The Road Story 〜魂の記憶〜

* 第1話 *



慌しく走り回る複数の足音と共にガサガサと草むらが揺れる。
森の中、辺りは薄暗く、空は夕焼けの茜色に染まり始めている。
しかし、今そこを全力で走る少年の目には、自然が描く美しい光のコントラストを鑑賞している余裕は無い。

「くそ〜、もういい加減諦めろよ・・・」

すぐ側まで迫り来る男たちの気配に、心臓が勢い良く音を立てて体中に血液を送り出している。
これまで色々なトラブルに巻き込まれてきた自覚はあるが、なんとか無事に潜り抜けてきたつもりだ。
でも今回は相手が悪すぎる。
人生最大最凶のピンチだ。
少年は心の中でそう呟き、シャツの胸元をギュッと強く握り締めた。
大木の影に隠れて身を潜め、大きく息を吸い込んでハァハァと煩い自分の息遣いを堪えようとするが、必要量の酸素を求める体は言うことをきいてはくれない。

「小僧、鬼ごっこはもうお仕舞いだ。」

案の定、ドスの利いた低い声と共にいきなり強い力で肩を掴まれ、逃げていた少年は文字通り飛び上がった。
恐る恐る振り返ると、無精髭を生やした厳つい顔の男がニヤリと口の端を上げていた。
その背後にも同じような風情の男たちが20人程、少年を取り囲むように立っている。
腰にはそれぞれ得物があり、それを一斉に抜かれたならもう逃げる術は無い。 

「よくも俺たちの邪魔をしてくれたな。せっかくの上玉だったのに小僧のせいで逃げられちまったじゃねーか!!」
「通りすがりのお姉さんを連れ去ろうとするアンタ達が悪いんだろ!」
「売りゃあ金になるんだよ。そこいらに居る若い女の一人や二人連れてったところで構やしねーだろ。」
「あんたら最低だぞ!」

男の発言に我慢できなかったのか、肩を鷲掴みされながらもキッと睨みつけ、少年が男に向って怒りの言葉を浴びせた。

「うるせー!男は女より安く買い叩かれるんだが仕方ねえ、あの女の代わりにテメーを売っぱらってやる!」
「売られてたまるか!」

ジタバタと暴れる少年の襟首をグイッと掴み、男が自分の顔の位置まで待ち上げると、少年の足は地面から数センチ浮き上がる。
喉が詰り苦悶の表情を浮かべる少年の顔を、男は値踏みするようにジロジロと遠慮なく覗き込んだ。
少年は慌てて顔を背け、赤茶の長い前髪で顔を隠すように俯いたが、それでも酒臭い息が鼻先に掛かった。

「薄汚ねえから気付かなかったが、よく見たらなかなか可愛いじゃねーか。色も白いし髭もねえ、こりゃひょっとするとさっき逃がした娘より高く売れるかもしんねえな。」

他の男たちからお頭と呼ばれていた男の笑いを含んだ台詞に、周りに居た手下達はちらちらと互いに視線を送り、ニヤニヤと下卑た笑いを交し合う。

「その長い前髪が邪魔だ。小僧、もっと良く顔見せ・・・・・ぐわぁぁぁ!?」

男の芋虫のような太い指が少年の頬を掴み、強引に顔を近付けようとしたその瞬間、少年は容赦なく男の指に噛み付いた。
その痛みに男は堪らず声を上げ、少年を抑え込む力が僅かに緩んだ。
その隙を逃さず少年は首領の股間を膝で蹴りつけ、その腕から素早く逃げ出した。

「くっ、この野郎〜!テメーら逃がすな!!」

男は股間を押さえて悶絶しながら、血走った目で手下に向って吼えた。
少年から頭への容赦ない攻撃に、しばし唖然として股間を押さえていた男達だったが、その声に素早く行動を起し、示し合わせたように進路を塞いで逃げ道を探して走る少年を徐々に追い詰めていった。
多勢で追う者達と単身で追われる者、精神的にも身体的にも有利なのは当然前者で、少年は次第に体力を削ぎ取られ足が縺れ始める。
とうとう大木の根に足が絡み、バランスを崩した少年は派手に転倒し、思いっきり顔から地面に突っ込んでしまった。

「痛ったぁ・・・・」

両膝を付いてしゃがみ込んでいた少年はしかし、背後に迫る気配に急いで立ち上がろうとするが、その前にぬっと新たな影が立ち塞がる。
スラリと抜かれた剣の、その場に不似合いなほど美しい光に、少年の背にツッーと一筋冷たい汗が流れた。

「俺、こんなとこで終わっちゃうの・・・・」

襲い来るであろう衝撃に備え、少年はぎゅと強く目を瞑った。


ザシュ!


