「お兄ちゃーん」

金髪の子供が手を振り、やってくる。

元気いっぱいの笑顔は、降り注ぐ太陽の光にも負けず劣らずといったところだろうか。

随分遠くから走ってきているのにスピードを緩めることなく、砂浜に小さな足跡を残して駆けてくる。

 

ーーーー真壁くーーん

 

 

彼と良く似た表情と笑い声が重なったような気がして、俊は一瞬、息を止めた。

 

「コーチ、昨日の続きからお願いします」

鈴世がぺこりと頭を下げて、俊は我に返った。

 

「…あぁ、それじゃ、まずはクロールだ」

「はい!」

 

鈴世はばしゃばしゃと水を掻き分けて前へ進み始めた。

懸命に水を掻き、泳ぐ。

水面から派手に水しぶきが上がるのを見て、俊が大きな声で注意する。

「足首が伸び切ってるぞ」

声が届いたのか、蹴散らすような水しぶきが止んだ。

やがて小さな噴水のように、小さな泡があがりはじめる。

 

水を怖がってばかりいた彼の姉とは違って、弟の方は随分飲み込みが早い。

水を吸い込んでぐんぐん成長する植物のように、日ごと彼は泳ぎを上達させていた。

初めて海に来たとは思えない程、堂々とした泳ぎっぷりだ。

 

「まだキックが弱いな」

「はい…」

しおれた朝顔みたいにうなだれる鈴世の頭をくしゃりと撫でて、俊は笑った。

「そんなすぐに出来るかよ。プロのスイマーじゃあるまいし。最後の方は良かったぞ。あの感じを忘れるな」

「はい!!」

顔を上げてにっこり笑う。その顔はやはり彼女に似ていた。

 

「それに…」

「?」

何かを思い出して笑みをかみ殺しているコーチに、

鈴世は怪訝そうに小首をかしげる。

「おまえの姉貴よりは、随分飲み込みが早いよ」

 

彼女に水泳を教える気になったのは、同じグループだったからだ。

他に何の感情もなかった…と思う。

そして何故彼女の弟に水泳を教える羽目になったのは、というと。

 

いつも通り自主的に砂浜をランニングしていた俊は、ふと足を止めた。

「なんだ…あれ?」

 

遠くからでも目を引く金色の髪の子供。

穏やかに打ち寄せる波の中にそっと足を踏み入れつつ、奥へ奥へと進んで行く。

その小さな勇ましい姿は、悠然と寄せてくる波の前では途端に萎縮してしまい、背を向けて退散していく。

波が彼の足を攫うことのない安全な場所までくると、彼はまた意を決して波と対峙するのだ。

 

「何やってんだ?」

俊が訝しそうに思わず声をかけると、彼は跳ね上がりそうなくらい驚いていた。

おずおずと振り向いて俊を見上げたその顔に、どことなく見覚えがある気がした。

既に夏特有の強い日差しが、少年の金色の髪を眩いほど輝かせ、大きな瞳は海の青とも空の蒼とも違い、そのどちらより透き通っていた。

見れば見る程美しい子供だから、一度見たら忘れないはず。

だからやはり会ったことはない…はずだ。

 

枝に引っかかった風船が、何かの拍子にするりと風に乗って飛んで行ってしまうような、頼りない感覚だった。

地元の子供にしては、海に慣れていない。

しかし他にこの子の家族らしき人物も見当たらない。

 

「この辺の子じゃ…ないよな?」

「うん。お父さんのお仕事のお手伝いで家族みんなで来ているんだ」 

「じゃあ、親父さんはずっと仕事って訳だ」

彼は返事をする代わりに、コクンと頷いた。

「だからってガキ一人で海に入るなんて、無茶もいいとこだ」

 

「ぼく…泳げるようになりたいんだ…」

「あのなぁ…」

 

おまえ、人の話聞いてるか?と俊は言葉を続けようとしたが、捨てられた子犬のような瞳で呟かれると、それ以上何も言えなくなってしまったのだ。

 

「しょうがねぇなぁ…昼メシ食ったらまたここへ来る。だがおれも合宿中であんまり時間はねぇんだ。それでもいいか?」

「え?え??」

「だーかーら!!泳げるようになりてぇんだろ!?」

「うん」

「…教えてやるよ。その代わり特訓だからな」

「はい!!」

 

ダンボールの中でちんまりと座る雨に濡れそぼった子犬は、雫を振り払うかのように尻尾を振って喜んでいた。

見ず知らずの子供と、なんでこんな約束をしてしまったのだろうかと、ランニングに戻りながら俊は首をかしげていた。

 

去年の臨海学校の時といい、何故か自分は水泳を教える役回りが巡ってくるらしい。

苦笑を浮かべつつ、俊は思い返していた。

笑ったり怒ったり泣いたり、忙しなく表情を変える彼女。

ドジでお節介で、トラブルの中心にいつもいる彼女。

だけどただひたすら真っすぐにいつも気持ちをぶつけてくる彼女、蘭世のことを。

 

「そうか…あいつだ。江藤に似てるんだ…」

髪や瞳の色が太陽と月ほどに違う二人だが、

色彩の奥に覗くやたらと人懐っこいところは、見事にそっくりだ。

俊は思わず足を止め、振り返った。

俊の視界に入っているのは寄せては返す青い波と、どこまでも続く白い砂浜と、そして転々と続く小さな足跡。

その主の姿は既にないーーーー。

 

 

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