夕焼けの空の下で
それはよく晴れた、冬のある日の午後だった。
幼い俊の目の前に現れた、不思議な少女。 透き通るような白い肌、黒い瞳、腰まで届く長い黒髪。 人懐っこい笑顔を見せたかと思うと、彼女よりはるかに年下にもかかわらず、 彼の幼馴染みの曜子と、本気で取っ組み合いのケンカをし始めたりもした。
三人は時間が過ぎるのも忘れて遊んだが、冬の日暮れは早い。 少しずつ冷たくなりだした北風が、子供達に家へ帰る時間を告げていた。 遠くで子供の名前を呼んでいる母親の声が聞こえはじめる。 そして曜子にもお迎えがやって来た。
「パパー」 曜子はそう言って駆け出し、父親の胸に勢いよく飛び込んだ。
「じゃ、俊ちゃん、おねえちゃん、バイバーイ」 父親に抱きかかえられた曜子は、とびっきりの笑顔でこちらに手をふりながら帰っていった。
つい先ほどまで、にぎやかだったこの公園に静けさが訪れた。 俊には迎えは来ない。 彼の母は今日は夜勤のために、今頃は勤め先の病院にいるだろう。
彼は黙って、どんどん小さくなっていく、幸せそうな親子の後ろ姿を見つめていた。 いよいよ見えなくなってしまうと、彼はそれに背を向け、きゅっと唇をかみ、マフラーをもう一度しっかりと巻きなおした。
「ねねぇ俊くん。綺麗な夕焼けね」 俊は隣にいる彼女を見上げた。 彼女がオレンジ色の光に包まれながら、夕日を指差し、にっこり微笑んでいた。 それは穏やかで、暖かな笑顔だった。 そのやわらかな空気が一気に彼の心まで流れ込み、さっきまでのささくれだった心が癒されていく。 そして彼の顔に再び笑顔が戻った。
「こっちの方がよく見えるよ、おねえちゃん」 気がつくと彼は、彼女の手を引っ張っていた。
階段をのぼりきると、そこからは自分達のすむ町並みが一度に見渡すことができた。 「ほんと、きれい…」
少しずつ傾いていく夕日を見つめる彼女の横顔は、どこか寂し気に見えた。 俊は不思議に思いながらも何も言わず、彼女と夕日を見つめていた。
やがて夕日は静かに、しかし確実に夕方の空の色を変えつつ、いよいよ沈んでいこうとしていた。 この場所には誰もいない。ただ手をつないだ二人の影が長くのびていた。
それからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。ようやく彼女が口を開いた。 「さて俊くん、私達もそろそろ帰ろっか」 元通りの表情の彼女を見て、俊は心の中でほっと小さくため息をついた。
「おねえちゃん、また…」 『遊ぼうね』と言いかけて、俊は一旦口をつぐみ、 「ここで一緒に夕焼けを見ようね」と言い直した。 彼女の表情は一瞬くもったが、「うん、そうだね」と笑顔で答えた。
「約束だよ!バイバイおねえちゃん」 「バイバイ、俊くん…」 心が踊るような気持ちで、走り出した俊だったが、何気なく振り返った。 そこにはもう彼女の姿はなかった。
翌日はやる気持ちを抑えつつ、公園へ向った俊だったが、彼女の姿を見つけることはできなかった。 その次の日も、またその次の日も。どんなに彼が一生懸命探そうと、結果はいつも同じだった。 そして今日も彼は、沈みゆく夕日を一人で睨み付けていた。
「ちぇ、何でだよ。何でどこにもいないんだよ」 セーターのそで口で目もとをごしごしと乱暴に擦ると、夕日に背を向けて、振り返りもしないで走り出した。
その日を境にして、彼がこの場所を訪れることはなく、やがて時は流れ、10年が過ぎた。 あの時の甘い感傷は、日々日常の雑多な出来事の中に埋もれ、いつしか彼の記憶の奥底へと深く沈んでいった。
明け方近く、俊は夢をみていた。 「俊くん、また会えたね」 聞き覚えのある声に振り向くと、10年前のあの少女が微笑んで立っていた。 懐かしさのあまり近付こうとするが、彼が歩み寄るとその分、彼女の姿は遠のいた。
「…ったく、どうなってんだ。ちょっと待ってくれ、あんたに話したいことがあるんだ」 彼女は笑って手をふっているだけ。 それでもようやく彼女の手を掴んだ時、彼は現実の世界で空(くう)を掴んでいた。
「夢か…」 目がさめてしまうと、彼女がどんな声で、どんな顔をしていたかは思い出せないものの、 その代わり掴んだ手の感触だけが、やけに鮮明に残っていた。 俊は彼女の手を掴んでいた自分の手をじっと見つめた。
あの当時でも見ることがなかった彼女の夢。 忘れていた今頃になって、何故? いや、むしろ夢とはそういうものなのかもしれない。 潜在意識の中にまだ残っていたのだろう。
彼は中学校へ向う途中、そんな事を考えながら歩いていた。
たかが夢、だけど気になって頭から離れない。
「ねぇ俊〜放課後、買い物につきあってェ〜」 席に着くなり曜子がまくしたてる。 「何で俺がおまえの買い物につきあわなきゃなんねーんだよ」 「いいじゃない、ねぇってば、俊!」 クラスメイト達はその毎度繰り広げられるやりとりを、見て見ないふりをしている。
「おーい、みんな早く席につけー」 チャイムとともに入って来た担任に、その場を助けられた俊と、不服そうに自分の席につく曜子。
「さ、入りなさい」 先生の後について教室に入って来た少女に、教室中がにわかにざわめきはじめた。 少し緊張ぎみに転校生は挨拶をすると、軽くおじぎをした。
俊はというと、今朝の夢で目覚まし時計よりもずいぶん早く目がさめてしまったため、ここで一眠りしようかとしていた。
彼は他の男子達と違って、転校生の少女にはまるで興味がなかった。
「君の席は、あの寝てるヤツの隣だ。おい、真壁、起きろよー」 渋々彼は目をさますと、既に転校生は彼の隣の席につくところだった。 まずその長い黒髪が、彼の目にとまった。 「江藤蘭世です。よろしくね」 転校生はにっこりと微笑んだ。透けるような白い肌、黒い瞳。
『彼女』だった。
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