あれかられんげの季節を何度か通り過ごし、俊は念願だったプロボクサーとしての道を着実に歩みだしていた。

 

もうすぐゴングが鳴る。蘭世は試合前の異様な盛り上がりを見せる観客席で一人、祈るような気持ちで待っていた。

これまで俊がどれだけ苦しく厳しいトレーニングを積んできたか、目の当たりにしている。

それなのに自分には何もできない。それが時として歯がゆくもあった。

だけど見ていることしかできないのならば、一瞬たりとも見のがさずにいよう。

リングに立った俊を見つめながら、蘭世はそう思った。

4回戦だろうと、タイトルマッチだろうと変わらない、意外と狭い正方形。

でもここで全てが決まるのだ。

 

ことボクシングに関しては、一人の人間としての姿勢を崩さない俊は、試合中に受けた傷も自分の力を封じて治そうとしない。

見慣れたボクシングの試合とはいえ、蘭世は気が気ではない。

 

カーーン。

乾いた音が、会場に響く。その余韻はすぐに湧きたつような大歓声にかき消された。

皆、この瞬間を待ちかねていたのだ。

序盤戦からの激しい打ち合いで、さらに場内の熱気は増す。

紙一重の所で、俊は相手の攻撃をかわす。

それは相手も同じこと。決定打はまだどちらもない。

ヒヤヒヤしながら、蘭世は試合の流れを見守り続ける。

 

せいぜい170センチあれば高い部類に入るこのフェザー級では、俊の身長はかなり稀だった。

相手選手もその例外にもれず、俊との身長の差は歴然としている。リーチの差で一見、俊のほうが有利なように思えるのだが、

実はこういう場合、隙をついて中に入り込んでこられると非常に厄介なのだ。

何しろ相手は百戦錬磨のチャンピオン。やはり気は抜けない。

 

それでもラウンドを重ねるごとに、俊は確実に相手を捉えはじめた。

長い腕からしなるように放たれる拳。

軽量級ということを忘れさせる重みで、腹部にずしりと埋める。

苦痛に歪む顔を見てもまだ、俊は攻撃の手を緩めることはない。

きれいにヒットする度に、会場はさらに盛り上がる。

 

中盤に差し掛かった。

すでに両者からは汗が滴り落ち、マットを濡らしていた。

相手は頭を振って、辛うじて俊の攻撃をかわしていたが、足の動きが止まってきている。

今が絶好のチャンスだった。

 

ガードをしているその上から俊は打ち込み、相手をコーナーまで追い込んでいた。

グロッキー状態なのだろう。もはや立っているのが精一杯なのがわかる。

あともう少し…。思わず蘭世は拳を握りしめる。

 

その時、相手陣営から投げ込まれた真っ白なタオルが宙に舞った。

 

「か、勝ったぁ…」

気がつくと蘭世は歓喜のあまり、立ち上がっていた。

担架に乗せられて運ばれていく「前チャンピオン」の姿。

残酷なほど明暗をわけたリングの上では、普段は感情をあまり表に現さない俊が、珍しくストレートに喜びを見せている。

無理もない。全てはこの日を迎えるためだったのだから。

両手を天に突き上げる俊の姿が、潤んでぼやけてきた。

翻弄され続けた運命と必死に格闘していた彼のこれまでのことと、どうしてもだぶらせてしまう。

 

「すごい…やっぱりすごいよぉ。真壁くん…」

しばらく蘭世の涙はとまることを忘れていた。

 

試合が終わり、観客は熱気を引きずったまま、それぞれの家路につく。

先ほどまでの興奮と歓声が、誰もいなくなった会場にまだ残っている。

まだ蘭世はその中にいた。

身体がまだ熱気に包まれているようだ。

 

新しいチャンピオンを讃える声と、閃光の中に垣間見える俊の姿を蘭世は思い返していた。

夢を叶えた俊を誇らしく思う一方で、なんだか急に俊が遠い存在になってしまったような気がして、蘭世はため息をつく。

 

「なーにため息なんかついてんのよっ!」

ぺしっ。後ろから頭をはたかれて、蘭世はびっくりして振り返る。

「神谷さん…」

蘭世の背後にいつもの挑戦的な笑顔で曜子が立っていた。

「あんたねー。泣きそうな背中してるんじゃないわよ」

今度は背中に張り手が飛ぶ。

「泣きたいのはこっちなんだからね」

背中をさすりながら蘭世は、隣に座った曜子を見つめる。

「こーんないい女がずっと傍にいたのに、俊ってば見向きもしなかったわ。

 結局蘭世、あなたしか見てなかったのよ。俊は。だからもっと自信持ってくれなくちゃこっちが困るのよ。」

「神谷さーん…」

蘭世は曜子にしがみついた。

「もう…すぐ泣く!」

悪態をつきながら、曜子の瞳はどこか優しい。

 

「控え室でチャンピオンが待ってるわ。まったく…この神谷曜子を使い走りさせるなんて、俊もいい根性してるわよね。」

曜子は最後に蘭世の背中を押して、後ろを向いた。

そして背筋をぴんとのばして曜子は颯爽と去っていった。

 

「ありがとう。神谷さん」

蘭世は涙を拭い、歩き出した。

 

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