何が起こったのかはわからなかったが、咄嗟に俊は蘭世の頭を抱くようにして、衝撃を背中で受けた。 「きゃーっっ」 「大丈夫か、江藤!」 腕の中にいる蘭世が無事でいることを確認するや、俊は起き上がり空を見上げる。 にわかには信じ難い光景に、俊は瞬きも忘れて呆然とした。
「まじかよ…」
蘭世の従弟が宙に浮いていて、自分たちを見下ろしている。 自分の頬をつねってみたくなるほど夢ではないかと疑いたくもなったが、悠長なことはしていられない空気が漂っていた。 嫉妬という生易しい敵対心ではなく、はっきりとした殺意を感じて俊は反射的に身構えた。
「どうして…アロン…」 俊の腕の中で蘭世が血の気を失ったように青ざめ、呟いた。 腕組みをしたまま、アロンは静かに降りてきた。いつもの彼と違い、死神のような黒衣を身に纏っていた。 つま先まで隠してしまうほどの着丈だ。時折風がマントの裾をはためかせ、禍々しい黒と毒々しい赤が交互に翻っていた。 この場には不似合いなブーツが砂浜を踏みしめると、アロンは片方の口の端だけを上げて笑った。残った熱気すら凍らせるような笑顔だった。
「おまえの能力が目覚める前に、消してやるよ。そうすれば蘭世は僕だけのものだ」 「能力?何のことだ」 「やめて!!アロンっっ!!」 傍らの蘭世が悲鳴のような叫び声をあげる。しかしアロンはまるで意に介さず、片手を振り上げ風圧で俊を吹き飛ばす。 汗なのか、血なのか。頬を流れている生温かい感触がある。乱暴に拭おうとすると、駆け寄ってきた蘭世が俊を抱き起こした。
「…おまえが僕の兄だなんて…同じ血が流れているなんて…まったく虫酸が走るよ!!」
唾を吐くようにアロンは忌々しそうに言った。
「アロンと真壁くんが…?じゃあ…!!」 蘭世は息を呑んだ。俊の頭の中に「同じ血」という言葉がやけに繰り返され、血のついた手のひらとアロンを見比べる。 アロンは蘭世の従弟だ。なぜ自分と同じ血が流れている?わからない。いや本当はわかっているのかもしれない。
「真…壁くんが…王子さま…でも痣はなかったのに」 「さっきから、一体何なんだよ!いきなりやって来て、能力だの、兄弟だの!」 ぺっと赤い唾を吐いてから、俊はアロンを睨みつけた。アロンは蔑むような冷たい笑顔を見せると、俊を睨み返した。
「おまえは人間じゃない」
アロンの言葉は俊と蘭世に別々の衝撃を与えた。 俊にとっては理解の範疇を越えることばかりだったが、自分が人間でないのなら、 自分の血を分けた「弟」であるらしいアロンもまた、人間ではないことになる。 確かに宙に浮いたり、妙な力を使えるあたり、もはや人間離れしているのだが。 では蘭世はどうなる?俊の思考はそこでオーバーヒートした。
「だけどまだ封印は解かれていない…」
アロンは獲物を追いつめた肉食獣のような瞳で、少しずつ間合いをつめてきた。 今にもとどめを刺す為の牙を剥こうとしていた。俊は隣で震える蘭世の肩を抱き寄せた。
「アロン、お願いやめて」 「やだね。いくら君の頼みでもこればっかりは聞いてあげられないよ」 「何でも言うことを聞くわ。だから真壁くんを殺さないで!!」 「やめろ、江藤!」 蘭世の泣き叫ぶ声と、蘭世を制止する俊の声が被さった。アロンの歩みがぴたりと止まる。
「…何でも?へぇ…」 アロンは人差し指でゆっくりと唇をなぞり、意味ありげに笑った。 そしてポケットから小さな瓶を取り出すと、蘭世の目の前で催眠術をかけるようにゆっくりと振った。
「覚えてる?僕がかつて君に飲ませた惚れ薬さ。でもね、前とは比べ物にならないくらい強力になってるんだよ」 透明な液体が瓶の中で妖し気に揺れ、瓶の向こうではアロンの歪な笑顔が見えた。
「おい、いい加減にしろよ」 砂を握りしめ俊は立ち上がった。アロンは面倒くさそうに俊に視線を移した。 「邪魔だよ」 アロンはまっすぐ手を伸ばし、手のひらを俊に向けると何の躊躇いもなく白い光を放った。 俊は両腕を交差させて衝撃から身を守るのが精一杯で、呆気なく砂浜に叩き付けられた。 Tシャツはあちこち破れて血が滲み、顔が苦痛で歪むが、何よりも無力な自分が歯がゆい。
「蘭世ちゃんとの取引がまだだからね。殺さない程度にしておいたよ」
屈辱的ともいえるアロンの言葉に俊は自らを奮い立たせようとするが、どうしても身体が動かない。指先ひとつ動かすことができない。
「だから黙って見ててよ」
にっこり笑って俊の両手と両足に枷を加えつつ、駆け寄ろうとする蘭世の動きを制した。
「返事がまだだよ」 「………」 「…え…とう…やめろ…」 流れる血が俊の視界を狭める。 「蘭世、返事を。薬を飲むのか飲まないかは君の自由だ。だけどあいつの命は保障できない」
「わかったわ」
蘭世はまっすぐアロンを見据えて瓶を受け取った。俊は振り絞るように蘭世の名を呼び、やがて目を閉じた。
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