ド・フリース「突然変異論」
オランダのド・フリースは、昨年の「メンデルの法則」の再発見に続き、「突然変異論」を刊行した。ド・フリースは遺伝の研究から、マツヨイグサの群生に着目し、三倍株と四倍株の相違は、突然変異によるものと解明した。
生物の形態は、遺伝物質によって決定されるが、そこに不連続な変異が生じた場合、新しい種が発生する。つまり進化が起こると、ド・フリースは考える。ただし、突然変異は、単に環境による一時的な変異、あるいは、交雑や組替えによる変異は除外され、あくまでも遺伝を担う遺伝物質そのものの変異によるものである事に限定している。
リアプノフの定理
ド・モラブル、ラプラスによって知られていた「中心極限定理」を、ロシアのリアプノフが定理化した。中心極限定理は統計上、ある確立分布を有する母集団から抽出した標本があった場合、この標本の標本平均の分布は、抽出された標本が大きいほど、正規分布に近づき、その極限においては正規分布するという事象である。
アレキサンドル・ミハイロビッチ・リアプノフ(44歳)は、この中心極限定理を「リアプノフの定理」として定理化し、A・A・マルコフらとともに、ロシア数学界と確立論に貢献を果たしている。
「三人姉妹」
アントン・チェーホフ(41歳)が新作之戯曲「三人姉妹」を執筆、1月からロシアの芸術座で初演されている。「イワーノフ」「かもめ」「ヴァーニャ伯父」に続く4作目の戯曲となる「三人姉妹」は、今までの陰鬱な雰囲気よりは明るい、希望をいだかせる作品であり、実際、執筆当初、今作は喜劇であることを、スタニスラフスキー(38歳)に述べている。演出にあたるスタニスラフスキーは、この上演が初の一人仕事となる。
物語は、地方貴族ブローゾロフ一家の三人姉妹を中心に軍人やインテリゲンチャの俗物的な生活、そして没落する中産階級の俗物な人間像を、長女オーリガの人格崩壊を通して描いている。登場人物が多い事もあり、チェーホフはこの作品の執筆に苦労を費やしたらしく、書き上げたのが、初演前日の直前であったという。
「ブッデンブローク家の人々」
ドイツんp新鋭作家トーマス・マン(26歳)の長編小説「ブッデンブローク家の人々」の初版千部が完売となった。トーマス・マンの故郷、北ドイツのリュービクを舞台とするこの物語は、四代にわたるブッデンブローク家商会の栄枯盛衰、そして家族の肖像を描いており、それは彼自身の家族の歴史でもある。
前世紀ドイツにおいて、大商会ブッデンブローク家のの名誉と地位を維持すべく、様々な人間模様、人生のテーマが盛り込まれているが、物語の骨子となる三代目トーマス・ブッデンブロークでは、ショッペンハウアーの思想が折り込まれている。前世紀からヨーロッパを覆うデカダンスの色調を帯びながらも、ショッペンハウアーやニーチェの深遠な生への信望が、この作品に影響を及ぼしている。
USスチール社
「製鉄王」と呼ばれるアンドリュー・カーネギー(66歳)の鉄鋼会社、カーネギー製鉄会社が、金融界の名門J・P・モルガン率いるフェデラル・スチール社と合併し、USスチール社が設立されることになった。カーネギーは、ピッツバーグで製鉄所を創設して以来、鉄道ブームに乗り、レールの生産をはじめとする製鉄業で、カーネギー社を米国最高のトップ企業にのし上げた。
一方、J・P・モルガンは、いまやロス・チャイルド家をしのぐ米国トップの金融業者で、鉄道敷設をはじめ多方面に経営を展開している。今回の合併は、1899年にモルガンが設立したフェデラル社と、カーネギー社の競争激化が予想されたので、双方の話し合いで、カーネギー社を譲渡する運びとなった。
USスチール社は、これで米国鉄鋼生産の7割を占め、また資本金が初めて10億ドルを超える最大の企業となった。カーネギーは今後、業界から引退し、カーネギー財団を設立、自らの資産を、学芸・公共事業の振興に寄与した。
ルーズベルト大統領就任
第二期政権に着任した共和党のマッキンリー大統領は、9月6日、バッファロー市の汎アメリカ博覧会で、無政府主義者に狙撃され、14日息を引きとった。翌15日、「テディ」の愛称で親しまれている副大統領セオドア・ルーズベルトが、史上最年少の34歳で、第26代合衆国大統領に就任した。
オランダ系のニューヨーク出身のルーズベルトは、ハーバード大学卒業後、西部で牧場を経営、その後ニューヨーク州下院議員、同市警察部長などを歴任し、ニューヨーク州知事時代には、政治腐敗を叩き、急進的な行動が敬遠され、地味な副大統領の位置に押し上げられた。しかし、ルーズベルトの博識、そしてスポーツマンらしい男性的な魅力は人々に好感を与え、人気を博している。