何かが切り裂かれる鋭い音の後、少年の背後に迫っていた男が低いうめき声を上げた。
直後に聞こえた何かが崩れ落ちる重い音に、少年が恐る恐る目を開けると、さっきまで自分を追いかけていた男がすぐ側で白目を剥いて倒れている。
そして、その横には、剣を握った若い男が静かに立っていた。
薄暗い森の中では、纏った浅葱色の外套の襟に半ば隠れたその表情は見えない。

「何者だ、テメーは!」

その人物の登場は、人攫いの男達にとっても予想外の出来事だったようで、今まで浮かべていた余裕の笑みを色濃い焦りの表情に変え首領の男が声を荒げた。

「この森に悪事を重ねた大悪党の賞金首が潜んでいると聞いてきたんだが、どうやらチョロチョロと森を這い回る溝鼠の間違いだったようだな。」
「なんだとコラーー!誰が溝鼠だーー!!」

その声は、辺りに充満した殺気と不釣合いなほど冷ややかなで、人攫いの首領は怒りに血走った目で吼える。
その声に応じて、手下達も皆一斉に剣を抜き、突然現れ仲間を倒した男の周りを取り囲んだ。
そんな男達に対して、少年の前に立つ男は特に怯む様子もなく、ましてや剣も手にしているだけで特に構える気配すらない。
男達の輪が徐々に距離を詰めていくが、それでも自分達を恐れるどころか、視界にすら入っていないかのように感じさせるその態度は、男たちを益々煽り殺気立たせた。

「舐めんじゃねーぞ!」

叫びを上げながら、手下の一人が男に切りかかった。
刹那、男の周りの空気が変わる。
剣が一閃、弧を描いた。


シュッ!ドサッ!


一瞬の後、切りかかって行った男がゆっくりと倒れ、動かなくなる。
瞬く間に仲間がやられてしまった事実に、男達はすぐに表情と身体を強張らせ、ほぼ反射的に得物を構え直した。
間髪入れず別の声が上がるが、風とともに男の剣が閃き、同時に何人かの男が地に伏せた。
そうして一人また一人と倒れ、あっと言う間に周囲にいる仲間の姿が減っていく。
その場に響くのは、男たちの低い呻き声と崩折れる音。
そして最後の一人も地に沈めると、男は何事もなかったように首領の元へ歩み、両手で剣を構える男を冷たい瞳で見下ろした。

「く、くそ!テメー何者なんだ!?」

男は叫ぶと同時に自分の仲間達を倒した正体不明の男を目掛けて突進する。
しかし、それよりも早く、すくい上げるようにして剣を弾かれ、二・三歩たたらを踏んで後ずさった首領との間に僅かばかりの間合いができた。
その時、男は初めて剣を構えた。
わずかの隙もない立ち姿、静かに立ち上る覇気。
剣を構えたその姿を目にした時、頭と呼ばれるだけあって、他の男より少しは腕の立つ男にはわかったはずだ。
もう勝負は決まっていると。
だが男の自尊心が最後の抵抗をさせた。

「ちくしょう!」

半ば諦めの叫びを上げ切りかかる剣先を難なく弾き飛ばし、男はすぐに剣をくるりと持ち替え、溝尾目掛けて容赦なく柄を叩き込んだ。
ぐふっ、と声にもならない呻き声を上げ、やられた男は大きな身体を丸めるようにうずくまると、やがて口から泡を吹き地面に崩れ落ちた。

