関西の歴史街道
高野街道
高野街道とは、かつて京・大坂から高野山への参詣道として用いられた街道である。京・大坂からの街道は東高野街道など4本があり、河内長野で1本の道となり高野山へと続いていた。
ここでは、ウォーキングに適している道として、河内長野から高野山女人堂までの街道を掲載した。

街道の概要

行程記
区間
距離(約)
ウォーキング適格度
第1回
河内長野~御幸辻
16km
4点(5点満点)
第2回
御幸辻~学文路
8km
3点
第3回
学文路~高野山女人堂
11km
5点
koyakaidomap.pdf へのリンク

行程記 第1回 河内長野~御幸辻  距離 約16km  

南海・近鉄河内長野駅から、まず吉年邸(よどしてい)の大クスノキを目指すものとする。吉年邸はノバティ長野南館の南にある。この辺りは大通りから一歩入っただけであるが、車も通らず古街道らしき様子を呈している。ここは昔の長野宿である。
吉年邸
吉年邸は元大庄屋で邸宅も風格があり、大きなクスノキと一体となっている。このクスノキは昭和45年に河内長野市の指定天然記念物となった。樹高は約20m、幹回りは約5.7m、枝張りは30mの巨木であり、今なお樹勢は盛んである。
長野神社
吉年邸の南隣に鎮座している。本殿は一間社流造り、正面に千鳥破風と軒唐破風をつけた檜皮葺で、室町時代末期の建築と考えられている。国の重要文化財に指定されている。こじんまりしているが優美な品格を漂わせている。
長野神社を少しバックして西へ細い道を南に下れば天野酒(あまのさけ)の醸造元に着く。
天野酒醸造元(写真201)
天野酒とは古くから天野山金剛寺で造られていた僧坊酒で、室町から戦国時代にかけては著名な武将にも好まれた。現在は西條合資会社が、昭和46年に金剛寺の了承を得るとともに昔の技術を復活させて製造している。その西條合資会社の建物が街道の両側に並んでいる。左側(南側)の建物は旧店舗で、江戸時代末期から明治初期に建てられたもので、文化庁の登録有形文化財となっている。この付近は「市場」と呼ばれ、様々な店が立ち並ぶ賑やかな通りであったが、今は車の通行もなく、落ち着いた静かな通りとなっている。
街道は南に折れ石川を渡ると、「びっく坂」と呼ばれる坂道となる。国道を斜めに横切り、また坂道を上っていく。2,3軒の民家を過ぎたあたりに小さな道標がある。「右かうや道」と刻まれている。この道は山裾を通り、左側は開けた景色が広がるのどかな道である。
烏帽子形八幡神社
街道に面し、神社の鳥居、狛犬、常夜灯が立っている。神社は背後の山の中腹にある。本殿は入母屋造りで身舎は円柱、正側面3方に縁をめぐらし、正面中央に木階5段をつけ、擬宝珠高欄を備えている。建立は室町時代の文明12年(1480)で、国の重要文化財に指定されている。
烏帽子形八幡神社から400mほどで三日市高札場に着く。ここは三日市宿の北側の入口にあたり、江戸幕府によって高札場が設けられていた。ここで使われていた2枚の高札が現存していて、それを元に平成23年に高札場が復元されている。
三日市宿(写真202)
国道の陸橋を渡り、突き当たりを右に折れれば、三日市宿の中心に入っていく。三日市宿は、ちょうど昔の旅人の大阪からの一日の行程であり、先に紀見峠も控えているので宿泊客で大いに賑わった。往時は旅籠屋、諸問屋、遊廓などが軒を連ねていた。
油屋本陣跡
三日市宿の天野川を渡るとすぐに油屋本陣跡がある。油屋は江戸時代に、菜種油の製造、販売を営みながら、高野詣での本陣格の旅籠(公家のための宿所、大名宿)として栄えた。庭園の水車は油しぼりの名残で名物であったらしい。昭和50年代に廃業している。
八木家住宅(現地説明版)
油屋から少し進むと八木家住宅がある。
八木家では酒造が営まれ、米の露、味香一(みっかいち)正宗等の名酒が醸造され、「東家屋(とうげや)」という屋号が続いている。主屋は木造の平屋で、町屋の伝統的な外観をよくとどめている。文化庁の登録有形文化財となっている。
街道はしばらくして南海三日市駅前に着く。駅の構内を通るような感じでフォレスト三日市の前を通り抜ける。石屋川の川べりに里程石が立っている。