民主党の反帝国主義に対し、帝国市議政策を推し進めてきた共和党だが、年末にはルーズベルトは、反トラスト問題の政策を一般教書で発表する。
ガルニエ「工業都市」
フランスの建築家トニー・ガルニエが、ローマで「工業都市」計画をフランスアカデミーに提出したが、却下された。「工業都市」案は、近年の都市への人工集中と、それに伴う労働を含む環境の悪化を打開する都市理論である。すでに1898年、イギリスのエベネザー・ハワードが「明日−真の革命にいたる平和の道」のなかで、田園都市論を提案しており、都市と田園を分かち、その間に田園都市を設け、両者の機能を持たせるものであった。
ガルニエの「工業都市」論は、都市の機能を地域的に分割・配置し、そこから最大の効率と快適性をもたらそうとするもので、公共市区と住居地区に分かたれる。ガルニエの特徴は、社会主義的基盤に立ち、土地や建物は自治体が所有し、シンプルな住居が建ち並ぶ住居地区へは、工業・交通の侵入を制限している。
ガルニエはこの計画を、南フランスのリヨン近郊に想定しており、提出案は図書館の整理カードの配置にいたるまで、非常に細かく綿密に計画が施されていた。
ダルムシュタット芸術村
ウィーンでクリムトを中心に集結したゼ・ツェッションのグループは、フランクフルト近郊のダルムシュタットに芸術家村を計画している。ゼ・ツェッションのメンバーである建築家ヨゼヒウ・マリア・オルブリッヒ(34歳)とヨゼフ・ホフマン(31歳)は、1899年ヘッセンのルードヴィッヒ大公の招きを受け、ダルムシュタット村のマチルデの丘に、住居・展示館・スタジオからなる芸術家村を計画し、設計をはじめた。
1901年には、9軒の住居をはじめ、ルードヴィッヒ館を完成。直線的で平面な壁、部分的な装飾は、アール・ヌーボーの影響が見られ、他に結婚記念塔・展示会場からなる芸術家村は構成されている。マッキントシュのデザイン書も、この芸術家村から出版されている。
ロシアの哲学者レオ・シェストフ(35歳)は、「ドストエフスキーとニーチェ」を刊行した。カントから流れをくむ理性に背を向け、実証主義を」基盤とする科学をも信ぜず、ヨーロッパ的良心、そして道徳からも突き放された絶望と虚無の中にあって、果たしてそこに哲学は存在し得るのか。希望は存在し得るのか?シェストフは、ドストエフスキーとニーチェという前世紀の哲人のなかに存在基盤を喪失した人間の「悲劇の哲学」を解読する。
ドストエフスキーは、19世紀のロシアの動乱のなかで死刑囚として投獄され、真に絶望の渕に立たされた人間であった。釈放後の作品「死の家の記録」は、絶望した人間を克明に描き、かつて彼が抱いていた理想主義は葬り去られていた。以後、彼の作品群は更に絶望した人間の内面を深く突き詰めてゆく。同時代の作家トルストイも、絶望のロシアにあって、人間の存在を突き詰めていったが、最後の一歩を踏み留まった。しかし、ドストエフスキーはその一歩を踏みだし、「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」のなかで、精神の極限の風景を描き出した。
シェストフは、この悲劇の哲学者ドストエフスキーのあとに、狂気の哲学者ニーチェを後継者と見なす。ニーチェもドスチエフスキーと同じく、かつてはワーグナー、そしてショペンハウワーという信望すべきものがあった。しかし彼を見舞ったツァラトゥストラの啓示は、キリストも科学も理性をも、虚無の世界へいざなった。ツァラトゥストラは一切の価値を否定すると同時に、自らが価値を創造する−ことによって、絶望のなかに希望を見いだそうとする。だが、ニーチェが最後に行き着いた「永劫回帰」とは、はたして絶望から這い出る思想であるのか−その答えは明瞭ではない。つまり、悲劇の哲学は存在し得るのか−というシェストフのテーゼは、ドストエフスキーとニーチェにおいては見いだしていない。またシェストフ自身も、答えは不問に臥している。ただドストエフスキーとニーチェという、絶望を徘徊した両者を接近させたのが、本著の成し遂げたことであろう。
ピカソ「青い女」
バルセロナの新鋭画家パブロ・ルイス・ピカソ(19歳)が、パリで初の個展を開いた。6月
14日からラフィット街のヴォナール画廊で無名画家イトィリーノと共同で開催された。ピカソは「青い女」「鳩をもった子供」を含む75点を出展している。
