しあわせな朝
どこか遠くで小鳥のさえずりが聞こえた。 徐々にモノトーンの意識が鮮明になる。 瞼に感じる昇りはじめた太陽の光が、朝の訪れを目覚まし時計よりも早く告げていた。
もうそんな時間なのか…
俊は布団の中で一度大きく伸びをして、ようやく一度だけ目を開けた。 しかし微睡むのに丁度いい温度の布団の中から出るのが、勿体無くなる程の快適さだ。 そしてまだ頭の中は眠りの岸辺に戻りたがっている。 …もう少しだけ眠ろうか。 あっさりと二度寝の誘惑に負けて、また寝返りをうって目を閉じようとした。 ぼんやりとした視界に飛び込んできたもの、それは。
「げっ」 思わず声に出してしまった。 目の前に気持ち良さそうな寝息をたてている蘭世の顔がすぐそこにある。 一瞬で眠気は宇宙の隅まで吹っ飛んでいった。
やべっ。なんで江藤がここに?いやそれよりもまず江藤ん家に連絡して、こいつを送っていって…
……………
……………!
混乱する頭であれこれ考えてから、一番大切かつ重要なことに気付いた。
そうか、結婚したんだった…おれたち。 みるみるしぼんでいく風船のように気が抜けた。 何慌ててんだ、おれ。 そうとは知らない蘭世は変わることない健やかな寝顔のままだ。 あたふたしている自分を見られなくて、心からよかったと安堵する。 一息ついて良く見れば、ここは新居の寝室。 あの古くて狭いアパートの一室ではない。
今日は一緒に暮らしはじめての、ようやく訪れた平穏な朝だ。 まだその感覚に慣れないでいる。 いつになったら実感するものなんだろう? ずっと手に入れたかった幸せは、おろしたての靴のようにまだ自分になじまないでいる。 嬉しさの反面、どこかぎこちない。
「真壁くん…」
起こしちまったか?声をかけようとして、すぐやめた。
「もう…食べられないよぅ…」
……おまえも『真壁』だろうがっ……しかしどんな夢みてんだよ、ったく。 思わず吹き出しそうになったのを、何とか堪えた。 それにしてもまったく、なんて罪のない寝顔なんだろう。 幸せそうな顔しながら眠ってやがる。
そんな寝顔を見ながら自分の頬が弛んでいることに気付いて、人知れず赤くなる。 他に誰かがいるわけでもないのに、何となくバツが悪くて頭を掻いた。
そんな事はつゆ知らず。 相変わらず無防備な蘭世の寝顔がすぐ傍にある。 ついつい沸き上がってくるのは、少しばかりの悪戯心にも似たヨコシマな感情。
悪い魔法使いに呪をかけられた童話の中のお姫様よりも、もっと深い眠りの中にいる蘭世。 呪を解くには何が必要か?
蘭世の唇から規則正しいリズムで吐息が漏れる。 それは無意識にかもし出される甘い誘惑。 答えは簡単。
まだ目を覚まさないでくれと、心の中で祈りつつ。 俊はゆっくりと蘭世との距離を縮めていく。 しかし。
唇まであと数センチのところで、無情にも突然鳴り響くけたたましい音。 それは試合終了を告げるゴングの音にもどこか似ていて。 咄嗟に不自然なまでの角度でのけぞり、粉々に破壊したくなる衝動を抑えてスイッチを切った。 こうして眠り姫は目覚まし時計の音で目覚めた。
「あ、おはよ〜。もう起きてたの?早いね」 蘭世は半身を起こしてにっこり微笑む。その笑顔は朝日のように眩い。 「…おはよう…」 俊は複雑な笑顔で返す。
そして突然頬に感じる、柔らかくて温かい感触。 「えへへ〜。おはようのキス…!」 自分でしておいて自分で照れている蘭世は、そのままベッドから飛び出してキッチンへと駆けていった。
「………」
マットに沈むKOされたボクサーのように、俊は再びベッドへ倒れこんだ。 頬に手をあてると、残る感触がまだこそばゆい。
平凡だけれどかけがえのない、新しい一日が今日もまた始まる。
白川綾さんへPC復活記念としてプレゼント。 「はじまりの朝」と少しリンクしてます。 蘭世の天然っぷりは結婚しても健在なのです。
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