今回は関西から遠いが塩の道を歩いてみた。塩の道は日本全国にあったが、長野県の松本から新潟県の糸魚川の道がとくに有名である。この稿では、その道の中央部、大町市北部から小谷村までを掲載した。
この塩の道は一名千国街道ともいい、江戸時代は松本藩の管轄であった。街道には、庚申塚(こうしんづか)・道祖神・二十三夜塔・馬頭観音・大黒天像などの石碑が多く、素朴な信仰の姿を今にとどめている。
街道の概要
行程記 |
区間 |
距離(約) |
ウォーキング適格度 |
第1回 |
大町市平中綱~白馬村神城飯森 |
11km |
4点(5点満点) |
第2回 |
白馬村神城飯森~小谷村松沢口 |
10km |
4点 |
第3回 |
小谷村松沢口~小谷村中小谷 |
7km |
5点 |
行程記 第1回 大町市平中綱~白馬村神城飯森 距離 約11km
出発はJR大糸線簗場駅(やなばえき)とする。駅前から真っすぐ西へ延びている道を進む。途中、仁科三湖の一つである中綱湖の南端をかすめている。中綱集落に入ると中綱神社が鎮座していて、その前の南北の道が塩の道である。ここは大町市平中綱で、標高は約825mである。
中綱集落を北へ抜けて、北端から北へ延びている細い道を進む。右手に中綱湖が現れ、桜並木の下を通る散歩道となる。
中綱湖を通り越すと車道が現れる。左へと道を取り、次の二股道も左へ行くと青木の堂前観音堂が現れる。これからも次々と観音堂とか薬師堂が現れるが、どのような役目を果たしてきたのかよく解らない。小さな集会などがあったのであろうか。観音堂の前に庚申塚と小さな石仏がある。
青木集落を抜けると右手に青木湖が見えてくる。仁科三湖の一つで、面積は三湖の中で最大で、水深は長野県内では最も深い。また、「遊びの木崎湖」、「憩いの中綱湖」、「思索の青木湖」とも言われ、青木湖には哲学的な名前が冠されている。
青木湖キャンプ場を過ぎたあたりから道は青木湖から離れ杉林の中へと入っていく。森林浴を兼ねた極上の散歩道で、塩の道前半のハイライトである。杉林の中に高さ1m足らずの石仏が、20m~30m間隔でポツリポツリと立っている。佐野坂観音像(写真401)である。この石仏の道は約800m続いている。
佐野坂西国三十三番観音像 (現地説明板)
江戸時代の後期に入ると、観音信仰に支えられて、西国・坂東・秩父・四国などの聖地巡礼に旅立つ人たちが見られた。佐野坂観音像は、塩の道千国街道沿いに点々と置かれ、道しるべや亡者の供養も兼ねて立てられたものといわれている。
彫像は伊那片倉村の高遠(たかとう)石工のもので、名工の冴えがみられる。白馬村の佐野村の人々によって、三十三体共に江戸時代後期の文政十二丑年(1829)に建立された。
観音像が設置されているところが佐野坂と呼ばれる峠であるが、あまりにも緩やかなので知らぬ間に越えてしまったという感じである。しかし、この峠が太平洋側と日本海側の分水嶺となっているそうである。標高は約875mである。この辺りから白馬村に入っていくことになる。
杉林を抜けると視界が開け、山裾にスキー場リフトの発着場があちらこちらに点在している。JR大糸線の踏切を渡ると佐野集落へと入っていく。集落の中の古道は趣のある道である(写真402)。集落の中ほどに、今は無住となっている東徳寺があり、境内に元禄年間の庚申塚とか小さな不動明王が立っている。
東徳寺の少し先の三叉路に道祖神と大黒天像が立っている。
佐野村中道祖神(写真403) (現地説明板)
この道祖神は、寛政3年(1791)の建立で、形態上は双体神祝言像と呼ばれているものである。
道祖神が民間信仰として隆盛を見て、石碑が建てられるようになったのは、江戸期に入ってからである。路傍や辻にあって、正月行事などを通じて、子どもたちとのつながりが深い。五穀豊穣や旅の安全を祈願したり、夫婦和合、子宝に恵まれたいなど、性をめぐる神としても村人の信仰を集めてきたのである。