バルセロナ出身のピカソは、昨年のパリ万博で初めてパリを訪れ、今度で2回目のパリ滞在となる訳だが、実生活の貧困からか、彼の作品には青を基調とした暗いイメージが見受けられる。
現在19歳のピカソは、最も有望な画家であり、故郷バルセロナでも個展を開いていたが、今回のパリの個展では、評判は芳しくなかった。しかし、武術評論家フェリシアン・フィギュは、彼を高く評価し、また詩人マックス・ヤコブも彼に才能を見いだし、ピカソと交友を結ぶことになった。ピカソはいま、前衛画家が集結しているモンマルトルに活動の場を移している。
ダンカン
アメリカのダンサー、イサドラ・ダンカン(23歳)がヨーロッパを拠点に成功を収めている。彼女の踊りは、プリマドンナとしてのコルセットとトゥ・シューズを捨て去り、裸足で7枚のヴェールをひらめかし、脱ぎ捨てるスタイルで、更にステップやポジションを使用しないのを、その特徴としている。
彼女自身ニーチェをを崇拝しており、母親の演奏するモーツァルト・ベートーベン・ショパンのピアノ曲にあわせ、自由に舞い踊る彼女のディオニソス的舞踏が、ヨーロッパ貴族たちに受けている。
ダンカンは、アメリカ・サンフランシスコ出身で、17歳の時、初舞台を踏んだ後、シカゴに拠点を移したが、文化的土壌の低かったシカゴでは不成功に終わり、1899年イギリスに渡ってきた。ロンドンとパリで踊っている間、ルーブルで古典ギリシャのコスチュームを研究する一方、昨年からパリのフリーダンスの元祖フランソワ・デルサーテのもとで、フリーダンスを学んでいる。
ダンカンは、ロンドン・パリを中心に、ブダペスト・ベルリン・フィレンツェとヨーロッパ各国を巡り、名声を高めつつある。
昨年「夢判断」を発表したフロイト(45歳)は、続いて「日常生活の精神病理学」を刊行した。この著の主旨は、日常生活にみられる、度忘れ・言う違い・為損い・思い違い、を精神分析から解釈する試みである。通常、上記現象は、偶然や外的な些細な要因で済まされてします。しかし、精神分析からみた場合、決して偶然などで片付けられるものではなく、どの現象にも無意識の動機が存在しており、そのメカニズムは神経症患者らの症状のメカニズムと同一で、故に、境界線というものが曖昧になる。
フロイトは個々の現象について解明をおこなう。第一に「度忘れ」についてだが、通常、名前や名詞の度忘れは、時間の経過が原因と考えられる。しかし、最近の記憶なのに思い出せない場合、フロイトは思い出せないのではなく、思い出したくない、思い出させない、と考える。不快な感情や欲望(フロイトの幼時性欲)が、無意識内で思い出したい記憶を妨害し、場合によっては、他の名前と置き換えたりする。
第二に「言い違い」については、フロイト以前に、音の高さや速さ、あるいは注意力の低下が要因としえあげられている。あるAという言葉を間違えてBと言ってしまった。フロイトはここにも無意識に、言いたい事を妨害する抑圧された動機の存在をみる。読み違い、書き間違いも同じメカニズムの所産である。
第三に「為損い」についてだが、まず「計画の度忘れ」がある。計画とは実行するまで眠り、実行される時に目覚める。この計画を度忘れするのは、ある強制状況下における反対意志の表れであり、卑近な例で言うと、デートの度忘れが挙げられよう。錯った結果、目的を果たせない場合を「為損い」と言う。フロイトはそこにも無意識の欲望をみいだし、されが積極的な場合、失敗という形をとり、偶然を装ったりする。極論には、破壊・自殺という行動をともなう。つまり、無意識に失敗を犯す事によって、無意識の欲望を充足するメカニズムをフロイトは説く。
第四に「思い違い」という現象について、誤りをそのまま信じてしまう事と定義して、その誤りが客観的な判断に委ねられる場合に限り、「思い違い」であるとする。フロイト自身、「夢判断」のなかで、多くの思い違いを他人から指摘されており、そこから学問一般にも、無意識の思い違いがあることを指摘する。思い違いも、内的な必然性(不快な動機)によって成立している訳だが、「迷信」は内的必然性を無視して、外的な偶然の出来事に必然的な意味づけを行おうとする。
総じて、我々の心的機能のある種の低下と、その偶然に見えるある変化は動機があり、それは意識下の動機である。この意識下の動機をこくふくするには、反対意図で抗ずるのは不可で、意識化する心理的策略が必要である。