「凄い・・・・」

それまで息を潜め、腰を抜かした様に地面にしゃがみ込んで事の成り行きを見ていた少年は、一瞬の出来事に唖然としたままで呟いた。
そう、本当に一瞬の出来事だったのだ。
追い詰められ、最悪は死すら覚悟していた状況から、一人の男が現れてほんの数分で人攫いの男達全てが倒されたのだ。

「凄い!凄い、凄〜〜い!!あんた凄いな!」

地面に転がって呻く男達を、二・三人ずつ纏めて縄で木に縛る作業を淡々と進めている男に、少年は興奮気味に弾んだ声を上げながら駆け寄っていった。
近付く少年の気配に気付き、男はふと顔を上げた。
初めて正面から見ることが出来た男の顔は、纏う気配に比べると意外に若く、整った顔立ちをしていた。
薄茶の髪、傷のある眉、髪と同じ色の瞳。
その瞳に浮かぶ、星屑を思わせるような不思議な銀の虹彩に、少年は視線が吸い寄せられ言葉を無くした。

「俺の顔に何か?」

急に黙ってしまったのを不審に思ったのだろうか。
それとも不躾な視線に機嫌を損ねたのだろうか。
男が不意に話しかけてきた。

「あ、ああ、ごめん。俺、ユーリって言います。助けてくれてありがとうございました!」
「俺はこの男達を捕まえに来ただけだ。礼には及ばない。」
「でも、結果的に俺はあんたのお蔭で助かったんだから、やっぱりお礼は言わなきゃ。ありがとう!」

そう言って、赤茶の髪を揺らすほど勢い良く頭を下げたユーリに、男は僅かに片眉を上げた。
しかし、また表情を戻すと、縄でグルグル巻きにした首領の男を肩に担ぎ上げ、男は何も言わず歩き出してしまった。

「あ、あのぉ・・・・」

数歩進んだところで、追いかけてきたユーリに裾を掴まれ、男は立ち止まった。
そのままやはり何も話さず、見下ろす視線だけで先を促す。

「他の奴等は放っておいて良いの?運ばなきゃいけないなら、俺がんばって運ぶけど?」

どう考えても自分より頭一つは小さいこの少年が、倒されて気を失っている無骨な男を運べるとは思えない。
男はユーリに向って首を振った。

「主犯のこの男さえ差し出せば金は手に入る。残りの奴等は警吏に引き取りに来させれば良い。」
「ああ、そうか。そうだよな。全員運んでたら何往復もしなきゃならないもんな。」
「そういう事だ。」

やはり何も考えていなかったらしいユーリの発言を受け流すと、男は視線を前に戻しまた歩き始めた。
かなり大きな身体の悪人の身体を担ぎながら、足場の悪い森の中を歩いていく、その男の歩みに乱れは無い。
それに比べ、いくら全力で逃げ回った後だとは言え、一人で歩くのにもヨロヨロしている自分とは鍛え方が違うのだろう。
ユーリがそんな事をつらつらと考えながら歩いていると、目の前を歩く男が急にピタリと立ち止まり振り向いた。

「なぜ付いてくるんだ?」
「あっ、・・・・・あのぉ・・・・・・」

男の疑問は尤もだった。
今、二人が歩いているのは、森を最短距離で突っ切る獣道のような場所で、普通の旅人が進む街道は別にある。
明らかに普通の旅人であるユーリが、わざわざ男に付いて険しい道を進む必要は無い。
バツが悪そうに口ごもるユーリに、男は先ほどと同じように見下ろす視線だけで言葉の先を促した。

「あ、あのさぁ、恥ずかしい話なんだけど・・・・、あいつ等に追われて我武者羅に走ったから、その、方向とか道がね、分からなくなったって言うか何て言うか・・・・;;」
「・・・・・道に迷ったのか?」
「うん、そーゆーこと。」

ユーリは頬を染め、恥ずかしそうに微笑んだ。
その時、初めて男の顔に僅かばかりの表情が生まれた。
しかし、照れながら俯き、頭を無造作に掻いていたユーリはそれに気付かなかった。

