彼女が何処に住んでいて、どんな暮らしをしているのかは知らない。 彼はただ、彼女が自分の傍らにいて笑っていてくれればそれで良かった。 しかしささやかだったはずの望みは、叶えられると次を望み、さらにまた次をどん欲に求めだす。
化粧を落としてあどけなさの残る素顔を吐息が触れる距離で見ることになっても、 彼女はまだ心を許さない野生の動物のように、絶妙のバランスである一定の距離を保ち続けた。 有り体に言えば、身体は許しても心までは許していない。 解っていながら、彼は何度も踏み込もうとしては失敗した。 残酷な程鮮やかにするりとかわされて、体勢を崩して無様に倒れ込む。 そして彼女はそんな彼を誇らし気に見下ろし、婉然と手を差し伸べるのだ。
「ねえ、友達を連れて行こうかと思うんだけど、いいかしら?」 むき出しの肩が冷えたのか、彼女はまた毛布に包まるように潜り込んだ。 彼はシャツに袖を通しながら、振り返る。 「店に?」 「ええ」 紅をさしていないのに、彼女の唇が赤く光った。
「わたしの大事なお友達なのよ。とてもね」
あれだけの騒ぎを起こしておいて、彼女は相変わらず彼が勤める店に出入りしていた。 何事も無かったかのように誰もが彼女をVIPとして扱う。 いやVIPだからこそ、なのかもしれないと最近になってようやく彼は悟った。
一体、彼女は何者なのだろうか。 周囲の者に尋ねたところで、じろりと睨み返すだけで答えてくれる訳もない。 つまり彼女の名前を出す事は禁忌なのだ。 彼女に直接聞いてみたことはない。 もしも問い質すような真似をしたら最後、彼女は自分の元から永遠に消え去るだろう。 そんな怯えにも似た感情が彼を支配していた。
そして今夜も彼女は店を訪れた。 一歩足を踏み入れただけで、その場の空気を華やかに彩ってしまう。 幾度も感じたことを、今夜もまた彼は全身で再確認してしまうのだ。 一つだけ違ったのは、彼女の後ろにおどおどしてついてくる女性がいたことだった。
これが彼女が言っていた「大事なお友達」なのか。 正直彼は落胆の表情を隠せなかった。 あまりにも違いすぎる。 無論、数ある女性の中では美しい部類に入るのだろうが… 彼女の強すぎる光に晒されて、色が褪せてしまった花に見えた。 光が強ければ闇は濃くなる。 しかし闇ほど存在感がある訳でもない。
「noirの…」 辿々しくかき消されそうな声が、彼を我に返らせた。 小さな球が円盤の中で踊るように回り、やがて止まった。 小動物のように脅えて立っていた「お友達」が初めて笑顔を見せた。 嬉しさのあまりややはしゃぎ気味に、背後にいる彼女へ報告している。
「あなたのお陰よ。やっぱりあなたの言う通りの所に賭けたら間違いないのね」 「いいえ。あなたがツキを呼び寄せたのよ。さあ次はあなたの思う通りに賭けてご覧なさいな」
彼女は軽く口元をあげただけで艶やかな微笑を作り出している。 その瞳は身を凍らせる程の憎悪に満ちていた。 闇は、彼女の中にある。 この時彼は確信した。 薄い闇はより濃い闇に飲み込まれる運命にあると。
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