数回ノックして蘭世はドアを開けた。 「よお」 俊はパイプ椅子に深く腰掛けていた。 すでにシャワーも浴びて一息ついていたらしく、試合前とは別人のようにリラックスしていた。
蘭世は辺りをきょろきょろ見渡す。 特別広い部屋ではないが、誰もいないせいでがらんとしている。 長椅子に横たえられた、俊のグローブだけが試合の凄まじさを物語っていた。
「おめでとう、真壁くん。すごくいい試合だった」 やや緊張気味に近づきながら蘭世が言う。 「サンキュー」 全然大したことではなかったように、俊はいつものようにあっさりと言う。 椅子に座ったままの俊と向かい合い、どきどきしながら見つめる蘭世。 激しく打ち合った試合の後とは思えないほど、その痕跡は見当たらない。 いつもと違う目線に、蘭世はやや戸惑いがちに俊を見下ろす。 すると俊の前髪の間から、赤く腫れたような傷が見え隠れしているのに気がついた。
「そこ、痛そうだね…」 蘭世は俊の前髪を指先でそっとはらう。 試合中はわからなかったが、右の眉のあたりに小さな傷ができていた。 「ああ。たいしたことねぇよ」 俊はなおも心配そうに覗き込む蘭世と、予期せずして自然と視線が合わさった。 蘭世は赤くなって慌ててそらす。 「…江藤」 俊は立ち上がって、蘭世の腕をつかんだ。 真剣な瞳。蘭世の鼓動がぐんと速度を上げる。
俊はもう片方の手でジーンズのポケットを探り、蘭世の手のひらに指輪をそっと置いた。 「真壁くん…これ…」 「いいからしてみろよ」 蘭世は震える指先で指輪に触れた。 不思議な光をはなつエメラルドのような色。 あるいはブルーがかったグリーンとでも言うべきなのだろうか。 しばらく見とれていた蘭世は一瞬躊躇した後、右手の薬指に近付けようとした。
「…反対だっつーの」 蘭世の手から離れた指輪は再び俊の手に戻った。 俊は蘭世の左手をとり、然るべきところに静かにはめた。
「ま、真壁くん…こ、こ、これ…」 「…そういうことだよ」 「だめ!ちゃんと言ってくれなくちゃわかんない!!」 蘭世は俊のシャツをつかみ、じっと見つめて必死に訴える。 俊は何も言わず、そのまま蘭世を抱きしめた。
「言ったろ。大きくなったら迎えに行くって。随分時間がかかっちまったけど、今なら一人前の男として、胸を張って言える。」 俊の手には、数十分前に敵をマットに沈める寸前まで追い込んだ険しさはなく、今は蘭世を守るためにある優しいものに変わっていた。
「蘭世…結婚しよう」
耳の奥、体の中心までその言葉がこだまする。 足ががくがくと震え出す。 体中の全ての力が空気に溶けて、消えていきそうな気がしていた。 ずっとずっとこの言葉を待っていた。嘘や冗談や夢なんかじゃなくて。 でもまだ信じられなくて。いろんな感情がどっと押し寄せてきた。
「なんで泣いてるんだよ」 「だって、嬉しいんだもん…」 「相変わらず、おまえは泣き虫だな。」 子供のように泣き出す蘭世。かける言葉とは裏腹に優しく微笑む俊。 今にも倒れそうな自分をしっかり支えてくれている俊の腕。 一番安心できる場所で蘭世は落ち着きを取り戻し、呼吸を整えた。
「まだ、返事きいてねーぞ」 俊は少し体をかがめ、蘭世の耳もとに照れた声で囁いた。 言われるまで気がつかなかったことに、蘭世は気がついて俊を見上げる。 「えっと、あの…よろしくお願いします」 「ぶっ。なんだよそれ」 俊はお腹を抱えて笑い出した。いつものこととはいえ、呆気にとられる蘭世。 涙は引っ込み、むっとして俊を睨む。 「ひどーい。笑うなんて…」 悪かったという気持ちを込めて、俊は蘭世の頭を軽くぽん、ぽんと叩く。 そして二人はいつも通りに戻る。
「おまえ、目、腫れてるぞ」 俊は蘭世の瞼をゆびさす。 「え?ほんと?」 「そこに洗面所があるけど、顔洗ってくるか?」 「う、うん。そうする」
蘭世が駆け込んで、ぱたんとドアが閉った。残された俊は、思わずくすりと笑った。
まっ先に鏡を見る。 確かにさんざん泣いた跡が残っていた。 「あちゃ〜。ひどい顔」 両手の指先でそれぞれの瞼をなぞる。 鏡の中に映るまだ見なれないものが、しっかりとその存在を示している。しかし。 「え?うそ…」 思わず呟く。
勢い良くドアを開けて飛び出すと、そこには俊が待っていた。 「ま、ま、真壁くん…ゆ、指輪の色がぁぁ」 「落ち着けよ。指輪がどうしたって?」 俊は半分笑いを堪えている。 疑問を感じる余裕がない蘭世は、動揺して気付いていない。 「指輪の色がグリーンから、パープルに変わっちゃって…え〜〜!!戻ってる…」 もう堪えきれない。俊は吹き出した。 「ちょっと…真壁くん。何か隠してるでしょ」
詰め寄る蘭世。俊は降参して白状した。 この指輪の特徴を。なぜ色が変わって見えたのかを。
テレポートして俊の部屋に戻ると、俊はロウソクに小さな炎を灯し、部屋の明かりを消した。 促されれるまま、蘭世は指先を明かりのもとに近付ける。 「ほんとだ、色が変わった」 「だろ?」
つまり。控え室の明かりは蛍光灯。この光を受けると石は緑色の輝きをはなち、 洗面所などによく使われる白熱灯、もしくはロウソクの明かりのもとでは紅紫色に変わるのだと言う。 でもこの色、確かどこかで見たような。 霞がかった記憶を辿り、落ち着いてじっくり指先を見つめる蘭世。 しばらくして大きなエクスクラメーションマークが浮かんだ。 「れんげ畑!」
ゆらゆらと揺れる小さなロウソクの炎の向こうで、俊が優しく笑っている。 あの日初めてもらった指輪の色を重ね合わせたような懐かしい色が、蘭世の薬指でいつまでも輝いていた。
かるさんにプレゼント。 元ネタは扉絵から でもボクシングのシーンやプロポーズまで書くことになるとは思いませんでした。 作中に出てくる指輪は「アレクサンドライト」です。 どうして俊がそんな石のことを知っていたかですって? きっと店員さんからの受け売りですよ(笑)
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