間でいへば、「世界統一」から始まる、それが「世界の成佛」である。


本化妙宗の世界統一主義
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 「本化妙宗の願業」が、世界統一に在るといふことに就て、ややもすると直に『出来ない相談』だとか、『架空論』だとか、又は『危険な思想』だなどと訝るものがあるようだから、ことの序でに其の然らざる所以を一言して置かうと思ふ。
 日蓮聖祖既に之を唱導してより、此に七百五十年になんなんとして、始めて此思想の真価を認むべく世界文運の大勢が、任運にこれが解決を提供しつつあるのは、全く正法興隆の時機に達せんとしているものであらう。
 由来高明なる「教権」は、真理の衣冠束帯したるものである。人若しその一端を早まり聞いて、漫に彼のローマ法王の舊夢を説くの痴論と同視してはならぬ。総じて本化佛教でいふ所の『教権主義』は、世界のあらゆる学問思想政治文物の最終帰着たるべき、最善の文明思想であって、今の世界の文明では、実に悉く解し能ふまじきほどの高遠の理想である。
 萬国の帝王大統領が、日本に来て「本門戒壇」を踏んで、大菩薩戒を、日本天皇より受けるといふことを聞いて、膽魂を潰す外国人があらう。「黄禍説」(アジア人を黄色人種と目け、その黄色人が追々と白色人たる欧米諸国を責めに来るものとして鬼胎を懐く一種の思想、特に近年日本人を恐るるによりて、一層盛にこの説を伝えて警戒すといふ)でも唱へているものは、早合点して気を揉むかも知れぬ。しかし安心するがよい。この世界統一主義は、「妙法蓮華経」で統一するのであって、軍艦や鉄砲で統一するのではない。他を攻伐して統一するのでなく、『渇仰、帰依、愉悦、満足、の上に打ち立てる統一』である。
 外国人どころでない、如何かするも日本人の中に、これを聞いて驚いたり怪しんだりするものがある。曾て某貴族がこの事を聞いて、『いかにも危険な思想である。爾ういふことを唱えるものがあるから、外交に悪い影響をするのである』と言ったとか伝聞した。あまりの愚論で話にならないが、序でだから一言して置こう。いづれ世界の終局は、何ものにか統一されずには居ないのである。よし又事実に統一され難い件としても、『統一しよう』といふ考は、どこかに存在し継続されて居る筈のものである。想像にせよ事実にせよ、爾ういふ思想が、いづれにか必ず在るものとすれば、その統一方針の公明正大なるものこそ、世界萬邦のひとしく帰向すべき所のものであらう。而して『その尤も公明神聖なる妙法主義の統一、道義的統一、本佛の霊想の下に為すべき統一が、現にこの世界の中に於て、組織的に唱導されて居る』といふことを聞いたなら、『黄禍論』どころの沙汰でなく、萬口一斉に日本国を祝杯して、「金人禍」と叫ぶべきである。即ち此世界統一主義こそ、彼の「黄禍説」などの鬼胎を懐いて居るものの為に投ずべき霊妙なる清涼剤と謂て可い。
 日本人でも悪思想に薫染されているものには、解し得られぬかも知れないが、ことによると聡明なる外国人が、先んじてこの「本化妙宗」の世界統一主義を撃節歓迎するに至るかもしれない。誠に『辛きことを蓼葉(たでのこと)に習ひ、臭きことを糞厮に忘る』の理りで、自ら卑屈に堕しているものは、却って度しがたいのである。
 「世界統一」といふことが、何故そんなに危険であらう。たとひ不可能としても、斯うありたいとおもふことは、遠慮なく希望を寄せるが可いではないか。『希望は人の活力』である。希望なき人生は死の世界である。予は日蓮主義の指導がなくても、神武天皇の洪猷がなくとも、新規にでもこれを絶叫して見たいとおもふのである。たとひ宗教的道義的でなくても、之を主張して見たいとおもふのである。なぜならばその方法の如何は第二として、とにかく世界が統一せらるるといふことは、たしかに物の争ひのなくなる『絶対的平和の形』であるから、何からでも爾うして見たいと惟ふのである。况してそれが一の明確堅固なる大理想の下に、大平和的に大進歩的に大文明的に統一せられて、理想的霊明の世界が実現せらるるといふ『統一主義』は、主義そのものが、モハヤ世界に無限の平和(世界統一といふことを理想するに就いて、世に斯る堅実平明なる道義的統一主義ありとせば、世人は人生の目的を此一点に集中してまいしんすべきなり。道義の下に集りて一つになり得る境界は、たしかに地上に築かれたる天国のそれなり、之を想像し憧憬するだけにても、世は大平和の風に薫るなり。)を与えているのである。それを考えているだけでも、寒時の温気となり、盛夏に涼を生じさうな事、吾等はこれ有るが故に日本国は貴いものとおもひ、これ有るが故に日本の帝室は神聖なるものとおもひ、これ有るが故に人間といふものは美味のあるものとおもひ、学問するのも、銭を造るのも、戦ふのも、交わるのも、生れて来たのも、活きて居るのも、皆この大理想のために甲斐あるものとするのである。若し『この事がないもの』となれば、「日本」に生れるのも「アフリカ」に生れるのも同じこと、序でに人間に生れるのも畜生に生れるのも大した異ひはない。乃至生れて来ても来なくても、何の変轍もない、実に生れてきたのが馬鹿らしく、活きているのがむだなように想ふのである。人間でも国家でも、意義なくして存在するものは、真に有名無実の存在である。人に在ては酔生夢死(何の為に生れ来れるか、何の効を残して死すといふこともなく、むだに生れ来たり、むだに死し去るをいふ。人のみにあらず、国家もまた一つの意識あるべし、若し意義なくして存在するは、是れむだに生存せる国家なり。要するに「あってもなくてもよし」といふ意義の存在は、すべて酔生夢死的なり)の境界といふものである。

