ローレンツ変換式/ロダン「考える人」

 

ローレンツ変換式

オランダの理論物理学者ヘンドリック・A・ローレンツ(52歳)は、1892年」に彼自らが提唱した「ローレンツ短縮」を公式化した「ローレンツ変換式」を発表した。ローレンツ短縮とは、高速で運動する物体は、その方向に短縮するという現象で、ローレンツはマイケルソン・モーレーの実験結果からこの仮説を得た。アメリカの物理学者マイケルソンとモーレーが、1887年に行った実験は、エーテルの存在証明とともに、絶対空間における地球の速度を測定するのであった。音が空気という媒体によって伝わってゆく様に、光や電磁波も宇宙空間に伝わってゆくには媒体が必要であり、その媒体として「エーテル」という物質を仮定した。マイケルソンとモーレーは、遠隔地間の光を測定し、その速度の誤差によって、エーテルの存在を証明しようとしたが、結果は誤差が生じる事なく、証明はできなかった。1892年、ローレンツは高速で運動する物体は短縮するために、つまり光を測定する「もの差し」自体画」短縮するために、誤差を測定できなかったと仮定し、それをローレンツ交換式によって、数学的に解明した。

 

ロダン「考える人」

オーギュスト・ロダン(64歳)は、1881年に制作した「考える人」を、サロンで公開した。もともとは、彼の大作「地獄門(1900年)」の一部分としてデザインされ、ブロンズで制作された。1902年、これを石こうにより、サイズを大きくし、彼にとっての最初の野外作品としたが、芸術関係者からは酷評をあびている。



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新モンロー主義と反トラスト法

 

最小年でアメリカの大統領に就任(1901年)した、セオドア・ルーズベルト(45歳)は、本年度の年次教書のなかで、モンロー主義に対する彼の新しい指針を打ち出した。更に、就任当初から掲げていた反トラスト問題にも政治的効果をあげており、彼の人気は依然衰えずにいる。ルーズベルトが発表したモンロー主義に対する「ルーズベルトのコロラリー」とは、国際社会上で、国家の不当な行動あるいは無政府状態に対して、アメリカ合衆国の警察力を行使することを宣言したものである。元来、ルーズベルトはアメリカの国力が、国際社会のなかで重要かつ責任のある事を踏まえ、就任以来、国力の行為を唱えていたが、それは帝国主義推進の政策と誤解されていた。むしろ、それは中南米諸国の政治的安定や国際社会の平和維持への監視役といての態度を示すものであり、例えばパナマ運河の建設がその一つとして挙げられる。パナマ運河の開通は過去、何度も試みられたが失敗に終っており、ルーズベルトはこの計画に熱意を示した。しかし、コロンビア政府との利権争いで計画は暗礁に乗り上げ、ルーズベルトはコロンビアにパナマ新政府を樹立させ、パナマ運河の永代借地権を得た。新モンロー主義発表後、まもなくドミニカの財政問題が浮上した。債権国のヨーロッパ諸国は、ドミニカ共和国を差し押さえようとしたが、その強制的な行動にルーズベルトは介入した。ルーズベルトはドミニカに国庫の管理人を送り、横領がはびこっていた関税収入の適正を行わせ、債務を履行させた。ルーズベルトの政治的理念に州政府に対する連邦政府の権限の強化がある。その一つとしてトラスト問題が彼には一つの課題であった。大統領就任の後、一般教書で反トラスト法の実行と、州政府が持つ大企業への監視権限を、連邦政府にも認める事を述べた。特定産業の会社を合併させるトラストは、持株の操作により利益をあげるにも係らず、製品価格の吊り上げを可能とした。特に、たばこ・精肉・塩・砂糖の産業にトラストは有効であり、1091年に設立されたUSスティール社は、その最たるものである。ルーズベルトの態度は共和党が大企業と結び合っている為、曖昧であったが、1902年、大陸横断鉄道4社を支配している、ノーザン・セキュリティーズを検挙し、最高裁は当社の合併を無効とする判決を下した。ジャーナリストはルーズベルトを社会主義的な扇動者と煽るなかで、大統領選挙を向かえるアメリカだが、共和党は人気の高いルーズベルトを再度、候補者に上げざるを得ず、一方の民主党はパーカー候補を擁立しているが、形勢はルーズベルトの再選に優位なようである。



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ロラン「ジャン・クリストフ」/チェーホフ「桜の園」

 

ロラン「ジャン・クリストフ」

 フランスの音楽史家ロマン・ロラン(38歳)は、ベートーベンを内面的に論究した「ベートーベンの生涯」(1903年)の刊行に続き、ベートーベンをモチーフとした小説「ジャン・クリストフ」の連載を始めた。

