憂鬱な薔薇
大きくなったらあたしは、ダークのお嫁さんになるの ベン、絶対に誰にも言わないでね 約束よ
蒼い瞳をきらきらと輝かせながら、少女は笑った。 その微笑みから光がこぼれ落ちるようだと、彼は思った。 あまりにも目映く、美しい。
けれども彼女はまだ知らなかった。 夢は夢のままであり続けることを。 そして彼は知っていた。 彼女の夢が決して叶うことのない、その理由を。
時の流れは想い出をセピア色の記憶に変え、 多忙な日常が記憶を分解されたパズルの1ピースに変化させ、 取り出されることもなく、ひっそりとベン=ロウの胸に埋め込んだ。
かつて暗黒の世界を牛耳った男も天が定めた寿命には抗えず、今は死の床に就き、 介助の手がなければ何も出来ず、起き上がる事もままならないでいる。 何か言葉を吐き出そうとするも、度々咳に遮られる。 声はしわがれ、手は節くれ立ち、人相が変わる程にやつれてしまった。
それでもこの老人はまだマフィアの世界で君臨する王であり、世界そのものであらなければならなかった。 それゆえにこの部屋に入ることが許されるのは、医師を除けばたった2人だけである。 実の息子、ダーク。そしてその部下であるベン=ロウ。
豪奢な室内とは裏腹に、陰鬱な空気が流れる。 死に絡めとられた、父親も同然だった恩人を救えない無力さを呪う自分と、その隣で表情も姿勢も変えない彼の未来の「ボス」。 何とも痛ましい光景だ、とベン=ロウは思う。
父親が息子に語りかけているのではない。 ファミリーの父が、若き未来の統率者に命じているのだ。 カルロ家を守る為に、ある女を娶れと。 会ったことはない。顔もよくは知らない。 しかしその名前は、この世界で生きていく者なら知らない者はない。
その名を、ナディア=オーエンという。
ベン=ロウは絵画のように美しくも表情を変えない、ダークの横顔を見た。 彼はやはり微動だにせず、ただ了承の言葉だけを述べていた。 何の感情もこめられていない声が、静かな部屋に響き渡る。 ダークの能力を信じていないわけではない。 むしろ計り知れない彼の能力に戦慄が走ることもある。 しかし後ろ盾を失った彼はまだ若すぎた。 譲り渡すものをより盤石にしておきたいと願う、それはファミリーの父としての危惧から生まれた政略結婚だった。
全てを伝え終えると、後は生命をこの地上につなぎ止める為だけの装置に身体を預け、老人は瞼を閉じた。
「慌ただしくなるな」 これが若きボスの感想だった。まるで他人事のように冷たく笑う。 きっとこのまま実の父親が死んだとしても、彼は動じないのだろう。 それでこそ、この世界の頂点に立つ人物と呼ぶのに相応しい。 歩き出したダークの背中を見つめながら、ベン=ロウは思う。
しかし、どうしたことだろうか。 彼の身体のどこかに埋め込まれ、月日がたつごとにより深く沈んでいった 一かけらが今頃になって疼き出す。
幼き日の輝く笑顔の少女の姿が浮かび、ひび割れて崩れ落ちた。 その音は張り裂けんばかりの悲鳴に似ていた。 奇しくも同じ名を持つ彼女の叫びに。
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