新聞というものが登場したのは遡れば、16〜17鋭気世紀に及ぶが、市民が容易に読めるようになったのは、フランスでは1830年代からで、イギリスでも同様で1896年にデイリーメイル紙が半ペニーで販売されたのは画期的であった。
フランスの社会学者、ガブリエル・タルド(58歳)は、著作「世論と群衆」で、新聞が市民に与える影響を、公衆という位置づけで問うている。タルドは公衆について、実践的に人間の肉体が集まっている群衆とは切り分け、精神と精神が結びついた集合、とりわけ新聞による人々の精神や生活の結びつきに、公衆を意味づける。そして今日における新聞の影響力を鑑み、新聞による公衆は、世論に決定的な影響を及ぼしている事を説く。世論とは、人々の日常時における判断の総体と定義した上で、新聞はその判断を左右する力を、公衆に対して持つ。世論はデモクラシー社会のなかでは、政治的な力を有しており、新聞は政治に対しても数の力を有する事になる。
しかし、世論はもともと人々の会話から生まれるものであり、会話こそ継続的で、普遍的なものであることを、社会学者たちは軽視してきた。会話は文字と同じように、最初は高貴な少数者の所有であったが、時を経て、庶民も所有するに至る一般化の歴史を有している。現在においては、世俗的な会話のなかに権力があり、会話は新聞のなかにあるのである。
ガブリエル・タルドは昨年、コレージュ・ド・フランスの講師になったばかりであるが、それまで法務省の犯罪統計局に所属しており、本著の最終章は、犯罪と群衆にあてられている。「世論と群衆」は体系だった著作ではないために批判も多く、タルド自身がパスカルの如く分裂的である。新聞による公衆への着目は、本著が貢献したと言えるが、その底流には、民衆を盲目的に見てとる貴族主義がうかがわれる。ただ、それもタルドが生きてきた19世紀は、扇動の時代であり、そういう意味では、社会学者タルドは、もはやフランス社会学を色どるデュルケムの影に隠れてしまうかもしれない。
20世紀の幕開けは7つの海を制する大英帝国の女王ヴィクトリア(81歳)の逝去でむかえた。1901年1月22日のことである。
いまや大英帝国は地上の4分の1を領地として保有し、それを守護する海軍は追随を許さない力を誇り、18世紀に始まった産業革命は工業力を世界最大とし、世界を巡る金融はロンドンを中心に回った。まさに大英帝国は世界の覇権を握っていた。
この大国の女王として君臨していたヴィクトリアは、1897年に即位60周年を迎えたばかりだった。1837年、18歳の若さで女王に即位したウィンザー家のヴォクトリアは、63年もの間、幸福と繁栄に恵まれた輝かしき時代に君臨し続けた。それはエリザベス女王の時代に勝るものだろう。危機的な戦争や内乱はなく、既に整っていた立憲君主制は更に確かなものになり、また二大政党による議会政治が確立したのもヴィクトリア朝の産物である。彼女の時代に輩出された文人は夥しく、治世の後半は、帝国主義を拡大するなか、非同盟政策による「光栄なる孤立」は、大英帝国の強さを示すものであり、その道徳適啓蒙を導いたのは、詩人キップリングであった。
ヴィクトリアの死は確かに1つの時代の終わりである。しかし、それは新しい世紀の始まりでもあり、それが大英帝国にとって意味するところは、決してもはや輝かしきものとは言えないだろう。いみじくもキップリングが詩った「白人の重荷は、王位継承者エドワード7世に重くのしかかってくることだろう。
皇太子エドワード7世は、8月11日に王位についた。彼は先王の治世が長かった為、既に60歳になっている。プリンス・オブ・ウェールズの地位にあった頃は、放蕩者として見られていたが、実はその放蕩が彼をヨーロッパ事情通にして、フランス社交界の親睦を深めさせた。
列強による植民地政策の軋轢のなか、ヨーロッパ各国は互いに脅威を感じており、特にウィルヘルム2世の対ドイツ政策が問題である。勢力を増してきたドイツ帝国に対して、イギリスは再三、同盟締結を求めたが、ウィルヘルムのエドワード嫌いもあり成立できず、フランスとの同盟が天秤にかけられている。
God save our gracious queen
Long live our noble queen
God save the queen
Send her victorious
Happy and glorious
Long to reign over us
God save the queen