ラザフォード「放射性崩壊説」
イギリスの物理学者アーネスト・ラザフォード(31歳)と化学者フレデリック・ソディ(25歳)は、放射性物質トリウムの研究から、放射性元素が放射線を放出することにより、他の元素に変ることを発見し、放射線崩壊説を提唱した。1896年、レントゲンによりX線が発見されて以来、フランスのA.H.ベクレルは、ウラン化合物が放射線を出す事を発見。その放射線はウラン原子自体のものである事をキュリー夫妻は研究し、1898年、放射性元素ラジウム・ボロニウムを発見。同年、ラザフォードは、ウランの放射線にX線のα線・β線がある事を発見した。ラザフォードは更に、化学者ソディの協力により、トリウムが放射線を放出した結果、他の元素に変換される事を発見、1902年、放射性変換説として発表した。ラザフォードとソディの発見は、放射性元素が放射線を出す事により、もとの元素が崩壊する事から、放射性崩壊説とも言われる。
メリエス「月世界旅行」
Le Voyage Dans La Luneフランスの映画作者ジョルジュ・メリエスは、昨年の「不可能な世界への旅」に続き、「月世界旅行」を制作、面白くまた斬新な映画である。メリエスの作品はストーリーに富んでおり、今作は6人の科学者がカプセルに乗り込み、砲弾によって月へと飛んでゆく。月面に到着した科学者たちは、月星人に遭遇し囚われの身となるが、何んとか撃退し、地球へ帰還してくる。
作家ジュール・ベルヌの「月世界旅行」を映像にしたメリエスの手腕は高いものであり、立体的な背景画と実物を重ねあわせた映像や、光や煙を駆使した効果は、驚きを与える。これらの撮影セットや衣装はメリエス自身が手がけており、また振り付けそして脚本も彼自身による。前作にも使われていたイメージだが、人間の相貌を持つ月面は印象的である。
「名誉ある孤立」を堅持してきた大英帝国は、アフリカ植民地政策および極東問題から、ドイツとの同盟を交渉し続けてきたが、難航のすえ、先がけて日本との同盟に踏みきった。
1880年代から加熱してきたヨーロッパ列強のアフリカ植民地政策は、各国に複雑な外交関係をもたらしてきた。1897年に起こったファショダ事件(ナイル川上流のファショダにおいて、イギリスとフランスとの間で、領土獲得を争っていたが、フランス国内がドレーフェス事件で揺らいだため、イギリスが領土を取得した)において、大英帝国はナイル川沿いの北アフリカを占拠。また1898年に勃発したボーア戦争(ボーア人によって独立していた南アフリカのトランスヴァル共和国とオレンジ自由国において、入植者イギリス人の選挙権獲得をめぐり戦争にまで発展。1900年にイギリスが決定的勝利を収める)によって、イギリスは南アフリカを獲得し、北はナイルから南はケープタウンまでの連続した領土を保有し、最大規模の帝国イギリスは築き上げている。しかし、ボーア戦争においては、世界最強と謳われるイギリス軍に影りがうかがわれ、ましてやドイツを筆頭に強大化してきたヨーロッパ各国の軍隊、そして新興国アメリカへの接近に失敗した事を鑑みれば、大英帝国の「名誉ある孤立」も危うい状況である。一方、極東においては、1900年の義和団事件をきっかけに、ロシアが満州へ侵攻。すでにロシアは、フランスとの間に同盟が結ばれており、イギリスにとって、そして日本にとっても、極東の情勢は脅威であった。イギリスはこの極東問題により、ドイツに接近し、1900年に協定を結んではいたが、根本的にドイツにとって満州に利害関係はなく、逆に日本は積極的にこの協定に加盟。日英独の同盟への発展をもくろんでいた。日英独による同盟締結の交渉は昨年まで続いたが、ドイツ側の消極的な態度により、日本との交渉が進展。1902年、2月11日、ロンドンで日英同盟は調印され、「名誉ある孤立」は、極東の途上国、日本との同盟により終わりを告げた。4月にはロシアが満州から撤退し、義和団事件の議定書にもとづき、日本が満州での利権につき追加交渉を始めている。
ジイド「背徳者」