八里の里程石
中世以降は高野山に参詣する人の往来が特に盛んになってきた。それらの旅人の利便性のため街道筋には多くの常夜灯や道標、里程石が建てられた。
この八里の里程石は、堺市榎元町(西高野街道)にある「十三里」をはじめとし、高野町神谷にある「一里」まで、ほぼ一里ごとに建てられた、13本のすべてがそろったうちの一つである。形状は、頭の先がとがった30cm角の角柱で、高さが178cmある。江戸時代、安政4年(1857)に立てられたこの里程石の一面には、「是ヨリ高野山女人堂江八里」と刻まれている。
里程石の前の道を南へ、しばらくすると街道は国道に吸収されてしまう。新町橋交差点付近から歩道がなくなり非常に危険である。石仏(いしぼとけ)の集落への道が右の方に通じている。新国道を陸橋で渡ると石仏の集落に入っていく。低い丘の上の尾根筋の道が続いている。旧道の面影をとどめたすばらしい道である(写真203)。この道が再び国道と出会うところに石仏寺(融通念仏宗)がある。石仏の名は、弘法大師が彫ったと伝えられる阿弥陀如来像を本尊とすることに由来する。
石仏の端で街道は再び国道に出るが、これからの国道歩きは面白くない。それを回避するため天見川の右岸を通る田舎道を歩くこととする。石仏南の交差点から北側の新国道を東へ行くと法谷寺への看板が見えてくる。看板通り左への小道を下りて行くと天見川右岸に出て岩瀬の集落まで行くことができる。のんびりとした田舎道でウォーキングに最適である。千早口駅の手前で右へ分岐し、南海線のガードをくぐると、先ほど石仏で別れた国道から分岐した本来の旧街道に出ることができる。ここを御所の辻という。
御所の辻
正平3年(1348)に、大和国賀名生(あのう)にいた南朝の後村上天皇が天野山金剛寺に皇居を移す際に、この辺りで一夜を明かしたそうで、村人が「御所の辻」と呼ぶようになったという説がある。 御所の辻には、高さ104cmの舟形光背の道標地蔵が祀られている。「右 かうやくまのミち」と刻まれている。
すぐ隣には自然石の道標常夜灯がある。道標には、「右 かうや」「左 かうんこうせみち(金剛山道)」と刻まれている。
松明屋
御所の辻から天見川に沿って南下すると、やがて弘法大師ゆかりの松明屋の前に出る。弘法大師が旅の途中、この地で夜を明かすことになり、松明に火をつけて突き立てた。後になってこの松明から根が生えて大木になったという言い伝えがある。
また、弘法大師が高野山から京都へ行く途中、松明屋付近の村人におもてなしを受けて、「おしえたる 粽(ちまき)は千歳の後までも あしきやまいはたちさりぬとど」と、そのお礼に粽の製法を教えた。弘法大師直伝の粽は、食べれば病気がたちまち治ってしまう霊験あらたかな「大師粽」として、数多くの高野山詣での人々が求めたといわれている。
さらに進み、天見川を越えるとまた国道に出てしまう。国道を200mほどいったところに七里の里程石があるそうだが、国道歩きは勘弁願うことにする。橋の手前右側の細い階段をこそこそと登れば、軌道跡の道に出る。南へ道なりに進めば南海線天見駅前に出ることができる。
出会いの辻
天見駅前から道なりに下っていくと国道と交差するところに出る。ここは出合いの辻と呼ばれている。
南北朝時代の古戦場で、正慶2年(1333)の正月に、楠木正成が率いる南朝軍と北朝軍とがこの辻で出くわし、「安満見(あまみ)合戦」と呼ばれる激しい合戦が行われたところである。
国道を左へ、50mほどで旧街道が右斜めに伸びている。道が細く、民家のたたずまいも非常によい。国道脇とは思えない静かな雰囲気を漂わせている。
400mほどで国道に出るが、すぐ先に、島の谷集落へ下る道が左へ続いている。右手に常夜灯が立っている。この常夜灯が昔からこの位置にあるのであれば、この道が旧街道であるとうなずける。江戸時代にはここら辺りから紀見峠に向けて直登の道があったらしいが現在は消えている。
島の谷集落から国道に上り、国道で紀見峠を目指さなければならない。500mほどでトンネルができるまで使われていた旧国道が右手にあらわれる。舗装された2車線の道路で、歩きには全く面白味のない道である。
紀見峠
