田園都市
エベニザ・ハワードが「明日−真の革命にいたる道」で提唱していた田園都市が、レエチワースで、バリー・パーカーとレイモンド・アンウィンによって実現された ハワードの田園都市論は社会主義に源流をもち、人間がより快適で効率的な生活ができる様、考案した理想都市である」。1901年、アントニー・ガルニエが同じ意図で「工業都市」を提案したが却下されていた。1899年に設立された田園都市境界への資本投下により、ロンドン公害のレッチ・ワースに田園都市を築く計画が着工された。 田園都市は人口約3万人を想定し、放射状の形態をなしている。都市の中心には病院や役所などが配置され、そこを広場が取り囲み、更に住宅や緑地がそれを取り巻き、その外に交通や工場、そして農地と、同心円状に広がってゆく。 人工過密なロンドンの生活・住宅事情に対して、社会主義的なアプローチから田園都市は産み出された。そして大事なことは、都市と田園の機能をバランスよく利用する事であり、アンウィンにとって、この都市の不規則な景観は一つのテーマである。
ウィーン工房
ゼ・ツェッション(ウィーン分離派)は、1901年に建築したゼ・ツェッション館を拠点に活動しているが、更にメンバーの中から、建築家のヨゼフ・ホフマン(33歳)と工芸家のkロマン・モーザー(35歳)がウィーン工房を設立した。 ウィーン工房は建築デザインと職人工芸を融合させようとする試みで、工芸職人を組合的に組織している。制作されるものは日用品などであるが、そこに新しいデザインがほどこされ、それによって職人の育成をもおこなう。日用品の新しいデザインには、ゼ・ツェッションとつながりのあるマッキントシュやウィリアム・モリスの影響がうかがえる。
サティ「梨の形をした3つの小品」
パリ・モンマルトルの酒場のピアニスト、奇才エリック・サティ(37歳)は、新作「梨の形をした3つの小品」を作曲。この変ったタイトルは彼の神秘主義経の傾倒(元薔薇十字団の作曲家)、そいて何よりも奇人ぶるを想わせる。ドビッシーイの印象音楽の流れを汲み、パリ万博で出会ったガムラン音楽、1895年作曲の「ジムノペディ」にみられる古代ギリシャや教会音楽への趣向から、サティの独特の音楽は成り立っている。「梨の形をした3つの小品」は、ドビッシーに、サティの作品にはフォルムが欠けていると評された事を意識して、短いフレーズの合で曲構成されている。冒頭は魅力的で、不安定なメロディ−と高い不協和音が奏でられ、唐突に終わる。激しい短いフレーズが現れたかと思うと、軽やかなメロディーと重厚な低音が交錯し、最後には静かで消えて行く様に曲は終わる。梨とはフランスで、馬鹿なことを象徴しており、サティらしい作品である。
ゴーギャン没
印象派あるいは分離派の画家たちとは異質に、ひときわ独特な絵を描き続けたポール・ゴーギャン(55歳)が、5月8日、この世を去った。南太平洋の島国タヒチをこよなく愛したゴーギャンは、この南国の楽園に住みつき作品を描き続けた。しかし、実際は極貧の生活を強いられた彼は、梅毒の進行により死を迎えた。これもゴーギャンの数奇な運命といえるであろう。そもそもアマチュアの画家だったゴーギャンは、生活の保証された証券会社を辞め、そのうえ家族とも離別して、芸術へと没頭していった。彼の作品は評判の良い時もあったが、収入の少ない彼は、パリで極貧生活を送った。アルルでのゴッホとの共同生活も、たちまちゴッホの自障事件で幕を閉じ、ゴーギャンはタヒチへと渡った。南国の楽園を描いたゴーギャンは、その画風をより独特なものにしていたが、パリでは好評を得られなかった。極貧生活の中でもタヒチに住みついた彼は、植民地であるタヒチに対するフランス行政府を相手に抗議行動も行っていた。1901年、タヒチを離れ、マルキーズ諸島のアツオナ村に住みついた彼は、病床に伏せてしまい、更に、先の抗議行動に対して起訴された身の上で、死を迎えた。
J.J.トムソン「原子モデル」
イギリスの物理学者ヨセフ・ジョン・トムソン(47歳)が原子構造のモデルを提唱している。トムソンの原子モデルは、正の電気をもつ原子の中に、電子が同心円を描いて並んでいる。電子はマイナスの電荷であり、電子同士の反発により、同心円上の構造をとる。同心円上に並ぶ電子の数は決まっており、それによりメンデレーフの周期表(元素の周期表)も説明できる。イメージとしては、原子がスイカだとすると、電子は種という事になる。だが、このモデルでは、電子が運動する時に放つ光(スペクトル)について説明がつかず、日本の長岡半太郎が異なったモデルを考案中である。長岡のモデルは、原子の中心に正の電極があり、その周りを土星の輪のように電子が存在している。このモデルはスペクトルの説明は成立するが、周期表は全く説明できない。スペクトルの問題はもともとトムソンが取り組んでいた問題で、電子そのものの発見も、1897年トムソン自身が行っている。トムソンは、電子がマイナスの電荷を帯びる粒子である事、そして電子そのものの存在を検証し、電子は原子より軽いという事から、原子の中に電子があると考え、原子モデルを考案した。