そのまま二人は森を抜けた宿場町まで歩いた。
その間、喋っていたのは専らユーリで、男はユーリの話す悪人達に追われる切欠になった顛末に時折僅かに頷くだけだった。
町に入ってすぐ、警吏の詰め所の前で二人は別れた。
再度礼を言い頭を下げるユーリに、男は「じゃあ」と背中越しに片手だけを上げてあっけなく去って行く。
一人になったユーリは、結局恩人の名すら聞けなかった事に気付き、大きく息を吐く。
無口で、ほとんど喋ることがない男だったけれど、何故かあの男と歩いていた時間は心が浮き立っていたと思う。
ずっと一人で旅をして来て、久しぶりに人と接した時間だからだろうか。
そんな事を考えながら男が消えて行った建物を見上げていると、日が落ち少し冷んやりとしだした風が頬をゆっくりと撫でていった。

「寒くなってきたから急いで今日の宿探さなきゃ。安い宿、空いてるかなぁ・・・」

旅を始めてすっかり癖になった独り言を洩らし、ユーリは僅かばかりの荷物を両手で抱えて多くの人が行き交う宿場町を寝床を求めて歩き出した。

しかし、すっかり夜の帳が落ちた頃になっても、ユーリは未だ寝床を確保することが出来ていなかった。
どこの宿屋も満室で、ことごとく断られる。
最後の最後に辿り着いた宿屋も、空きの部屋が無いと断られてしまった。

「布団部屋とか物置でも良いんだけど、何とか泊めてもらえませんか?」
「悪いねぇ。今日はこの町に大人数の隊商が来ててねぇ、それも複数だ。だからもうすでに他のお客さんでその布団部屋や物置部屋さえも埋まってるんだよ。」
「だからどの宿も無理だったのか・・・困ったなぁ・・・・」

困り顔のユーリの様子を眺め、宿の主人は顎に手を当ててニヤリと何か企てたように口の端を上げた。

「そうだお客さん、そんなに困ってるなら良い所を紹介してあげるけど?」
「え?泊まれる所あるの?もし雨風が凌げるなら馬小屋だって羊小屋だって構わないよ、俺。」
「いやいや、雨風凌げるどころかフカフカの布団で眠れるさ。」
「フカフカのお布団!?あぁ・・・・、でもそれじゃ宿代が高いんだろ?俺、そんなにお金持ってないし・・・・」
「お金持ちの町役さんのお屋敷だから宿代はタダだ。それどころか、上手に奉仕したら沢山のお金が貰えるぐらいさ。」
「え?奉仕?それってお手伝いとかのこと?上手にかどうかはわかんないけど、掃除とか馬の世話とかなら俺得意だよ。」
「そんなことしなくていい。ダンナさんのお世話だけで良いんだよ。ダンナさんの部屋で、ダンナさんの言う通りにご奉仕すれば良いだけさ、簡単、簡単。」
「へ〜、そんなことで良いんだ・・・・」

不思議そうに小首を傾げるユーリを楽しそうに見下ろす宿屋の主人の顔は、まさに獲物を捕らえた肉食獣そのものだ。

「じゃあちょっと待ってな、手配をしてあげ」
「その必要はない。その子は俺の連れだ。」

言葉を途中で遮られた主人は、その声の主に不機嫌そうに視線を向けた。
声の主は帳場台を挟んだ真向かいに立ち、主人を鋭い眼差しで見下ろしている。
男は、昨日からこの宿に泊まって居る客だった。
その銀に輝き、人を征する力を浮かべた冷たい瞳に睨まれた主人は、ただならぬ気配に一瞬にして表情を強張らせた。

「い、あ、その・・・・、そーでしたか、お客様のお連れでしたか。それならもう前金で二人分の宿代を頂戴しておりますから全然問題ございませんよ。しかしお客様も人が悪い。それならそうと先に言ってくださったら、すぐにお部屋にご案内しましたものを・・・・」

前半は自分を睨み続ける男へ、後半は目の前できょとんとしている少年に向けて話し、主人は流れる汗を取り出した手拭いで必死で拭った。

「へ?どーゆーこと?」
「部屋はこっちだ。」

状況が理解できず、未だ脳内が疑問符だらけのユーリの腕を取り、男はコツコツと硬質な靴音を高く立てながら宿の階段を登っていく。
戸惑い引っ張られるままにヨロヨロと歩く少年を振り返ることなく歩き、男は無言のまま二階の突き当たりにある扉を開けた。
部屋に入り、ユーリを部屋に2つ並ぶベットの片方に座らせた男は、少年の目の前に立ち、彼を見下ろしながら呆れを含んだ大きな息を吐いた。

