白昼夢−SideA−

 文化祭の準備は忙しい。
 クラスの出し物と、自分の所属するクラブの出し物とで、二つの割り当てをこなさなければいけないから。
 
 その日もあたしは屋上にいた。クラスの出し物は無謀にも演劇で、あたしは厄介なことに、大道具係を任されていたのだ。
 カッターで段ボールをザクザク切って、ガムテープで貼りあわせて、ペンキで色づけ。ザクザク、ペタペタ、ぬりぬり。そのくり返し。
 冷たい風が吹き荒ぶこんな場所での作業するのは、祭りに燃えている物好きか仕事を押しつけられた不幸なヤツか生真面目くんだけだ。そしてあたしはたぶん二番手。そして屋上では、あたしの同類らしき生徒たちが黙々と、ガリガリぺたぺた手際よく働いている。
 −−そんな中。あたしはずっと、誰かの視線を感じていた。
 しかも、それが誰のものなのかは、大方の予想がついていた。それはもしかしたら、あたしのうぬぼれかも知れないけど。でもこういう勘には、けっこう自信があったりするのだ、困ったことに。
 だからあたしは、できるだけ作業に意識を凝らそうとがんばった。
 そして気がついたら夕方。屋上には闇の気配が忍び寄っていた。

「……うわ。もうこんな時間だ。他の奴ら、まだやってんのかなあ」
「さあ。すでにみんな帰ってたりして。特にうちのクラスの男子って、やる気なさそうだし」
「ええっ! それマジすんげームカツクんですけどー」
 大道具係の相棒、ユッコが頬を膨らませた。あたしは苦笑して作業を続行させる。できるだけ意識を段ボールに集中させる。
 だって屋上にはいつのまにか人が減っていて、だけどふと顔を上げた視線の先には岡部がまだいることに、気がついてしまったからだ。
 どきどきする。顔が熱い。岡部は小学校の時の同級生で、今はクラスがお隣。あたしのことが好きらしい、なんて噂のある男の子だ。
 告白なんかされていないから、あくまで噂なんだけど。でもそういう噂はちょっと困る。だって視線を感じる。あたしは顔が上げられない。
 意識を目の前の段ボールに集中させる。あんなの、気にしたら負けだ。
  
 ガリガリガリ。ユッコと二人だけで、恨みさえ込めて段ボールを切っていく。強い風。段ボールが風に煽られるのを、視界の隅に捕らえる。
 あ、あれヤバイかも。なにか重しを乗せておかなきゃ。そんな思いが一瞬脳裏をかすめたその瞬間だった。  ぐさり。
 ……え? 見れば、左手人さし指に、カッターの刃が食い込んでいた。痛みより目にした光景に驚く。
 うわ。やってしまった。じわり、と赤い液体がにじみ出てくる。
「ちょっと、なにやってんのよ? あーもう、ばっかねえ。……ああ、いいわよ。あたしのカバンの中にバンソコあるはずだから、教室行って取ってくる。ちょっと待っててよ」
 ユッコがあたしの返事もろくに聞かずに、階段室への扉の向こうにあっという間に姿を消してしまった。え、ちょっと待って。置いてかないでよ。それはまずいよ。焦る。だって。
 鮮血で濡れた指先を空に向け、あたしはできるだけさりげなく、視線を、隣のクラスが陣取っていた辺りへと向けた。そして−−目を瞬く。やだ、どうしよう。一生の不覚。
 ああ、やだ。思わず、生唾を飲む。正直者な手が汗ばむ。
 岡部を視線が、ぶつかってしまった。

「……その指、どうしたの。怪我? 大丈夫?」
 岡部は照れたりなんか全然しないで、普通の顔して、あたしに声をかけてきた。
 低い声。群青の空を背中に背負って。上着を脱いでシャツの袖をめくって。少し毛深くなった腕。昔より少し高い位置から、岡部があたしを見下ろしている。
 ……ねえ、噂は噂だよね? あんたはあたしのことなんか、なんとも思っていないよね? 
 聞きたいけど聞けない言葉。うぬぼれてると思われたりして、バカにされたくなくて。
 変な感じだった。昔−−あたしたちが小学生だったころは、男も女もなくてみんな同じで、一緒にバスケットボールを追いかけたりしていたのに。
 いつからあんな噂が流れて、あたしたち、二人きりで話せなくなったんだろう?
「あ、うん。……カッターで切っちゃった。あたしってほら、不器用だから」
 指を見せるように突き出して、あたしは、えへへ、と笑った。一応、たぶん、ちゃんと笑えたと思う。だけど自分じゃ分からない。指だってほら、気を抜くと震え出しそうで。
 岡部が、どれ見せてみ、と躊躇なくあたしの手を取った。どきりとする。目の前でしゃがみ込んで。ほらほら考えすぎだって。意識するなあたし。岡部の日に焼けた顔が近づいてくる。
 真面目な目を、あたしの指に注いで。そして。
 −−あっと声を上げる間もなかった。
 あたしの左手を引っ張って。指先を。全身硬直。指先が温かい。
 ……え? ……今、なにをしてるの? ちょっと待ってよ。……ええっ!?
「ショードク。ほら。……血が止まった」
 岡部がにっと笑って囁く。あたしの怪我した指を、口から出して。どこか得意げに。
 そのとき思い出したのは、ユッコの飼い犬に手を噛まれたときのことだった。甘噛みだから痛くなくて、でも舌のざらざら感は生暖かくて気持ち悪くて。そんな感じ。指先を舐められて。
 瞠目。硬直。頭の中が真っ白。嘘ウソうそ! 信じられない!
 だって普通、男子が女子に、そんなことする?

「……、……たの? おーい、あたしの話聞いてるかーい?」
 ふと気がついたら、岡部じゃなくてユッコが目の前にいた。
 あたしは驚いて、きょろきょろと周囲を見回す。さっきより闇の気配の増した屋上。岡部はいない。他の生徒もいない。屋上にはあたしをユッコ、ふたりきりだった。いつのまに。
「なにやってんのよ。もうね、みんな帰るって。あたしらもそろそろ帰ろう。屋上寒いし。……ねえ、どしたのよ? 指まだ痛いの?」
 言われて指先に視線を落とせば、すでにバンソコが貼られてあった。
「……これ、ユッコが貼ってくれたの?」
「そうだよ。……ちょっとあんた、なに言ってんのよ。ホントに大丈夫?」
 ユッコが怪訝な顔をする。あたしはとっさに、えへへ、とバカみたいに笑った。
 だって、それ以外にどうしたらいいのか分からなかった。 わけが分からん。理解できない。何なのいきなり、さっきのあれは。あれって本当に本物の、岡部だったの? 現実にあったことなの?
 頭の中は混乱のうず。今になって、心臓がドキドキしてきた。
 あたしは無理やり混乱を振り切って立ち上がった。さっさと家に帰ろう。帰って寝よう。このまま屋上に締め出しなんて、冗談じゃない。お天道様はすでに沈んでいる。道具を片付けるのに、専念するんだ。
 そうだ、忘れちまえ。アレは夢だ。悪い夢だ。白昼夢なんだ。
 だけどバンソコで覆われた指先は熱くて。さっきの感触が、甦ってきて。
 ……明日、また岡部に会ったらどうしよう。どんな顔をしたらいいんだろう。
 そんなことを考えてしまってそしたら、もうその場でじっとしていられなくなって、発作的にあたしは「うおおおっ!」とか叫び出し、ユッコを驚かせてしまったのだった。

   Fin.
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By Tacni Ririko copyright (C) All rights reserved since June 2006.