「地の糧」「パリュード」などの作品で知られるフランスの作家、アンドレイ・ジイド(33歳9は、新作「背徳者」を発表した。ジイド自身のアフリカ旅行での経験をモチーフとしたこの作品は、友人への告白から物語は始まる。主人公のシャルルは、療養をかねた新婚旅行でアフリカを訪れた際、古典学者である自分の陰鬱で観念的な世界から、健全で肉体的な世界を見いだして、パリでの仕事へと戻る。しかし、アフリカの太陽への憧れから、結核を病む妻を連れ、アフリカを訪れるが、昔日の想いは消え失せ、一人の青年と一夜を過ごしている間、妻が病死してしまう。肉体と聖徳の対置はニーチェの影響がみられ、また同性愛への示唆をかもしだしている。
ジャリ「超男性」
フランスの奇才な作家アルフレッド・ジャリ(29歳)は、新作「超男性、現在小説」を発表。彼の様々な奇行・偏愛そしてナルシズムが盛り込まれている。主人公マルクイユは不具者でありながら、性能力の無限を実証すべく、1万マイルの自転車と列車の競争にのぞみ、勝利を収める。また今度は24時間の性交回数の記録にのぞみ、82回を樹立するが、相手のヘレンを死なせてしまい、その時はじめて女への愛を見だす。しかし超男性となったマルクイユは実験の名のもとに電気椅子で処刑される。「超男性」は、愛の機械となり、人間を、男性を超越してしまうのだが、機械を扱うべき人間が、逆に機械にやられてしまう。現代の機械文明と人間の闘い、そして人間の機械化をとらえたこの作品は、ジャリ自身の鏡であるといえよう。
ゴーリキ「どん底」
チェーホフの薦めで戯作に着手したマクシム・ゴーリキ(34歳)は、「どん底」を発表、チェーホフの作品に引けをとらない作品である。舞台は極貧を強いられたどん底の人々の生活から、絶望と希望、歌と愛、陰謀と殺人、さまざまな要素と、その人間模様が繰り広げられる。「どん底」は、チェーホフのインテリ層に比べて、最下層つまり庶民生活を題材にしており、彼自身が極貧の生い立ちを送ってきたことが作品に現実味を与えている。ロシア文学史上、この「どん底」は、チェーホフの最近の作品同様、陰鬱なロシア社会にほのかな光を与えている。
精神医学界の権威オイゲン・ブロイラーの弟子である、スイス・チューリッヒ州立大学病院の精神科医カール・グスタフ・ユング(27歳)は、オカルト現象について医学的に分析した「オカルト現象の心理学と病理学」の論文を発表した。
C.G.ユングの知人の少女が霊媒能力があつろいう事で、1899年から2年にわたり行われた降霊会の報告書を基盤とし、霊媒というオカルト現象の分析を試みた。少女は暗示によるん入眠からトランス状態に入った後、意識の規制がやわらぎ、さまざまな人格(過去の霊)が表出する。それはゲーテの恋人であったり、中世の魔女であったり、更にさかのぼって、皇帝ネロの犠牲者、ダビデ王の愛人イヴネスなどと変遷をたどる。無意識においては、ある種の親近性によって多くの人格が形成されており、またそこに存在する人格のあり方あるいはその表出・象徴といったものは普遍的であるとユングは考える。個々の人格(人物)については、彼女の知識・経験に委ねられるだろうが、無意識の人格形成では普遍的な現象であり、多様性をもつ。彼女の場合は、元来ヒステリー性で、思春期に入り幻覚を伴う気質を有していた。降霊会や暗示による催眠状態においては、外界の刺激に対する意識への注意は散漫になり、その注意は、無意識の人格へとジャンプし、霊媒現象を引き起こす。また思春期で不安定な精神状態の彼女にあっては、フロイトの「夢判断」を介して言うと、性的な意味を帯びており、実際、成人になるにつれ、彼女の霊媒能力は失われていった。本論は無意識のメカニズムの解明を試みているが、同じく反響を呼んでいるフロイトの「夢判断」の影響はあまり見られない。むしろユングの無意識の世界は、ある種普遍的で、グノーシス的でさえある。
作家H・ジェイムスの兄、ハーバード大学・哲学教授のウィリアム・ジェイムス(60歳)が、エジンバラ大学の招待により1901−03年に開いたギフォード講義をまとめた「宗教的経験の諸相」が出版され、ベルグソンをはじめヨーロッパ各国で賞賛をあびている。ジェイムスは元来、心理学野専門で、1890年には大著「心理学野原理」を刊行しており、心理学者としての地位を