JR南神城駅に通じる道路と交差する先の道は細い地道となる。杉林の中を行く快適な道であるが、季節によっては雑草のはびこる道ともなる。杉林を抜けると沢度(さわど)の集落へと入って行き、そこには沢度南原石仏群がある。
沢度南原石仏群(写真404) (現地説明板)
ここには、庚申塔が4基(享保9年(1724)・万延元年(1860)・大正9年(1920)・建立時期不明1基)と供養塔(宝暦9年)、馬頭観音(弘化3年)がある。
庚申信仰 (現地説明板その2)
庚申信仰は、日本における庶民信仰の代表的なもので、全国各地にみられるものである。太平洋戦争後衰退したいくつかの神仏信仰の中にあって、今なお命脈を保っている。
江戸末期からの庚申塚の多くは、「庚申塔」の3文字を刻んでいるが、文化文政以前には、像を刻んであるものが多い。中央に青面金剛神、上部に月日、下部に二鶏二猿を配したものがふつうで、60年ごとに巡る庚申年に建てられてきた。
(参考)
江戸時代中期以降の庚申年は以下のようになっている。
元文5年(1740)、寛政12年(1800)、万延元年(1860)、大正9年(1920)、昭和55年(1980)
石仏群を後に道を北へ進むと、街道は田んぼと民家と木立が適当に配された落ち着いた道が続く。中には茅葺き屋根の民家などがあり、古道の雰囲気を醸し出している(写真405)。
この少し先に、立派な道祖神や野ざらしの石仏がある。この石仏は、2mほどの台座の上の蓮弁に鎮座している。弘法大師像であろうか、上からあたたかく見守られているようである(写真406)。
白馬南小学校の手前に沢度北原石仏群がある。
沢度北原石仏群 (現地説明板)
ここには、庚申塔が4基(宝永元年2基・万延元年・大正9年)と廻国供養塔、勢至菩薩などがある。
北原石仏群の前の細い道を北にとり、白馬小学校を左回りに巻くようにして東の国道へ出る。
国道をしばらく北へ、左の別れ道を進む。JR大糸線に沿った細い道である。ここら辺りは塩の道の全行程(信州松本~越後糸魚川)の中間点だと現地説明板に書いてある。
街道は途中消えそうになるが、踏み跡をたどっていくと飯田犬川端石仏群に出会う。ここから先は飯田の集落である。
飯田犬川端石仏群 (現地説明板)
ここには、庚申塔4基(延享2年・文化2年・延元元年・大正9年)のほかに、二十三夜塔、大日如来、馬頭観音など60余基がある。
街道は犬川の流れに沿って東へ進み、飯田集落の中をぐるぐる回って北へ行くことになるが、さしたる見どころもないので国道を直進してもよい。飯田集落内を通った塩の道が国道と交差するところに飯田北原石仏群がある。
飯田北原石仏群 (現地説明板)
ここには、庚申塔3基(元禄6年・大正9年・昭和55年)と六十六部供養塔(明治25年)のほかに馬頭観音など80基がある。
飯田石仏群から国道を少し行き、国道から別れた左斜めの道を進む。JR線の踏切を越えて飯森の集落に入っていく。集落の中には、文化10年(1813)建立の道祖神や小さな十王堂がある。街道はのどかな農村の中を行くような感じである。集落を抜ける手前で東へと道をとるとJR飯森駅に到着する。
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写真401 佐野坂観音像 |
写真402 街道 佐野 |
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写真403 佐野村中道祖神 |
写真404 沢度南原石仏群 |
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写真405 街道 沢度 |
写真406 野ざらしの石仏 |
行程記 第2回 白馬村神城飯森~小谷村松沢口 距離 約10km
前回の続きから歩き始める。飯森集落を抜けると一面の田んぼが開け、左手に白馬ジャンプ競技場が遠望できる。街道沿いのこんもりとした森は飯森神社である。飯森神社の手前に飯森神社石仏群と道標がある。
道標
