2.紅葉(もみじ)は紅く
納車されて間も無い車のハンドルを握る俊の横で、蘭世ははしゃいでいた。 「ホント、久しぶりだよねぇ。筒井くんに会うの」 「ああ」 幾つものトンネルを抜けて目に飛び込んでくる景色は、より深い秋の季節へと近づいている。 橙から唐紅へ。緑から黄金へ。 さながら錦のような木々はすっかり秋の色で綾なされていた。
冬支度前の束の間だけ許された、秋化粧。 そんな秋の象徴のような紅の葉。 赤子の手のようだと古から称されるそれは、小さな命を宿している蘭世の手の中にある。 それを時折光にかざしては、どこか懐かしそうに微笑んでいる。 先日届いた筒井圭吾からの手紙の中に入っていた、例の紅葉だ。
「気分が悪くなったりしたら、すぐに言えよ」 正面を見ながら、俊は助手席の蘭世に声をかける。 いまだに名前で呼ぶ事がどうもはばかられる俊である。 つい昔ながらの呼び名が口について出そうになるため、結局空気を飲み込むように「江藤」という言葉を引っ込める毎日だ。 何故かいつまでたっても「蘭世」と自然に呼べないでいる。 その名を全く口にしたことが無い訳ではないのに。
最近悪阻もおさまってきたようだから、調子はいいように見える。 しかしもう彼女一人だけの身体ではない。 今回の小旅行は、正直な所俊はあまり気乗りはしなかった。 知っている場所だからテレポートでもできれば、それに越したことはない。 しかし二人を待っているのは、この特殊な事情を知っている筒井だけではない。 もし万が一のことがあれば、筒井にもまた迷惑をかけてしまうだろう。 それだけは何としてでも避けなくてはならない。 過ちは二度と繰り返してはいけないのだ。
筒井の背中から流れる血の赤がまた俊の脳裏によぎり、ハンドルを握る手に力が入った。 焼けただれたような傷。錆びた鉄の臭い。 筒井が受けた外傷は、俊の心の傷みとして残っている。 たとえ筒井自身にその時の傷跡も記憶すら残っていないとしても、だ。
「筒井くんが紹介したい人、誰だかわかった?」 蘭世は指先でつまんだ葉をくるくると反転させながら言った。 その声で、俊は我にかえることができた。 知ってか知らずか。こういう時の蘭世は絶妙のタイミングで声をかけてくる。
「おれが知るわけねぇだろ」 ハンドルを左にきりながら俊がこたえる。 言葉はそっけないが、車が揺れないように細心の注意をはらっている。 「そっかぁ…」 口元に静かな微笑みをたたえる蘭世の横顔は、どこか既に母親のような貫禄すら漂わせている。 「おまえは、知っているのか?」 「ふふ…」 その表情は柔らかな秋の日ざしにも似ていて、暖かく穏やかなものだった。
彼女の持ち前の好奇心は既に答えを探し当てたらしいのだが、まだ正解を口にはしない。 俊が正しい答えに辿り着くまで、ナビゲーションでもしようというのだろうか。 さっきから標識を見過ごしてばかりいる彼女は、車のナビゲーターには向いていないようだが。
意識的に蘭世は心の声をかなり小さくしている。 もちろん俊はそれでも読む事はできるが、敢えて遮断している。 無闇やたらに心を読まないことを約束しているせいもあるが、それでは何となくおもしろくないのである。
筒井が二人に紹介したい人。しかしその名前は伏せておきたい。 ということは二人ともその名前を知っているからだ。
芸能人の誰か…アナウンサー?いや違うな。もっと身近なヤツだとすると まさか神谷か?いやそれは絶対にありえない
我ながらとんでもない発想をしてしまったことに、俊は自嘲気味の笑みを漏らす。 頭を冷やす為に少しだけ窓を開けて風を入れた。 すると微かな潮の香りが車内に流れてきた。 「もうすぐだね」 蘭世もまた窓を開けて海風を吸い込んでいる。 やがて見慣れた町並みが見えてきた。
「ねえ、知ってる?この葉っぱの名前」 ドアから降りる時、ふいに蘭世が紅葉をちらつかせた。 最後まで答えられなかった俊に、とうとう痺れを切らせてしまった蘭世が問う。 「何って…もみじだろ?」 「う〜ん、そうとも言うけど…」 困ったような笑顔になった蘭世が何か言いかける。
「おーい、真壁ー!蘭世ちゃーん!」 振り向くと、筒井が手を振りながら駆け寄ってくる。 その後ろで控えめについて歩いてくるのは。
「え!?小塚ぁ!?」 珍しく素頓狂な声を出してしまった俊の隣で蘭世が笑う。 全てを見通していたような余裕の笑みだ。 「紅葉の別名は楓、だよ?」 もう一度蘭世が俊の目の前で紅の葉を揺らす。 その向こうで、同じく頬を赤くしている小塚楓の姿があった。
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