イツカノイツカ
(written by ぴー)
いつかおまえをもらいに行く
でもいつかって、いつだ?
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コツコツと、二人分の足音が地下室の天井や壁に反響していた。やや先を行く蘭世が立ち止まり、扉に手をかけた。 「待て、江藤」 俊の声は寸でのところで間に合わず、扉は開いた。ぱちくりと瞬きをした後、蘭世は目を見開いて勢い良く扉を閉めると振り返った。 「どうした?」 俊が問うと蘭世は苦笑いのまま、正面を指差した。 「あかずの扉はそっちデシタ。たはは〜〜」 「おまえってやつは…」
何度となく使っているはずの扉だったはずだが、蘭世はたまにこうやって間違える。彼女いわく『お母さん譲り」らしい。 左右両隣はこれまでに何度かあったが、向側と間違えたのは初めてだ。
「真壁くん、呆れてる?」 おずおずと見上げてくる蘭世を見て、俊は大きく嘆息した。 「今に始まったことじゃないからな」 「ひどぉ〜〜い」 笑って先に歩き出した俊の後を蘭世が追う。 どうしていつもあかずの扉の時だけは間違えちゃうのかしら。やや俯いて呟く蘭世の声がしょんぼりとしていて、俊は立ち止まった。 「で、今度はどの扉と間違えたんだよ」 「未来への扉だったの」 「へえ。色んな扉があるんだな」
江藤家の地下室には様々な扉がある。俊は専ら魔界へ赴くために「あかずの扉」を利用するだけだが、どうやら蘭世は様々な扉を利用したことがあるようだ。 何かを思い出したのか、幸せそうな表情の蘭世の横顔が物語っていた。だったら尚更扉を間違えてしまうのがどうにも解せない話なのだが、そこがまた蘭世らしいといえば蘭世らしい。 それにしても未来への扉で蘭世は何を見てきたのだろうか。小さな疑問にふと捕われ、俊の足がぴたりと止まる。
「どうしたの?」 不思議そうに顔を上げる蘭世の視線に気づき、俊は軽く咳払いした。 「何でもねえよ」 そう。何でもないことだ。けれど「未来」という言葉が喉に刺さった小骨のように、いつまでも取れないでいる。しかしそんなことはおくびにも出さずに俊は魔界城の門をくぐった。
魔界へ訪れるのは久方ぶりとなる。というのも悪阻のひどかったフィラが半ば臥せっていたためだ。ようやく落ち着いたとの知らせを受けたのが数日前になる。 数ヶ月ぶりにみた義妹のお腹は随分と目立っていた。その中に新しい生命が存在しているのだと思うと、不思議な気持ちになる。 フィラが母親になるというよりもあのアロンが、というべきか自分の弟が「父親」になることの方が未だに信じられない。
「お水が苦くて飲めなくなってしまったんですの」 穏やかに微笑みながらフィラがティーカップを受け皿へ置いた。 「もう大変だったんだよ。フィラったら何も口にしてくれなくてさー」 「だって悪阻なんだもの、仕方ないわよアロン」 「だけど心配だよ。本当に辛そうだったんだから」 力説するアロンに蘭世はくすくすと笑う。 「アロンさままで食欲が落ちてしまわれて、わたくしも心配しましたわ」 「ぼくの大切な人が苦しんでるのに、ぼくは何ひとつできないんだ。これほど自分の無力さを呪ったことはないね」 「アロンさま…」 見つめ合う二人の雰囲気にとても割って入ることなどできるはずもなく。俊と蘭世は顔を見合わせ、苦笑して湯気が消えかけた紅茶を口に含んだ。
「蘭世さんの時は、悪阻が軽かったらよろしいですわね」
「……っっっ」 「げほっっっ」
紅茶を吹き出さなかったのが奇跡だと思うほど、辛うじて二人は堪えた。しかし二人とも激しくむせて咳き込み、とりわけ俊の顔は真っ赤になっていた。
「まあ、お二人ともどうしましたの?」 フィラが小首をかしげる。 頭の天辺から湯気が出ている蘭世はティーカップを持った固まり、俊はひたすら気持ちを落ち着かせようといつも以上に無口になり、端から見ていたアロンだけがいつまでも笑っていた。
悔し紛れに俊がじろりと睨むと、アロンは肩をすくめ、余裕を残したまま涼しい顔に戻った。
悪阻もなにも、二人の間には結婚のけの字も出ていない。出せるわけがない。法律では許される年齢には達したが、自分はまだ高校生だ。 卒業したところで駆け出しのプロボクサーの給料など知れている。先輩たちがトレーニングのかたわら、アルバイトでどうにか糊口を凌いでいることを、俊はいやというほど見てきた。 これから踏み出そうとしているのは、決して甘い世界ではない。
それでも俊の進むべき道は一つだった。 無事に高校を卒業した後、不甲斐ない自分への苛立ちを自らの右ストレートに込めたのかどうかは定かではないが、順調に勝ちを重ねていき、いつしか「駆け出し」のプロボクサーでもなくなった。 しかし依然として「いつか」は訪れなかった。
試合後の選手控え室で、俊は勝利の余韻に浸ることもなく淡々とバンデージを解いていた。 勝利の喜びや高揚感は試合終了のゴングが鳴った瞬間から、波が引いていくのと同じように消え、代わりに言いようのない焦りが押し寄せてきていた。
誰よりも大切だと思う。 他の誰にも渡したくないと思う。 幸せにしたいと心から思う。
自分の気持ちをどうやって口にすればいいのだろう。これまでずっと支え続けてくれたことは、本当に感謝している。 しかし安易に好きだとか、愛しているだとか、そんな言葉で片付けてしまいたくなかった。結果として俊の想いは一かけらの言葉にもならず、いたずらに時間だけが流れていった。 喉の奥で引っかかったままの痛みが、日に日に存在感を示すかのように強くなっていっているような気がしてならなかった。
「いつか…か」 ぽつりと呟いた言葉と、役目を終えたバンデージがほろりと床に落ちた。
「おい、取材の申し込みがきてるぞ…真壁?」
ドアを開けたそこに、俊の姿は無かった。
俊はたった一人、扉の前にいた。ふうと大きく息を吐き、意を決したかのように、ゆっくりと扉を開けた。
「いつか」をこの目で確認するために。
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