別大2回目もDNF、3回目慶弔休、4回目初完走も40'07"

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晴れて
別大ランナー
そして
またも35kmDNF

前年12月、防府マラソンで40分を切った私は、早速翌年2月の別大マラソンにエントリーする。しかし、防府マラソンに照準を合わせていたこともあり、年明けになっても全く調子の上がらない上、左股関節〜そ頚部痛に悩まされたまま、レースを迎える事になってしまう。
別府に向かうフェリーの中は、前の年震災の為出場できたかった佐藤さんや前述した森下さんも一緒だ。また、レース当日朝、毎日新聞の取材もあるという。新聞社から、佐藤さん宛てに「震災をのりこえて別大を走るランナー」と言う事で、特集記事にしたい旨の電話が入ったらしいが、私達のこともきずかってくれ、「一緒に取材を受けたい。」と言って頂いたみたいでそれが、記者に認められ、取材となったらしい。
レース会場で取材を受け、号砲一発スタート。前日の受付け後は、左そ頚部から足の付け根が痛くjogもまともに出来なかったのがうそのように、痛みは全くなかった。5km17'後半で入り、入りとしてはまあまあであったが、余裕がなかった。20kmで時計をみると、この5kmが19'近くかかっておりちょっとあせってしまう。25kmの関門が心配になりここで、集団を抜け出て一人走る悪い癖がでてしまい、25kmは時間内通過したものの、30km手前から苦しくなってしまった。必死で腕を振って前に進んだつもりが、タイムはドンドンおちていて、あえなく35km関門19'オーバーでDNF。収容車のバスの中で、「新聞社の人になんて言い訳いしよう。」とそればかり考えていた。
しかし後日、送られてきた新聞を見てびっくり。私達、3人の記事は社会面右ページトップに乗っていたのである。

別大3回目は慶休
しかし2週後の
泉州でカド番脱出


97年別大マラソンは、2度目の40'Cutと標準記録カド番脱出を目指したレースとなった。年明けの20kmペース走で、1時間12分58秒と練習でのベストが出て、今年こそと思う手応えも出てきていた。そんな中で、レース4日前に義祖母が、死去する。お通夜・お葬式・お骨上げに初七日と、あわただしく過ぎていったが、最後まで見送ってあげたく別大出場をあきらめ最後まで勤めを行った。別大はカド番であったが、「まぁ2週間後の泉州で40分切れればいいんだし」なんて、気軽に考え泉州までの2週間を過ごした。
そして迎えた、泉州国際市民マラソン。前半から、良いペースで走れ2時間39分03秒 総合20位でフィニッシュする事になる。このときの、別大マラソンが、みぞれ交じりの悪天候の中、完走率が50%前後であったことを考慮すると、泉州に気持ちを切り替えたのは、本当に良かったと思った。
実は、この泉州のレース後、初めて知り合った二人がいた。後、ミズノランニングクラブメンバーになれた時、コーチであった岡田夏来氏。先輩メンバーである今長浩一氏である。

別大4回目、
完走は出来たが
2時間40分07秒


4回目の別大は、泉州マラソンで出場資格を再取得していた為、カド番ではなかった。しかし、前年10月に家族でグアム旅行に行った際、原因不明の発熱に襲われ、とどめに発熱状態でプールに1日中入ってしまった。これが悪かったのか、10日間近く38度以上の発熱が続く。走りこみ期のあせりもあり、回復後かなりの距離を踏むと今度は、貧血になってしまった。全く走れなくなり5kmで19分以上を要するようになってしまった。仕方なく知り合いのドクターに検査をしてもらい、鉄錠剤を1ヶ月分出してもらった。ただし、鉄分は出来るだけ食事からとる方が良いとのアドバイスをもらったので、1週目は毎日、2週目は2日1回、3週目は3日に1回の摂取にし、練習はいつものように行った。しかし、一向に調子の上がらないままレース当日を迎える事になる。「なんとか35km関門さえ超えられれば。」と前半から積極的に行くとハーフ通過で1時間15分51秒と通過ではあるが、ハーフのベストが出てしまう。そのままの走りをしていると、23km過ぎ、左太腿に痛みが走る。軽いケイレンである。「ここまで来て、こんなことでレースを終わらせてたまるか。」と、痛みを必死でごまかして、なんとか35kmまで…。前半の貯金で、35km関門は超えたものの、もはや走りは限界であった。ゴールタイムは、2時間40分07秒。また、来年カド番に逆戻りである。

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