小さな約束

 

 

 

もういいよという合図を受けて、蘭世はそーっと目を開けた。

 

「う…わぁ…綺麗…」

写真でしか見たことないような景色が、思いがけず目に飛び込んできた。

目にしみるような鮮やかな青空と対をなす、一面に広がるれんげ畑。

花は見渡す限り咲き乱れ、さながら紅紫色の雲がたなびいているよう。

腰をおろした蘭世は幼い少女のような笑顔で、れんげを摘みはじめた。

 

蘭世はふと気付く。

どれくらいこうしているのか、時間の感覚がすっかり麻痺していた。

この場所には二人以外、誰もいない。まるで時間の流れが止まっているようだった。

太陽の高さで移り行く時を知る。それしか術はない。

 

耳に入ってくるのは、この雲の群れを渡る風の足音。

それがなんと心地よく体のなかに入ってくるのだろう。

ずっと長い間、こんな感覚を忘れていたような気がする。

 

蘭世は作りかけの花冠を傍らに置いて、そのまま雲の中に体を沈めた。

ふいに訪れた、この束の間の休息を楽しむことにしよう。

ワンピースの裾から投げ出された両足に、遠慮なく広げられた両手に、小さな花たちと共に、うららかな春の日ざしを全身に受けていた。

 

慌ただしい中にいれば、考えないですんでいた。

逆の状況になれば困ったことに、考えなくてもいいことまで浮かんできてしまう。

じわり。滲んだ涙は、瞬く間に幾つもの筋をつくって流れた。

本当は不安だった。今までそれを押し込めて見ない振りをして、綱渡りをしていただけ。

蘭世は増大していく不安に押し潰されそうになっていた。

 

「どうしたの?」

蘭世の傍で小さな影が問いかける。

その声で我にかえった蘭世は上半身を起こし、急いで涙の跡を消す。

「何でもないのよ。…俊くん」

太陽の光を背に受けて、幼い俊は蘭世を不思議そうに見つめる。

事態を飲み込むには、彼はあまりにもまだ幼い年齢だった。

 

蘭世は彼をぎゅっと抱きしめた。

いつかこんな風に抱きしめてもらったことがある。

あの時はまだ彼は同級生で、背もうんと高くて、普通の人間だった。

でも今はやっと四歳になったばかりの、抹殺される運命の魔界の王子。

その先のことを思い浮かべ、蘭世は抱きしめる手に力を込めた。

 

「おねえちゃん、痛いよ」

「ご、ごめんね」

慌てて彼を解放し、苦笑いを浮かべて彼を見つめる。

ついあの頃の面影を無意識の内に探してしまう。

それに気付いた蘭世は再び複雑な笑顔。

 

彼女の心の内を知らない俊は、気持ちよさそうに腹這いになって寝そべる。

そして両方の手で頬杖をついて、目の前で揺れる小さな紅い花を眺めていた。

無邪気な笑顔。彼には何の罪もないのに。

ついまたそんなことを蘭世は考えてしまう。

蘭世の表情が曇っていることに気付いた俊は、蘭世に背を向けて、近くのれんげ草を何本か摘みはじめた。

それらは彼の特殊な能力によって、宙に浮き、ひとりでに形を作りはじめた。

 

「俊くん、何してるの?」

「なーいーしょっ」

弾んだ声が、彼の背中越しに返ってきた。

出来上がった大きな輪と小さな輪。

それらは導かれるように、小さな俊の両手にふわりと落ちてきた。

 

彼は大事なものを運んでいるかのように、ゆっくり向きを変えて蘭世の方を見る。

そして大きい輪を蘭世の頭の上にそっとのせた。

「ありがとう、俊くん」

 

落ちないように片手で軽く押さえながら、蘭世は微笑みを取り戻した。

彼は満足そうに、やや得意げに目を輝かせた。

「おねえちゃん、手、出して」

言われるままに、蘭世はあいている右手をすっと差し出す。

 

「違うよ。反対」

俊は花冠をおさえていた彼女の左手をとる。

「え?」

バランスを崩して、紅紫の冠は彼女の髪を滑り落ちた。

その落下していく様を目で追っていた蘭世の左手の薬指に、小さな輪がおさまった。

蘭世は驚いて視線をそちらに向ける。

 

「ぼくが大きくなったら、おねえちゃんを迎えに行くから、待っててね」

 

にっこり。

その意味を分かっているのかいないのか。

俊は相変わらず無垢な笑顔。

蘭世の驚いたり喜んだりする顔を期待して、わくわくしながら見つめている。

 

幼いなりに真剣な瞳。かえってそれがおかしいのだけれど、笑ったら俊は拗ねてしまうかもしれない。

しかし実際に現れてきたのは、笑い声ではなかった。

涸れることをを知らない泉のように、なぜか次々に溢れてくる涙。

予想と期待を裏切られて、言葉をなくした俊は不安そうに蘭世を見上げる。

 

「どうして泣いてるの?」

問いかける俊の声も、今にも泣き出しそうだ。

「嬉しいからよ」

ようやく遅れて蘭世の顔に笑顔が浮かぶ。

意味が理解できない俊は、ただ小首をかしげていた。

 

「俊くんが大きくなるの、楽しみに待ってるね」

 

透明な雫を吸い上げ、露を含んだ薬指のリングは光をうけて、ひときわ美しく輝いている。

蘭世の心に巣くっていた不安は、魔法が溶けたように消えていた。

 

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