「きみには危機感や危機回避能力ってものがないのか?」
「へ?ききかん??きききき???」
「危険を感知する能力だ。」
「ああ、危機感ね。一応あると思うけど・・・・?」
「あってアレか。きみの危機回避能力はほとんど機能してないんだな。」

まさに呆れ果てたという物言いで自分を見下ろす男。
男のその言動に、ユーリは突然バカにされたような怒りを覚え、男をキッと睨み付けた。

「ちょっ、何だよいきなり!俺がバカだって言いたいわけ?そりゃあん時、自分一人じゃ人攫い軍団から逃げ切れなくてあんたに助けてもらったけどさ、今になってそこまで失礼な言い方しなくても良いだろ!それに何だよ!せっかく宿のおじさんがタダで泊めてくれる所紹介してくれてたのに、あんたが突然邪魔するから聞けなかったじゃないか!」
「本気でそう思ってるのか?」
「そうだよ!おじさん親切で優しい人だったのに・・・」

男は口を尖らせそう呟くユーリを一瞥し、また大きな溜息をついて髪を無造作に掻き上げた。
そして無感情な声で少年に告げた。

「それはすまなかったな。俺には宿屋の主人が泊まる所の無いきみを騙して、少年好きの好色な町役の寝所の閨の中へ連れて行こうとしてる様に見えたのでね。」
「へ?えぇぇぇぇぇ!?そーだったの?」
「・・・・・、俺の気のせいでなければな。」
「えぇ!?でも、そんな・・・・・・、いや、でも・・・・・・」

男の言葉に、ユーリは改めて宿屋の主人との遣り取りを頭の中で反芻してみる。
その間少年は、時折あ゛ーー!やら、う゛ーーー!やら変な声を上げ、青くなったり紅くなったりしながら両手で頭を抱え激しく髪を掻き混ぜていた。
ユーリは数分間そうして呻いていたが、突然ピタリと動きを止め、徐に立ち上がった。
そして、一人で考え込むユーリを放置したまま、いつの間にか窓辺の椅子に座ってグラスを傾けていた男に小走りに駆け寄り、ガバッと勢い良く頭を下げた。

「ごめん!やっぱり俺、騙されかけてたみたいだ!助けてくれてありがとう!」

男は視線を窓の外から真剣に頭を下げるユーリに移し、手にしていたグラスを小さな円卓の上に置いた。

「俺の気のせいではなかったわけだな。」
「うん。俺がバカだった。それなのに俺、あんたに酷いこと言った・・・。ホントに、ごめんなさい。」

男は椅子から立ち上がると、しゅんと項垂れる少年の頭に手を置き、慰める様にポンポンと軽く叩いた。

「もう気にしなくて良い。それより今後の為に、きみは壊滅的な危機管理能力を向上させることだな。」

そう言って僅かに口の端を上げた男に、ユーリはやっと強張っていた表情を緩ませた。

「そんなのどーやったら向上させられるんだよ・・・。」
「相手をまず疑えば良い。」
「誰でも?」
「そう、誰でも、だ。」
「あんたはそうしてきたの?」
「・・・・・・ああ、そうだな。」

