清国で秘密結社「義和団」が反乱を起こし、北京にとり残された外国人を救済するため、列強8国の軍隊が派遣されている。日清戦争(1897−95年)の敗北により、「眠れる獅子」の脆弱を更に露呈して以降、列強は単なる貿易の利潤追求には飽き足らず、資本投下地として利権獲得に奔走、清は帝国主義のもと分割の危機に瀕している。
工程である光緒帝と、実権を握っている西太后は、この事態に手をこまねいていたが、積極的な行動に移ることはなかった。その中で、康有為(42歳)は、これまでの洋務運動(西洋の科学・技術のみを取り込んだ近代化)では飽き足らず、政治制度をも西洋化しようと、1898年新しい政府を起こしたが、結局、西太后のクーデターに阻止された。また、西洋式技術・生産の導入により失業者が膨大に増え、更に97年から続く天災もあいまって、西洋人への恨しみや憎悪が募っていった。
山東から直轄にかけての運河一帯では、義和拳教と呼ばれる秘密結社があり、蔵王題する失業者を吸収して、「扶清滅洋」のスローガンのもと、1899年運河一帯に集結していた。義和拳教はもともと、緒八戒や光釣老祖、あるいは三国志の英雄などを神としてまつり、以前は「反清復明」をスローガンに掲げていたが、時局にあわせて「扶清滅洋」に変更した程度の結社である。
1900年6月。集結した義和団20万人は、直轄に入り、天津・北京へと入城していった。義和団は、外国人の建物や製品を破壊し、ドイツ人ケットラー殺害を初めとし、略奪を行った。北京には、公使館区域に約4000人、北堂には400人強の外国人が孤立し、更にこの暴動を静めるはずの西太后は、この反乱に便乗して6月21日、列強に宣戦布告を行った。
イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロシア・オーストリア・イタリア・日本の列強8国は、篭城している外国人を救済する部隊を組織し、北京へ送った。功名欲しさに足並みが揃わず、結局遅れること2ケ月、8月11日北京に入城し、外国人救済に成功した。西太后と光緒帝は西安に向け脱出を図ったが、時局からして和平を選択、全権大使として慶親王・李鴻章を送った。いづれにしろ、11ケ国相手の交渉は、膨大な賠償金が予想され、従来の外国への債務と合わせて、清国の敬愛は完全に破綻したと言えるだろう。
4月14日から11月11日の半年間にわたって、第5回パリ万博が催された。入場者数は500万人を越え、会場となったシャンゼリゼからセーヌ川西岸には、一日平均24万人が足を運んだ。今回の博覧会では実に多くの新しいものが出現したが、まず会場には3
.6キロにおよぶ木製ベルトによる動く歩道が設置され、1890年に発明されたエスカレータが初登場している。世界各国が設置している展示館では、X線写真・自動車・無線通信などが初めて庶民に披露され、驚きを与えた。またリュミエール社による初のトーキー映画「動く鉄道の光景U」が上映され、映像から音が流れでる最新技術をリュミエール兄弟は紹介した。
広大な会場には、月の世界を表現した幻想宮や電気宮、なかでも人気の高かった水の宮殿などが建設され、セーヌ川にはプティ・パレ、グラン・パレに通じるアレクサンドルV世橋が、この年完成している。
プティ・パレ、グラン・パレには、アール・ヌーボーが一部施されているが、ともかく今回の博覧会は、アール・ヌーボー一色と言っても過言ではない。アール・ヌーボーとは、読めば新しい芸術という意味だが、旧来の歴史主義的な芸術からの離脱をスローガンに、フランスではアール・ヌーボー、ドイツではユーゲント・シュテール、オーストリアではゼ・ツェッションと呼ばれている芸術思潮である。実際の表現上での特徴としては、植物を思わせる「ねじれ」を採りこんだ曲線ありは模様である。建築家エクトル・ギマール(33歳)は、今年開通した地下鉄「メトロ」の入口板に、鉄とガラスにねじれを加えたデザインを施している。
博覧会では他に、シャルル・ギロールの展示館やアルフォンヌ・ミュッシャのグラフィック・デザイン、ルネ・ラリクの宝石細工など、まさにアール・ヌーボー全盛を想わせる。
マルコーニ「国際海上通信会社」
1876年にベルがは詰めした電話機は急速に発展してゆき、いまや世界各国に通信網がはりめぐらされ、実用化されるに至った。しかし、電気による通話は有線であることが前提であり、世界にはりめぐらされた電信網は改良を施されても、通信をおこなう上で、ケーブルの存在が不可欠である。
