3.過去と現在が交錯する場所

 

「かえでちゃん、何か手伝おうか?」

「何言ってんの!妊婦さんは座って、座って!」

キッチンで孤軍奮闘するかえでに手を貸すつもりの蘭世だったが、敢え無くその背中を押しやられることとなってしまった。

おとなしくリビングへ戻ろうとした蘭世は、ふと思いたったように足を止めた。

 

振り返ると既にかえではリズムよく野菜を刻んでいた。

隣ではコトコトとお鍋が音をたてている。

漂ってくるのは鰹と昆布のだしとお醤油の匂い。

今日は和食ベースの献立なのだろう。

元々器用な彼女のこと。料理はお手のものだろう。

実際、主婦となった蘭世の目から見ても、かえではかなり手際が良かった。

しかしそれだけではない。

好きな人の為に料理を作る喜びが、後ろ姿からも伝わってくる。

今にも軽く鼻歌でも聞こえてきそうなくらいだ。

 

思わず蘭世は、その後ろ姿にかつての自分の姿を重ね合わせていた。

数年前、丁度同じ場所に立っていた16才の頃の自分を。

 

魔界を敵にまわし、命を狙われて。

それでも守りたかった、小さな俊と過ごしたあの時間が急激に蘇る。

後ろを振り返る暇なんてなくて、未来を夢見る余裕さえもなくて。

ただその日、その瞬間を過ごす事で精一杯だったあの頃。

状況は悲惨だったが、少なくとも蘭世は幸せだったと今でも思う。

泥だらけにして帰って来る弟と、生意気盛りに成長した俊の姿がありありと目に浮かぶ。

 

「どうしたの?蘭世ちゃん」

どこか遠くを見つめたまま動かない蘭世に、心配そうに声をかけたのは筒井だった。

一瞬驚いて肩をすくめた蘭世だったが、すぐに元の表情に戻って振り返る。

「ううん、なんでもない。ちょっと懐かしくて」

「久しぶりだもんね、ここへ来るの」

蘭世はゆっくりと頷き笑顔で答えた。

筒井はそれ以上、何も言わなかった。

近くに事情を知らないかえでがいるせいもあるが、多くは語らなくても、二人の間に流れる空気があの頃の事を伝えあっていた。

 

あの時の彼は、異世界に住む蘭世たちに手を差し伸べてくれた唯一の恩人だった。

そして今蘭世の目の前にいる彼は、時の流れに削られて形を変えることもなく、優しさに溢れた良き理解者のままだ。

変わらないでいてくれる。それだけで蘭世の胸は温かな感情で満たされる。

 

「やだ蘭世ったら、立ちっぱなしで大丈夫なの?」

エプロンの裾で手を拭きながら、かえでが駆け寄る。

「やぁね、かえでちゃんたら。妊婦を病人扱いしないでください」

そう言って三人は笑う。

 

「かえで、何か手伝おうか?」

「ううん、大丈夫。あ。味見してくれる?」

「いいよ」

 

どうやら蘭世の出番はなさそうだ。むしろここは筒井にお任せした方がいい。

「新婚夫婦みてぇだな」

いつの間にか後ろに立っていた俊がぽつりと言う。

「ハイ。すっかりあてられっぱなしです」

そう言って二人はこっそり笑いあうのだが、

その当人たちこそがまさしく新婚夫婦であることが、二人の意識から抜け落ちている。

 

「筒井くん、かえでちゃん。わたしたちちょっとお庭に出てくるね」

「じゃあ、準備ができたら呼びに行くわ」

「うん」

 

外へ出た蘭世と俊はゆっくりと庭を散歩していた。

何か特別なものがあるわけではないが、そこには二人の想い出がそこかしこに残っている。

例えばこの大きな木。

幼い俊が鈴世と木登りをしたり、蘭世と二人並んで木陰の昼寝をしたこともあった。

 

それはほんの数年前の出来事。

生きて帰ってこれないかもしれないと、覚悟を決めてこの場所を離れたこともあったのに。

限りある生命を持つものと、永遠の時間を過ごすもの。

関係なく今は同じ時間を過ごしている。

今ではこうして当たり前のように傍にいられる。やがて生まれてくる小さな生命も授かった。

それと平行して二人にとって大切な友人が、いつの間にか静かに愛情を育んでいる。

結実するのももうすぐなのかもしれない。

 

「何も泣くこたねぇだろ」

しみじみと幾つもの出来事を振り返っているうちに、蘭世は感極まってぽろぽろと涙を零した。

「だって…嬉しいんだも…」

「泣き虫」

俊は笑って蘭世の鼻をつまんだ。

「うぐ…」

泣いている時は口呼吸がままならない。次第に酸欠になっていく。

蘭世がばたばたと手を振りだすと、ころ合いを見計らって俊は手を離す。

「ぷはっ…んもう!」

真っ赤な顔をした蘭世が軽く握った拳を振り上げたその時。

 

「お〜いそこの新婚さん。あんまり見せつけないでくれよな」

いつからそこに立っていたのか。筒井がにやにや笑いで二人を呼びにきていた。

 

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