去って行ったナディアのことを思えば微かに刺すような痛みを覚えるものの、彼女はあれ以来屋敷を訪れることはなかった。 風に触れるだけでも痛んだ傷がやがては癒えていくように、時が流れれば悲しみは薄れていくものなのだとベン=ロウは朧げに考えていた。 しかしベン=ロウが安堵できたのはほんの束の間に過ぎず、頭痛の種は身近な所にあった。
銀色のトレイにはシリアルとミルク。そして水差しとコップ。 いつものように小間使いの少女がマダムの部屋へと簡素な朝食を運んでいた。
「またか…」 苦々しく呟いたベン=ロウの言葉が床に転がった。 きっと探せば昨日の呟きもその辺りに落ちているはずだ。 その前も、その前の前の日も。
自分の意思では扉を開けようとしなかったボスの妻は、いつからか行き先を曖昧に滲ませて出て行くと、 明け方の鳥がさえずる時間になってようやく冷えきったベッドに滑り込むように帰って来るのだった。 ろくに眠っていないものだから、食欲がある訳も無く。 だから鳥の餌のような食事しか受け付けないのだと、とベン=ロウは心の中で毒づく。
ベン=ロウはその別人とも呼べるほどの劇的な変化の裏に 「彼女」の姿が潜んで見えるような気がしてならなかった。 しかし闇の中に潜む更に深い闇は、その姿を見せる事はない。
確かに彼女はあれ以来、この屋敷に一歩たりとも足を踏み入れていない。 だが結果がこれでは同じ事だ。 ボスの耳に入れるまでもないにしても放っておく訳にもいかず、苦言を呈するのだが、何度忠告してもマダムは耳を貸さない。 意固地になって聞き入れないのではなく、レースのカーテンが風を受け入れて流していくように、 ベン=ロウの言葉はいつも虚しく通り過ぎて行くのだった。
そんな妻に対してボスはというと、関心を示そうとしなかった。 多忙だからという理由ではなく、全く興味がない様子だった。 結婚という制度に乗っ取っていようといまいと、彼は変わらずダーク=カルロのままであり続けていた。
何も常に仲睦まじくいる必要などない。 だが今のままでは… ベン=ロウは言いようの無い不安が杞憂に終わる事を願った。
しかしベン=ロウも常にマダムの動向を気にしている程、暇な時間はなかった。 数日後には大きな取引が控えている。 いつもの通り「取引先」が棺に入れた麻薬を運び込む手はずになっており、現金の受け渡しはこの屋敷で行われる予定だ。 かなり上物ということだが、価格がつり上がっているのが悩みどころだ。 眉間に縦じわを深く刻み込みつつ思案に暮れているベン=ロウに連絡が入った。
取引の為に用意してあった現金が消えたというのだ。
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