ところが、イタリアのグリエルモ・マルコーニ(26歳)は1895年、若干21歳で、無線による通信を実現した。元来は遡ること1873年、物理学者マクスウェルの電磁気論に依拠している。マルコーニはKの電磁気論を利用して、初の無線通信に成功した訳だが、翌年1896年には、イギリスに渡り特許を取得、更に翌年、イタリアに戻り、マルコーニ無線会社を設立。1898年には英仏海峡の通信に成功して、1900年のこの年、国際海上通信会社を設立した。
ベルの電話発明にしろ、マルコーニの無線にしろ、確かに学術的・理論的な基盤がある訳だが、その延長線上の成果というより、技術革新による膨大な情報量が、両発明を促したと言えよう。
ホレリス「電気計数機」
アメリカの国勢調査局は、1900年の国勢調査に、タビュレーティング・マシン・カンパニー(TMC)の電気計数機を導入した。今回採用されたシステム派、ハーマン・ホレリスにより開発された、せん孔カードによる読み取り装置で、彼自身もとは調査局の一職員であった。
アメリカは10年に一度、国勢調査を行ってきたが、年々増えて行く膨大ナデータ量に手をこまねいていた。1890年の調査を前にして、ホレリスは上司の命令により、せん孔カードによる計数システムを開発。カードに穴が空いていれば電流が通りカウントアップ、空いてなければカウントしないという電気的な仕掛けである。1890年の国勢調査に導入されるや効果をあげ、その後(1896年)、ホレリスはTMCを創立、今回の国勢調査には、TMCからこのシステムが賃貸されることになった。
「シスター・キャリー」
アメリカの自然主義作家セオドア・ドライサー(29歳)は、小説「シスター・キャリー」を発表したが、初版の売れ行きは1000部にも満たなかった。出版自体、その内容の非道徳的描写から危ぶまれ、事実上、自主的な発禁状態である。
「シスター・キャリー」は、田舎育ちのキャリーが、二人の男を踏み台にして、大女優になってゆく長編小説であるが、その舞台となるシカゴ・ニューヨークは新興国アメリカの物質文明の反映が輝かしく描かれている。反面、その裏には貧しい人々や没落した人間が登場しており、その悲劇性はドライサー自身が貧しい生い立ちであった事に所以しているのだろう。
全般としてこの作品は、文体がずさんであり、特に突如、挿入されるキャリーへの作者の弁護的語りは致命的である。SHかし、それはドライサーの特徴であり、彼自身も意識している処もあって、やはりこの作品に盛り込まれた物質ぶんめのなかの人間像に注視すべきであろう。
オズの魔法使い
ニューヨーク州出身のライマン・フランク・バウム(44歳)が出版した子供向けの物語、「オズの魔法使い」が大ベストセラーになっている。竜巻で異郷の国へ連れ去られた少女ドロシーは、魔法使いオズの力で、故郷カンザスへ戻してもらおうと、エメラルドの都へ旅に出かける。道中、わらのかかし・ブリキのきこり・弱虫のライオンと巡り会い、一緒にエメラルドの国へ辿り着く。しかし、魔法使いは偽物で、物語は様々な展開を織りなしてゆく。結局、ドロシーは故郷に帰ることができたが、勇気・こころ・頭脳を魔法使いに求めたブリキのきこり達の言動は、我々人間の生活に、本質に肉迫してくる。
グリムやアンゼルセン等の童話に見られる寓話的要素は、「オズの魔法使い」では見られず、むしろアメリカ的な前進への意志、フロンティア精神がみてとれる。バウムは、この作品を創作する以前に2作ほど作品を発表しているが、それは数回の転職の末、生活の支から迫られた執筆で、今作の「オズの魔法使い」で大成功を収めた。
8月25日、10年余におよぶ狂気の末、ニーチェはこの世を去った。1898年から廃人と化したニーチェは、正気である間は結局、世に認められる事はなかった。1890年代にはいり、ニーチェの業績はしだいに受け入れられ、ニーチェ熱はいまや各国に高まりつつある。旧来の禁欲的な精神の思潮に反旗をひるがえし、肉体の優越を唱えた生への賞賛は、フランスの哲学者アンリ・ベルグソン(41歳)の新著「笑い」に受け継がれている。
コレージュ・ド・フランスの教授に就任したばかりのベルグソンは、前年に発表した「笑いに関する三論文」を小冊子にして刊行した。人間にとって笑いとは何であるか、人はなぜ笑うのか・・・・ベルグソンは笑いの意味の解明を試みた。
