「またここにいたのですね、モーリ」 母の声に、彼は今まで目を落としていた書物から顔を上げた。 目の前には困ったような、呆れたような表情の母の姿。 恒例のお小言が始まりそうな刺々しい空気が漂ってきて、彼はこっそりため息をつきながら本をぱたりと閉じた。
「この場所が一番落ち着くのですよ、母上」 「あなたという人は…」 次に始まる言葉も、締めの言葉も多少変われどたいした違いはない。 母の代わりに、今ここで諳んじることだってできる。 もっともそんなことをすればどうなるか… 面倒引き起こすだけの結果に終わるので、まだ試した事はない。
「母上がいらっしゃったということは、父上がわたしを呼んでおられるということですね?」 息を吸い込んでさあ今から、という時に息子に先手を打たれた母親は言葉を飲み込んだ。 「え…ええ」 「では行って参ります」 にっこり笑うと彼は呆気にとられたままの母親を残して、書庫を出た。
母に確かめるまでもなく、父はおそらく書斎で仕事中のはず。 だからそこへ行けばよい。が、彼の足は書斎へは向かわない。むしろ逆だ。 父からの話もまた、話し口調をそっくりそのまま真似て言える程、何度も聞かされていることだ。 わかっていてわざわざ出向く事はあるまい。 それにどうしても、今は父の顔を見たくなかった。
彼は自慢のマントを翻すと、黒い翼を羽ばたかせた。 もがくように空を翔る。 何の解決になっていないことを忘れる為に。 ただ逃げているだけだという事実から目を背ける為に。
彼の父は吸血鬼村の村長。 そして彼は跡継ぎの長男。 既に道は用意されている。彼が望む望まざるにかかわらず。
飛ぶことに疲れて喘ぐようにモーリが降り立った場所は、とある森の中。 まるでそこには誰も訪れた事がなかったかのように、ひっそりと静まり返っている。 彼は元の姿に戻ると、辺りを見回しながら歩き始めた。 するとすぐに銀色の魚の鱗のように光る湖が見えてきた。 その周りには湖を取り囲むように花が咲いていて、仄かに甘く優しい香りが風に乗ってやってくる。
一本の木の下で腰をおろすと、モーリは静かに目を閉じた。 息を深く吸い込み吐き出し、これでリセットだ。 この場所で魔界の長い歴史を見届けてきた木々は、何も言わずただ風に枝葉を揺らせる。 その葉と葉の間を抜けて差し込んでくる柔らかな光が、 モーリの心を少しずつ癒してくれた。
いつまでも先延ばしにしていていい訳がない。 「それはよくわかっているさ」 自嘲気味に呟いてモーリは立ち上がる。
誰にも邪魔されない場所。ここならば読書するのに適しているかもしれない。 再び飛び立ったモーリはそんなことを考えながら、お小言が待ち構えている我が家へと戻っていった。
案の定、モーリは散々両親から叱りの言葉の礫を全身に受けた。 二人の声は聞こえているが、こっそりモーリは聞き流している。 表情は真面目そのもので神妙な面持ちを保ちながら。
かれこれ1時間はかかったであろう説教が終わり、彼が戻ったのは自分の部屋ではなく、またしても書庫であった。 ドアを開けようとしたモーリを呼び止める声がした。 「今日もこってり絞られましたわね、書庫の番人どの」 そう言ってにっこり笑うのは、祖父の恋人だ。 モーリは苦笑混じりの笑顔で返す。
彼女は恋多き祖父の恋愛の歴史の中では、比較的歴史は浅い。 何しろ元は人間だったのだ。 当時の彼女は舞台女優として、なかなか有名だったらしい。 肉親や友人も、華やかな光を浴びる女優としての生活も何もかも捨てる代わりに、祖父からの洗礼を受け、永遠の生命を与えられて、この魔界へやって来た。 およそ100年前の話になる。 その時の話は祖父から聞いた。というより聞かされたことがある。 彼の密かな趣味であり目標を何故だか知っている祖父は、これを小説に書いてみてはどうかと持ちかけてきたこともあったが、 モーリはやんわりと断っている。
「わたしにご用ですか?」 「ええ。人間界から持って来た本なのですが、モーリ殿がお好きでしたら差し上げようと思いまして」
魔界の書物はほとんど読んだと自負してもいいほど、大抵は読破しているモーリだったが、 こと人間界のものについてはまだ未開の地である。 モーリの好奇心が刺激されてざわめいた。
「わたくしが生まれた国ではとても人気のあった劇作家のものです」 「ありがとうございます。では早速拝読します。」
手渡されたそれは、「本」というよりも、台詞ばかりが並ぶ「台本」だった。 おそらく彼女がかつて演じたであろう、お芝居のものなのだろう。 そんな事には全く厭わずに、彼は早速読みはじめた。 書庫で、或いは彼が見つけた秘密の場所で。 彼女が持っていたのだから、当然のごとく全ては人間界の文字で綴られていた。 あらゆる言語に精通していた彼にとって、それは苦痛ではなかった。 ただし、今まで彼が読まなかったジャンルだけに戸惑いを覚えたことは確かである。
対立する家柄にそれぞれ生まれたロミオとジュリエットが恋に落ちる。 それを知った周囲の者は二人を引き裂こうとするが、二人の恋の炎は増々燃え上がる。 そんな二人を待ち構えていたのは運命の皮肉。 結果、二人は死をもって結ばれる。
モーリとてもういい年齢だ。 恋愛の十や二十はとうの昔に経験済みだと胸を張って言ってみたいところだが、どうやら恋多き種族の血は彼には流れていないのかもしれない。 出会った瞬間に稲妻に打たれたような衝撃を受けたり、その身を焦がすような、全てを投げ打ってでも手に入れたい恋など未だ経験した事がない。 モーリにはロミオの心境がわかりかねた。 はたして、出会ってすぐに恋に落ちるものなのだろうか。 ましてや命を賭けた恋など、想像を絶するものだ。 それとも咲いてすぐに散りゆく儚き命だからこそ、激しく燃えるのだろうか。
「恋とは…なんだろうか」 モーリは呟き、本を閉じた。
祖父とは違い、彼は恋愛にたいしてあまり積極的ではなかった。 いつかは両親が納得するような、良家の子女と結婚して父の跡を継ぐのだ。 残された時間が限られたものならば、彼はそれまでを自分の好きなように使いたかった。 恋愛などしても無駄だ。すっかり彼は諦めの心境に至っていた。
そう。運命というべきあの日、彼女に会うまでは。
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