確固としていたが、その後哲学へ接近し、その結実として本著の成立にいたった。
冒頭で、宗教的経験は異常心理の1形態として位置づけているが、それは消極的意味ではなく、孤独名個人が神的な存在との関係からなる感情・経験・行為
が宗教であるとし、教会制度としての宗教は、論究の対象外とする。また、宗教を健全な魂の宗教と病める魂の宗教に大別し、前者は楽観的な背改像から自己超克をなす宗教観をなし、後者は反対に、世界を悲観的に捉え、慰めそして救いの信仰を基盤としている。
ジェイムスは病める魂の宗教を本線とし、病める魂が宗教的経験によって生まれ変わり、健全な魂に新生すること。そして、それがあくまでも個人的経験による自己超克であることえを強調する。その展開として、回心について、フロイトの言及する無意識に蓄積された心的エネルギーが意識化され、しれが啓示という様相を帯びる。人間のこの心的エネルイーの移動(意志化)が回心であり、その個人的経験の差異がさまざまな人間を形成する。いわゆる神秘主義についても、非科学的とされるが、この心的エネルギーの意識への流入による高揚体験であると解釈する。ジェイムスが1897年に唱えたプラグマティズムは、具体的な事実から学問を構築しようとするものであるが、本論はまさしく、個人における宗教的経験を具体的事実として扱い、記述する。このプラグマティズムの手法から総括して、宗教的経験は科学的・実証主義や観念論では説明不可能であり、仮説として無意識のエネルギーによる解釈を試みている。無意識の世界に心的存在を想定した上で、信仰とは意識から無意識へ向かう心性であり、逆に無意識から意識へのエネルギーの流入が啓示であり、それが喜びやより高きものへと合一する特異な心理が、宗教的経験であると解く。それは無意識に源泉をもつものであり故に、宗教は永遠に存在することをジェイムスは結びとしている。
フランスの権威ある数学者そして物理学者であり、また天体学者でもある、アンリ・ポアンカレ(47歳)は、数学・物理学の認識論を論究した「科学と仮説」を刊行した。科学の基礎である数学において、その体系また原理を構築する公理は、証明を要しない自明の上に成り立っている。しかしポアンカレは、この
公理といったものを単んい仮説にすぎないと主張する。
数学の証明において、数量nで成立する理論があった場合、n+1の証明が成立すれば、証明は成立することとなる。つまり、n+1というのは無限を意味しており、数学は無限を含まなければ証明したことにはならない。しかし無限というものは、確かめられるものではなく、そこに仮説の存在を指摘する。
幾何学においても、例えば「2つの平行線は決して交わらない」というユークリッドの公理について、19世紀前半、ロバチェフスキーらの非ユークリッド幾何学で、曲面の上では平行線は交わることが明らかにされ、数学の原典であるユークリッド幾何学がくつがえされた。非ユークリッド幾何学が「曲面上」という前提に立っているように、ユークリッド幾何学も証明できない、また経験できない仮説の上に成り立っている。ポアンカレの検証は更に物理学へと進み、ニュートン力学の絶対空間・絶対時間の存在を否定する。物体の力や速度は、物体間の相対的位置に依存するものであり、力学理論野証明が実験から引き出される以上、それは経験から導き出された法則に過ぎず、証明を要しない絶対的な原理は存在しないと解く。総括としてポアンカレは、原理は規約であり、装飾をつけた定義であり、あらゆる理論の一般化は、一つの仮説であり、検証を要することを本著で述べている。また本著においては、今日の科学全般を多岐に渡って触れ、解釈を盛り込んでおり、特に物理学の成果は確立論に依拠していること、つまり確からしさしか知り得ないこと、そして今日的課題であるエーテルの存在に否定の意を露にしていることが注目される。