人が笑いを催すのは、旧来から様々な要因が挙げられていたが、ベルグソンは笑いの源泉として、人間の硬直した、あるいは機械的な所作・振舞いを矯正する、社会的意味をもつと唱える。特に日常正解の中にあって、こわばった人格を有する人間は笑いの的となる。つまり、殻に閉じこもった人間のぎこちなさ、奇妙な言動が笑いを催す。逆に、笑われる事は、当人にとっては一種の社会的制裁であると同時に、硬直した人格の解放の契機でもある。生の柔軟性を求めるベルグソンにとって笑いとは、生命の硬直そして衰退に対抗する社会的役割を帯びたものであり、生命とは繰り返しのできないもの、つまり機械的でない事が、本来あるべき姿であることを強調する。
また、ベルグソンは喜劇についても笑いの考察を展開し、喜劇がもつ庶民性は、社会的制裁を一般化したものであると説く。総括して笑いとは、生命の柔軟性の回復であり、反面それは社会的制裁の意義を持つ。この主張の背景には、現在、主流を占めている科学的実証主義のもつ物質優位の思潮に対するベルグソン、そしてニーチェの生への賞賛が通底している。同年出版のフロイトの「夢判断」は、精神医学の立場から近似的なアプローチを試みているのに対し、ドイツのフッサールはあくまでも論理の世界を突き詰めようとしている。
クリムト「天井画」/ロダン「地獄の門」/プッチーニ「トスカ」
クリムト「天井画」
ゼツェッション(分離派)の初代会長であるグスタフ・クリムト(38歳)は、ウィーン大学大講堂の天井画「哲学」のパネルを分離派展に出品し、論議を呼んでいる。1894年に文部省から「哲学」「法学」「医学」の題材で、天井画の依頼があり、最初に出来上がった「哲学」をパネル展示したところ、その性的表現に大学関係者・評論家から酷評され、逆にそれが賞賛の的とさえなっている。
ゼツェッションは建築家オットー・ワーグナーを中心に、1897年、ウィーンの新鋭作家が、ウィーンの閉塞した芸術的気運を打破すべく、芸術家協会の権威に対抗し、結成去れた(翌年、第1回分離派展開催)。1900年の分離派展では、デザイナーのマッキントシュの作品も出展され、ヨーロッパに紹介された。
ロダン「地獄の門」
1880年、セーヌ川沿いに装飾美術館の設立が計画され、入口扉の制作は、オーギュスト・ロダン(60歳)に委ねられた。しかし、依頼から3年を経ても、作品は未完のため、ロダンから引き渡されることなく、美術館設立の計画も破綻したため、ロダンのアトリエで、1900年「地獄の門」と名付けられた作品が公開された。
地獄の門は、ダンテの「神曲」地獄編をモチーフとしており、巨大な長方形の石板には、モチーフから引き出された人物像やアレゴリーが、およそ200の彫像にちりばめられる事になっているが、未完成である。ギリシャ古典からミケランジェロを研究してきたロダンにとって、この作品のモチーフは、ミケランジェロの対極を意図している。
プッチーニ「トスカ」
イタリア・オペラの巨匠、ジョコモ・プッチーニ(41歳)の新作「トスカ」が、ローマのコンスタンテッィ劇場で初演された。前作「ラ・ボエーム
(1896)」では、ヴェニズモ・オペラに質の高い音楽性を与えたが、「トスカ」は更にグランド・オペラの壮大さを加味した叙情的な作品に仕上がっている。ロマン主義的で大構成のグランド・オペラに体し、自然主義的な表現を求めるヴェニズモ・オペラは、その写実性から粗野で情熱的な趣向となるが、「トスカ」ではこの両面を持ち合わせ、洗練されている。
原作はヴィクトリアン・サルドゥの「ラ・トスカ」で、女性歌手トスカをめぐり、恋敵が政治的争いを巻き起こし、ついには主人公すべてが死に至るという、ヴェニズモ的内容となっている。第2幕「歌に生き、恋に生きる」、第3幕「星は光りぬ」は、メロディーの美しいアリアである。
プランク定数
ドイツの物理学者、マックス・プランク(40歳)は、黒体輻射(熱輻射)の問題を解き 明かした。熱輻射の研究は、熱したものの発色とその強さの分布を定式化する試みで、既にウィーンとレイリーが公式を提唱していたが、満足なものではなかった。プランクの新しい理論は、その定式化を単に成功しただけでなく、光は波であるという定説を打ち砕くものである。エネルギーつまり光は、無限に分割できる波ではなく、光の振動数に定数hを乗じた整数個分の集まりである−この定数hをプランク定数hと呼ぶが、ニュートン以来、光は連続したエネルギーと考えられていたが、プランクの発見は、光は非
連続な値でしか捉えられない事を明らかにした。
メンデルの法則
