ペンギンドクターの
診察室
心のこもった贈り物をありがとうと感謝して、私達は花束のプレゼントをもらいます。こめられた心は単なる知識ではありません。知識だけがこもっているプレゼントなら、百科事典でも贈る方がずっと気がきいています。確かに知識を働かせて考えるのも心です。それといっしょに、うれしさや悲しさやむなしさなどの感情が加わり、たましいと呼ばれている人間の奥深いところとつながっているのが心だと私は思っています。この心がスカスカのからっぽになれば、恋も冒険も、嫉妬も復讐も、とにかく昔から人間くさい小説の材料はすべてなくなってしまうことでしょう。朝のテレビドラマで主人公の萌さんが、駅の窓から機関車が迫ってくる幻想を見て息を引き取るシーンがありました。なぜあのシーンで胸が熱くなるか。それは長いドラマの中で彼女が、この駅で父と感じた悲しさやうれしさが、私達の胸に一度に迫ってくるからです。脳だけで感じているとは私にはとても思えません。切なく感じているのは心です。
しかし脳ではない、心なのだと言ってみても、今の科学では通用しないでしょう。脳が空っぽであれば心も空っぽだ。つまり脳はイコール心だと言う人達は多くいます。そしてほかの身体の細胞と同じく脳も遺伝子で出来ている。だから私達の心も遺伝子のコントロールを受けている。肉体から自由な「こころ」と言っても、結局は遺伝子に支配されているのだ。などなど、ああむずかしいことです。
むずかしい話はちょっとおいといて下さい。とにかく心が空っぽならば、心をこめて人を愛することが出来ません。秋に枯れ葉が窓ガラスをたたいても、寂しさを感じることはないでしょう。雪の上に咲いた一輪の椿の花に、いとおしい乙女のまなざしを感じることはないでしょう。言葉にならないその場の空気を感じるのは心の働きだと思うのです。長年会えなかった兄弟が無言で手を握り合い、見つめ合って涙を流すのも心の働きがあってこそだと思うのです。
おやさまは門前にたつ物乞いの女の人を見て、彼女が連れていた赤ちゃんにご自分のお乳を飲ませてあげました。このような優しさはどこからくるのでしょうか。心に優しさがつまっているからです。火がついたように泣いている赤ちゃんが、乳をのませると満足で安心した表情になる。子供の安らかな顔を見る喜びを、自分の喜びと感じる心があるからです。心が空っぽなら、思いやりも優しさも何にもない。脳が命令する理屈だけの行動なら、愛や優しさとは無縁で、人の喜びを見てうれしくなることなど、あるはずがありません。
心の渇きを知っていますか。いくら物や金が沢山あっても、いくら自分に力があっても、水のない砂漠のような心の渇き。人と人との優しさのコミュニケーションが出来ない孤独のせいかもしれません。行き着くところの分からない将来への不安のせいかもしれません。やるべきことの定まらない空しさのためかも知れません。頭を壁に何度も打ち当てて、鉛筆の先でノートのページをいくら破いても、スースーと乾いた風が心の中を吹き抜けるのをどうすることもできません。後悔のない青春を俺にくれ。永遠に変わらない幸福が欲しい。何が真実で、どれが本当の愛なんだと叫ぶ。青春はまさに心の嵐の時代です。
空心飢餓とは心の渇きと言ってもいいでしょう。この空心飢餓を感じることの出来る人はきっと幸せになれる。私はそう思います。空腹になれば誰でも飢餓を感じます。脳が空っぽでも苦しさを感じない人は,いくらかいることでしょうが、それほど多くはないでしょう。しかし、心が空っぽでも全く苦痛を感じない人は、この世に大勢いるのです。そんな人達は、心にあいた大きな穴にビフテキを詰め込み、キャビアを塗りつけ、ワインで水没させて満足します。当たらぬ天気予報の、当たらなかった解説のように、もっともらしい屁のような言語をならべ立てて自分の人生を飾ります。
空心飢餓を知って苦しむ若者は、将来きっと幸福を人々に与えることでしょう。壁に打ち当てた額の痛みで、友達の苦しみが分かるようになるでしょう。何も書けなかった破れたノートに、恋人の涙がしみ出てくるのが見えるでしょう。空腹と戦って何とか生きようとした人達は沢山います。兵隊さんばかりではありません。しかし、愛する人のために自分の命を懸けることができる人は、それほど多くはありません。まして雲をつかむような話の中で、神様を信じて一生をかけるなんてとても出来そうにありません。
出来ないけれど、求めている人達はいるのです。心の渇きにのたうち苦しみ、心を満たしてくれる何かを真剣に求めている人は確かにいます。苦しんだあげく心をうるおしてくれる恋人や友人と巡り会える幸せ、こんな幸せをつかむ人は間違いなくいます。たとえ目の前に信じられる人がいなくても、自分の心を分かってくる。永遠に間違いのないものだと信じることが出来る。こちらが心を尽くせば、それに必ず応えてくれる。そのような神様に出会えた人々はいるのです。心の渇きが空腹飢餓と同じ様なひどい苦痛だと感じる人にとっては、きっと信仰は大きな力となるはずです。