頂上付近の手前でまずダイヤモンドトレイルと交差する。ダイヤモンドトレイルとは、奈良県の二上山から大阪府の槇尾山まで尾根筋が続くハイキング道である。
やがて紀見峠の看板が現れ、左への道が高野街道である。すぐのところに六里の里程石が立っている。
紀見峠(438m)は、京・大坂と高野山を結ぶ要衝として栄え、紀伊国が見えるところから紀見峠といわれた。紀州藩の番所もあった。現在も宿場町の雰囲気をよく残している(写真204)
紀伊国名所図会には
「いつの頃よりか山嶺に茶店をひらき、旅舎を建てつらぬかしかば、にくからぬ袖に往来の旅人をまねくもあるべし」と記されている。
明治5年では、約60軒が街道沿いに軒を並べていた。「とらや」「丹波屋」「井筒屋」など6軒の旅籠があった。(『橋本市史』)
大正4年には、南海電鉄高野線の紀見トンネルが開通し、さらに昭和44年に国道371号線の紀見トンネルが開通すると、紀見峠の役割は終了した。
峠から南へ下る。旧国道を横切り、急坂を転げるように下ると沓掛の集落である。街道はやがて国道と合流する。国道を900mほど行くと紀見ケ丘の交差点が現れる。
交差点の左手に、国道に沿うような細い道があり、慶賀野(けがの)の集落へと入っていくが、それが旧道である。旧道の入口に不動堂があり、堂の前に天保12年(1841)の銘のある常夜灯がある。旧道は山裾を縫うように走り、街道の面影を少し残している。集落を抜けると道の両側に田んぼが開け、遠くには高野の山々も望めるのどかな風景が広がる。さらに道なりに進むと、やがて街道はまた国道に吸収される。
国道合流点から500mほど南下すると五里の里程石が立っている。
里程石から国道を少し南下すると、右手に清恭寺が現れる。この寺のすぐ南に右へ入る道があり、新しくできた道路の下をくぐり橋谷の集落へと入っていく。
御幸辻
橋谷集落の入口から約900mのところで右へ分かれる道がある三叉路に出くわす。ここが旧街道の御幸辻である。三叉路の北西角に子安地蔵を示す小さな道標が立っている。
中世の高野街道は、右へ入る道を取り、菖蒲谷を通り、子安地蔵寺を巻くようにして南へ下り、出塔から神野々へ通じる道であった。室町末期に応其上人が橋本の町を開いたことにより、ここから真っすぐ南下する道が高野へのメインルートに変わってきたのである。
写真201 天野酒醸造所
写真202 三日市宿
写真203 街道 石仏
写真204 街道 紀見峠

行程記 第2回 御幸辻~学文路  距離 約8km

出発は南海電鉄御幸辻駅とする。御幸辻から南へ下り、県道を斜め東へ横切り進むと、道はやがて国道の御幸辻南交差点に出くわす。ここから国道歩きとなる。小原田南交差点で左に分かれる道を橋本へと向かう。国道の御幸辻南から橋本まで、歩いても何の喜びもないつまらない道である。橋本市東家(とうげ)に入り、南海電鉄、JRとガード下をくぐれば東家の四つ辻である。
東家の四つ辻道標
ここを東西に走る道が和歌山街道(大和街道)であり、江戸時代の前半では紀州藩の参勤交代の行列も通った街道である。
この辻の東南の角に道標が立っていたが、今は南へ10mほどのところに移設されている。高さ1.5mの立派な道標で、江戸時代後期に立てられたものである。
  (西面) 西 右 かうや
          左 京 大坂
  (北面) 北 右 わか山 こかわ
          左 い勢 なら はせ道の追分
  (東面) 東 京 大坂道
  (南面) 南 南無大師遍照金剛 施主○○ 世話人○○
この辻を南へ少し下り左の細い道を進む。国道を横切ると紀ノ川の堤防に出る。東家の渡し場跡である。対岸に三軒茶屋の常夜灯が見えるはずである。ここには四里の里程石と大きな常夜灯が立っている。
東家の常夜灯
高さ4.8mで、文化11年(1814)の銘がある。元は同型の常夜灯2基が対で立てられていたが、うち1基は洪水により流出してしまった。
橋本の地名の由来となった橋は、天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが、3年後に紀ノ川の増水により流出し、以降は舟による横渡(よこわたし)が行われるようになった。江戸時代には「無銭横渡」が行われていた。
