鏡にうつる月

 

 

「大丈夫か、ターナ」

レドルフはターナの手を握り、必死に励ましていた。

苦痛に歪んだ笑顔を見せながら、ターナは出来るだけ心配性な夫を落ち着かせようと、

「大丈夫、これは病気じゃないんですから」

ゆっくりとレドルフの瞳を見据えて話した。

しかしそれがかえって辛そうに見え、レドルフの不安を煽る。

「では大王、そろそろ」

メヴィウスが退出を促す。

「う、うむ」

これ以上留まり続ける理由もない。

名残惜しそうに、手を離すと大王はマントを翻しつつ部屋を出ていった。

閉ざされた扉の向こうで、赤ん坊の元気な泣き声が聞こえるまで、あとどれくらいの時間を要するのか。

想像しただけで胃が痛くなるような、気が遠くなるような話である。

何しろたとえ魔界の大王であったとしても、こと出産に関しては一人の男にすぎない。

陣痛が始まった妻にしてやれることは、ただ何もしないでおとなしく待っていることだけだった。

 

「ええーい、まだ産まれんのか」

「大王様、まだ先は長いでしょうから、どうぞおかけになってお待ちくださいませ」

レドルフは別室で待たされていた。

後ろ手に手を組み、さながら動物園の檻の中の熊のようにうろうろとさっきからうろついている。

お付きの者達はいつにも増して、不機嫌極まりない大王の様子に恐れおののいていた。

迂闊に声をかけようものなら、理不尽な雷が容赦なく落ちてくるのだから。

とんだ迷惑な話である。

 

「大王様、そろそろお食事のお時間でございますが」

「いらぬ」

「あの…大王様…そうおっしゃられましても。朝から何もお召し上がりになっておられないようでは…」

「うるさいっ!!黙れっっ!!いらぬと言ったらいらぬ!!」

「は、はいぃぃーっ!失礼いたしましたぁ!」

 

こんなやり取りがいつまで続くのだろうか。お付きの者も気が気ではない。

彼らもまた別の意味で王妃ができるだけ早く、無事に出産することを心から願うのだった。

しかし彼らの願いとは裏腹に、元気な赤ん坊の泣き声を聞くことはまだできなかった。

 

レドルフは疲労困ぱいといった様子で、まるで彼自身が出産を終えたような顔をしていた。

それでもまだ椅子に腰掛けることすらできず、窓から見える明るい月を恨めしそうに眺めていた。

魔界の月は欠けることのない、満月。人間界でいうところの太陽にあたる。

これが出ている間は、おそらくまだターナと子供に会うことはないだろう。

わかってはいるのだが、体に纏わりつくように時間が流れていく。

いら立ちをぶつける場所もなく、ぎりぎりと奥歯を噛み締める。

 

とにかく無事であってくれ…。

 

レドルフは天を仰いだ。

初めての出産ということに、必要以上に神経質になっているせいなのか、どうも胸騒ぎがした。

得体の知れない、嫌な感覚がずっと付きまとっていた。

それが何なのか。彼はいずれ、いや間もなく嫌というほど思い知らされることになる。

 

月は傾き、星の明かりだけが夜を包み込む。

静かな夜だった。

 

レドルフは開け放したままになっている窓から入ってくる、生暖かい風に頬を撫でられて目が覚めた。

いつの間にか眠っていたらしい。辺りは真っ暗だった。

額や背中にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。

また言い様のない不安が広がっていく。

レドルフが立ち上がろうとした時、メヴィウスの声がした。

 

「入れ」

声をかけると、静かに扉は開きメヴィウスが一人で立っていた。

「どうしたのだ?ターナは?子供は?」

何も言おうとしないメヴィウスにつかみかかるように、レドルフは攻め立てる。

メヴィウスは瞬きひとつしないで、黙ってそれを聞いていたが、

長い沈黙の後、観念したようにため息をひとつこぼした。

「…大王、大変なことになりましたぞ…」

 

その時吹き込んできた風が勢いよく窓を閉ざした。

流れる雲は、まばらに散らばる星を全て覆いつくし、完全に飲み込んだ。

遠雷の音は次第に大きくなり、嵐の前触れを告げていた。

 

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