「右 ゑちご道 左 やま道」と刻んである。塩の道は地元の人の生活道路だったので道標そのものがめずらしい。
飯森神社石仏群(写真407) (現地説明板)
ここには、庚申塔5基(元文6年・安永5年・寛政10年・安政7年・建立時期不明)と二十三夜塔、馬頭観音などがある。
田んぼの中の道を進む。やがて街道は大きな舗装道路(オリンピック道路)に吸収されてしまう。歩道はあるが何にもない道を淡々と歩かなければならない。
みそら野交差点の次の辻でやっと右の旧道へ行くことができる。すぐに空峠石仏群が現れる。
空峠石仏群 (現地説明板)
ここには、庚申塔5基(元禄9年・元文5年・寛政12年・万延元年・大正9年)のほか、双体道祖神(文化5年)、二十三夜塔、大日如来、馬頭観音など50余体がある。
大日如来の石像には牛方(うしかた)と刻んである。牛方供養のためのものであろう。牛方とは、牛を使って塩などの荷を運ぶ人のことで、一人前の牛方になると、一人で牛6頭を追っていたそうである。
空峠石仏群から、民家と田畑が混在した道を1.4kmほど進むと八方口薬師堂石仏群がある。
八方口薬師堂石仏群
薬師堂のほかに、庚申塔、大黒天像、馬頭観音など51体がある。
薬師堂石仏群を後にして少し行くと、JR白馬駅から真っすぐ西へ延びる大きな道路と交差する。街道はこの道路を突っ切って北へと進む。途中、道祖神とか庚申塔はあるが、街道は普通の市街地の道である。人家を抜けると、田んぼとソバ畑が広がっている。
やがて国道に突き当たるので松川に架かる松川橋を渡る。春先の天気の良い日であれば、松川上流に雪をかぶった白馬三山などの北アルプスの神々しい姿が望めるのだが、今回の旅では不幸にしてさっぱりダメであった。
松川橋から450mほど国道を進み、左斜めの枝道に入り新田(しんでん)を目指す。両側は田んぼの田舎道である。新田は、江戸時代の初期、塩の道千国街道の飯森宿と千国宿の間の距離が14kmと長いので、中間にできた新しい宿場町であった。現在はその面影を留めていない。
新田集落に入った少し先に、新田薬師堂がある。
新田薬師堂
薬師堂の左に庚申塔、右に2基の大黒天像が立っている。
新田集落の北西部に石の階段があるので、そこを上り観音原を目指すこととする。地図にも載っていない細い道であるから道しるべを頼りに進まなければならない。この辺りは、昔、罪人の首をはねたといわれる首切り坂である。しばらく行くと、林の中に、一辺が30~40mの広場が現れ、周囲をぐるっと石仏が取り囲んでいる。この広場が観音原である。
観音原石仏群(写真408) (現地説明板)
白馬村における観音信仰の深さと広がりを示す代表的な聖地で、北側に坂東三十三体、西側に西国三十三体、南側に秩父三十四体の石仏を配し、中央に弘法大師像を安置している。
江戸時代末期の天保年間に近隣近在の人たちによって建立され、西国・坂東・秩父の観音霊場の石仏が全部揃っている。佐野坂西国観音と同じ高遠石工の手になったものと伝えられている。
他の石仏と合わせて、187体が設置されている。
観音原の横の道をなおも進むと舗装道路に出くわすので、右折して切久保集落を目指す。「中小谷」を示す道しるべの矢印があるので確認してほしい。切久保集落にも庚申塚がある。
切久保庚申塚庚申塔(写真409) (現地説明板)
庚申さまは、集落に入ってくる疫病・魔物・盗賊を退治したり、豊作をもたらすなど、集落の安全加護の役を負ってきた。
この庚申塔は、江戸時代初期の天和3年(1683)の建立で、白馬村の庚申塔最古のものである。下部に二猿、二鶏が互いに向き合って描かれているなど、古い様式を伝えている。
なお、この庚申塚には他に5基の庚申塔と二十三夜塔・大黒天像など12基がある。
切久保の集落を抜けて切久保神社の前を通り過ぎる。切久保諏訪神社は、旧松本藩の四大社の一つとして崇敬されている神社である。