第一巻「曙」では、幼少時代のクリストフが描かれる。音楽家の家系に生まれたクリストフは、幼少の頃から感受性が強く、死を恐れまた自然を愛した。そして、その感受性は音に結び付けられ、音楽的才能を発揮させ、第二巻「朝」へと続く。クリストフは父の放蕩から、少年にして家庭の主となってしまった。それまで孤独だったクリストフに初めての友人オットーが現れるが、強じんな肉体、そして傲慢なまでの内省的正確を有するクリストフは、その正反対のオットーとは結局、相容れなかった。しかし、クリストフに初恋が訪れた。上流階層の娘ミンナと恋仲に落ちるが、それもあえなく幻と消え、その上、父親までもこの世から消え去ってしまった。クリストフは死を想うが、この苦渋を担い、音楽で生きてゆくことを自覚し、本巻はしめられる。

 

チェーホフ「桜の園」

アントン・チェーホフ(44歳)の昨年書き下ろした、新作の戯曲「桜の園」が、1月ムスクワ座で初演された。舞台はパリで豪奢したロシアの中産階級の一家が、帰国後、借金の為に自宅である「桜の園」を競売にかけられ、没落してゆく人間模様を描いている。前作の「三人姉妹」(1901)から、中産階級の単なる没落を描くのではない作者の意図が「桜の園」にも伺える。しかし、チェーホフはこの作品を最後に、本年44歳で他界した。生活のために始めた作家活動は長編こそなかったものの、多くの優れた作品を生み出し、技巧的にも思想的にも、ロシアに限らず、大きな影響を与えた。


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プッチーニ「蝶々夫人」/ロース「ヴェラ・カルマ荘」

 

プッチーニ「蝶々夫人」

 「ラ・ボエーム」「トスカ」で成功を収めたイタリアの劇作曲家、ジョコモ・プッチーニ(46歳)の新作「蝶々夫人」が、ミラノで初演された。イタリア・オペラに新風を巻き起こしたプッチーニだが、本作品の初演は不評で、トスカニーニの指導のもと改訂版を上演した処、好評を得た。

ジョン・ルーサー・キングの原作である「蝶々夫人」は、日本を舞台とし、米国海軍士官ピンカートンが、日本人女性の蝶々夫人に魅せられ、二人は結ばれる。しかし、ピンカートンは本国へ帰国してしまい、取り残された蝶々夫人と誕生した子供は、ピンカートンの帰りを待ち続けた。三年後、ピンカートンは日本に戻ってくるが、それは離縁の為であって、更に子供を引き取ってゆく為であった。錯乱状態の蝶々夫人は、やむを得ず子供をピンカートンに譲り渡すが、自らの命を絶ってしまい、幕は閉じる。ヴェニズモ・オペラの傑作と言えるであろう本作は、日本の音楽や全音階メロディーを盛り込みながらも、「愛の家よ、さようなら」などの美しいアリアを聞かせてくれる。

 

ロース「ヴェラ・カルマ荘」建築家アドルフ・ロース(34歳)は、モントルーのヴェラ・カルマ荘を設計しているが

、そのデザインはアール・ヌーボーやゼ・ツェッションなどの装飾性と反してでもいる様に、装飾的でなく、立体的である。

もともとオットー・ワーグナーの影響を受けているものの、アール・ヌーボーやゼ・ツェッションに向かう事なく、同じく機能を重視するに、それは機械的であり、直線的である。ロースは、モラビアの出身であるが、ドレスデンで建築を学んだ後、アメリカに渡り、建ち並ぶビルディングや家具装備の住宅に影響を受けている。



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日露戦争/英仏協商

 

日露戦争

 満州と韓国の利権をめぐって、日本とロシアの間に戦争が勃発した。義和団事件(1900年)以降、ロシアは満州から撤兵する条約を締結したにも係らず、撤兵するどころか、更に軍備を増強し、侵攻を続けた。新興国の日本にとって、ロシアの満州進出は脅威であり、昨年ロシアに対して直接、満州と韓国の利権について交渉を始めた。日本政府は、ロシアは満州、そして日本は韓国に対する優先権を相互に承認する協定案を、ロシアに提案した。しかしロシア政府の回答は強行で、満州はおろか、日本の韓国に対する軍事行動をも承認しなかった。

日本政府は本年度に入り、ロシアに修正案を提出したが、ロシアの強行な姿勢は変らず、1904年2月8日、最終案の回答を待たずして、日本艦隊はロシア艦隊を砲撃。2月10日、日本はロシアに宣戦布告をおこなった。戦況は新興国の日本が優位に立っており、朝鮮半島から黄海開戦、9月には遼陽占拠、10月に沙河の会戦を経て、ロシアはしだいに北方へと後退を強いられている状況である。

 

