メヴィウスは不躾なほど、ものも言わずターナを見ていた。 視線は上から下までゆっくり動き、まるで値踏みでもしているかのようだ。 居心地の悪さを感じつつも、ターナはなんとか笑顔を保とうとするが、頬の筋肉が凍り付いて動かない。 そんな様子をわざと楽しんでいるのか、メヴィウスは口元だけで笑うと おもむろに小さな瓶を取り出した。
「これをレドルフ王子に届けてほしいのじゃ」 「…?」 戸惑うターナの手に無理矢理握らせると、メヴィウスはまたにやりと笑った。 「あの、これは一体…」 突然託された預かり物とメヴィウスの顔とを、交互に視線を上下させているターナ。 何故直接持っていかずに、自分に渡すのか。 瓶の中身は何なのか。 何から聞けばいいのか手間取っているうちに、 気がつけば、どんどんメヴィウスの背中が遠ざかっていく。 残されたのは手の中の小さな瓶と不安だけ。 しばらくはただ困惑していたターナだったが、思い悩んでいても仕方がない。 気持ちを切り替えるのが早いターナは、意を決してぎゅっと瓶を握り、王子の部屋へ向かうことにした。
一歩足を進める毎に瓶の中の丸い粒がころりと揺れる。 赤、白、黄色、青…。 入れ物が違っていたなら、ドロップスに見間違えてしまうだろう。 けれどもメヴィウスが作ったものだから、きっと普通のキャンディの類いではないのだと予想はつく。 もしかすると最近王子様は食がすっかり細くなってしまわれたので、そのための薬か何かなのかもしれない。 これならば口に入れやすいし。 手渡されたことだって、メヴィウスには別の用事があって急いでいたところに、たまたま通りかかった自分に手渡したにすぎない、とも考えられる。 ターナがあれこれと考えを巡らせているうちに、大きな扉の前に着いた。
その頃メヴィウスは既に城を出たところだった。 透明な黒い瞳。白い肌にほんのりと染まる紅い頬。 水晶玉は今もはっきりとその姿を映し出している。 あれが王子の心を虜にした女性…。
あの、我が儘の代名詞であった王子が何とも殊勝なことに、メヴィウスに頭を下げにやって来たのは昨日のことだ。 お伴の者を誰一人連れず、行き先を誰にも告げずにこっそりと魔女の森を訪れたのである。
「…では、そのターナという娘にほれ薬でも飲ませばよろしいのであろう?王子。その娘の心は簡単に王子のものになりますぞ」 「ばっ、馬鹿なことを申すな!わたしがそんな姑息な手を使うとでも思うのか!」 レドルフは激高した。顔を真っ赤にして大声を出し、両の拳はぐっと力を込めたため微かに震えている。 しかしそれくらいで怯むようでは、王家専属の魔女は勤まらない。 ほんの少しつついただけで過剰な反応を見せるのは、図星かそれに限り無く近い証拠だ。 メヴィウスは顔色一つ変えないで聞いている。
「わたしが欲しいのはそんな偽りの心ではないのだ…」 先ほどまでの激しい怒りは、拳に入っていた力と共に立ち所に消え、レドルフは俯いて先ほどとはうってかわってか細い声を出す。 挙げ句の果てに、切ないため息までもらす始末だ。 完全に情緒不安定になっているな、とメヴィウスは冷静に目の前の王子を見ていた。 惚れ薬が姑息と言うのなら、魔女の力を借りるのは真っ当な手段なのか? などとは口が裂けても言えないので、心の中だけに閉っておくことにする。
それにしても、とメヴィウスは思う。 恋をすると人格というのは、こうまで変われるものなのだろうか。 メヴィウスとて、全く経験したことがないわけではない。 ただ遠い昔の記憶の奥底に眠っていて思い出せないのだ。 気が遠くなるほどの昔に捨ててしまった大切な宝物を、突然目の前につきつけられたかのように メヴィウスはしばし奇妙な懐かしさと羨ましさを感じつつ、沈黙の中に留まっていた。
羨ましいだと?メヴィウスははっと気付く。 このメヴィウスともあろう者が、恋に悩む者を羨ましいだと? そんな訳はない。慌てて頭を振る。 怪訝そうな顔のレドルフの視線を感じ、メヴィウスは軽く咳払いをした。 やれやれ仕方あるまい。ここは人肌脱がねばならないようだ。 メヴィウスは覚悟を決めた。
「本心がわかればよろしいのですな?」 念を押すようにメヴィウスはレドルフを見た。 「……」 赤い顔のレドルフが黙って肯定する。 「明日、王子が所望する品を持って城へ参りましょう」 「…わかった。頼んだぞ、メヴィウス」
城へ戻るレドルフの足取りは、羽がはえているかのように軽く思えた。 これでターナの心の内を知ることができる。 それだけでレドルフは既に胸のつかえが降りたような気になっていた。 しかし安心するのはまだ早い。 メヴィウスは彼女の気持ちを透明なガラス越しに見ることができるよう、取りはからってくれる。 ただ、見る、だけだ。手を伸ばして捕まえるのは彼の仕事だ。 宝物を手にできるかもしれないし、触れたら怪我をするのかもしれない。 そんな不安な材料は目もくれず、彼の心は既に明日へと飛んでいた。
王子は久しぶりの穏やかな眠りの中にいた。 安らかな寝顔、規則正しい寝息。 その傍でターナは手にした小びんを見つめ、ため息をついた。 正体不明の薬を渡すことに、まだどこか抵抗がある。 メヴィウスはターナの問いにも答えず、さっさと立ち去ってしまったではないか。 そのことがまだ心に引っ掛かっていたのだ。 まるでどんな薬なのか、知られたくないかのようだった。 それとも使用人には説明するまでもないということなのだろうか。
