その日も彼は湖に程近い木の枝に腰掛け、いつもの様にため息をこぼしていた。

手には彼の努力の結晶でもある何枚もの原稿用紙。

真っ白な紙にペンを走らせ、登場人物たちに生命を吹き込む。

だが彼らは手のかかる子供達で、中々思うようには動いてはくれない。

悪戦苦闘し何度も書き直しては、ここで一人、誰にも邪魔されることなく読み返すことができる。

心を落ち着けて、書き手から読み手へと視点を変えてみるのだ。

 

真剣な面持ちで彼は、静かに文字を追う。

が、次第に彼の表情は険しさを深めていく。

 

「だめだ…」

手のひらを額にあてがい、天を仰ぐ。

絶不調だ。それとも根本的に自分には文章を書くという才能そのものがないのかもしれない。

プロットの組み立て方。伏線の張り方。表現力。

そのどれもが何から何まで納得がいかない。

書きたいという気持ちはこんこんと湧き続ける泉のように、常に彼の胸の中にあるというのに。

 

夢を追い掛けたい気持ちはあるものの、彼には切実なる現実問題があった。

そんな心の迷いは悲しいかな、彼の作品に如実に現れてしまっている。

自分で納得のいく作品一つ作れないで、作家になりたいだなどとは。

ましてや彼を時期後継者として信じて疑わないでいる父親には、口が裂けても言えやしない。

やはり父の後を継ぐべきなのか。

随分前から言われ続けている言葉が蘇ってくる。

 

いったいいつになったら、おまえは目を覚ますのだ。

そんな夢ばっかり見ていないで。

おまえは大事な跡取りなのだ。

 

敷かれたレールに乗ることに反発して抗うほど、子供じゃない。

彼は充分に分別のある大人だった。

だからわかっている。いつまでもこのままではいられないことを。

 

いっそのこと、破り捨ててしまおうかと 再び、手元の原稿に目を落とす。

すると彼の足元の視界に、金色の狼が入ってきた。

見事なまでの黄金色に目を奪われ、彼は原稿を破りかけていた手をふととめた。

狼は鏡のように光る湖をじっと見つめている。

その背中は力なく丸くなっていて、人間の姿だとしたら、がっくりと肩をおとしているかのようだ。

 

突然、悪戯なつむじ風が吹き抜けた。

彼は通り抜けるまで目を閉じ、やがて開けた。

水面には幾つもの小さな銀色の波ができていた。

まるでこの森の精霊たちが何かの気配を感じてざわめきたつように。

 

金色の狼は静かに息を吐いていた。

そして俯いていた頭を急に上げ、ぴんと背中を反らすように伸ばした。

少しずつ体全体を覆っていた毛皮が消えていく。

その代わりに、まるで絹糸のようにしなやかな金色の長い髪が現れ始め、柔らかい草を踏みしめていた両方の前足は、白く華奢な手に変わった。

一匹の狼は一人の女性になったのだ。

 

狼人間か…。久しぶりに見たな。

 

異種族の魔界人とはあまり交流がない。

多種族が大きな諍いごともなく、平和に暮らしているのもあまり他の種族には干渉しないせいもある。

係わりがなければ、もめ事の種もないというわけだ。

彼は狼人間村に立ち入ったことはなかったし、逆に彼の村で他の種族に出くわすこともなかった。

禁止されている訳ではないのだが、それが暗黙の了解、ルールとなっている。

 

彼女は呼吸を整えながらしばらく水面を見つめていたが、最後に深く息を吸い込んだ。

そしておもむろに

「お父様のわからずやーーーっ!!!」

と叫んだ。

 

彼女の意外にもよく響く声と、その突拍子もない言動にすっかり面喰らった彼は、手にしていた原稿を危うく取り落としそうになった。

しかし落とさずにすんだものの、原稿に気を取られていると、今度は均衡を大きく崩してしまった。

なんとか保とうとしたものの、折角手にしていた分厚い束の原稿はさながら水鳥が一斉に羽ばたくように飛び散り、

捕まえようとした彼の手はことごとく空(くう)を掴み、あっと叫ぶ間もなく地面へと落ちていった。

もちろんコウモリに変身する間もない。

 

腰やら足やらを打ち付けてしまったが、特に怪我はないようだった。

ばらまいてしまった原稿用紙が遅れてひらひらと落ちてくるのを仰ぎ見つつ、意味のない笑顔のままマントについた汚れを払い落とす。

 

叫び声の主は申し訳なさそうに、何度も詫びた。

白い頬には朱がさし、蒼い瞳は戸惑いで揺れている。

彼女の謝罪の言葉はそっちのけに、儚気に揺れる彼女の金色の髪に見惚れながら素直に美しい女性だと、モーリはそう思った。

その間も空からは彼の失敗作が空中をたゆたいながら降ってきている。

 

その一枚を手に取った彼女は更に顔色を変えた。

目まぐるしく表情が変わる女性だと、半ば感心しながらモーリが考えているうちに、彼女は原稿を探しに湖まで突入してしまった。

 

