「誰!?」
咄嗟に声がする方を振り向く。 誰かがいるなんて思いもしなかった。羞恥で顔が一瞬で赤らむ。 目の前は真っ白だった。 振り子のようにゆっくりと左右に風に揺られながら、何枚もの白い紙が続いて落ちてきたからだ。
舞い落ちる白に視界を時折遮られながらも、わたしは声の主の姿を見ることができた。
「あいててて…」 彼は地面に打ちつけた腰を擦りながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ご、ごめんなさい…誰もいないと思ったの…」 消え入りそうな声で、音がするくらい勢い良く深々と頭を下げた。 「なあに、これくらい大したことではありませんよ」 彼は笑いながら、ぱんぱんと黒衣についた土埃を払う。
深い闇色を吸い込んだようなマントが時折吹く風に翻った。 夜の色を映した髪と瞳の色。口元からのぞく白い牙。 彼がどこの種族に属しているかは、一目瞭然だった。
けれどもしわたしが普通の人間の娘であったとしても、彼には恐怖を感じないだろう。 それは彼が身につけている空気によるものだ。 尖った空気を穏やかに静めていくような。
足元に散らばった紙が、また風に吹かれてわたしの足元にぺたりと張り付くようにして止まり、わたしは手を伸ばした。 真っ白な紙に丁寧な文字で綴られた文章。これは手紙…?いえ、違う。
「これ、あなたが?」 「ええ…いやぁ、でも出来損ないでして」 彼は首の後ろを掻きながら、また笑った。 柔和な顔がさらにくしゃっと崩れる。 「…大変だわ!!」 わたしは慌てて散らばった彼の原稿を掻き集めた。 木に引っ掛かっていないか、まだ風に乗って浮かんではいないか。 わたしは彼が止めるのも聞かず、辺りを探した。 「あの、本当に大丈夫ですよ」 申し訳無さそうにわたしの後を追う。 「それじゃ、わたしの気が済まないんですもの」 振り返りもしないで、わたしは答える。こうなったら意地だ。絶対全部見つけてみせる。
原稿には連番が打ってあった。 全部で100枚のうち99までは回収できた。 が、最後の一枚、エンドマークがついた100番目がどうしても見つからない。
まさか…。背中に冷たい汗が流れて振り返る。 驚きと困惑の入り交じったような彼には目もくれず、わたしはずんずんと岸辺へ向かって歩き出した。
銀色に輝く湖面を目を細めて見る。 やっぱりだ。水面に頼り無げにゆらゆらと浮かんでいるのが最後の一枚だった。 確認した次の瞬間には、わたしはドレスの裾をひょいと摘み、湖の中へと駆け出していた。 水晶の破片のような水しぶきが、ドレスの裾に幾つもぶつかっては染み込んでいく。 けれど、そんなことには構ってなどいられない。 元々濡れないために裾を持っていた訳ではない。水の中を掻き分けて歩くためだ。 だからなんの躊躇いもなく、ようやく手が届く所まで辿り着くとわたしは両手から裾を離した。 重力に吸い寄せられたドレスの裾は水面に落ち、斑だった染みは均一に染めあげられた。
水をいっぱいに吸収した紙は、今にも沈んでいきそうだった。 わたしは、取り残されていた最後の一枚を両手でそっと掬い上げた。 湖水だけが手のひらから零れ、わたしの手にはぺったりと張り付くように紙だけが残った。
わたしはため息をついた。 インクが滲み、彼が綴った言葉たちは何が書いてあったのか跡形もないほど消えてしまっていた。 最早エンドマークすら読み取れない。 どうしよう…わたしはなす術もなくかつて一枚の原稿だった紙を見つめていた。
「いいんですよ」 優しい声に驚いて振り返る。 わたしの後ろにはいつの間にか彼が立っていた。 トレードマークのマントの先が、水を含んで更に濃い黒になっている。 「ごめんなさいっ!!わたしのせいで…」 彼がにっこり笑って続きの言葉を遮った。 「それはわたしの台詞ですよ。わたしのせいでせっかくのドレスが台なしだ」 そしてまたにっこりと笑った。 その笑顔に困惑していたわたしの表情も解れていく。 「じゃあ、お互い様ね」 ようやくわたしも遅れて笑った。
「それに、納得のいくようなエンディングじゃなかったんです。だから、丁度良かったんですよ」 彼の笑顔に少しばかりの影が射した。 「書き直すの?」 「ええ、そのつもりです」 「じゃあ、出来上がったら一番先に読ませてもらえるかしら?」 面喰らった彼の表情がやがて穏やかな笑顔に変わっていく。 「勿論ですよ」 「良かった…」 わたしはほっと胸をなで下ろす。そしてふとある事に気付いた。
「あの…狼人間村はどちらの方角でしょうか…?」 「は!?」 「夢中で走ってきたから、方向がわからなくなっちゃって…」
しばしの沈黙。そして。 彼は遠慮しながらも、涙を滲ませながら笑った。 何もそこまで笑わなくたってと、ほんの少しむっとした表情になるのも束の間の事で。 あんまり可笑しそうに笑う彼を見ていると、不思議と腹立たしい気持ちにもならない。 気が付けば、つられて笑っていた。 ああ、まだわたしはこんなにも笑えるんだ。何だか可笑しくて、涙が出た。
それがモーリとの出会いだった。
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