一瞬空気を飲み込み、彼にしては珍しくたじろいでいるとナディアが一喝する。

「ベン=ロウ?何をしているの、早く車の手配を!」

彼女の叱咤する声に、呪縛が解けたようにベン=ロウは我に返る。

「…わかった」

 

気持ちの半分では冷静に部下への指示を出し、残りの半分では明らかに動揺している自分に動揺していた。

姿が映り込むほどよく磨かれた黒いメルセデスに乗り込み、ベン=ロウはハンドルを握る。

後部座席には意識を取り戻したボスの妻と、ボスの従姉妹。

二人のナディアが並んで座っている。

 

「気分は?」

「…大丈夫です、ありがとう…」

弱々しく微笑んでみせるが、マダムの顔色は相変わらず冴えない。

「可哀想に、いきなりこんなことになって酷く緊張したでしょう」

ナディアは口元に天使のような微笑みを浮かべ、労りの言葉をかけつつ、卒倒した折に乱れた髪を直してやる。

 

二人は初対面だ。

しかもナディアの心中を察すれば、あり得るはずのない状況だった。

しかしバックミラーに映るのは、そんな奇妙な図だった。

ベン=ロウは強烈な違和感を覚えつつも、沈黙を守って車を走らせる。

 

屋敷に戻ると主治医が既に到着しており、すぐに診察が始まった。

誰の肩も借りずとも自分で歩けるほどだから、大事ではないはずだ。

ただ倒れた時にどこか打ち付けていなければいいのだが。

ベン=ロウはあれこれと思いを巡らす。

そして一緒に中へ入って行ったもう一人のナディアのことも。

 

診察の間外に出ていたベン=ロウの元へ、部屋から出てきたナディアが歩み寄る。

 

「軽い貧血だそうよ、奥様は」

冷たく笑ってナディアはそのままベン=ロウの目の前を過ぎる。

咄嗟にベン=ロウはナディアの腕を掴んだ。

先ほどの笑顔が口元に張り付いたまま、ナディアが振り返る。

 

「ナディア、何を企んでいる」

「やぁね、人聞きの悪い。ただ近くで人が倒れていたから介抱のお手伝いをしただけよ」

ナディアはそう言って、ベン=ロウの手をやんわりと振り払う。

その瞳に笑みはない。

空っぽの心の中から凍てつく風が吹きつけるように、冷たく鋭い。

 

「…もうここへは来ない方がいい…」

徐々に語尾を弱め、ベン=ロウが俯く。

「…そうかもね」

ナディアが紫煙でも燻らすようにふっと息を吐き、虚空を見つめる。

その先にあるのは失った輝かしい未来なのか。

彼女だけには優しい過去の想い出なのか。

染み一つない絨毯を意味もなく見つめるだけのベン=ロウには、知る由もなかった。

 

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