アメリカの作家ウィリアム・フォークナー(39歳)の九作目となる「アブサロム・アブサロム」が出版され、「響きと怒り」(1926)、「八月の光」(1932)をしのぐ作品と思われる。
アメリカ南部ミシシッピー州の架空の町を舞台とした、サトペン家の物語を、複数の話者に語らせるかたちで、全体像がにじみ出るように描いてみせる。突如、田舎町に現れた得体の知れぬ主人公トマス・サトペンは、町はずれに住みつき、人知れず富を築き上げる。広大な土地と屋敷を所有し、家庭をも着実に築いたサトペン家をめぐって、様々な出来事が展開する。私生児の出没、南北戦争、狂気、尊属殺人。三代にわたる複雑な血縁関係がもつれ合うサトペン家の物語を通して、作者は人種問題、富と欲望、アメリカ南部特有の世界観を浮き彫りにする。
主人公トマス・サトペンの破天荒な一生を通して、作者は端的には言い表せない問題を投げかけてくるが、フォークナーの引きつけてやまないストーリー性と独特の技巧は、プルーストやジョイスをまさに受け継いでいると言えよう。
パリに亡命中のドイツの哲学者、ヴォルター・ベンヤミン(44歳)が、アドルノとハルクハイマーのフランクフルト社会研究所が発行する「社会研究雑誌」に、「複製技術時代の芸術」を寄稿した。
かつて芸術作品は、「いま、ここに」在るという一回性に価値があり、その制作は師匠から弟子へと受け継がれ、伝統を担っていた。しかし、複製技術の出現により、芸術作品の再生産が可能となり、「ほんもの」という権威を失墜させた。この事は、歴史的発展を前提とする。そのうえで、映画こそは、その社会的重要性において象徴的であり、まさしく伝統を破壊した。大衆は、芸術を所有する欲望を抱き、複製技術がそれを実現させた。いまや新聞やニュース映画は、「アウラ」を消滅させ、複製による同質なものを引き出し、リアリティの照準は大衆に合わされ、逆に大衆もリアリティの照準に合すことができる。
芸術作品は複製技術以前、その「ほんもの」の価値は、宗教的儀礼あるいは礼拝的性格にあり、伝統と結びついていた。ルネサンスは、芸術作品を宗教から解放し、十九世紀の写真術の登場は、「芸術のための芸術」をうち立てた。それは芸術の社会的機能の拒否であり、純粋芸術の誕生であった。そして複製を想定した作品さえ生み出すことになる。いまや芸術の機能とは、儀式ではなく、真贋の基準の崩壊にともなう政治的なものとなった。複製による量的拡大は、芸術の質的な変化を起こす。
写真においては、礼拝的性格は、肖像写真が最後であった。今世紀初め、アジェがパリの街頭を写真に収めたとき、その礼拝的性格は終わりを告げ、政治的な意味を写真は担うことになる。新聞紙上の写真や漫画に付せられる解説は、読者を一定方向に規定し、映画は更にその映像のシーケンスにより、観客の解釈を強制的に規定する。