道はやがて県道に合流する。その県道を少し行くと、右手に車止めがある。車止めの間をすり抜けて地道へと入っていく。緩やかな上りが続く山道という感じである。途中、舗装道路が横切っているがそれを無視して直進する。やがて先ほど別れた県道に出る。ここは落倉の集落で、地蔵前というバス停がある。昔は落倉平と呼ばれたさびしい場所であったが、今はリゾート地に変貌してしまっている。
少し行った左手に風切地蔵が立っている。
風切地蔵(写真410) (現地説明板)
風切地蔵(風除地蔵)は、道祖神や庚申さまが何でも聞き届けてくれる神さまとなっているように、風害防除というだけでなく、風邪や疫病をもたらす悪霊も追い払ってくれるという祈願にもこたえて下さったもののようである。
白馬村には、他に何体かの風切地蔵が確認されている。
風切地蔵から700mほど先の三叉路を左へ行く。道は下り坂の車道である。ここから小谷村へ入ったことになる。松沢集落の入口に松沢薬師堂があり、その付近に石仏が散らばっている。
松沢薬師堂 (現地説明板)
茅葺きの板摺りによる3間3面(間口約4.5m、奥行3.6m)に過ぎないが、素朴な地方色があふれている。とくに、小屋組み(内部屋根裏)が面白く、また正面欄干の蟇股(かえるまた)も面白い。
集落に入ったところで車道は大きく左にカーブを切るが、街道はまっすぐ進み、地道へと入っていく。途中、ここでも舗装道路が横切っているがそれを無視してまっすぐ進むと、先ほどの車道に合流する。この先が松沢口バス停である。JR白馬駅までバスの便がある。
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写真407 飯森神社石仏群 |
写真408 観音原石仏群 |
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写真409 切久保庚申塚 |
写真410 風切地蔵 |

行程記 第3回 小谷村松沢口~小谷村中小谷(JR南小谷駅) 距離 約7km
前回に続き松沢口バス停から出発する。
丁字路の突き当たりを右に回り、すぐ先の左の枝道に入っていく。右側は山で、左は視界が広がり北アルプスも望むことができるらしい。左後方を振り返って見れば、栂池自然園のゴンドラリフトがゆっくり動いているのが遠望できる。
松林の中に前山百体観音群がある。
前山百体観音群(写真411) (現地説明板)
この百体観音は、西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番の百体であったが、長い年月の間に80余体のみとなってしまった。
前方に立てられている弘法大師の台座には、安政5年(1858)の銘があるが、百体の観音そのものの建立年代は定かではない。いずれも伊那高遠から招かれた石工の手になったものということで、その作風は優れている。
北アルプスを眺めながら高原の道を下ったところは沓掛(くつかけ)である。車道を少し行くと茅葺き屋根の牛方宿が建っている。塩の道のハイライトである。
この牛方宿は、間口5間半、奥行き8間の大きな平屋建てで、半分は主の住居、あと半分が宿となっている。その他の説明は以下による。
牛方宿(写真412) (現地説明板)
この沓掛の牛方宿は、江戸時代の千国街道沿いの輸送に携わった牛方やボッカが寝泊まりした建物である。
建築年代は、1700年代末から1800年代初期と考えられている。何回かの改築が行われたが、大きな変化はなかった。
街道に面したウマヤロから土間に入ると、右手に中2階があり、牛方はもっぱらここに泊まり、下方の牛馬の様子を見ながら寝たといわれている。
牛方宿としては旧街道沿いに現存する唯一の建物である。
牛方宿の隣に塩倉が建っている。
塩倉 (現地説明板)
半地下式の建物で、階上は塩の保管、階下は牛を繋いだともいわれている。建築年代は不明であるが、幕末に建てられたものと考えられている。
特徴は、塩による釘などの金属の腐食を防ぐため、板壁を使い、小さな鼻栓で板を固定していることである。
建築当初、屋根は茅葺きの寄棟で、壁は土壁であったことが確認されている。