ライト兄弟
初飛行アメリカのウィルバー・ライト(36歳)とオービル・ライト(32歳)の兄弟は、12月17日、動力による空中飛行を初めて成功させた。ガソリン・エンジンを搭載した「フライヤー号」は、ノースカロライナ州のキティホークの丘で、4回の飛行実験を試み、260メートルの飛行に成功した。風力を利用したグライダーによる飛行は、ライト兄弟が1900年に成功しているが、推進力としてガソリン・エンジンを用いての飛行は、ライト兄弟が初めてである。人間の自らに力、つまり技術でもって空を飛ぶ夢を、ライト兄弟はついに実現した。
ショー「人と超人」/ロンドン「野性の叫び声」/マン「トニオ・クレーゲル」
ショー「人と超人」
イギリスの劇作家バーナード・ショー(37歳)は、新作「人と超人」を発表した。フェビアン協会の会員でもある彼は、社会制度の改革により、よき社会を建設すべく作品や批評を発表していたが、今作では人間そのものの改革、つまり人類は超人へと進化しなければならないというニーチェの思想をモチーフとしている。物語は古い因習を否定する新しい思想の持主タナーが、わがままな娘アンの後見人となってしまい、タナーの友人であるロマンティストのテッヴィのアンへの求婚をめぐって幕は展開する。女性の底知れぬ強さと奸計高さ、生の力の讃美、天国と地獄の永劫回帰などがストーリーにおり込まれ、超人の具現者であるタナーが、結局はアンの女性の力に捕らまえられ、結婚する事で幕は終わる。タナーが超人として、アンに屈してしまった訳ではなく、そこにはニーチェの互いに高揚させるものとしての結婚像、あるいは男と女、そして人間像を導きだそうとしているが、ニーチェ本来の思想とは添わない感がある。しかし、因習的なイギリス戯作においては、ショーの作品は斬新であると言える。
ロンドン「野性の叫び声」
アメリカの作家ジャック・ロンドン(27歳)の、犬を主人公にした小説「野性の叫び声」が人気を博している。本作は1896年に発見されたクロニダイクの金鉱発掘に、作者自身が望んだ経験に基づいて執筆された。主人公の大型犬バッグは飼い犬だったが、金鉱探索の橇犬として売られてしまい、極寒の雪路を何百・何千マイルも走行する過酷な労働を強いられた。しかしバッグは、この仕事に誇りを持つと同時に、祖先の野性の血が蘇ってくるのを感じる。極寒の労働はバッグを強くはしたが、余りの過労で死に瀕していた処を、ソーントンという人間に救われる。バッグは恩人ソーントンに強い忠誠心と愛を抱だくが、幻の金鉱に到着した時、インデアンに襲われ、恩人は殺されてしまう。ひとり残されたバッグは、野性の叫びが聞こえる森へ踏み込み、自然の中に自分を確立する。本作は犬を主人公にしたユニークな小説であるばかりでなく、適者生存、あるいは野性の暴力性を見事に描いている反面、ロンドン自身は社会民主主義者である処が相容れない。
マン「トニオ・クレーゲル」
ドイツの作家トーマス・マン(28歳)は、「ブッデンブローク家の人々」に続いて、短編小説「トニオ・クレーゲル」を発表、前世紀末より引きずるデカダンスからの脱却を試みている。主人公のトニオは、同級生の美少年ハンスに憧れ、愛情を抱くが、少年期を過ぎると、美女インゲンボルグに恋するようになる。両者への愛は成就されることなく月日は流れ、芸術的才能に恵まれていたトニオは名声を手にする。しかし高貴な芸術家の生活でトニオはしだいに凡庸さへの憧れを抱きだす。高貴な芸術か、俗物な実生活か。トニオはどちらも選択できずジレンマに陥る。そんな中、ふつ旅先でハンスとインゲンボルグが幸福に結婚している事を目の前にする。そしてトニオはより深遠な芸術生活に身を委ねる。本作品は、芸術と実生活、高貴な精神と俗物な根性の対立に悩む、一芸術家を描いたものだが、いづれかに傾倒するのではなく、両者を融合する事でより高い生へと向かう、というニーチェの思想がショッペンハウアーも踏まえて反映されている。
イギリスの数学者バートランド・ラッセル(31歳)は、「数学の原理」上巻を刊行し、数学上、問題となっている集合論のパラドクスの存在を論理学的に証明した。
1870年代、ドイツの数学者ゲオルク・カントールは無限の問題に取り組んだ。無限は普通、数えられないから無限なのであるが、カントールは無限そのものを一つの集合と見なす事によって、数えられる対象とし、無限集合論を構築した。しかしカントールの集合論には矛盾が含まれていた。「全ての集合の集合」とそのベキ集合(前者の集合)の大小を比較した場合、二通りの結果が導かれる。カントール自身は、「集合の集合」という表現に元凶があるのであって、明瞭性が在れば、無限集合論に誤りはないと自らを納得させた。
