「アロン様、今日はバニラとベリーのフレーバーティーに致しましたわ…あら?」

扉をノックしてから入ってきたフィラだったが、物音ひとつしないことに不思議に思う。

「アロン様?」

左右を何度も見回してみても、その姿は煙りのごとく消えていた。

 

アロンがテレポートして戻ってきたのは、それからしばらくたってからのこと。

「アロン様、どちらへ行ってらっしゃったの?」

「ちょっとね」

と、ただにっこり笑うだけのアロンにフィラは、不安そうに眉を寄せる。

口元に辛うじて残った笑顔は、ふっと一息で消せるほどの寂しげで儚い。

「紅茶を、いれ直して参りますわね」

「いいよ。そのまま頂くよ」

構わずアロンはティーカップを一つ、手に取る。

鼻先まで近付けても既に湯気も香りも薄く、この部屋に漂う空気の一部と化している。

 

「冷めてしまってますわ。すぐにいれ直して参りますのに…」

「いいんだ。君がいれてくれたんだから、冷めても美味しいよ」

一口飲んで片目を瞑る。

「アロン様ったら…」

ようやくフィラの顔に本来の笑みが戻る。

 

照れくさそうな表情で俊が二人を呼びに来たのは、すっかり温くなった紅茶を二杯ほど飲み干した後になった。

ようやく御対面という訳だ。

 

ぎこちない手付きの俊から手渡された新しい命の重みが、アロンの腕に加わった。

「さすが、赤ん坊の扱い方は慣れてるな」

感心したように俊が言う。

「まあね。これに関しちゃ俊より先輩だからね。なんだったらレクチャーしようか?」

「考えとくよ」

俊は軽く笑った。先ほどまでの緊張した表情は、すっかり消えている。

そんな兄弟のやりとりをベッドに横たわりながら聞いている蘭世の表情は、すっかり母親のそれだ。

 

アロンの腕から今度はフィラに渡り、最後に卓は母の元へ戻った。

時折蒼い瞳をのぞかせていたが、今はまたすやすやと眠っている。

 

 

 

 

 

 

「あのさ、ちょっと皆に聞いてほしいことがあるんだ」

アロンはひとしきりおいて、口にした。

その表情がいつになく真剣なものだから、皆一斉に水を打ったように静まり返った。

「蘭世ちゃんの産後のひだちを見てからにしようと思うんだが」

コホンと一つ咳払いをしてから、アロンは真直ぐ俊と蘭世を見た。

「そろそろ皆を人間界へ戻してもいいかと思う」

「アロン!」

思わず蘭世が声を上げてしまったので、隣で眠っていた卓がぱちりと目を開けた。

慌てて蘭世は口元に手をやりながら、卓の様子を見る。

卓は何度かゆっくりと瞬きをした後、また微睡みはじめた。

 

「ずっと、考えてたことなんだ。やっぱり君たちは人間界で暮らすべきなんだって」

「…ありがとう」

卓の金色の髪を優しく撫でながら、蘭世が言葉を継いだ。

「もしアロンが、いえ王様がお許し下さるのなら、先に弟を返してやってもいいでしょうか?」

「鈴世を?」

蘭世は瞳を伏せた。

「あの子には誰よりも会いたい人が、人間界で鈴世の帰りを待ってくれています」

名前を言わなくても、その場にいる全ての者の脳裏に一人の少女の姿が浮かぶ。

ただひたむきに鈴世を想い、それ故に傷を負った鈴世の恋人。

やがて静けさをうち破るようにアロンが口火をきる。

 

「そう言うと思ったよ。だから先に鈴世に話してきたんだ」

 

 

 

 

 

あの時。

一人になった後、アロンは鈴世の気配を感じ取った。そう離れていない場所らしい。

見当をつけてから、アロンはその場から姿を消した。

 

風景に溶け込んでしまうかのように、鈴世は想いヶ池の畔にいた。

時々千切った花びらをを投げては、揺れる水面をぼんやりと見ている。

その瞳が追いかけているのは沈みゆく花びらの行方か、それとも。

「魔界中の花を全て摘んでしまうつもりか?」

正気に返ったかのように、鈴世が振り向いて見上げた。

「やあ。隣、いいかな」

微かな笑顔で了承する鈴世の横に、アロンは腰をおろした。

 

「単刀直入に言おう。人間界へ戻る気はないか?」

予想だにしないアロンの言葉に、鈴世の蒼い瞳が動揺している。

先ほどまでの想いヶ池の水面のように、幾つもの波紋が広がっているかのようだ。

 

「許して…くださるのですか?」

アロンは黙って頷く。

鈴世の肩は震え、両の瞳からは次々に涙が溢れては零れて落ちた。

「ありがとうございます」

深々と頭を下げると、またぽたりと一雫落ちた。

アロンが黙ったまま立ち上がると、長いマントが衣擦れの音をたてた。

立ち去ろうとしたその動きは、鈴世の声で止められた。

 

「あの、一つだけお願いがあるのですが」

 

 

 

 

 

「鈴世は君たちにイギリスへ行ってきてほしいと言っている。自分は二人の帰国に合わせるからって」

蘭世と俊は顔を見合わせる。

「別におれたちは…」

「ストップ!俊の言いたいことはわかる。だけど鈴世はそうして欲しいと言ってきかないんだ」

アロンは肩をすくめながら言った。

 

「それから…大事な新婚旅行を中断させてしまって、申し訳なかったって言ってたよ」

「鈴世ったら…」

いつの間にか溢れそうになってきた涙を拭って、蘭世が呟いた。

本当なら、一分でも一秒でも早く彼女に会いに行きたいだろうに。

しかし鈴世の好意も無下に断るわけにもいかない。

思案している蘭世の横顔を見てから、俊が口を開く。

 

「…わかった。こいつの体調が戻り次第、おれたちは出発する」

俊の答えに、蘭世も同意して頷いた。

 

 

 

 

そして出発当日がきた。

魔界から人間界への扉まで、家族三人は馬車に乗ることになっている。

彼らを見送る人たちの中に、鈴世もいた。

「ごめんね、鈴世。先に行くわね」

馬車に乗り込む際、蘭世が声をかけた。

鈴世は笑って首を横に振る。

「それより、ハネムーンベビー期待してるよ。一人っ子じゃ卓も寂しいんじゃない?」

「んもう!鈴世ったら」

蘭世は一瞬で顔を赤らめた。後に続こうとしていた俊は空足を踏んでいる。

相変わらずこのテの話には過剰に反応する姉夫婦に、鈴世は以前と変わらない屈託のない笑顔をみせた。

 

「俊」

気を取り直して馬車に乗り込もうとした俊を、今度はアロンが呼び止める。

何か言いかけたが、気が変わったのか空気と一緒に飲み込んだ。

「元気で」

と、たった一言だけを挨拶代わりにした。俊は暫時黙っていたが、

「ああ」

とやはり一言だけ返した。

 

馬車が走り出した。次第に霧の中へとその姿が消えていく。

最後まで聞こえていた音も、やがて遠のき霧に吸い込まれるようにして消えた。

一人、また一人と城へ戻っていく。

最後にアロンがようやく背中を向けて歩き出した。

 

「魔界は僕が守る。だから人間界を頼むよ…兄上」

誰にも聞こえることのなかったその呟きは、背後に広がる白い霧の中へ溶けていった。

 


 

ようようさんにプレゼント。

20万ヒットのお祝いに。ですがその割にはそれっぽくならないのです;

兄弟愛、もしくは姉弟愛がテーマなんです。一応。

NOVEL