英仏協商

日露戦争は単に極東における植民地争いの問題ではなかった。日露戦争が勃発した2ケ月後、4月8日、イギリスとフランスは、「植民地に関する協約条約」を締結し、歴史的ににらみ合っていた両国を結び付つけた。イギリスにとって、ロシアと日本が衝突した場合、日英同盟(1902年)によって参戦義務が生じる。ロシアは既にフランスと同盟を結んでいた為、英仏戦争の可能性があった。イギリスはドイツとの同盟を交渉し続けていたが、ドイツはロシアと同盟を結び、日露戦争の後押しさえしている。イギリスは外交上、孤立状態にあったが、英仏戦争を避ける為にも、フランスへ接近していった。一方フランスは、イギリスより微妙な立場にあった。ロシアと同盟を結んでいる以上、フランスにも参戦義務があったが、ロシアとドイツの結びつきの方が強く、フランスが両者に加盟した処で、利益も損益もなかった。それよりも同盟上生じる英仏戦争の可能性を、イギリス同様避けたかった。両国の接近を促進したのは、昨年5月、親仏的な新英国王エドワード7世が、パリを訪問したことにある。続いて7月には、フランス大統領ルーベがロンドンを訪問。急きょ接近した両国は外交交渉を開始し、イギリスはエジプトの、フランスはモロッコの、各々の優先権を承認する協定を提案。日露戦争勃発の2ケ月後、1904年4月8日、英仏の間の協定は調印された。国家間の全面的な同盟関係ではない条約だが、現在の国際関係上、この協定は同盟と同等の効力を持っている。



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ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

 

 ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(40歳)の発表した論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、資本主義社会の成立を今までにない新しい観点から解釈している。資本主義の形成は、単に古来から存在する商取引がしだいに発達した結果という訳ではなく、そこには心理的な側面、つまりプロテスタントの倫理観が資本主義の発達に大きく寄与したと、ウェーバーは説く。マルクスの唯物史観であるなら、資本主義社会の物質的基盤の上に、資本主義の精神は育まれたと説く処であるが、ウェーバーはむしろ利潤追求を目的とする資本主義の精神を、敵視していたプロテスタンティズムの倫理観が、資本主義の発達を促し、更にその気如区的な倫理観がある処でしか、資本主義の精神は生まれ得なかったという逆説的なテーゼを提出している。

ウェーバーは禁欲的なプロテスタンティズムの倫理観が、何故、いかに営利的な資本主義の精神へ結びついたのかを論及してゆく。宗教改革以降、経済的に興隆していたのはプロテスタントの国(イギリス・オランダ・アメリカ)であった。プロテスタントの国は元来、教会制度を離脱し、経済的な営利、そして現世の享楽を排除し、神の直接仕える事にあった。Sしかし、ある時期からその倫理観はしだいに様相を変えた。ウェーバーはベンジャミン・フランクリン(1706−90)の時代に焦点を当てる。フランクリンは自伝のなかで、信用・勤勉・節制の生活が、プロテスタントのあるべき姿であると説くのであるが、自分への高度な抑制は、労働や日常生活に合理性を産み出した。そして今の仕事は神から与えられた天職であり、その天職を真面目にかつ合理的に実行することが、神の救済に選ばれ倫理観を形成した。その倫理観に従い労働に励むこと、更に禁欲的つまり消費しないことは、あおのずと富をもたらし、富を保つ事がプロテスタントの義務と化した。もたらされた富は利潤追求でなく、天職をまっとうするために産業資本となり、西洋特有の資本主義へと発達した。中国や古代社会での商取引は利潤追求を目的としていたが、西洋では高度な倫理追求、人間資質の形成の結果、かつて例のない資本主義を産み出し、産業革命をもたらした。

ウェーバーはこのように資本主義社会の精神を、プロテスタンティズムの禁欲的倫理から導いたが、この倫理観は型だけを残し、しだいに合理的で営利的な行動だけが促進され、その結果、本来の信仰は薄れ、資本主義の精神が、その精神そのものを逆に追いつめている状況に至っている。更に資本主義の高度化につれて、職業の専門化が進む現在に、ウェーバーは機械化された人間が、いまや人類の頂点に到達しているとの自惚れを最後に指摘している。ウェーバーはマルクスの唯物史観を批判しているが、本著は単に「精神」−マルクスが言う上部構造が、下部構造を形成したという因果関係を示したものではない。彼は宗教の研究から、宗教的精神も資本主義の形成に影響した要素であること、マルクスの下部構造だけが全てではない事を解明しているのである。



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01.ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
02.日露戦争/英仏協商
03.プッチーニ「蝶々夫人」/ロース「ヴェラ・カルマ荘」
04.ロラン「ジャン・クリストフ」/チェーホフ「桜の園」
05.新モンロー主義と反トラスト法
06.ローレンツ変換式/ロダン「考える人」

Max Weber
1904年
20世紀の精神
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