しばしの思考の後、きっぱりと言い切った男に、ユーリはしかし肯定の態度は示さなかった。

「そうか・・・、でも俺は、人を疑うより、何度騙されても人を信じる方を選びたいなぁ・・・」

呟いたユーリに、しかし男は意外にも何も反論を示さず、部屋を横切り静かに扉を開け出て行った。
パタンと閉まる扉に、残されたユーリは突然不安になった。
怒らしてしまったのだろうか。
それとも呆れられたのか。
ここはあの男の為の部屋で、自分は言わば部外者だ。
かと言って、二度も助けてくれた恩人相手に何も告げずにこの部屋を出て行く訳にも行かず、一人取り残されて居心地が悪いながらも部屋に留まり、何もする事が無いのでキョロキョロと部屋の中を見回した。
部屋には寝台が2つあった。
それと窓辺に酒とグラスが置かれた木製の小さな円卓と椅子が2客置かれていて、それでも狭く感じさせない程の広さを持ったこの部屋は、この宿でも上客用に用いている部屋なのだろう。
要するに宿代が高そう、と言う事だ。
そして片方の寝台には、先ほど男が森で会った時に来ていた浅葱色の長衣と、ユーリの物より一回り程大きな旅装であろう布袋が転がっていた。
さっきまでユーリが座っていたベットには何も置いていなかったから、男の本物の連れが後から来るのかもしれない。
とりあえず助けてもらったが、この後はどうすれば良いのだろう。
ユーリが今夜の寝床についてあれこれと思案していると、思ったより早く男が部屋に帰ってきた。
そして、手に持っていた手桶をユーリに差し出した。

「綺麗な湯を貰ってきたから、これで顔を洗いなさい。泥だらけだ。」
「ありがとう・・・・」

どうやら階下の従業員に言って態々貰って来てくれた様だ。
男の意外な優しさに、ユーリは素直にそれを受け取り、窓際の円卓の上の酒とグラスを少しずらしてその上に手桶を置き、バシャバシャと顔を洗い始めた。
男の言う通り、ユーリの顔は森で転んだまま泥だらけで、濡れた手にジャリジャリした感触が伝わり、澄んでいた手桶の中はすぐに濁ってしまった。

「痛っ!?」

男から差し出された手拭いを受け取り濡れた顔を拭うと、どうやら転んだ時に擦り剥いたのか、額のあたりに痛みが走った。
痛みを訴える小さな声に、男がユーリが顔を拭いていた布巾を見ると少しばかりの血が付いている。

「見せてみなさい。」
「あっ!?」

男がユーリの前に跪き、言葉と同時に額に掛かる長い前髪を掻き上げると、少年はピクッと身体を震わせうろたえ声を上げた。

「大丈夫だ、たいした傷じゃない。」

額の傷が深いものではないことを確認し男がそう告げるが、少年は何故か目を伏せ硬直したままだ。

「どうした?他にどこか痛むのか?」

少年のその姿を不審に思いユーリの顔を覗き込んだ男の目に、潤んだ大きな瞳が映った。
夜の闇よりも深く、輝く黒真珠すら及ばない
それは、この世に存在することが奇跡と呼ばれる美しい漆黒の瞳だった。
一瞬目を見張った男に、ユーリはそっと顔を背けた。

「見られちゃったな。気持ち悪いだろ・・・?」

何が、とは言わない。
しかしポツリと呟く様なその声は小さく、微かに震えている。
不自然に伸びた前髪の意味を知り、男はユーリの前髪を指先でゆっくりと整えた。
そして自分の荷物から塗り薬の入ったビンを取り出し、ユーリの額の傷にそっと塗り広げた。

「気持ち悪くなどない。とても美しい瞳だ。」
「!?・・・・ホントに?」
「ああ、真っ直ぐで綺麗な瞳だ。俺の前に居る時は隠さなくていい。」
「そんなこと言われたの、初めてだ・・・・・・ありがとう。」

男の言葉に、泣き笑いのユーリの漆黒の瞳からポロリと一筋の涙が流れた。
それを服の袖でゴシゴシと拭いながらもう一度ありがとうと呟き、ユーリは眩しいほどの笑顔を男に向けた。

「聞いても良いか?」
「ん?」
「何故旅をしている?」

男の問いに、ユーリはしばらく天井を見上げながら考えていたが、すぐに男に視線を移し僅かな苦笑を浮かべながら話し始めた。

「俺、生まれた時から施設で育ったんだけど、15歳になったら施設を出なくちゃいけなくて・・・・。だから旅に出た。」

色々と説明を省き過ぎていてよく分からない答えにも関わらず、男はそれでも納得したようだった。
無言で机の上に置いてあったカップをユーリに差し出し、自分のグラスには酒を注いだ。
ユーリに手渡したカップには温めたヤギ乳が入っていて、ユーリはそれを両手で包みゆっくりと口に含んだ。
少し蜂蜜が落としてあるのか、ほんのりとした甘さがユーリの中に優しく染み渡る。