1865年にメンデル(1822−84)は、「植物雑種に関する研究」を発表したが、「メンデルの法則」と呼ばれる彼の業績は、生前、評価されなかった。1900年、ド・フリース、コレンツ、チェマルクは、それぞれ独自の研究から、メンデルの法則を紹介し、同時期に再発見された。
メンデルの遺伝に関する三原則は、その基盤となる「粒子説」が重要な意義をなしている。既存の遺伝理論である「融合説」は、体内の液状により遺伝が受け継がれ、以後それは変質しないのが定説であった。それに対してメンデルは、エレメント(要素)という粒子が遺伝情報を担い、分離可能な粒子は、三原則をもとに組み換えをおこない、次世代に受け継がれてゆく。この粒子説が、上記3人の研究上、メンデルの法則を再発見させるに至った。
パブロフの犬
ロシアのI・P・パブロフ(51歳)は、消化腺の分泌機制の研究を犬を用いて行なっていた。犬にエサを与えると唾液が分泌される。エサを与える直前に、メトロノーム音を聞かせると、最初は注意を払いエサにありつくが、その操作を繰り返すうちに、音は気にせずエサを食べる。つまり、唾液を分泌する。更に操作を繰り返すと、メトロノーム音をきいただけで、唾液を分泌するようになり、パブロフはこれを「条件反射」と名付けた。この研究成果は、大脳生理学への応用、つまり記憶学習の解明に一石を投じた。
数学から哲学、そして現象学へとフィールドを展開していたエドムント・フッサール(41歳)が、「論理学研究」を刊行した。この書は、題名が示すところの単なる論理学の研究ではない。この研究の目的は、学問一般、特に科学の基礎をなす数学、ないしは論理学の形式が、いかなる条件で成立しているかを根底から問い直すことにある。というのも、19世紀後半から数学は、いわゆる「数学の危機」に直面していた。1870年代に始まるカントールの「集合論」から、数学の厳密性にパラドックスが生じた。端的に言えば、「『全てのクレタ人はウソつきだ』とクレタ人が言った」に代表される様な、論理的なパラドックスが数学の存立を危ぶませた。カントールの後継者とでも言うべきヒルベルトは、1900年、パリ国際数学者会議において、「23の数学の問題」を提示、そのなかで、数学には矛盾が存在しない事の証明が要請された。
この状況下、フッサールは1891年に「数学の哲学」を発表しており、数学の基礎付けとして、「数える」という経験を心理学的に記述するアプローチを試みた。それは、数学とは客観的な」体系というよりは、むしろ人間の思考の産物であり、それを心の出来事として捉えてゆく、心理学主義の立場をとった。
しかし、新刊「論理学研究」においては、この心理学主義を批判する立場に転身し、数学を含む論理学そのものの厳密性の追究へ研究を推し進めた。
数学・論理学を成立させているイデア性は、単に心理学的な経験的事実から捉えられるものではなく、イデア性は存在するもの、あるいは、その「問い」自体を一旦保留し、意識そのものに注目する。フッサールは、イデア性が与えられる意識そのものを現象として捉える「現象学的方法」を導入し、ブレンターノが駆使していた「志向性」という概念を見いだす。「意識とは何ものかについての意識である」という意識の特性を「志向性」と呼ぶが、意識そのものから見た場合、この志向性により「意味」が産み出され、そのなかでイデア性が与えられてゆく。
この「論理学研究」は、詰まるところイデアの証明そのものというより、イデアの与えられ方の解明が主旨であり、数学・論理学、そして学問全般の基礎づけに現象学的方法を用いて、厳密性を求めたフッサールの新なる問いかけである。
精神分析という分野の存在は、まだ疑わしいものではある。44歳をむかえたフロイトは初の大著「夢判断」を出版した。精神医学者であるフロイトは、いわゆる精神病を物質的な原因によるものではなく、心的なものである事を主張してきた。医学という立場から見た場合、脳や身体の障害などの物的要因が精神の障害をひきおこすとされてきた。しかしフロイトは、心的要因が精神障害の原因であり、また、それは身体的障害をも逆にひきおこす事を解明した。
我々の心は、脳から産みだされた結果ではなくて、心そのものは実在し、そこには「無意識」という見えざる広大な海がある。「夢判断」は心の実在、そしてメカニズムを、単に精神病に適用させるだけでなく、夢という我々が日常で経験される領域でも解明しようとする著作である。