橋本橋で紀ノ川を渡り、東家の渡しの対岸を目指す。この辺りは橋本市賢堂である。昔は三軒茶屋と呼ばれていたところである。
三軒茶屋
高野山への参詣人が増えるにしたがって、向副(むそかい)村・賢堂村・横座村から人々が集まって茶屋を開いたことにより集落が形成された。三か村から集まった故に、田地も人家も入り組んで、碁石の白黒が相交わる如くと形容された。現在は賢堂に属している。
三軒茶屋の常夜灯(写真211)
高さ3.5mで宝暦2年(1752)の銘がある。2基とも同じ形をしている。
2基が対で立てられていたが、近年の道路拡幅のため、東側の1基は北へ約5m移された。
清水小学校の裏手の先に西行庵があり、隣に第一地蔵が祀られている。この地蔵は、高野参詣をする人々の安全を守るため、第一番から第六番まで高野街道の要所要所に祀られている。
清水宿
道はやがて清水宿に入っていく。重厚な瓦屋根や格子をもった家屋が軒を連ね、高野山領最初の宿場町としての面影を今も残している。
旧街道が国道に合流するところに第二地蔵が祀られている。400mほど国道を進み、左の細い道へ入っていく。民家の玄関先に三里の里程石が立っている。この辺りは橋本市学文路(かむろ)である。
学文路(写真212)
高野参詣の入口であるため、謡曲「高野物狂」にちなんだ物狂石・杖の梅、弘法大師腰掛岩、苅萱堂(西光寺)など伝説・名所が多い。
写真211 三軒茶屋の常夜灯
写真212 街道 学文路

行程記 第3回 学文路~高野山女人堂  距離 約11km

南海電鉄学文路駅から出発する。前の国道を少し橋本寄りに進むと、高野街道に出会い、角に道標がある。
学文路の道標  宝暦8年(1758)建立。高野街道筋では最も古い。
  左 高野みち 女人堂迄三里
  右 慈尊院みち 是より一里
道標に従い、北への道を上っていく。ここ学文路の標高は約75mで、これから行く河根(かね)峠のあたりは255mである。河根峠まで緩急入り交ざった坂道が絶え間なく続くのである。
すぐに玉屋という旅籠跡に着く。石童丸物語の母子が泊まったとされている。ただし、玉屋は跡形もない。
苅萱堂(写真221.)  (現地説明板)
西光寺の中にある。
石童丸物語は、高野山の女人禁制から生まれた悲劇で、中世以降、高野聖の一派である萱堂(かやどう)聖によって全国に広められた。江戸時代には、説教師や浄瑠璃、琵琶歌となって広く世に知られた。
苅萱堂には江戸中期に造られた石堂丸・苅萱道心・母の千里の前・玉屋の主人と伝えられる四体の木造座像が安置されている。変わったところでは「人形のミイラ」というものもある。
学文路の集落を抜けてしばらくすると(といっても行政上はまだ学文路である)、右手に県道から分岐する細い道があるのでこれを進む。旧街道らしいよい道である。
新しくできた大きな道をまたぐ陸橋を渡ると幡天神の裏手に出る。この辺りの小字の名前はこの社と同じ幡天神である。その少し先で大きな県道と合流する。
やがて右手に紀ノ川や葛城山系の雄大な景色が広がるところに出る。少し進むと、明治の中ごろに立てられた、女人堂まで九十町の道標がある。左の道が旧道である。
繁野の集落に入ると、第三地蔵が現れる。
次に進むと、河根峠の集落に入る。ここら辺りが道中の最高部となっている。ここも現在の行政上は河根であるが、昔の小字は河根峠である。
坂道を少し下ると、三つ辻に安産子安地蔵尊として信仰されている第四地蔵(写真222)が祀られている。
その辻を左へ折れて急坂を下る。坂の途中からは河根宿の中心部が俯瞰できる。
河根宿に入ったところに河根丹生神社がある。
河根丹生神社
社殿によると、弘法大師空海のすすめで、南大足ら6人の長老は、丹生都比売、高野御子の2神をゆかりある塩の瀬というところに祀って日夜怠りなく仕えていた。その後、藤原時代に社殿がすたれたので、河根、東郷、丹生川の三村が分け祀ることとなった。河根村は現在地の宮垣内に社殿を建てて、ここに迎え、氏神として敬ってきたと伝えられている。
