めぐる季節

 

 

 

やわらかな午後の日ざしが差し込んでくる。

ターナは読みかけていた本を膝の上に置いて、窓の向こうを見た。

ガラス越しに透けて見える青空。昨日と変わらない、平和な一日。

かつて大きな戦いがあったことなど、絵空事に聞こえてしまいそうなくらい。

魔界に流れる時間は、永遠に穏やかであるかのように。

最初からずっとそうであったかのように、いつしか誰も口にしなくなった。

夫が我が子を抹殺しようとしたことも、誤解がとけたものの、今度はその子の身替わりになって命を落としたことも。

今となっては遠い昔のことになっていた。

先ほどよりもぼんやりと潤んだ瞳で、ターナは空の向こうを見上げた。

空は変わらず青いまま。

 

トントン。

誰かがドアをノックしている。その音にターナは振り返って返事をした。

「お義母さま、庭園の花が美しく咲いていましたから、活けてみましたの」

そう言いながらフィラがにこやかに入ってきた。

花瓶の中の花はいかにも彼女らしいセレクトで、可憐で清楚な彩りである。

「まあ、いい香りだこと」

フィラの手からそれを受け取ると、ターナはサイドテーブルの上に置いた。

 

「読書をなさっていたのですか?」

フィラはソファの上に読みかけのまま置かれてある本に目線を移してたずねた。

「ええ。そうしたら懐かしいものが出てきたの」

嬉しそうにターナが答えると、本の間から栞の代わりに一枚の写真を取り出してみせた。

「まあ」

色褪せてしまった写真を手にとったフィラは、微笑みながら小さく驚いた。

 

美しい桜を背景に、どことなく緊張ぎみに写る小さな男の子と、

その横でにっこり笑うかつてのターナ、真壁華枝の姿。

「これは…俊様?」

「そう。幼稚園の入園式の時の写真なの」

「随分可愛らしいですのね」

「ふふふ。そうねぇ。この頃はとても可愛かったのよ。だんだん憎まれ口を叩くようになってしまうけど」

そう言って、ターナは目配せをして笑った。

「ふふ…俊様が聞いたらお怒りになられますわよ」

とは言うものの、フィラも口元を隠して笑っている。

 

「あとどれくらいかしら?だいぶお腹が大きくなってきたわね」

二人はソファに腰掛けた。

「まだまだですわ。お義母さま」

フィラははにかんだ笑顔で、膨らんだ自分のお腹を愛おしそうに撫でる。

華奢な体つきのフィラのお腹は、まるでもう臨月を迎えているようにみえるが、実はあと約一ヶ月ほど先なのだ。

「あら、まだそんな先だったかしら。アロンがあまりにもそわそわしているものだから…」

早くも産着やおもちゃをあちこちから取り寄せているアロンの姿を思い出し、二人はまた笑った。

 

新しい生命がこの世に生まれてくる。

夫はきっと天上界では同じように初孫の誕生を心待ちにしているに違いない。

いったいどんな顔でその瞬間を迎えるのだろう。

そう考えるとターナは可笑しくてくすりと笑った。

そしてまた遠い空を、ガラス越しに見上げてみる。

眩しい光のその向こう。

姿は見えないけれど、そこにいる人に微笑みかける。

 

「母上ー」

数回のノックの音の後、次に中に入ってきたのはアロンだった。

「あれ、フィラも来てたのか。気分は?大丈夫かい?」

すぐにフィラの存在に気付くと、彼女をいたわる言葉をかけた。

アロンとの再会は最悪の出会い方をしてしまったけれど、いつのまにか息子は大人になっていた。

そんな様子をターナはかつての自分の夫の姿と重ね合わせ、懐かしく微笑む。

教えた訳でもないのに、だんだんと父親に似てくるものなのだと。

 

