彼方から降る光

 

 

天気予報通りに朝から雨が降り出していた。昨日とはうって変わった鈍色の空。

鉛色のアスファルトに咲く、赤い傘と濃紺の傘の上で雫が跳ねて踊る。

雨脚が激しさを増した頃、二つの傘は映画館の前で立ち止まった。

そこには最近封切られたばかりの映画のタイトルが並ぶ。

「江藤、どれにするんだ?」

俊が後ろで立っている蘭世に振り返って問いかけた。

その声が届いていないのか蘭世はじーっと、近くに掲示してあった映画のポスターを食い入るように見つめている。

「…それにするか」

「え?でも…真壁くんこういうの苦手でしょ?」

驚いたように、申し訳なさそうに蘭世が俊を見上げる。

俊はそれを見てくすりと笑うと、蘭世をその場に残して窓口へと行ってしまった。

 

「ほら」

すぐに戻ってきた俊の手から渡されたチケットを、蘭世は条件反射で受け取った。

「真壁くん…これ…」

「行くぞ」

「は、はいぃっ。」

 

始まった映画はいかにも蘭世が好きそうな、ごくスタンダードでオーソドックスなラブストーリーだった。

途中、俊は何度も睡魔と戦い、欠伸を噛み殺していた。

しかし隣で完全に没頭し、主人公に感情移入してぼろぼろと涙を零している蘭世を見ると、俊の表情は自然と柔らかくなるのだった。

 

「はあぁぁ…感動しちゃったぁ…」

エンドロールが終わっても、蘭世はまだその世界に浸っていて座席から立てずにいた。

ようやく二人が立ち上がった時、明るくなった場内には、入れ替え制のため次の上映を待っていた人たちが中に流れ込んできた。

 

二人が外に出ると、いつの間にか雨は上がっており、明るい日ざしが濡れた鋪道を眩しく照らしていた。

空気が洗われて、いつもと同じ町並みが少し違って見える。

「ねえ、ちょっと寄り道していかない?」

何気ない蘭世の一言で、二人は映画館から近くにある公園まで足をのばすことにした。

 

「うわぁ、見事に散っちゃったね」

蘭世が桜並木を見上げて残念そうにため息をついた。

どうやら散らしの雨になってしまったようだ。昨日まで辛うじて残っていた薄紅色の花は、咲いていた痕跡すら消してしまうほど跡形もなくなっていた。

「そうだな」

俊は枝を見上げ、そして足元に目を移した。

美しい衣をすっかり落としてしまった枝は、既に新しい緑を身に纏っており、今や足元を染める花びらだけが、これが桜の木だと知る術となっていた。

 

「ねえねえ、真壁くん。あれ…まだ咲いてるよ」

蘭世が指差す方を見ると、確かにそこには一本だけ時間を巻き戻したように今を盛りに咲き乱れている。

風に乗って運ばれてくる花びらに誘われるように、二人はどちらからともなく歩き出した。

今日の雨の名残り、小さな水たまりをいくつか超えると、しばらくしてそこに辿り着いた。

意外と大きな木だったことが、近づいてみて初めてわかる。

そしてやはりそれは間違いなく桜の花であったことがわかる。見まがうことなき、花の雲。

「嘘みてぇだな」

思わず俊は呟いた。

何も言わず桜は花びらを雨のように降らす。まるで夢のような時間。

 

その時二人の間を桜色に染まった風が駆け抜けた。風に泳ぐ花びらが二人の視界を遮る。

風が通り過ぎた後、再び目を開けた蘭世は俊の背中越しに何か光るものに気がついた。

蘭世は不思議に思ってそっと、後ろから覗き込んだ。

光のシールドの中、俊の手に導かれるようにゆっくりと舞い降りてきたのは一枚のカードだった。

 

―――俊

 

手に触れた途端、書かれた文字は聞き覚えのある声に変わった。

「親父…」

「大王様…」

 

―――今まで一度も父としておまえに何もしてやれず、すまないと思っている。

それどころか惨いことばかりしてきた、酷い父であった。許されなくても構わない。

ただ、これからはおまえとおまえが愛する者たちを、空から見守り続けていくことを、それだけは許してほしいのだ。

 

黙って聞いている俊の横顔を、蘭世はまた流れそうになる涙を堪えつつ見つめた。

俊はどんな気持ちで聞いているのだろう。表情は変えないが真剣に聞き入っている。

誤解だったとはいえ、実の父親から命を狙われた過去の事実は消えない。

そう考えると、蘭世の心は締め付けられるように痛んだ。

 

―――遥か彼方の空から、君生まれし日を心より祝う

                            父

 

最後の言葉が終わると、手の中のカードはまるで淡雪が溶けていくように消えていった。

 

失われた時間を懸命に埋めようとする、威厳ある魔界の大王ではなく一人の父親の姿。

なんて不器用な愛情表現なのだろう。

俊の中に確実に胸にこみ上げてくる感情があった。たぶんそれは今までに感じたことのないものだった。

感情を現したり気持ちを伝えることが苦手なのは、やはりこの人の血を受け継いでいるからなのだと、俊は改めて思う。

 

ひょっとしたら、自分のこの手で実の父親を殺していたかもしれない。

あの時和解をして、溶けることはないと思われていた氷の壁は、粉々に砕け散った。

いろいろと紆余曲折はあったものの、やはりこの人は自分の父親なのだ。

素直に嬉しいと思うが、こういう時どんな表情をしたらいいのか、俊にはわからなかった。

ただ遠い空をいつまでも見つめていた。それだけが精一杯だった。

 

蘭世は俊にかける言葉が見当たらなかった。ただ黙って俊の腕にそっとその細い腕をからめる。

思考を読み取るまでもなく、触れた所から蘭世の気持ちはそのまま伝わってきた。

何も言わずにいてくれることがありがたかった。

 

(真壁くん、泣いてる…?)

蘭世の心の声で、初めて俊は頬に伝う涙の感触に気付く。

いないものだと思っていた父親の存在を知った時。

憎まれ、命を狙われていると知った時。

不器用ながら、その父からの愛情を感じた今。

今までと今とが複雑に絡み合って、ごく単純な感情に結びついた。

 

自分もそんな父親を愛しているのだと。

「ありがとう、親父」

桜の雲のその向こうにいる父に、おそらく今もそこから見ている父に、俊は心からの言葉を贈った。

 

「…なんだよ、おまえまた泣いてんのかよ。そのうち涙が涸れちまうぞ」

隣でまたぼろぼろと大粒の涙を流していた蘭世に気付いた俊は、そう言うと蘭世の鼻をきゅっとつまんで笑った。

「ひどっ…何よぉ、真壁くんだってまだ目がウルウルしてるわよ」

「うるせー、俺はいいんだよっ!」

俊はそう言って、蘭世に背を向けた。

まったく…意地っ張りなところは絶対に父親譲りに違いない。

蘭世は俊に聞こえないように、心の中でできるだけ小さな声で呟く。

だけど最後に一粒だけ残っていた氷の欠片は、今ようやく溶けたのかもしれない。

 

冥界での戦いを終えて初めての誕生日を迎えたこの日、蘭世には俊の横顔が昨日とはどこか違うように思えた。

まるで雨上がりの雲からのぞく太陽が、辺りを明るく照らすように。

 

 


 

yokoponさんへプレゼント。

バースデー企画で部長ことyokoponさんがが描かれたイラストを拝見して、閃いたお話です。

それから「めぐる季節」へと繋がっていきます。

大王レドルフへスポットを当てることが、この頃は非常に多かったのですね(笑)

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