「どこを目指しているんだ?」
「眞魔国。」
「眞魔国?」
「そう、魔族の国、眞魔国。俺の育った施設の大人たちが言うんだ、色んな所で起こってる飢饉や疫病もみんな眞魔国の“魔王”が悪いんだって。領主様に納める年貢が高いのも、すぐ諍いが起こるのも“魔王”が俺たち人間を困らせてるからなんだって。」
「全ては魔王が悪いと言うことか・・・・」
「うん、皆そう言うんだ。だからね、それが本当かどうか確かめに行こうと思ったんだ。で、“魔王”に会って、本当に悪いヤツだったら説教してやろうと思って。」
「魔王に説教か?剣で倒すのではなく?」
「倒しても同じだよ。また別の“魔王”が現れて人間を困らすだけだろ?だから説教すんの。人間と仲良くしろよ、ってね。」
「魔王に剣ではなく説教か・・・・・、きみなら出来るかもしれないな。」

ユーリの言葉に男は僅かに口の端を上げ、またゆっくりとグラスを傾けた。
飲み干した杯を机に置き、男は徐に寝台に移動した。

「今日は疲れただろう。それを飲んだらもう休みなさい。」
「え?俺、ここで寝ても良いの?」
「そう言ったはずだが?」
「でも・・・、あんたの、その・・・」
「コンラートだ。」
「へ?」
「俺の名はコンラートだ。」
「こんらー、こんらっ、コンラッドさん?」
「コンラッドで構わない。」
「コンラッド。じゃあ、コンラッド、この部屋にコンラッドの本当の連れが来るんじゃないの?」
「いや、来ない。狭い部屋で過ごすのが嫌だったから二人部屋を取っただけだ。」
「そうだったんだ・・・・。じゃあお言葉に甘えて今夜はココで眠らせてもらうね。」
「ああ、ゆっくりと休みなさい。」

コンラートが頷くと、すぐにユーリは靴を脱いで寝台に横になり、枕に頬を何度も擦り付け、フカフカのお布団だぁ〜♪と、幸せそうに笑った。
柔らかな布団の温もりが、すぐにユーリを眠りの世界に誘う。

「おやす、み、コ、ンラッ、ド・・・・」

やがて穏やかな寝息が聞こえだす。
開けたままにしていた窓のカーテンが揺れたのは、それとほぼ同時だった。

「こ〜んばんは〜、隊長♪」

僅かな蝋燭の炎だけが揺らめく部屋に、窓からヒラリと静かに入ってきた夕焼け色の髪の男は、満面の笑顔を浮かべ、軽い調子の挨拶と共にコンラートに向って片手を上げた。

「隊長、か・・・・・。未だにそう呼んでくれるのはお前だけだな、ヨザック。」
「まあね。あんたがどんな地位に居ようが、何であろうが、あんたはあんただし。俺にとっちゃ、いつまでも隊長は隊長だぁね。」

そう言いながら勝手に自分用のグラスも取り出し酒を注いでいる男に、コンラートは僅かに口の端を上げた。

「それにしても珍しいですね、隊長がこんな子供と一緒に居るなんて。」

ついでに笑顔もね、ヨザックは小声でそう言うと、ニヤニヤとした笑いを浮かべながら杯を傾け、美味そうに酒を喉に流し込んだ。
一息に飲み干したグラスをテーブルに置き、ヨザックはチラリと傍らの寝台で眠る少年に視線を走らせた。

「この坊ちゃんが、隊長の探しものってやつなんですかい?」
「可能性はある。」
「この子がですか!?確かに見目麗しい少年ではありますけど、ただの子供じゃないですか!?」

