イタリアの元極左運動家アントニオ・ネグリ(67歳)と、デューク大学助教授のマイケル・ハート(40歳)が共著「帝国」Empireを刊行し話題を呼んでいる。古代哲学から現在思想(ポストモダン・ポストコロニアル)までをカバーし、政治学・経済学あるいは文化・人類学におよぶ広範な領域から分析された本著は、ジシェク曰く「21世紀の共産党宣言」と言わしめている。
世界はいまや「帝国」によって支配されている。「帝国」Empireとは、帝国主義の帝国Imp ireとは異なる。Impirism帝国主義が国民国家の単位で、他国を支配してゆくのとは異なり、「帝国」は一つの支配秩序を、権力を地球規模に覆いつくす。一つの正義、一つの秩序とは、アメリカをはじめとする先進国および多国籍企業のグローバリゼーションで、世界を覆いつくし、かつての冷戦対立、第三国、南北問題をも霧散してしまう。帝国主義以来の国家単位での支配は終わり、少数者が国家の枠を超え、世界秩序を形成し、マルチチュード(多数者)を支配する新たな局面に歴史は突入している。
「帝国」はそもそも資本の要請から出現したものである。資本主義の出現以来、資本は国内を食いつくし、そして国外へと侵食していった。19世紀から20世紀の帝国主義はまさに資本の要請によるものであり、繁栄と恐慌を繰り返しながら世界に進出し、戦争という最終手段で常に破局を乗り越えてきた。そして資本が世界を覆いつくしてしまった現在、もはや空間的な膨張もできず、全面戦争もできない以上、資本はふたたび内へと向かう。マルチチュードつまり労働者への搾取は、「資本論」の時代以上に過酷さを増し、労働時間だけでなく生そのものへと手を延ばしてゆく「帝国」は、マルチチュードの生き方そのものを規定・秩序化するのだ。
しかし「帝国」は抑圧するために積極的に出現したものではない。むしろ「帝国」は資本主義の繁栄のため、平和を望んでいるのだ。マルチチュードの抵抗、あるいは国民国家が無効になり勃発する地域紛争・民族問題に対抗するかたちで「帝国」は現れるのだ。そして、ミシェル・フーコーの言う安全な権力装置を配備し、マルチチュードを見えざる権力でコントロールするのだ。
世界が一元化されるなかで、マルチチュードは自国内の失業により、ノマド的(遊牧的)に世界を漂流する。そして国民国家は崩壊し、「帝国」による新しい一つの世界秩序が支配する。ネグリとハートは、この「帝国」の現状に対して、積極的でオルタナティブな運動を展開できないのを断ったうえで、移民・難民に対する人権(住民権)付与と、最低賃金の保障の実現を提唱している。