5.欠けた紅葉
膨らみゆく蘭世のお腹が、時の流れを示していた。 それ以外は何も変わらない。 季節も温度も昨日と同じ。 判で押したように、明日もまた今日と同じ。魔界はそういうところだ。 永遠を生きるものが住むこの世界は、たゆたう水の流れのように緩慢で、目まぐるしく変わっていく人間界とは違った時間の流れ方をする。
その感覚にもようやく慣れた。 生まれも育ちも人間界だった蘭世にとって、魔界は何度も訪れた所ではあっても、こんなに長期滞在するのは初めてのことだった。 いや、今の状況では無期限といった方が正しいだろう。つまりは永遠に。
慌ただしく新居を後にしたのは、筒井の別荘から帰ってすぐのことになった。
水中に広がる血が毒々しいほどに赤いように、悪夢ほど色鮮やかに蘇る。 その日の出来事はまだ昨日のことのように、思い返すことができる。 想いヶ池の前で立ち尽くす蘭世の脳裏に次々と浮かぶのは、人々の怒号、悪意に満ちた殺伐とした空気。 どこからともなく投げ付けられた石によって、割られた窓硝子。 暖かな日ざしを透過させ、雨風を防いでいた硝子も割れた瞬間から傷つけるための凶器にも変わる。 彼女が信じて疑わなかった世界が、破壊された日でもあった。
魔界と人間界を繋ぐ扉は消去された。 大切な友人たちを含め、全ての人間の記憶は塗りつぶされた。 結婚式にむけて準備をすすめているかえでの記憶に、蘭世と俊は存在しない。 もちろん、式に出席してほしいと約束したあの日のことも。
押し寄せてくる大きな流れには誰も逆らえなかった。 ただひとつ、小さな枯葉をポケットに忍ばせたことだけがタイムリミットまでの精一杯の抵抗。
かさかさに乾燥してしまった紅葉は脆くて、ほんの少しの衝撃でも崩れてしまう。 無事に魔界城へ辿りついてから、ポケットからそっと取り出したものの、五本指に例えればちょうど中指の先端部分が欠けてしまった。
いびつな形になった紅葉は俊に施してもらったシールドによって、形状を保っている。 赤茶色に褪色していた葉も、元通りの紅に戻った。 しかし、歪められた事実は現実の流れとして今も存在し続けている。 彼らにはそれが真実なのだから。
「かえでちゃん、元気かな…」 蘭世は紅い葉を手にしたまま、こっそりと呟く。 心配してくれていた神谷曜子のことも、弟の彼女のことも同じくらいに気になるが、やはりあの二人のことも気掛かりである。
人間界の動きはメヴィウスの水晶玉が知らしてくれた。 人々は何事もなかったかのように、落ち着きを取り戻している。 施した記憶の操作にも手抜かりはなかったようだ。 ただ魔女の水晶玉も、蘭世が知りたいことまでは見せてはくれなかった。 彼らが今、どうしているのか。 離れた場所で彼女ができるのは思いを馳せ、思案するのみ。
蘭世はため息をついた。 まるでそれが切っ掛けとなったかのように、想いヶ池の水面が揺れはじめた。 彼女が零した吐息ひとつくらいでは、揺らぐはずがないのにも拘わらず。
異世界へと結ぶ池の底からは、水の波動とともに音と画像を伝えてきた。 彼女の大切な、友人の声と姿を。
「あれ、おかしいな。なんで一通多いのかしら」 それは小塚楓の独り言。 「かえでちゃん!」 蘭世は池に身を乗り出すように覗き、声を張り上げる。 しかしかえではそれに気付かない。相変わらず先ほど書き終えたばかりの手紙を数えている。
全部で10。その中で住所がないものがひとつだけある。 リストアップされた住所を一つずつ照らし合わせて書いていくうちに、 ひとつ余ってしまったというわけだ。 そのリストは圭吾との結婚が決まってから作ったものだ。 それに合わせて封筒と、中に入れる案内状を揃えたはずなのに。
かえでは首をかしげて不思議そうにしながらも、完成した9通に封をして切手を貼った。 行き先を見失った1通は、封をされることもなく机の上に置かれている。
かえでの手の中にあった宛名のない封筒。 それは間違いなく、蘭世の元へ届けられるはずだったもの。 しかしかえでの記憶と共に、リストから住所も消されてしまったのだろう。
蘭世は手にしていた紅葉を見た。 筒井から届けられた葉は、今も変わらず蘭世の手にある。 現在のかえでの声も姿も見ることができるけれど、蘭世の声も姿も彼女には届かないように、大きな隔たりがあるのだった。 それは時間の流れに例えるならば、永遠と呼べるほどの果てしない距離。 それでも蘭世はもう一度、かえでの名を呼んだ。
その時、風が吹いた。 煽られるように蘭世の髪が舞い踊った。 長い髪が彼女の視界を遮ろうとする。 たまらずに彼女が手で抑えたのと同時に、するりと紐がほどけるように紅葉は蘭世の手から離れた。 風に乗って運ばれた先は、想いヶ池の丁度まん中辺り。 そして吸い寄せられるようにして、くるくると螺旋を描きながら一枚の葉は池へ落ちた。 まるで錘りでもついていたのかと思うほどあっけなく、葉は沈んでいった。 小さな葉っぱ一枚ぶんの波紋が消えてしまうと、かえでの声も姿も同じく消えた。 映るのは永遠に変わらない魔界の空と、蘭世の当惑した表情だけだ。
しかしその一連の動きに気と目を奪われていた蘭世は気付かなかった。 ほんの一瞬、彼女の声に反応するかのように、かえでが何かの気配を感じて振り返っていたことを。
「う…」 蘭世はうずくまった。腹部に感じるこの痛みは…。 早く城に戻らなければ、と蘭世は思った。しかし身体が動かない。 痛みで意識が朦朧として、両手を地面についた。
「大丈夫か!?」 そこへ現れたのは、蘭世の異変を感じ取ってテレポートしてきた俊だった。
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