「暑いなぁ…」 ぱたぱたと団扇代わりに扇いでいるのは英語の参考書である。 さっきからちっとも進まない夏休みの宿題の山は、蘭世の前で仁王立ちで聳え立つ。 元々苦手なお勉強。それでもってこのうだるような暑さ。 蘭世に握られたままの鉛筆は、 宙ぶらりんの状態でノートの上を滑る様子はない。 先ほどからぱたりと止んでしまった風のように、ちっとも動いていない。
「せっかく真壁くんの近くにいるのになぁ…」 はぁ…と一つため息をついて、未だ片付かない宿題の山をかき分けうつ伏せた。 蘭世の気鬱の原因は、そこにある。
スーパーマントのロケ地に一家総出でやって来たのは良かった。 しかも俊の合宿所のすぐ傍というこの上ない好条件。 しかし会えないのならばどこにいたって意味はない。 おまけに宿題を終わらせないと、撮影の見学も遊びに行く事も許してもらえそうもない。 満月でもないのに耳を鬼の角の如く生やした母の姿が浮かんで、蘭世は肩をすくめた。
でも…ね…
「よしっ決めた!」 蘭世が勢い良く立ち上がると、真っ白なままのノートの上で鉛筆が飛び跳ねた。 きょろきょろと辺りを見渡せば、 おあつらえ向きに窓辺で一休みしていた小鳥が一羽。
「ごめん、貸してね!」
ぱたりと倒れた小鳥が一羽。そして窓から飛び立つ小鳥が一羽。
仮そめの姿の蘭世は空を翔る。 「真壁くん、どこかなぁ…」 映画のロケも見たくないわけではないが、何よりも俊に会いたくて、小さな翼はもどかしくも海風を掻き分ける。
目指すはトレーニングに明け暮れているであろう、俊のいる合宿所。 しかし思いがけず、俊の声が聞こえて蘭世は下界を見下ろした。 波の辿り着く場所に立っているのは、紛れもなく…
「真壁く〜〜〜ん!!」
手を振るように蘭世は翼をはためかせた。 するとくちばしのあたりに羽毛が飛んできた。 柔らかい羽がくすぐるようにまとわりついてきて、蘭世を本来の姿へ戻そうとする。
「え…?ヤダこんなところで…は…っくしょん!!」
鈴世は教えられたことを忠実に守りながら、小さな魚になっていた。 ただ前へ前へ。 一年前に姉の蘭世が目を輝かせながら、 臨海学校での出来事を話してくれたことを、鈴世は今でもよく覚えている。 全くのカナヅチだった姉は泳げるようになったことが嬉しいのか、 それともそんな姉を「真壁くん」が指導してくれたことが嬉しいのか、 ーーー間違いなく後者の方だと推測できるのだが、 とにかく「海は楽しいところ」なのだと鈴世は理解した。
そんな姉の想い人に偶然にもまた自分がこうして教わっているのは、なんだかこそばゆいような嬉しさがある。
言葉はキツイが的確な指示を出してくれるコーチのお陰で、すっかり泳げるようになった鈴世は夢中で前へ進んでいたが、 戻れの声の後、方向転換した。その時。
悲鳴と同時に水柱が上がった。
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