伝えたい言葉
魔界の歴史は長い。 しかしその長い長い歴史上、きっとこんなことが起こったのは初めてのことだろう。 王家の歴史の編纂をしている途中、作業を止めたアロンが深く長いため息をついた。 先ほどから幾度となく零れてしまったため息が、そこかしこに転がり雪のように積もっていく。 このままだと埋もれてしまいそうなほど。
原因は今回の事件。 魔界人の正体が、人間にバレた。しかも不特定多数。 当然、人間界はパニックに陥った。 双方をまとめる解決方法は一つだけしか残されていなかった。 全ての人間の記憶を、魔界と人間界を繋ぐ扉と共に消去すること。 つまり、江藤家そのものの存在を抹消するのだ。
俊が手伝ってくれたこともあって、思いのほか後始末は迅速に行うことができた。 だが、心に残るこの何とも後味の悪さはなんだ。 魔界人が魔界へ戻る。これは至極当たり前のことだ。 今回の騒ぎを起こした江藤鈴世への処罰はなし。 これも我ながら寛大なる措置だったはずだ。
王宮の照明がどうかしてしまったのかと思う程、うす暗い。 誰もが俯き加減で背中を丸めて歩いているような。 その表情から喜びや楽しさが、すっぽりと抜け落ちてしまったような。 人間界流にいうなら、魂を抜かれてしまったかのようだ。
「はぁ……」 遂にアロンは白い羽のついたペンを机に投げ出した。 あれからずっと、違和感がつきまとって離れない。 濡れた衣服がぴったりと素肌に張り付くような不快感にも似ている。
自分の選択は間違っていたのだろうか?
俊と身重の蘭世は王宮の一室で暮らしている。 江藤望里、椎羅夫妻はドラキュラ村の彼の実家へ。 そして江藤鈴世は、王家とドラキュラ村と狼人間村などを点々としていた。 まるで『ここは僕のいる場所ではない』と暗に訴えかけているような気がした。
また何度目かのため息が宙に漂ってゆっくりと沈んでいく。 もう、自分のため息で窒息してしまいそうだ。 するとその時、扉をノックする音がした。 振り返ると、珍しく慌てた表情のフィラが入ってきた。 蘭世が産気づいたというのだ。
「隣の部屋で待っていたらどうだ?」 扉の前で立ち尽くしている俊の肩を叩く。 俊は強ばった表情のまま振り向き、二人を見てようやく頬の筋肉をやや緩めた。 「ああ、アロンか……いや、おれはここでいい」
その気になればこんな扉など、無いに等しく中の様子は見える。 俊には透視能力があるのだから。 それは隣室でも変わりはないのに、俊はそこから動こうとしない。 「蘭世ちゃんなら大丈夫さ」 「そうですわ。お産は病気ではないのですから」 しかしどんな言葉をもってしても、俊の表情を和らげることはできなかった。
重苦しい時間が流れた。 苦しそうな蘭世の声と、彼女を励ます皇太后の声。 そして産婆の役割を勤めるメヴィウスの声。 それらが扉一枚隔てて聞こえてくるが、まだ赤ん坊の産声は聞こえてこない。
本来であれば、蘭世は当然のごとく人間界で出産していたのだろう。 今は二人が暮らしていた新居も更地と化している。 彼の夢、チャンピオンとしての地位もまた、人々の記憶から抜け落ちた。 俊も蘭世もそのことについては、何も口にしない。 弟が仕出かした不祥事だから、甘んじてそれを受けようというのか。
考えれば考える程、過った道を進んでいるような不安がよぎる。 アロンはじっと正面を見据えたままの俊の横顔を、ちらりと垣間見た。
「あのさ、俊……」 アロンの声は扉を突き破るような、元気のいい泣き声にかき消された。 「生まれましたのね!」 これまた最近では珍しくはしゃぐフィラが扉を開けた。
一歩二歩、ゆっくり歩き出した俊が吸い寄せられるように部屋へ入って行く。 アロンはそれに続かなかった。歩みを止めたまま、フィラに小声で囁く。 「フィラ、ぼくたちはまた後にしよう」 フィラは笑顔で同意した。
「お茶でもいれて参りますわ」 そう言ってフィラが行ってしまうと、アロンは隣室で一人残された形となった。 することもなく、ただ室内をうろうろと歩いていたアロンだったが、 窓際でふと足を止めた。
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