「いいか、チャイムが鳴らすヤツが全てお客さんってわけじゃないんだからな」

スニーカーを履きながら、卓が念を押す。

「大丈夫よ。ちゃんとわかってるから」

ココは手のひらをひらひらと振って、朝の喧噪とは無関係な優雅さで無邪気に笑う。

その横を愛良がすり抜けるようにしてローファーに足を滑り入れた。

無言だったのは、口に齧りかけのトーストが収まっていたからだ。手に移すと、愛良は呆れ半分で笑った。

「お兄ちゃん、心配しすぎだってば。それじゃ過保護だよ」

「るせっ」

卓がじろりと睨むと、愛良は肩をすくめた。

「こわっ。お兄ちゃん、あたし先に行くね!」

言い終わらないうちにまたトーストを口に押し込め、愛良は飛び出した。

 

賑やかな鉄砲玉が去って行った後は、束の間の静寂が残された。二人は苦笑混じりに顔を見合わせた。

「行ってらっしゃい。ケーキ焼いて待ってるから、早く帰ってきてね」

「…ああ」

 

 

 

確かに早く帰りたい。卓の足は自然と早まる。ココが待っていてくれているから、という浮かれた理由だけならいいのだが。

 

 

両親は旅行中で不在。妹はこの後コーチと会うだろうから、留守番をしているのはココたった一人ということになる。

子供じゃないんだからとココも愛良も笑うが、相手は魔界の王女という超特大級の箱入り娘だ。

人間界での暮らしに馴染んできたとはいえ、ココはまだまだ世間知らずの王女さまだ。

新聞の勧誘にきたおじさんを、家にあげてご丁寧にお茶までだして話し込んでいるのを見た時には、一瞬言葉が出なかった。

『お客様だと思ったの』とココはしばらくしょげていた。

 

たとえ過保護だと妹から笑われようとも、やはりココを一人にしておくことは不安だった。

チャイムが鳴っても、家族以外は家へ入れるな。用事が無ければ外へは出るな。

何か言いたげなココに噛んで含めるように諭し、卓は出かけたのだ。だから試合が終わると挨拶もそこそこに、足早に家路についている。

まずは電話をして何か変わったことはないか、一声聞いてからにしようと思ったのだが、その電話がない。ようやく見つけても電話ボックスが使用中だったりする。

 

「やっぱ駅まで戻るしかないか」

 

溜め息は白く、静かに降りしきる雪と重なり合った。

 

 

 

 

 

あまりにも電話を探すことに気を取られすぎて、最初は自分を呼ばれているのだと理解するまでに、ひと呼吸分だけの時間がかかった。

 

「深町?」

 

白い息をきらせて駆け寄ってきた深町を見て、卓はようやく思い出した。

マネージャーがみんなへ手作りの義理チョコを渡す約束をしていたことを。

しかし卓はまだ気づいていなかった。

いつも山のような洗濯物をものともせず、要領よく片付け、部員への気配りを怠らない有能なマネージャーの、張りつめたような強い想いに。

 

小さな箱を手渡そうとする深町の指が、決して寒さのせいだけではなく震えていた。

 

薄い氷が深町の表情を覆っていた。容易く割れたらそこには、泣き顔が隠れているのだと透けて見える。

脆い仮面を必死で被っている深町を見て、卓はようやく全てを悟った。

 

卓にとって深町は部員とマネージャーとはいえ、身近な存在ではあった。気安く話すことのできる異性としては珍しいかもしれない。

それ故周囲に誤解されることもあったのだろう。

部員たちが時折冷やかしてくることもあった。だけどいつも卓は笑って否定していた。

深町もまたさらりとかわしていた。だから深町も自分と同じだと思っていたのだ。

 

ーーーおれはバカだ

 

卓は爪が突き刺さりそうなほど拳を握りしめた。今頃になった気づいてしまったが、気づいたところで何もしてやれることがないのだ。

 

ただ頭を下げることしか思いつかなかった。深町がそれを義理だと呼ぶならそれでいい。

けれどそこに込められた想いに気づいてしまった今は、残酷な優しさで受けいれることなどできない。

 

走り去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、卓は己の無力さを噛み締めるように、しんしんと降り積もる雪の中、ただ立ち尽くしていた。

この目は何も見ていなかったのだ。節穴もいいとこだ。卓はやり場のない苛立ちをどこにぶつけたらいいのかわからず、雪に打たれていた。

 

「どうしたの卓?」

この場にいるはずのないココの声に、卓は髪に積もった雪を振り落とすような勢いで振り返った。

 

紛れも無いココの姿に卓は、しばし呆然とする。

 

「電車もバスもちゃんと乗れたわ。駅からはちょっと迷っちゃったけど」

そこだけ日だまりのような暖かさで、ココが笑って傘を差し出す。

「なんで…」

卓は氷のように固まったまま動けない。

「愛良から場所を聞いておいたの。やっぱり持つべきものは良き協力者よね」

卓が動けずにいるため、ココもまた傘を差し出した手を動かせずにいた。手を伸ばしたままココは続ける。

 

「卓がわたしを心配してくれるのは嬉しいんだけど、わたしは色んなことを知りたいし、経験したいの。だって卓が生まれ育った世界だもの」

 

ココは歩み寄り、卓の冷えきった手をとって傘の柄を握らせた。

しかし卓の手の冷たさに驚くココの手もまた冷えきっていたことに、卓は気づきココの両手を取る。

自然と傘は手から離れ、白く覆われた地面に開いたままの傘が半円を描いて転がり、止まった。

 

「ココ!」

「ちょっとじゃなくって…結構、だったかな」

苦笑いでココが卓の両手を柔らかくほどき、手にさげていた袋からマフラーを取り出して卓の首へふわりと巻いた。

 

「ハッピーバースデー!卓」

 

ゆっくりと瞬きを繰り返し、卓はようやく口を開いた。

 

「そっか、誕生日だったっけ」

「やあね、忘れてたの?」

ココはやや頬を膨らませて軽く睨むように見上げ、緩やかに笑顔に戻った。

 

「わたしは忘れたことなかったわ。だってわたしと卓の差が縮まる日だもの」

 

彼女の周りで揺れ落ちる白い雪が、花びらのように見える。そこだけが春だった。

 

ーーー本当に、おれはバカだ

 

上っ面だけしか見ていないような目だけど、大事なことはいつだって伝え切れない口だけど。

 

卓はココの身体を引き寄せ、強く強く抱きしめた。ココの長い髪がスローモーションのようにふわりと揺れる。

しっとりと冷たくなったココの髪に唇を寄せると、触れた瞬間に溶けて消える雪のように淡い香りがした。

 

 

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