老人の生命の炎は、痺れをきらした死神がふっと一息で消してしまったのか、静かに呆気なく燃え尽きた。

その瞬間から新しい時代が始まる。

彼の死を悼み哀しみに浸る者など、誰一人としていない。

取り急いでかからねばならない事項が山積みなのだ。

 

できれば彼の存命中に行いたかった例の「政略」結婚式であるが、喪が明けるまで待っていられる程、時間的な余裕はない。

むしろこの機に乗じて良からぬ事を企む輩は、後を絶たない。

 

その筆頭に挙げられるのがオーエンである。

彼にはナディアという愛娘がいる。

目に入れても痛くないと言われる程、彼は娘を溺愛している。

その娘を言わば人質に取れるのなら、しかも紙切れ一枚で済むことなら。

辛うじて先代の存命中に受理された婚姻届によって、顔も会わせたこともない二人の男と女は夫婦となり、

敵同士だった両家はその日を境に血縁関係を結ぶ。

たったそれだけの為に、彼女はこの家へやって来る。

 

たったそれだけの為に、一人の女性がこの家を去らねばならない。

 

「…どういうこと?」

美しく整った弓形の眉を片方だけ上げて、ナディアがベン=ロウを見上げ、細い指に挟んだ煙草に火を灯す。

 

「住む所はこちらで既に用意してある。準備が出来次第、この家を出るんだ」

「オーエンの娘の為にどうしてあたしが出て行かなきゃいけないわけ?」

ナディアは答えを分かっていて、わざとベン=ロウに噛み付く。

「ダーク様がご結婚されたことは分かっているはずだ」

「形だけの、ね」

ふ、と口元を歪めて笑みを漏らし、細い煙を吐き出した。

 

「ナディア様が奥方様になられることに、何の違いもない」

「ああ、ややこしい!ナディア=カルロは一人で充分だわ!!」

ナディアはまだほとんど吸っていない煙草を、まだ火がついたまま投げつけた。

 

じゅう、と肉を焦がしベン=ロウの掌の中で火が消えた。

痛みなどないかのように、顔色一つ変えずベン=ロウが言い放つ。

 

「これは命令だ」

「あなたからの指図は受けないわ」

「ダーク様のことは諦めるんだ、ナディア」

ナディアの細い肩が微かに震えた。

唇を噛み締め、痛みを堪えるかのように自分の身体をかき抱く。

今にも崩れそうに見えるが、差し伸べてやる手をベン=ロウは持たない。

 

伝えなくてはならないことは全て伝えた。

彼は任務を全うしたにすぎない。しかし…

悲痛なほどの彼女の姿をそれ以上正視することもできず、慰めてやる言葉も知らず、ベン=ロウはその場を後にした。

後味の悪さだけが身体中を蝕むように広がっていくのを感じていた。

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