「ああそうだ、母上。今俊と蘭世ちゃんが来てるんだけど、一緒に来てもらえるかな」

いつもの通り何故部屋に来ないのだろうと、若干の疑問を抱きつつも、ターナは何も言わずアロンについていくことにした。

廊下を歩きながらアロンは絶えず横のフィラを気づかっている。

大王に即位し、父親になろうとしているアロンには以前のような刺々しさはもはやなかった。

確実に時が流れる様を、ターナはそんなところにも感じ取っていた。

 

二人が待っているという、中庭へと急ぐ。

手を振る蘭世と、その横で軽く腕組みをしている俊の姿が視界に入ってきた。

 

「お待たせー」

アロンが手を振りかえし、仮にも大王とは思えないほどの人懐っこい笑顔で歩み寄る。

その後ろにいるターナの姿に、蘭世が気付き会釈した。

ターナは微笑みでそれに応える。

「うわーフィラさん、お腹、だいぶ大きくなったのねー」

蘭世はフィラのお腹にそっと手をあてて驚いたり喜んだりしている。

 

ターナは俊に声をかけた。

「元気だった?」

「ああ」

相変わらずのこの息子の返事である。

「おふくろも元気そうだな」

かける言葉は素っ気無いけれど、俊の瞳は春の海のように凪いでいる。

 

ほんのしばらく会わないだけで、もう一人の息子も随分落ち着いたように思う。

蘭世とフィラはまだ楽しそうに会話を弾ませている。

そんな蘭世を見守るように、ふっと笑みをもらす俊の表情は以前よりずっと柔らかなものになっている。

ターナは俊もまた大人になったのだと、あらためて感じていた。

 

「ところで、今日はどうしたの?みんな勢ぞろいだけど…」

ターナは周りにいる息子達に交互に笑顔で問いかけた。

「それはね…」

アロンが小さな男の子のように無邪気な瞳でターナの顔を覗き込んだ。

そしてターナの正面に立っていた俊が、道をあけた。

 

俊の背後には、まだ植えたばかりの見おろせるほどの若い木が隠れていた。

木と呼ぶにはまだ若すぎる、細くて小さな苗木。

「これは…?」

「二人に頼んで人間界から持ってきてもらったんだ。毎年綺麗な花が咲くんだって」

アロンが照れまじりの笑顔で、腰ほどの高さの幼い木を見下ろす。

「何の花が咲くのかしら?」

まだ緑の葉もついていない、裸の枝にターナは手をのばした。

 

ターナの指先が触れるか触れないかの距離にまで差し迫った時。

見下ろすほどの高さだった若木は、あっと言う間に見上げるほどに成長した。

頼り無いほどの細さだった幹は、どっしりと威厳すら感じさせるほどに。

太い枝を張り巡らせた後、小さな蕾をつけ始めると一斉に花を咲かせた。

無数の薄紅の花はひとつの大きな雲をつくり、空を隠した。

ほどなくして雲からははらはらと淡い色の雨が降り出す。

その突然の様子を誰もが言葉を失って見つめていた。

 

アロンとフィラは、互いに顔を見合わせて驚きを隠せない様子。

暫くして心をすっかり奪われていた蘭世が、ぽつりと「…綺麗」と呟いた。

ターナは訝しんだ。

そんなことができるのはきっと…。

俊は相変わらず表情を変えずに目の前の桜を見つめている。

 

「折角だから、お花見しましょう。」

ターナが思い巡らせていると、蘭世がにっこり笑ってぽんと手をうった。

「そうですわ。桜の下で、午後のお茶にしましょうか」

フィラがそれに同調する。

「じゃ、準備をさせるよ。おーい、サンドー」

アロンはサンドを呼びに足早に城の中へ戻る。

あれよあれよと言う間に、準備が進められていく。

呆気にとられた感のあるターナと俊は互いに顔を見合わせ、そして笑った。

 

花を愛でながらの午後のお茶会のために、テーブルと椅子が用意された。

太陽の光を和らげるように、桜の雲は影をつくる。

薄桃色の光の下、彼らは暖かなお茶を口に運び談笑する。

時折舞い降りてくる花びらを見上げたターナはどこか懐かしいような、切ないような気持ちにかられた。

記憶は遡り、時計の針は逆回転を始めていた。

 

