prologue 

「そうだよ。最初からこうすれば良かったんだ。あー僕ちゃんってば、天才」

 

心の底から沸き上がってくる喜びに、アロンは笑みを零した。

 

「アロン様、家庭教師の先生がお見えになりました」

扉の向こうでサンドの声がした。

アロンはちっと舌打ちをして、小さな瓶をポケットに忍ばせた。

 

「アロン様?」

いつまで待っても返事がないのを訝ったサンドが、静かに扉を開けた。

しかしアロンの姿は煙のように消えていた。

           * * * *

人間界にいるとされる王子の行方は杳として知れず、引き続き捜索は続けられていた。

左腕にある星形の痣が唯一の手がかりではあるが、それだけではたちまち打つ手は底をついた。

 

「ほんとに無い?」

「おまえもしつこいな」

呆れながらも俊は制服のシャツの袖を捲り上げた。

「…ほんとだ…」

がっくりと肩を落として項垂れる蘭世を見て、俊は笑う。

「その痣があったとしても、オーディションなんてガラじゃねぇよ」

蘭世の胸はずきんと鈍く痛み、複雑な表情になる。

他人を寄せ付けない空気を身に纏っていた頃と比べれば、気安く話せるようになった今は、随分距離が縮まったように思えていた。でも。

 

ーーー真壁くんは王子さまじゃない…魔界人じゃないんだ…

 

忘れていたわけではなかったが、現実はいつもすぐ傍にいた。目を背けていた分だけ、事実は蘭世を押しつぶす。

 

「江藤?」

急に黙り込んでしまった蘭世を訝るように、俊が声をかけた。慌てて蘭世は沈んだ気持ちを力ずくで引っ張り上げる。

「もし真壁くんがスーパーマント役だったら、お父さんに頼んでヒロイン役にしてもらったのにな〜なんて」

蘭世のおどけた調子に俊は吹き出した。

「素人二人が主役かよ。親父さんの映画、とんでもないことになっちまうぞ」

「ひど〜い」

蘭世が頬を膨らませてみせると、俊はまた笑った。その横顔を見ると、ぐっと涙を堪えて蘭世も必死で笑顔を作る。

 

「そうそう。ロケ地は合宿場所のすぐ近くみたいだよ?」

「へえ…空き時間あったら見てみるよ。じゃあな」

俊は軽く手を振ると駆けて行った。夏の日差しを背に受けた俊の後ろ姿を、蘭世はいつまでも見送っていた。

 

蘭世の沈んだ気持ちとはよそに、ロケは順調に進んでいた。

撮影風景を見学させてもらっても、潮風にあたっても、やはり蘭世の表情は冴えなかった。

今日もぼんやりと波打ち際に座り込んで、打ち寄せる波に素足を洗われている。空を焦がすような夕日が海に溶け込もうとしていた。

 

「何やってんだ?」

膝を抱えて項垂れていた蘭世だったが、聞き覚えのある声に、我に返ったように見上げる。

薄闇の中でも見紛うことない、俊の姿に蘭世は声をあげずに涙をほろほろと流した。

「お、おいどうしたんだよ、何かあったのか?」

日中の余韻を残した熱がまだ籠っている砂浜に、俊は片膝をつく。俊が優しい声をくれるのと反比例して、蘭世の涙は静かに流れ続けた。

「…ごめんね、何でもない…の」

声を出すのが精一杯で、どんなに頑張ってももう表情は笑顔になってくれない。

「何でもないこたないだろうが」

俊の指が蘭世の涙を掬いとる。手のひらがそのまま蘭世の濡れた頬を包み込んだ。

嘘や偽りを跳ね返してしまいそうな強い瞳に、蘭世は目を逸らせずに唇を震わせる。

 

「真壁くん…実は、実はわたしね…」

 

ありったけの勇気をかき集めて、蘭世は声にする。もう会えなくなるかもしれない。

もう二度とこんな風に何気ない会話すらもかわせなくなるかもしれない。だけど伝えなくちゃ。

本当のことを。蘭世はまっすぐ俊のTシャツの裾をぎゅっと握って見上げると、俊は蘭世の視線を黙って受け止めた。

 

燃えるような太陽の切れ端も紺色の海に完全に消えると、藍色の闇が忍び寄ってきた。そしてもう一つの闇が二人の前に現れようとしていた。

 

「蘭世ちゃんから離れろ、真壁俊」

 

二人の頭上遙か高い場所から声がしたかと思うと、水面が割れる程の衝撃と光が堕ちてきた。二人は砂浜に重なるようにして倒れ込んだ。

 

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