 人は極楽や天国のような、非現実なる空想をさへ理想境として、現実の人生を犠牲にするほど、理想に忠実なるものではないか、それが何故この『現実の世界に於ける理想的実現』に意を寄せないのであらう。吾人は極楽や天国のような無責任な理想境は、一顧の価値もないものとおもふ。『敲けば音のする現実の境界に、極楽以上天国以上の大理想境が建設せらるるといふ教』にたいしては、身命も何も一切入揚げて忠実を捧げる心得である。
 何年の後に爾うなるか、誰が爾うするか、そんなことは考へる必要がない。たとひ成っても成らなくても是非成さうといおもふ心が、モハヤ『極楽の手付け』を取ったようなものである。この観想は人生の力である、意気である、性命である。
 また成らないことではない、『必ず成ること』である。実は何よりも容易なことである。日本人みづからが日本の国體と国性とを自覚したらすぐである。而して国民が自ら自国を覚知すべき必要は、『何事よりも近い必要』である。今その必要を認めないでいるのは、謂はば一種の病気(国の持ち前になく、他より持ち来れる悪風に感染せるもの故、治癒せば本の健康体となるべし。遠くは印度思想、支那思想、近くは西洋思想、いづれも日本的消化を用ずして、生のままに鵜呑みにしたる、不消化作用のため、あられもなき非国性的悪風を生じたるが、今の日本人の民幣なり、故に之を国病といふ。経文に『他の毒薬を飲み、薬発し悶乱して地に宛転す』とあるこれなり)である。病気さへ本復すれば、すぐに気がつくのである。
 世界統一の順序は、先ず宗教の統一からである。宗教の統一といふことは、人の信仰を一つにするのである。『處が人の信仰といふものは、いつの世になっても決して一つにするといふことは出来ない』といふ考えを以て、世界統一を難ずるものがあろうも知れぬ。それは恰ど『病気といふものはいかなる時でも滅しくらぬものであるから、医学の研究も無用、医者の必要をも認めない』といふようなものであって、畢竟一種の蛮的思想である。たとひ実際上不可能でも、道理に於て許す以上は、飽まで貫うとするのが道義的性命の本分である。成敗を以て正義を進退するのは義でない。『成っても成らなくでも、正義は必ず行はねばならぬ』、湊川で敗死すると知っても、大義の戦は必ず行らねばならぬ、『成功しそうもないから止さう』といふことは利害の打算であって正義の覚悟ではない。世界が統一されない為に、人生のすべての罪悪禍根は永久に根絶し能はないのである。人間の善事も根本的に発生し得ないのである。是非ともこの障害の根を絶て、理想的の世界を建設すべきものであるといふことは、殆ど『人間としての最高責任』ともいふべきである。世の病も医学の研究が進めば絶対的に亡くなすことが出来る。現に一時英国を危くしたといふほどの「ペスト」が、今や英国に跡を絶つたではないか、「天然痘」は人ごとに必ず罹るもので、殆ど天性のようなもの故病とはいへないといふので、「疱瘡非病論」といふことを主張したものがあったほどの人間厄を、善那氏の発明によって、『種痘』といふ奇法を以て、全く免疫的に救済せられたではないか。その他学問の進歩によって、遺憾なく病原を発見し、又その勦絶法をも研究せられ、人々の衛生観念が一切合理的になりさへすれば、すべての病は根絶されるに相違ないものである。人の信仰を統一するぐらいは、それよりもモットやさしいことである。『人々区々の考を一つにする』といふ迄のことである。勝れた思想境さへ確立すれば何でもないことである。爾う行かないのは、つまり行り方のわるいのである。萬事は必要に促されて帰着するものだから、『人生の必要』といふことにさへ気がつけば、水の卑きに就くように趨帰して行くのである。行かないのは一時の凝滞物があるからである。それさへ除けば、ずんずんと埒があいて行く筈である。明治の今日までも、日本国中を一妙法に成し得なかったのは、全く吾等の怠りである。実に佛祖に対し国家に対し相済まざる次第、古人は幾多の血を流してこの正義のために奮闘した、古人や他人を引合にするまでもない。予一人でも此日本国を教化し盡さねばならぬのを、それが為し得ないといふのは、本化聖祖の流末に浴しながら、いかんとも不甲斐ない至りである。信念の足らないのか、意気の及ばないのか、いかにも恥ずべき次第である。日夜剋責して身を斬られるのおもひである。故に一言一句でも、或は口に或は筆に、いかなる機会にも、此叫びをつづけて、『唱えて唱え死に死する』覚悟で、所謂旻天に号泣するのである。
 吾人は思想を蓄へて、現実界に臨まねばならぬ。これを以て自己の性命とせねばならぬ。月も花も此の意味で見るのである。父母に事へ子孫を育てるのも、此意義である。働くのも休むのもこれを外れない。税を払い兵役に服するのも、これが為めでなくてはならぬ。此願業が性命だ、力だ、是れ此の願業! あゝ理想の世!! あゝ実行の人!!!