ここの狛犬は、応永20年(1419)の銘があり、和歌山県下で最古のものであるが、現在は県指定文化財として県立博物館に貯蔵されている。現在は2対の狛犬が据えられている。手前の狛犬(写真223)は足を踏ん張り、顔は何か威嚇しているようであるが、どことなくユーモラスである。
河根宿
河根宿は、町石道(高野街道の一つ)を通っていた参詣人が距離の短いこの街道に流れてきたことによって大いに栄えたが、明治34年紀和鉄道(現JR和歌山線)の開通後、参詣人のルートは高野口ー九度山ー椎出と変わってきた。そして、大正14年南海高野線が椎出(高野下駅)まで延長されたことにより止めを刺されたのである。
集落の中ほどに、元本陣中屋旅館がある。現地説明板によれば、江戸時代、高野街道の河根宿の本陣で、身分ある人たちの宿泊休憩となっていた。今は表門だけが残っている。
街道を少し進むと、丹生川に架かる千石橋の手前に二里の里程石がある。
千石橋は寛永11年(1634)、高野参詣の便を図るために幕府の命で架けられた。以降7年ごとに橋の修理費として米千石が支給されたのでこの名が付けられたという説がある。
千石橋を南へ直進する。作水(さみず)坂という急坂が作水まで続いている。やがてこの坂は尾細・桜茶屋と続くが急坂ではない。作水に第五地蔵、桜茶屋に第六地蔵が祀られている。
桜茶屋
『紀伊名所図会』に、「作水より三町許にあり、此辺桜甚だ多し。其中に一の桜あり。千載の古木谷に臨み、空を摩す。山間花遅くして、四月に至らざれば開かずといへども、此木に限りて三月(旧暦)に花咲き、吉野と時を同じうす。」と記されている。桜の名所であったらしい。
桜茶屋から神谷(かみや)まで人家はなく、山の中を行くことになるが、道の拡幅工事が行われた後なので、古道の雰囲気はまったくない。
途中に、日本で最後に行われた敵討ちの碑と、少し離れて討たれた人々の墓地がある。この敵討ちは、討った方も討たれた方も赤穂藩士で、明治4年2月に決行されたが、明治6年2月には太政官布告により敵討ち禁止令が出されている。史上もっとも有名な元禄の吉良邸討ち入りも赤穂藩であるし、この敵討ちも赤穂藩であり、何か不思議な因縁を感じる。また、討たれた方にも理があったのか、村人により丁寧に弔われたといわれている。
神谷の手前には、一里の里程石と大坂方面を示す道標が立っている。
神谷宿(写真224)
ここは学文路からの街道と椎出(南海高野下駅付近)からの街道が合流するところで、神谷辻と呼ばれてきた。神谷宿の中は道も狭く、家並みも昔のままの姿で残っていて、旧街道の面影をよく留めている。
先ほど通ってきた河根宿は高野山詣でのルートが椎出まわりになって衰退していったが、神谷宿はそれに反しますます繁栄していった。とくに明治の後半から昭和初期にかけての約40年間は、高野詣での隆盛とともに、ほとんどの人が椎出~神谷ルートを通ったことにより、「日が昇ると、銭が湧く」とまでいわれた。しかし、南海電鉄が極楽橋まで延長され、昭和5年にケーブルが開通すると、神谷は急速に衰退した。
最盛期には、100人もの児童が学んでいた藤白小学校も、昭和の終わりごろには10人ほどになり、平成9年には廃校となってしまった。
神谷宿には2,3の道標があるが、明治期か大正期のものである。
大正13年に建てられたご成婚記念道標には
  「至高野山女人堂 九○○○㍍  二里十町三…
   至る高野口 五五○○㍍  一里十四町三十間」
とあり、尺貫法とメートル法が両方記されている。
神谷宿を道なりに南へ進むと、高野山から細川に通じる車道の十字路に出る。そこを右折し、南へ進むとやがて右下に南海線の軌道が見えてくる。道なりのままその軌道を越えて、新極楽橋を渡らず南へ真っすぐに進めばやがて極楽橋が見えてくる。
極楽橋(写真225)
不動川に架かる美しい橋で、昭和59年の1150年御遠忌を記念して鉄筋コンクリートに建て替えられたが、赤い欄干、擬宝珠は昔のままである。橋の両側には地蔵石仏が祀られている。
いよいよここから24町の不動坂の登りが始まる。
不動坂
極楽橋を渡ったところに、女人堂まで24丁の碑が立っている。極楽橋付近の標高は550m、女人堂付近では875mほどとなっているので、標高差は約220mである。
