「お願いします。このとーり!」

拝むように両手を合わされた上に頭まで深々と下げられたとあっては、愛良も頷くよりほかはなかった。

「じゃあ2月14日ね」

背中を向けて弾むようにして小走りに去っていく級友を、愛良は微妙な笑顔で見送る。

 

「なんでよりによって、バレンタインの日に試合なんかするかな〜」

 

プロボクサーを父に持つ愛良の運動能力は、そんじょそこらの体育会系の部員よりもよっぽどずば抜けていて、時々こうして助っ人を頼まれることがある。

スポーツは嫌いじゃないし、むしろ楽しい。だけどこの日だけは話が別だ。

女の子にとって一年で一度の大切な日。バレンタインデーは。

 

それでも引き受けてしまったのは、仲の良い友達からの頼みでもあったけれど、肝心の水もまたその日は兄が所属するサッカー部を率いて、他校と試合があるのだった。

会えるのはどのみち互いの試合が終わってからになる。

 

ーーーつまんないな

 

バイトを休んで、自分と会う時間を作ってくれていることは嬉しいけれど。ワガママだとわかっていても、本当は物足りない。全然時間が足りない。

もっともっと、一緒にいたい。でもわかっているからこそ、それは絶対に言わない。

お子チャマみたいにだだを捏ねたくない。

見た目の幼さだけでもかなりのハンデなのだから。せめて中身はオトナでありたい。

水に釣り合うだけの、女性でありたい。『女の子』ではなくて。

 

すっかり日が暮れた帰り道、最後に一つ白い息をほぅっと吐いて、愛良は家路を急いだ。

 

「あ、お姉ちゃん来てたんだ」

「おかえり、愛良」

レシピ本をぱたんと閉じ、ココが顔を上げた。

最近のココは魔界と人間界とを、バランス良く行ったり来たりしている。

兄とはすっかり順調なようで、笑顔に穏やかさが加わってますます綺麗になった。愛良が理想とするオトナの女性だ。

 

ココが先ほどまで見ていたのはもちろん、チョコレートのレシピ本。

料理好きな母の城、真壁家のキッチンにはいつだって材料も道具も揃っているから、すぐにでもとりかかれる状態になっている。

ちなみに両親は、母の手作りチョコを携えて今朝から旅行に出てしまった。帰って来るのは15日だ。

 

「お姉ちゃん、夕ご飯が終わったら先にキッチン使ってもいい?」

「もちろんよ。こっちがお邪魔しているんだもの。それにまだ何を作るか決まってないし」

「お姉ちゃん…」

「なあに?」

「あたし、帰って来ない方が良かった?」

「バ…バカね!今夜はちゃんと魔界に帰るわよ」

手にしていた本を取り落としそうになったココの頬に朱がさしたのを見て、愛良は笑って自分の部屋に戻った。しかしドアを閉めると、笑顔が急速に薄れていった。

気をきかせたくても両親不在を知れば、こういったところは悲しい程律儀な水のことだから、いつも以上に早めに愛良を家へ送り返してしまうだろう。

そしてどこまでも自分は子供なのだと思い知らされてしまう。

自分でしかけた地雷を自分で踏んでしまったようだ。愛良は項垂れてベッドに腰掛けた。

 

「早く大人になりたいな…」

 

水の時間だけを止めて、自分の年齢を重ねられないものか。

そんな魔法があっても絶対使わないのはわかってて、ネガティブな思考のスパイラルに入ってしまった愛良はくどくどと考え続けた。

 

夕食が済むと、気を取り直して愛良はキッチンに立った。

 

愛良は最初の一口を食べた時の水を想像しながら、メレンゲを作っていた。美味しいと言ってくれるだろうか。

 

作るのは母直伝のチョコレートケーキ。甘いものが得意ではない父も好物なのだから、きっと水も美味しいと言ってくれる…はず。

愛良がこれまでに作った数少ない料理だって、一応残さず食べてくれるけれど、水は器用だからそこそこのものは作れてしまう。

だから水が作った方が美味しかったことなど、悔しいことにざらなのだ。

 

オーブンからは、ふわふわのスポンジケーキが順調に焼き上がりつつあるようで、キッチン中に甘い空気を振りまいていた。

ボウルの中ではゆっくり溶かされているクーベルチュールチョコレートも香りに加わって、不安な愛良の心を優しくコーティングしていく。

ケーキ作りはいつだって恋する女の子を幸せにするのだ。

 

ーーーきっと、ううん絶対新庄さんは喜んでくれるよね。だってこんなにいい匂いがするんだもの

 

焼き上がったスポンジにアプリコットジャムのナパージュを塗り、ガナッシュクリームでコーティングすれば、あとは冷蔵庫で冷やすだけ。明日の朝には完成となる。

 

「そうだ。明日の朝、渡しに行っちゃおうっかな…」

見ることはできないけれど、部員たちに冷やかされながら愛良特製ケーキを食べる水を想像して、使い終わったボウルを洗いながら愛良は笑った。

 

「お兄ちゃん、あたし先に行くね!!」

トーストを口にくわえたままという、古典的なスタイルで愛良は翌朝飛び出していった。もちろん鞄の中には水への贈り物をしのばせてある。

今朝は随分と冷え込んでいるが、愛良には関係ない。一つに束ねた髪を揺らし、愛良は兄から聞いておいた集合場所へ向かった。

 

愛良は全速力から小走りに、そして更にスピードを弱めてやがて立ち止まった。

今にも雪が降り出しそうなくらい寒いのに、水は背筋をぴんと伸ばして立っていた。

 

ーーーあ、時計見た。もうすぐ皆が来るのかな

 

つい水に見蕩れていた愛良だったが、本来の目的を思い出して水に駆け寄ろうと手を挙げかけた。

 

「あれ?コーチ早いですね」

 

ーーーあの人たしか…サッカー部のマネージャーさん…

 

いつだったか兄が捻挫したした時に水と一緒に家へやって来たことがある。あの時より髪が伸びたな。

なんて悠長な感想を抱いている間に、マネージャーは鞄から小さな包みを取り出して、にっこり微笑んだ。

 

「あの、コーチ…今日はバレンタインなので、どーぞ」

 

ーーー受け取らないで、お願い

 

愛良は唇を軽く噛んだ。マネージャーがコーチにチョコレートを渡すなんて、義理チョコに決まってる。

だけど笑顔で受け取らないで。あたしだけが知ってると思ってた、新庄さんの優しい笑顔で。

 

二、三歩後ずさった愛良は、振り返ることなく走り出した。頬にぶつかる風の冷たさも、今は感じることができなかった。

 

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