きっと止めても無駄だろう。

それほど彼女はまっしぐらに何の躊躇いもなく進んでいくのだ。

絹のドレスはすっかり水を含んで色を変えてしまっている。

たった一枚の紙の為に水へ入っていくとは。

そんな価値など、あの紙切れにはありはしないのに。

「やれやれ、無茶をするお嬢さんだ…」

モーリは静かに湖の中へ入って行った。

 

まとわりつくような水が邪魔をするけれど、一歩ずつ彼は彼女へと近づく。

「どうしよう…こんなになってしまって…」

それは最初から予測がついたことだった。

原稿用紙に散らばっていた言葉はインクで書かれている。

水にさらせば滲んで消えて行くのは当然のこと。

しかもそれは完全な失敗作なのだ。

 

「いいんですよ」

その声に驚いた表情で彼女が振り返る。

また蒼い瞳が悲し気に揺れる。

「ごめんなさい」

彼女が震える声で彼を見つめる。

手には目一杯水を含み、微弱な力で容易く破れてしまいそうな原稿がある。

まるで大切な宝物を取り扱うように、そっと。

「わたしのせいで…」

「それはわたしの台詞ですよ」

 

彼は彼女の言葉を遮った。

これ以上彼女の口から謝罪の言葉を聞きたくなかったのだ。

 

ーーーあなたは何も悪くない。

 

自然と差し伸べられた両手は柔らかな彼女の髪を滑り、そっと自分の胸へ抱き寄せた。

はずみで彼女の手から原稿の成れの果てはこぼれ落ち、幾つもの波紋を作った。

モーリの胸にはそれ以上に漣が次から次へとやって来ている。

 

「原稿が…」

彼女の声にモーリは我に返り、慌てて手を離す。

何故彼女を抱き寄せたりしたのだろう。

感情すら追いついていかない。一体これはどうしたことか。

モーリは気が動転しているのを悟られないようにしながらも、頭の中は、様々な言葉でたった一つの感情を打ち消そうとしていた。

 

「し…失礼、お嬢さん」

 

「シーラ」

「?」

「お嬢さん、ではなくてシーラと申します」

モーリの脳内格闘など知る由もないシーラは、頬を染めつつもにっこりと微笑む。

小さな漣はその時津波に変わり、波に呑まれて頭の中は真っ白になった。

 

あれからどうやってヴァンパイア村へ戻ったのだろうか。

モーリは気がつけばいつもの居場所、書庫にいた。

無意識のうちに手に取って、適当に頁を開いているものの、勿論目は何も辿ってなどいない。うわの空で心は別の場所へと飛んでいた。

手元から本が落ちてばさりと音をたてて、ようやく我に返る。

 

 

ーーー何をやっているんだ、わたしは

 

 

落とした本が『ロミオとジュリエット』だったことに、拾ってみて初めて気づいて、モーリはあらためて溜め息をつく。

「何をお悩みかね?」

驚いたモーリが顔を上げると、いつからそこにいたのか、トーマが扉にもたれ掛かるようにして立っていた。

「お祖父さま…」

「おまえがそんな情けない声を出すということは、相当参っているようだな」

「…はい…」

 

モーリがあまりにも殊勝な態度を見せるのを見て、トーマはどこか満足そうに腕組みをして笑った。

 

「モーリ、おまえは恋をしておるな?」

「…そう、なのでしょうか…」

「顔にかいてあるぞ」

 

モーリは瞬時に顔を赤らめ、それを見たトーマはにやにや笑った。

「堅物のおまえのハートを射止めたのは、どこのお嬢さんかね?」

 

「実は…」

 

重い扉を開けるように、やがてモーリは語り始めた。

出会ったばかりの異種族の娘のことを。

眩いほどの金色の髪と、くるくる変わる鮮やかな表情と。

 

 

「人間は我々のように飛べないが、恋には翼があるのだよ。モーリ、ロミオは敵方の屋敷に住むジュリエットに会いに、

塀を乗り越えた。では翼あるおまえはどうする?」

モーリが話し終わるまで黙って聞いていたトーマは、いつになく真剣な眼差しで見据えるように言った。

 

「お祖父さま、わたしにも恋の翼はあるのでしょうか」

「恋する者には必ずあるものさ」

そう言って、恋多き祖父は片目をつむってみせた。

 

 

自分の正直な感情に背くことなど、できるわけがない。

やがて翼を得たモーリがシーラをさらって行ってしまい、トーマは一族中から責め立てられることとなるのだが、それはまだもう少しだけ先のこと。

 


 

なんでこんなに書き上がるまでに時間がかかったのでしょう…(全て自分のせいです)

元々は「運命のトビラ」でシーラさんの話を書いて、対になるお話を書こうとしたのが始まり。

見た目は黒と金色で真逆の二人ですが、表裏一体といいいますか、どことなく同じものを抱えているような気がします。

だって似た者夫婦でしょ?(笑)

 

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