時の中で桜は咲いて揺れていた。

 

あの時も空は青く、花は美しかった。

降り注ぐ光と散りゆく花の中で、幼い俊は笑っていた。

無邪気な中に、少しの不安を精一杯隠して。

まだその手は小さく、でも瞳の奥はこれから始まる未来に輝きを秘めていた。

真直ぐに、前だけを見つめていた。

 

父親がいない理由を、俊は一度も問いつめることはしなかった。

両親がそろった家庭に育った子供が多い中、彼はどんなふうにそれを感じたのか。

毎日のように誰かと喧嘩をしては、手や足に時には顔にも傷をこしらえて帰ってきた。

喧嘩の原因だけは、絶対に口にしなかった俊。

先生から、母子家庭であることをからかわれて取っ組み合いになったのだと聞かされ、

やりきれない想いで、涙が止まらなかった。

ごめんなさい…俊…。

 

「おふくろ?」

隣に座っていた俊の声で、ターナははっと気がつく。

すっかり冷めてしまった紅茶にはいつの間にか、桜の花びらが一枚浮かんで揺れていた。

俊は何も言わないが、きっと先ほどの思考を読んでいたのかもしれない。

それでも俊はそのことには触れようとしない。

ただ優しく、いつものように母親に微笑むだけである。

 

楽しい一時は、サンドの登場でお開きとなる。

「大王様、大蔵大臣と会議のお時間でございます」

「わかったよ。あーもう、面倒臭いなぁ」

渋々と席をたつアロン。

「フィラ、君も検診の時間だろう?部屋まで送るよ」

アロンは妻に手をさしのべる。

「じゃあ、僕達お先するよ」

「アロン」

「なあに?母上」

「…ありがとう」

ターナはそのまま息子の瞳を見つめて、穏やかな笑みを浮かべた。

「や、やだなあ。お礼なんか言わなくてもいいよ。大したことじゃないんだし。じゃ、ゆっくりしていってね」

照れ笑いを残して、アロンはフィラを支えるように場を離れた。

 

「アロンったら、照れちゃって」

蘭世が後ろ姿を見送りながら笑う。

「誰に似たのかしらね」

ターナもくすくすと笑う。

自分のことを含めて暗にいわれているような気がして、何となくばつが悪そうに、俊は紅茶に口をつける。

「ところで、あなたたちの赤ちゃんを見られるのはいつ頃かしら?」

げほっ。げほっ。ごほっ。

俊は紅茶が気管に入ったらしく、真っ赤な顔をしてむせている。

蘭世もまたティーカップを握りしめながら顔を赤らめ、うつむいている。

 

「おふくろ〜〜〜」

「いい知らせを待ってるわ」

俊の困ったような訴えかけるような目にもそ知らぬ顔で、ターナはにっこり笑う。

母親にはいつまでたっても適わないものだと思い知らされた俊。

返す言葉もない。

 

「俺たちもそろそろ帰るよ」

ようやく咳が落ち着いた頃、まだ赤みの残る顔で席を立った。

蘭世もそれに続く。

「また、遊びにいらっしゃい」

二人を見送るターナは別れ際、俊に言葉をかけた。

俊は振り返る。

目の前で微笑むその人は魔界の皇太后でもあり、俊には依然として母、真壁華枝でもあった。

 

―――ここはあなたが生まれた場所なのだから…

 

「ああ」

少しの間をおいて、俊は笑って答えた。

 

手を振って、ターナは俊と蘭世を見送る。

やがて小さくなっていく二人の後ろ姿。

つかず離れずの微妙な距離で歩く俊。

その後ろ姿が、これ以上じっと見ないでくれと言っているようで、ターナは最後にまたくすりと笑うと背中を向けた。

 