そんなターナの心配をよそに、時折、レドルフは誰も見たことのないような笑顔を浮かべていた。 「ふふ。よく眠っておられること。こうして見るとレドルフ様って、可愛らしい寝顔をなさっているのね」 先ほどまでの不安はこの寝顔で少しは和らいだような気がした。 普段は気難しい顔ばかり。これじゃ煙たがられるのも仕方ない。 どうしてその本来の優しい顔を、周りの人たちに見せてあげないのだろう。 見たことがないから。だからみんな誤解しているんだわ。 本当は誰よりも、お優しい方なのに…。 残念に思いながら、ターナは王子の寝顔をしばし眺めていた。
レドルフの眉根がぴくりと動く。 メヴィウスから処方された眠り薬の効き目が薄れてきたらしい。 やがてゆっくりと両の瞼をあけた。 「おはようございます、レドルフ様。お目覚めはいかがでいらっしゃいますか」 寝ぼけ眼の視界にぼんやりと映る笑顔の女性。
霞が風に流されて視界がだんだん広がっていくように、つい先ほどまで深い眠りにいたレドルフの意識が徐々にはっきりとしてくる。 しかし目の前の女性が自分の想い人であることに気付くまで、数秒の時間を要した。
「!」
目を見開き、叫び声をあげそうになるのを寸での所で食い止める。 真っ赤な顔を見られないように、レドルフは慌てて寝返りを打って彼女に背を向けた。 何故ここにターナが!? 体は起きているが、頭がまだ眠りと覚醒の狭間にいるようだ。 冷静な判断ができない。 それともまだ夢を見ているのだろうか。
「メヴィウスから薬を預かって参りました」
メヴィウスから…。そうか、これはメヴィウスの計らいなのだ。 だから彼女はここにいるのだ。何も知らずに。
「う、うむ、そうか」 ぎこちない声で返事をすると、まだ赤みの残る顔を気にしながら、レドルフはのそのそと上半身だけ起き上がった。
「それがメヴィウスから受け取った薬なのだな」 「さようでございます」
取り繕った平静さで、レドルフはターナから薬を受け取る。 ガラスの瓶がひんやりと冷たい。
これを飲ませれば、ターナは…。 逸る気持ちを抑えながら、栓を抜こうとした手がぴたりと止まった。 手にとってじっと薬を見つめたまま、レドルフは動かない。 それを不思議そうに見つめるターナ。
果たしてこれで良かったのだろうか? 土壇場でレドルフはふと思った。 彼女の気持ちを知るよりも、もっと大切なことを忘れてやいないだろうか。 そうだ。まだ自分は彼女に何も伝えていないではないか。 好きだとたった一言でいい。 しかし勇気がないため、その一言がずっと言えずにいた。 もどかしさに思わず唇を噛みしめる。 そしてレドルフはコルク栓を抜き、一粒手にとった。 キャンディーが手のひらで所在なげに小さくなっている。 これをターナが口にすれば、洗いざらい全て彼女は本当の言葉しか声に変えることはできない。 どんなに抗おうと、本音はするすると手繰り寄せられるように心の中から出て来るはず。
「洗いざらい、全て…か」 いつの間にか、レドルフは呟いていた。 手のひらの魔法のキャンディーを見つめたまま、表情を変えないでいる。
「レドルフ様?いかがされましたか?」 思いつめた顔で薬を見つめる王子の様子に、ターナが不安げな声を出す。 その声に気付くと、レドルフの表情が柔らいだものに変わった。 そして。
一息に飲み込んだ。 小さな固形物が喉を通り過ぎていく感触をレドルフは確かめていた。
ふう、と一息ついたレドルフは、霧が晴れたような笑顔になっていた。 「心配をかけてすまなかったな。これはわたしが誰にも内緒でメヴィウスに頼んでいた薬なのだ」 それが何の薬なのか、ターナは興味があったが尋ねることはさすがにはばかられた。 王子の様子は見たところ、何ら変化はないようなのだが。
レドルフが何か言葉をかけようとしたその時、扉の向こうから声がした。
「レドルフ様。大王様がお越しです」 「何、父上が?」 ゆっくりと扉は開けられた。 お付きの者に支えられるようにして辛うじて立っている大王の姿が、二人の目に飛び込んできた。 「父上、起きていてもよろしいのですか?」 「今日は気分がいいのでな。おまえの顔を見に来たのだ」 ゆっくりと歩み寄る父の足取りは、弱々しいながらも威厳に満ちていた。 それでも頬のこけた顔が、レドルフには直視することが辛く思えた。
「父上、丁度良かった。大事なお話があります」 いつになく真剣な表情に、辺りは一変して緊迫した空気に包まれた。 この場にいてはいけないと、ターナは後ろに下がろうとした。 「ターナ、おまえにも聞いてほしい」 戸惑いながらも、ターナはその場に踏み止まった。
「父上、長い間御心配をおかけして申し訳ありませんでした。わたしは結婚し、王位を継承します」 「何、それは誠か」 大王の顔に喜びが満ちあふれる。 「で、そなたの妃となるのは誰なのだ?」 「はい、この女性です」 王子のつかんだ手の先には、誰よりも驚いているターナの姿があった。
| ||
![]() | ![]() | ![]() |