夢は支離滅裂で、その内容も忘れてしまうのがほとんどである。夢の内容は最近の出来事から、古き忘れていた記憶まで多岐にわたり、全く関係のない事柄が結びついていたりする。この不思議な夢の世界をフロイトは次のように解釈する。
夢は根本的に願望充足である。現実の世界で充たし得なかった願望、あるいは抑えつけられた欲望が、夢のなかで実現し、満足を促す。と同時に、日常の不満を夢で解消する事によって、人間に必要な睡眠を確保するという役割も担っている。但し、夢の内容は、端的に、日常の欲望を充たす訳ではない。
夢は直接的に欲望を充たす事はなく、歪曲したかたちで映像を繰り広げる。いま現在の欲望を、過去のある出来事と置き換えたり、ある人物に対する感情を、全く別人にすり替えたりする。故に、夢は支離滅裂となるのである。
更にフロイトは、夢の源泉に、幼児期の性的欲望(近親相姦)を置き、それは許されざるもの故に、無意識の世界に葬り去られるとする。無意識にうごめく抑圧された欲望は、「超自我」と呼ばれる検閲機構で歪曲を受け、夢となって実現される。
フロイトの夢解釈−「夢は幼児期の性的な願望充足である。」という事は、医学の立場から、あるいは心理学の見識からでも受け入れがたいものである。この大著に列挙された膨大な事例解釈は、あらゆる非難に対するフロイトの辛苦をうかがわせる。
2月18日、イギリスでマクドナルド(1866-1939) が労働代表者委員会を結成した。ヴィクトリア女王率いる大英帝国は地球の約4分の1を植民地として有しており、世界の覇権を陸海ともに征していた。ヨーロッパ列強は、世界の陸地を分轄せんと帝国主義政策に凌ぎを削り、資本主義はそのスピードを益々、加速していった。
この状況下、過酷な生活を強いられていた労働者階級は、1840年代から労働条件の改善・賃金引き上げ・労働時間の短縮などを実現するため、労働組合を組織し、団結した。1900年、それまで並立していた労働組合が一つに結合し、マクドナルド、ヘンダーソンを筆頭に労働代表者委員会を発足させた。
そもそも労働組合運動は、資本主義の最たる大英帝国で産声をあげ、1834年、第1回全国労働組合連合会が開催された。以後、組合員数は増加し、ストライキによる組合運動は成功を収めていった。1881年には、社会主義の流れを汲む社会民主連盟が、ハイドマンにより結成され、建築家・詩人で有名なウィエイアム・モリスもそれに名を連ねた。更に1884年、生粋の社会主義者によるフェビアン協会が設立され、バーナード・ショー、H・G・ウェルズなどの著名人も加盟した。彼ら著名人の活動は所詮、社会主義思想の啓蒙に過ぎなかったが、組合運動の諸矛盾をも浮彫りにした。
これまでの運動の成功裡には、二大政党の一つ、自由党の支援が多大であった。だが、上層階級たる自由党員と下層階級の労働者の現実的な乖離はさけられず、労働者自身による政党の実現が望まれた。
1893年、ケア=ハーディーにより最初の労働者による政党、独立労働党が結成され、マクドナルドもその一員となった。しかし1890年代後半から、自由党は凋落しはじめ、ついには1898年、組合運動に新派だったグラッドストンの死去をもって、更なる労働者による政党を求める気運が高まった。そこで1900年、マクドナルドは旧来の全国労働組合連合会・社会民主連盟・フェビアン協会・独立労働党を統括し、労働代表者委員会を発足させた。
James Ramsay MacDodnald は、実際に社会主義者であった。しかし純粋のマルクス主義者という訳ではなく、漸次的な社会改革を実現しようとする修正マルクス主義者であった。イギリスにおける社会主義運動及び組合運動自体が根本的に、急進的な社会主義とは異なる穏健なスタンスであった。マルクス自身が組織した第一インターナショナル(1864)の急進的な革命運動に対し、1889年に創立された第二インターナショナルは、漸次的な社会改革を目指した。しかし実際的な活動は少なく、決議や宣言程度の集会にとどまり、ベルンシュタインの提唱する修正マルクス主義にすら値しないものであった。だが、その穏健さ故に、現実的な社会改革運動の下地が穏やかに築かれ、改革の推進を促したのも事実である。
対岸のフランスにおいては、パリ・コミューン(1871)により社会主義運動は一時、衰退していた。しかしイギリス同様、現実的な社会改革を推進する社会主義団体が支持を得て、1899年には急進共和党との連合により政権に台頭してきた。