現地説明板に
[不動坂は、大正4年に高野山開創1100年記念大法会事業の一環として行われた全面改修によるルート変更で、古の不動坂は山中に残された。」と記されている。
また、近年道路舗装工事が進められ、現在はほとんど舗装道路となってしまった。
不動坂の中ほどに、萬丈が嶽と書かれた標識が出てくる、この辺り、左手の谷がいよいよ深くなり、木立も生い茂って谷の底が見えない。昔高野山で罪を犯した者が簀巻きにされて投げ込まれたところと伝えられている。
清不動堂(きよめふどうどう)
以前は赤い塗り橋を渡ったところに参篭所があり、滝に打たれる白衣の行者の姿が見られたらしい。高野山へ入る前の清めの場所であった。今はただお堂だけがぽつんと建っている。
このお堂の裏から花折峠にかけて廃道寸前の山道がある。新道ができる前の道なのであろうか。
花折坂というところに石仏と供養塔が祀られている。ここから少しきつい登りが続くがやがてバス道に着き、左に曲がれば目的地の女人堂である。
不動坂口女人堂(写真226)
かつて高野山内は女人禁制であったため、高野七口にそれぞれ女人堂があって、女性の通行はこれらの女人堂までと、各女人堂を結ぶ外八葉(そとはちよう)と呼ばれる道の通行のみが許されていた。女人堂の中で現在残っているのはこの不動坂口女人堂だけである。女人堂には諸国から参詣に来た女性が宿泊できたが、とくにこの女人堂には参篭して宿泊する客が多かった。
写真221 苅萱堂(西光寺)
写真222 第四地蔵
写真223 河根丹生神社の狛犬
写真224 神谷宿
写真225 極楽橋
写真226 不動坂女人堂
この項終わり。
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付録 石童丸口説き

月に村雲 花に風
さきいでにける山桜
くむ杯にちらちらと
加藤左衛門繁氏は
国に妻子を振り捨てて
時に御台の千里姫
玉のようなる子をあげて
まだ見ぬ親に恋いこがれ
父は高野におわすると
母の御台と手を取りて
紀の国さして出でにけり
ついに高野の麓なる
玉屋が茶屋に宿とりぬ
宿の亭主の申すよう
女人は御山に登られず
我子の袖にとりすがり
母は御山へ登られず
言われて石童悲しみの
母にいとまを告げながら
杖にすがりて不動坂
その夜は御堂へ籠りてぞ
父を尋ねて奥の院
前も後ろも卒塔婆にて
音に名高き 玉川の
はからずあいし苅萱と
知らねば側に寄り添うて
物尋ねます 御僧よ
今道心はおわさずや
加藤左衛門繁氏は
名乗れば苅萱驚いて
石童それと見るよりも
言われて苅萱思うよう
せじとの誓いは破られず
そなたの父は去年の秋
冥途の旅に出で立ちぬ
袖にしぐるる 涙雨
胸はりさけんばかりにて
哀れなるかや母上は
空しくなられし悲しさよ
前後を忘れ泣き沈む
父上さまに生き別れ
心細くもただ一人
救けてくれんと思い立ち
その後 互に親と子が
親子と名乗ることもなし
高野の山の蓮花谷
親子地蔵と残りたり
散りてはかなき世の習い
眺めたのしむ春の空
散りこむ花の一ひらに
娑婆の無常を悟りけり
諸国修行に出で給う
身重なりしが程もなく
石童丸と申しけり
石童十四の春の頃
風の便りに聞きしより
なれぬ旅路をたどりつつ
日々にものうき草枕
学文路の宿にたどりつき
ここに不憫の物語り
高野の山のおきてには
聞いて御台は驚いて
のう情なや石童よ
そなた一人で登るべし
涙ながらに立ち上り
父を見当に高野山
登りつかれて石童は
泣く泣く眠りし哀れさや
右も左も五輪塔
いとものすごき道ながら
無明の橋にかかる時
互いに親とも吾子とも
見上げ見下ろす顔と顔
これなるお山のその内に
国は筑前 苅萱の
身が父上であるなりと
暫し涙にくれければ
泣かせ給うは不思議なり
二度と親子の名乗りをば
せきくる涙押し止め
重き病をわずらいて
言われて石童涙ぐみ
現在実父の苅萱は
思わず知らず泣き沈む
持病の癪になやまされ
石童見るより驚きて
天にも地にも分ちなき
母上さまに死に別れ
彼の僧尋ねて参りなば
またも高野へ尋ねゆく
師匠よ弟子よと名乗りつつ
今なお昔の物語り
音に名高き苅萱堂
南無苅萱 地蔵尊