「ねえ、真壁くん…」

歩きながら、俊の腕に手を絡めて蘭世は彼を見上げる。

「なんだよ」

「あの桜、真壁くんの力なの?」

「まさか。俺じゃねーよ」

俊は軽く一笑する。

「じゃあ、誰なの?アロンじゃ、ないわよね…」

蘭世は首を捻る。

本当にわからないらしい。真剣に悩み続ける蘭世の横顔に、俊はまたこっそり笑う。

「そろそろお出まし、かもな。まったく世話がやける…」

空を見上げて俊は呟く。

まだ理解できず、同じく天を仰いでみる蘭世だが、見えるのは青い空ばかり。

 

賑やかだった桜の下は、急にひっそりと静まり返っていた。

変わらず降り続ける雨。

風に漂い、落ちていく。

 

「そこにいらっしゃるのでしょう?」

小さな若木の幹は、今や両手を回しても半分も足りないほどの太さになっていた。

ターナは誰もいないはずの桜に話しかける。

返事はない。

「出てきてはいただけないのですか?」

ゆっくりと、澄んだよく通る声でもう一度問いかける。

 

一陣の風が花びらを巻き込んで渦を作り、駆け抜けていった。

太い幹からは見覚えのあるマントが、風になびいてちらりと顔を覗かせた。

それでもその主は木の影に隠れて出てこようとしない。

痺れをきらせたターナはすぅっと、息を大きく吸い込んだ。

 

「…マントが見えてますわよ。あなた…」

 

こう言われては出てくるより他はなかった。

大きな体が小さく見えるほど、肩をすくめて気まずそうに出てきたのは前大王、レドルフだった。

姿をさらしたものの、レドルフはなかなか口を開こうとしない。

うつむいて言葉を探している。

「お久しぶりですわね」

「あ、ああ」

夫が天上界へ行ってしまってから、ずいぶんたつ。

その再会の第一声は、たった一言。

ターナは予想通りの反応に、微妙な笑顔。

 

「この桜は、あなたの力でしょう?」

ひんやりとした幹に手を置き、ターナは頭上広がる雲を見上げた。

はらり、はらり。絶えまなく花は降る。

「うむ」

レドルフは所在なげに、頭を掻く。

その顔はすっかり湯で上がって真っ赤になっていた。

その時、綺麗に結い上げたターナの黒髪の上に、花びらが一枚舞い降りてきた。

しかしそれを取ってやることは、もうできない。

レドルフは実体化していない自分の両手を見つめて、奥歯を噛み締める。

その頬にもう触れることもできない。

してやれることは、何一つない。

下へおりれば嫌と言うほど思い知らされることは、最初からわかっていた。

だから会わずに帰るつもりだった。

ただ喜ぶ顔が見たかったから。

華やいだ笑顔が見たかったから。

 

そんなレドルフの横顔を黙ってターナは見つめた。

言葉は交わさなくても、思考を読み取らなくても。

彼の心はその表情から、汲み取れた。

もうその背中にすがりついて、涙することも叶わないけれど。

ターナは幹に頬を寄せた。

まるで愛する人に寄り添うように。

「ありがとう…」

それきり、続く言葉はなかった。

 

ターナのその一言と頬を伝う一筋の涙で、レドルフは理解した。

多くは語らなくとも、ターナの心情は読み取れた。

たった一言の感謝の言葉は自分だけではなく、今日この場を作ってくれた息子達にも向けられていた。

一緒に過ごした時間はごく短かったはずなのに、なぜか他のどんな夫婦よりも心からわかりあえているという、漠然とした自信のようなものが今はあった。

だからレドルフは何も言わなかった。

緩やかな風に乗った花びらの群れが、ターナにそっと寄り添う。

抱き締めることが許されない、自らの両手の代わりに。

 

魔界に咲いた桜の花。

束の間の逢瀬の時を贈り、散っていく。

空は変わらず青いままに。

 


 

かるさんへプレゼント。

彼方から降る光」の続編になります。

桜を題材にいくつか書いておりますが、普通桜のイメージは儚く美しい女性ですよね。

でもここでは敢えてレドルフさんということで。

かるさんのところの後書きでも書いておりますが、

桜は亡くなった人とかこの世のものではない存在の象徴だととらえております。

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