1899年、イギリスのケンブリッジ大学で教鞭をとっていた若き数学者ラッセルは、数理哲学者ホワイトヘッドの指導のもと、新しい論理システムの構築を試みていた。1900年のパリ国際数学者会議では、イタリアのペアノに出会い、記号論理学を吸収し、数学の基本的問題へ、論理学的にアプローチすべく、「数学の原理」の執筆にとりかかった。ラッセルは、フレーゲ著の「算術の基本法則」からパラドクスを発見し、刊行中であった本著の第二巻に、ラッセルのパラドクスは初めて紹介された。ラッセルのパラドクスとは、数学の命題で主語と述語が文法上、正しいものであるけれど、論理的に矛盾する場合があり、真か偽か判定できないというものだ。それを集合論に適用すると、自分自身を要素として含まない集合の全体をXとすると、X自身はXに含まれるか、含まれないか?簡素化すると、「私はウソをついている」という人が、ウソをついていたら、正しい事を言っているのに対し、事実を言っているのならウソをついている、という様な、ある論理的推理を真とすると偽となり、偽とすると真となるという矛盾を論理的に証明した。つまりラッセルは、数学の命題を論理学に還元してみると、論理自身に矛盾がある事を明らかにした訳で、このラッセルのパラドクスは、数学の学問としての厳密性を危機に陥れてた。そして彼自身の試みである「数学の原理」の下巻発行をも放棄せざるを得なくなっている。
ヨーロッパで夏に行われたロシア社会民主労働党の党大会で、中心人物であるウリヤーノフとマルトフが党綱領をめぐって対立している。レーニンことウラジミール・イリイッチ・ウリヤーノフ(33歳)は、自派が多数であるという主旨から、ボルシェビキ(多数派)を名乗り、一方のマルトフ勢は少数派・メンシェビキとなり、ロシアの社会主義運動は分裂の様相を呈している。
ロシアにおける社会主義運動は、ナロードキの流れから、プレハーノフを通じて19世紀から興隆したが、資本主義の地盤が生育していないロシアは、ヨーロッパの社会主義とは異なった経緯をたどっている。最初にマルクス主義をロシアに持ち込んだ、ゲオルギ・V・プレハーノフ(47歳)は、専制国家かつ農業国であるロシアにおいては、まず資本主義へ移行し、労働者階級を生み出す必要を説いた。そして1883年、労働開放団を組織し、後進国ロシアにフランス大革命のようなブルジョア革命が起こせない以上、労働者による革命の党が必要であり、またその党は、あくまでも労働者による革命党であらねばならないとした。何故なら、従来のロシアの革命思想は、インテリゲンチャによるものであり、それは少数のエリートによる独裁へと傾く事をプレハーノフは懸念した。
1890年代に入ると、ロシアにも工業化が押し進み、労働者が増加しはじめた。1891年には初のメーデーが催され、ストライキが頻繁に行われだした。そうした状況下、マルクス主義はしだいに浸透していったが、労働者や農民のインテリゲンチャに対する不信感は、過去の革命の失敗から、拭い切れなかった。しかし1898年、ロシアの主な組織を統括したロシア社会民主労働党が創設され、あくまでもインテリゲンチャ主導の必要性が説かれた。ヨーロッパの亡命家やプレハーノフをも含めたロシア社会民主労働党は、第一回党大会を開催したが、すぐさま検挙され、党は一瞬にして消え去った。ロシアの革命運動は混迷に入った。その中で流刑地から開放されたレーニンは、マルトフと共に1900年、党機関紙「イスクラ」を発刊。レーニンはロシアの社会主義運動について、まず政府を打倒する革命党を確立すること。革命はもはやブルジョアや労働者階級が担えるものではなく、革命を職業とする革命家が必要であること。そして革命家による党は、完全に組織的である必要性を「イスクラ」を通じて唱えた。レーニンによれば、ヨーロッパの漸進的な社会主義運動には期待できず、社会主義を実現させるためには、労働者や農民をインテリによって支配する、中央集権的な党を確立する事が先決である。また革命を職業とする革命家は、マルクス主義による成長を遂げなければならない。そうしたレーニンの中央集権主義とラジカリズムには、他の穏健な社会主義者から批判の声があがった。1903年7月、ブリュッセルで開催された第二回党大会は、8月にロンドンで閉会するまでに、ロシア社会民主労働党を事実上、分裂させた。大会はレーニンの革命家主導の党組織論が批判の的となった。元来は労働者による自発的な革命がマルクス主義の上でも必然であり、レーニンのエリート主義的な革命論は、強引かつ危険であると、古い革命家たちには映った。更に初期からの共同者であるマルトフとも党綱領をめぐり対立。マルトフは党綱領への賛意と党経費の支払があれば党員であると見なしたのに対して、レーニンは党の統制に絶対的に服従する革命家だけが党員であるとした。閉会後、レーニンは忠実なメンバーを集結し、ボルシェビキ(多数派)を自ら名乗り、一方マルトフを中心とするメンバーは少数派・メンシェビキとして分裂する事態となった。多数派を名乗るレーニンだが、実際は党においてレーニン派は少数である。