ごまかした別大初参加と、初のサブ40分

後悔の
別大初参加

防府マラソンの記録は、2時間40分05秒であったが、別大をあきらめきれなかった私は、ここでやってなならない事を行ってしまった。手書きで送られてきた防府の記録書の05秒を00秒に書きなおして、別大の添付書類に貼りつけエントリーをしてしまう。現在のようにネットが発達してくると、事務局で確認がすぐ出来るがWindow95発売以前の当時、バレルであろうと思っていたものがエントリー完了してしまったのである。
人間は、不思議なものである。実際エントリーが通ってしまうと今度は、罪悪感に引かれる。正月明けには、出場は辞めようと自分自身のなかで半ば決めていた。
そんな正月明け、悪夢が起こる事になる。『'95.1/17 AM05.46 阪神・淡路大震災』
忘れられない、あの日軽い朝食を終え、通勤ランに向かう為外出の準備を行っていたその瞬間、今までに経験のないほどの揺れを感じ、「どれほどの時間だったらろう」ゆれが収まるまでその場から動けなかった。さいわい、我が家は食器棚の皿などが数枚割れただけで済んだが、時間がたつにつれ目や耳にするものは、被災地の言葉も出ないほどの状況ばかりであった。とくに、西宮や神戸方面に済む知り合いのランナーの家も例外ではなく、全・半壊というものが多くあった。そんな状況の中、私の別大エントリーの事情を知っていた、別大の資格を持ちながら被災の為、出場できそうもないランナーの一人から、「せっかくだから出場したら!自分らは、行きたくてもこの状況では出れそうもないんだから・・・。」「変わりに走ってきてくれヨ。」みたいなことを言われ、別大出場を決意したのである。
そうは、言ったもののやはり「タイムをごまかした」という罪悪感からは逃げられず、別府に行くと、大会前日の受付け会場に、私がいることにおどろくランナーたちも何人かいた。
それでも、「ここで関門突破して40分以内でゴールすれば。」と半ばやけくそになり、緊張感の中スタートを切った。25km関門はなんとか突破したものの、27km過ぎからペースが落ちてしまい、あえなく35kmで関門閉鎖。マラソンで初めてのDNFを経験することになってしまった。
帰りのフェリーでは、「来年こそ絶対40分を切ってもう一度ここにきてやる。」そう強く決心し帰路についた。

初の40分cut
防府マラソン

95年12月私は、別大の資格突破めざして再び、防府マラソンに出場した。秋口から600km前後を走りこみ、初めて計画を立てた40'cutの為のマラソン練習を行っての出場である。このレース出場にあたっては非常に強い見方があった。同じレースに、何度も一緒に練習していただき、いつもアドバイスを頂いている黒崎夫妻(幸雄氏:マラソン、しのぶ氏:10km)が出場されたことだ。家も近所の私は、最寄の駅からご一緒させていただき新幹線を利用し防府に入った。前日受付会場にはいって、びっくり。ご一緒していただいた、黒崎夫妻には、旭化成・カネボウ・積水化学はじめ、沢山の実業団の監督・コーチや選手達があいさつにきたり、まるで同窓会のようにむかしを懐かしんで話し込まれたり・・・。すっかり、安心してしまった私は、開会式の会場で宗監督の後ろで爆睡してしまい、その姿が、夕方のTVニュースで放映されていたのである。
夕方のjogでは、防府天満宮にお参りに行き明日のベスト記録を祈念しスタートラインについた。スタートから30kmまでは、昨年とほぼ同タイム。ここから、去年は落ちていったが今年は、折り返してからの向かい風もじっと他の選手の後ろについて温存したため、とても元気であった。それに、何箇所かで声をかけていただいた、黒崎しのぶさんの応援にも元気付けられ、後半の落ち込みを最小限にカバーして、「2時間38分57秒」でゴールできた。
マラソンゲートをくぐって、ラスト400mゴール地点の時計が、「2時間37分30秒すぎ」だったのが、とても印象に残っている。ラストのトラック1周は涙が止まらない位感動した。
帰りの新幹線で飲んだ、ひれ酒も味は格別のものだった。

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