「noirの1に全部よ」

気怠い声と投げやりな態度でチップが山積みされた。

それは全てのゲームに勝ち続けた彼女の所持金全てを表す。

 

「く…」

丁度彼女の真正面で歯がみしているのが、女神のご機嫌に振り回されている男だ。

最初のうちは景気よく豪快に賭けていたが、彼女が現れてからずっと、

ツキに見放されている。もう手元が心もとない。

 

「わたしはrougeに全部だ」

 

ディーラーが優美な手つきでルーレットを廻す。

投げ入れられた小さなボールがどこで止まるか。

ただそれだけのことで、人生が変わる。

しかしディーラーにとっては、やはり「それだけのこと」である。

運命を左右するという、重々しさはそこにはない。

あくまでも流れるような一連の動きには、何の感情も込められる事もない。

 

「…noirの1!!」

彼女の背後でさざ波のようなざわめきがわき起こる。

当の本人は更に気怠そうに頬杖をついてため息を落としている。

ディーラーは誰にも気づかれないくらい微かに眉を顰めた。

 

いわゆる一見の客は入れない会員制のクラブに、謎めいた香りの花は突如現れた。

初めて目が合った時、彼は身体が震えるのを感じた。

頭の天辺から突き抜けていく電流がつま先にまで駆け巡ったのだ。

noirのドレスは夜の世界にあってなお艶(あで)やかに。

rougeの唇は艶(なまめ)かしく。

 

誰かの紹介もなく、エスコートする男性もなく、単独で現れる女性は珍しい。

しかしここへ来れたという事は、それなりの身分なのだろう。

男からかしづかれることに慣れている。むしろ辟易しているようでもある。

チップの山を築いても気怠いため息を零すばかりで、どこか投げやりな感じすらうかがえる。

 

いつか彼女の微笑む姿を見たいという、彼の密かな願いはやがて熱望へ変わった。

しかし彼は一介のしがないディーラーでしかなかった。

ルーレットを廻し、小さなボールを投げ入れる。それをただ繰り返すのみ。

彼女と視線を交わすことはおろか、ほんのわずかに掠める程度。

 

全財産をスッてしまった男が呆然と立ち尽くす横を、彼女は悠然と通り過ぎる。

「無様ね」

彼女が初めて見せた笑みは、酷く歪んで見えた。

「何をっ!?」

瞬時に怒りが沸点に達した男が、彼女につかみかかろうとする。

それでも彼女は歪んだ笑顔のまま、さながら悪魔のような微笑みで手にしていた札束をまき散らした。

 

紳士淑女ぶった男女がばらまかれた現金に群がる。異常発生した蝗のようだ。

騒動の中心で、彼女は笑い続ける。

可笑しくもないのに笑っている。まるで泣いているように見えて、気がつけば彼は彼女の手を取り、走り出していた。

 

その手の柔らかさに気づいたのは、ひとしきり走った後だった。

「どうして?」

と彼女が問う。特に咎めるような気配はなかった。

「貴女が泣いているように見えたから」

と彼は息を整えながら答えた。それを聞いた彼女が微かに笑った…ように見えた。

「可笑しなひとね」

また、泣いているように見えた。

 

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