千国街道と書かれた大きな石碑の地道を下っていく。ここは親坂といい、一部石畳も残っている。
親坂 (現地説明板)
牛方宿からちょっと急坂を下るところで、牛が歩きやすいように石を敷いた石畳道が今も残っている。
沿道には牛と牛方が水を飲んだ弘法清水、雨が降ると石の色が変わる鏡岩、石に手綱を結ぶ穴があいた牛つなぎ石、牛馬のために祀った馬頭観音石仏などがあり、昔の様子をしのばせてくれる。
親坂を下り小川を渡り少し行くと、坂の途中から小谷宿が俯瞰できる。大きな民家や街道を貫く一本の道など、どこか懐かしい景色である(写真413)。宿の中ほどに千国番所が再建されている。
千国番所 (現地説明板)
千国番所が置かれたのは、慶長年間(1596~1614)からといわれている。以来およそ260年間、明治2年に廃止されるまで、千国街道の人や物の通行を監視し、取締りにあたる松本藩の重要な番所としての役割を果たしてきた。
とくに、千国番所は松本藩領に出入りする物資に対する運上金の取り立てが大きな仕事であった。
番所跡の奥に千国の庄史料館がある。現在の駐車場に建っていた造り酒屋を曳家移築したものである。
千国番所から道を北へ、小谷小学校の横で、枝分かれした左の細い道に入っていくと千国諏訪神社に達する。神社の境内を通り抜け、右の枝道を下っていくと源長寺の石段下に出る。そこに源長寺西国三十三所観音石仏がある(写真414)。小さな石仏であるが、これも高遠石工の作と伝えられている。
石仏から少し北へ進み、源長寺正面の石段のところの右への枝道を下っていく。右手に小谷中学校を見下ろす細い道である。木立に覆われた谷道を進み、小さな木橋を渡り、坂道を上りつめると急に視界が開けてくる。まるで天空に躍り出たような感じである。道は舗装道路となり、両側は高原の田んぼである(写真415)。のんびりとした散歩道が大別当の集落まで続いている。
やがて道は車道に突き当たるので、右へ回りすぐ左へと進み大別当の集落へと入っていく。集落の中ほどに大別当石仏群がある。
大別当石仏群(写真416)
庚申塔と5,6体の石仏が立っているだけである。白馬村の石仏群と比べると、規模はかなり小さい。財力の違いであろうか。
大別当の集落を抜けて、突き当たりを右へ取る。ここから小土山、南雨中の集落を目指すわけであるが、途中ややこしいところもあるので、道標を確認しながら進む必要がある。
田園が広がるのどかに地道を行くと小土山(こつちやま)に出る。
小土山石仏群 (現地説明板)
小土山は昭和46年7月16日に大規模な地すべりが発生し、この位置から山が崩れ、姫川をせき止め大惨事となった。現在は復旧工事が進み不安はない。
ここに庚申塔、鍾馗様などが集められているが、特に珍しいのは線彫りの鍾馗様である。大小2体あるが、無銘の旅人の作といわれている。
三夜坂という坂道を下って、小谷村役場の手前で国道に出る。少し南へバックするとJR南小谷駅に達することができる。
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写真411 前山百体観音群
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写真412 牛方宿
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写真413 街道 千国宿
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写真414 源長寺観音石仏
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写真415 街道 大別当へ
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写真416 大別当石仏群
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この項終わり