コンラートの予想外の返答に、ヨザックは大きく目を見開き思わず間の抜けた声を出した。

「彼の、ユーリの瞳は、綺麗な漆黒の瞳だ。」
「そいつは驚いた!」

ヨザックは見開いていた目を更に大きくしてコンラートを見つめた。

「隊長が見つけたんですか?」
「いや、偶然出会った。」

ひゅ〜♪とヨザックは楽しげに口笛を吹く。

「調べますか?」

すっと真顔になったヨザックの問いに、コンラートは一瞬思案し、だがすぐにはっきりと首を振った。
それに頷き、ヨザックは夜風がカーテンを揺らす窓辺に立ち、真面目腐った顔で胸に手を当て恭しくコンラートに一礼した。

「それでは隊長、良い旅を・・・」

その後、白い歯を見せてニッと笑い、ヨザックは来た時同様、音も立てずに窓から姿を消した。



翌朝、ユーリはいつもよりスッキリと目覚めた。
元より寝起きは良い方だが、昨夜は特に眠りが深かったのか、あれほど色々あって疲れていた体が一夜明けるとすっかり軽くなっているように感じる。
寝台の上で上半身だけを起こし、カーテンの隙間から覗く窓の外を眺めると、見事な青空が広がっていた。
ユーリはヨッと声を掛けて立ちあがり、伸びをしながら窓辺まで移動した。
カーテンを開けると、早朝と言える時間にも関わらず思いの外強い日差しが部屋に射し込み、その眩しさに圧倒されユーリは反射的に目を細めた。

「天気、良すぎだよ・・・」

青空は好きだ。
だがひっそりと一人で旅をする自分にとって、この晴れやかに澄み渡った空は眩しすぎる。
ユーリはそう思い、そっと窓に背を向けカーテンを閉じた。
身支度を済まし、世話になった部屋をせめて綺麗にしておこうと乱れた布団を整えていると、朝からどこかに行っていたのか姿を見なかったコンラートが部屋に戻ってきた。

「おはよう、コンラッド!」
「おはよう。俺は今日この町を出ようかと考えているんだが、ユーリの予定は決まっているのか?」

コンラートの言葉は、ユーリの胸に少しの寂しさを生んだが、それを誤魔化すように笑顔を作り、自分も今日この町を出るつもりだと答えた。
僅かばかりの荷物を纏め、宿屋の食堂で朝食を摂って帳場台の奥でコソコソする主人を横目に宿の外に出た。
厩へ預けた自分の馬を引き取りに行ったコンラートを待つ間、ユーリは人や馬や荷車が行き交う大通りの上に広がる空を見上げた。
動き始めた町の空はやはり青く澄み渡り、その青すぎる青さがユーリに別れの時を益々辛いものに感じさせた。
ハシバミ色の愛馬を連れユーリの前に現れたコンラートは、浅葱色の外套を翻しヒラリと馬に跨った。
とうとう別れの時が来た。
ユーリは沸き起こる寂しさを誤魔化す為に笑顔を作り、馬に跨るコンラートに一歩近付いて別れの挨拶をする為に右手を差し出した。

「じゃあ気をつけ、って、えっ!?」

差し出した手を掴まれたかと思うと、グッと強い力で引き上げられ、気が付くとユーリはコンラートに抱え込まれるような体勢で馬上の人になっていた。
訳が分からずオロオロするユーリを尻目に、コンラートの合図を切欠に、馬はゆっくりと前に歩みだす。

「へ?何?何で??」
「行くぞ。」
「行くぞって、何処へ?」
「眞魔国だ。」
「え?」
「俺の旅の目的地も、眞魔国だ。」

そう言ってコンラートは前を見つめ、不慣れなユーリの為にゆっくりと馬を進める。
一人で歩くより速く流れていく景色に、ユーリは落ち着きを取り戻し、それと共にその口元が緩やかな弧を描く。

空は青く晴れ渡り、明るい光と爽やかな風が心地よい。
二人の旅は今、始まったばかりだ。



Yellow geranium =偶然の出会い=



突発的に書き始めました、コンラッドとユーリのパラレルなお話です。
ユーリは魔王ではありませんし、次男は護衛でもありません。
そんな二人の旅のお話。
あたしの脳内では、かなりの妄想世界が広がっているので、長いお話になるとは思います。
ゆっくりまったりお付き合い頂ければ幸いです。

いつも素敵な時間を提供して下さるsyg様に捧げます。

okan

(2010/09/15)