「スクリューボール」
−映画における最もロマンティックな瞬間とは?− *8*
フレデリック・マーチとキャロル・ロンバート in 「Nothing Sacred」(1937)
上品さと不作法のぶつかりあい。それはスクリューボールコメディの生み出した対立の一つです。そこには恋愛と結婚における高尚な目標とゆがんだ現実の間を埋める不安定な社会状況を反映する激しく対立した世界がありました。セックスと社会状況が仕掛けた罠によって、スクリューボールコメディのカップル達の滑稽な冒険は大きな文化的な悩みをからかっています。カップル達の欲求不満はしばしはチャーミングさに隠されていますが、登場人物達の躁病的な身ぶりや態度によって引き起こされるに肉体性がしばしばつくる文字どおりの病気や不安(dis-ease)、内に秘めた悩みを反映させているのです。「赤ちゃん教育」を例にとってみますと、キャサリーン・ヘップバーンの叔母であるランダム夫人と名付けられた未亡人と、彼女の友人であるアップルゲート少佐はヘップバーンとグラントの後を追って外へ走って出ることに決めました。「ご一緒に走りませんか?」少佐は尋ねます。そして二人は小走りでドアの方へ向かってゆきます。ダイニングルームを通り抜けてかけっこする動機などありません。しいてあげれば、映画にテンポを出すこと、若い二人の主人公達の不安を真似るさせること、抑圧されたエネルギーを自由に解放してやることで、物語の進行とは関係ないことばかりです。性によって活気づけられながらも性的抑圧に支配されているスクリューボールコメディの世界において、性のエネルギーの発散はそこから逃れるための一つの手段と言えます。
性的表現自体がプロダクションコードによって厳しく規制されていたのでスクリューボールコメディは時々セックスの役割をほのめかすようになりました。男と女の役割を逆転させることは多くの男に苦難を与えることになりましたが、これは当時の社会状況と相まって飽くことなき娯楽を提供することになったのです。1930年代後半の女性のファッションにテイラースーツを着る傾向は1940年代には「Honeymoon in Bali」(1939)、「Third Finger, Left Hand」(1940)、「Take a Letter, Darling」(1942)といったボス・レディ(女社長)と呼ばれる映画へと引き継がれ、いままさに躍進しようとしている当時の女性像をとらえています。しかし要因はファッションだけにとどまりません。スター自身がスクリューボールコメディにおける性の役割の逆転、優位性を利用して、力強いパーソナリティを打ち出していきました。ロザリンド・ラッセル、ベティ・デイビス、キャロル・ロンバート、キャサリン・ヘップバーン、イレーヌ・デュンヌなどの女優達は周囲の状況をものともしない強くてデキる女のイメージを作り上げています。「赤ちゃん教育」で共演したヒョウ「ベイビー」のしつけ係をしていたプロの訓練士のオルジ・セレスト夫人は述懐しています。「もしキャサリン・ヘップバーンが女優をやめて、スクリーンから姿を消したとしても、彼女なら優秀なアニマル・トレーナーになれたと思うわ。だって彼女は自分の神経を自在にコントロールできて、動物に対する恐れもまったくなかったのですから」
スクリューボールコメディにおける女性の自立は、酷い目にあって、怒りっぽくなった男性のパンチや平手打ち、威嚇的な言葉に立ち向かうものでした。このジャンルの女性達は酷い仕打ちを男性に対して行っていますが。彼女たちは最後に改心して悔い改めるまでは好き勝手に振る舞うことを認められ、それを望まれてさえいるのです。たとえそれが私たちをひるませるような酷いものであったとしても、そこには暴力に対する不思議な解放感が存在しています。恋愛や結婚に幸福を求めて感傷的にもがき続ける人間の性(さが)を描きことに終始しているして優れたスクリューボールコメディを悲観的にとらえている多くの人にとっては、そういった解放感がもたらすものに特別思い入れはないかもしれません。しかし、スクリューボールコメディの自由奔放性は、幸福な家庭をめざそうとする強迫観念に存在する不安や緊張感を解放し、このジャンルでは愛の確かな証拠となる敵意の爆発までもやわらげているのです。
スクリューボールコメディにおける女性の絶叫は嫌悪感と同時に喜びもあらわしています。サリスとエヴァーソンは共に一部のスクリューボールコメディは観客に頭痛の種を与えるだけであると指摘しましたが、映画自体がそういう見方をされるように作られていたことも事実です。「特急20世紀」の会話を例にとってみますと、オスカーの助手がリリーに指図する際に言います。「オスカーさん、ちょっと思うんですけど、当然、ブルーノ氏はシェルツァー嬢とよりを戻すんでしょ」二人の関係に火花が散ると観客にはハラハラする感情が芽生え、最後に二人が結ばれると観客の感情が癒されるという図式です。パラマウント製作の「True Confession」(1937)にはこのジャンルの特徴を見事に言い表したセリフがありました。フレッド・マクマレイは彼をイライラさせているキャロル・ロンバートに言います。「僕は気違いじゃない」彼は続けます。「ただ君のクビを絞めることができたらと、それだけを思ってるんだ」
回りくどい言い方かもしれませんが、スクリューボールコメディの真の素晴らしさは、40年に渡るテレビのシチュエーションコメディの使い捨てのさえないセリフを忘れさせ、男女間の激昂を交えた葛藤が陽気な愛の証しとなっていた時代があったことを私たちに思い出させるところにあるのかもしれません。本書がこれから紹介する映画には洗練された粋なセリフがさまざまなバリエーションでもって無尽蔵に詰め込まれています。たとえそれが不作法な脅しに近い言葉であったとしても、それは同時にセンチメンタルな感情を私たちに引き起こします。「ただ君のクビを絞めることができたらと、それだけを思ってるんだ」このセリフに愛の葛藤、そしてユーモアを感じることができない人はおそらくスクリューボールコメディの中の微妙な恋愛感情を見つけることは難しいでしょう。
以上 「SCREWBALL」by ED SIKOV の序章より抜粋
フレッド・マクマレイとキャロル・ロンバート in 「True Confession」(1937)
メインページへ戻る/
前頁へ/